おぴにおん0号

反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

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TVのスポーツニュースを見ていると、まだまだ続くオリンピックという感じだ。日本のメダリストたちはすべてのTV局に出演する義務を負っているようで、同じような質問を何度も受けている。いい加減にイヤになっているのではないかと想像するが、彼らは国民の英雄としての役割を粛々とこなしている。

ご苦労さんと思うならば、わざわざスタジオまで足を運ばせるのはおかしい、なんて思ってしまう。それに彼らは共同記者会見で十分に国民が聞きたいことはしゃべっている。もう新たな情報は引き出せない。

石原都知事が開催期間中に、「銅を取って狂喜する、こんな馬鹿な国はないよ」なんて言っていた。閉会後も引き続くメダリストフィーバーを見て、都知事はどう思っているのだろうか。

オリンピックでの自国選手の活躍に狂喜するのは共産圏の国か後進国、そんな見立てもかつてあった。国威発揚の場としてオリンピックを重視するのは、他の要素では国家的プライドを保持できないからとも言えそうだ。スポーツで国民に自信を持たせ、経済的にも活気ある国にしたいと指導者たちは考える。

清水宏保氏が「日本はスポーツ後進国」と言っていたが、別な意味でも後進国なのかもしれない。つまり国家的メンタリティーでも後進国と同じで、スポーツで国民に自信を持たせる必要がある国ということだ。

経済大国になった日本だが、ここ十数年は不況風が吹き続けている。ちょっと景気よくなったと思っても続かない。雇用環境も悪化し、生活水準を落とさざるを得ない国民が増えた。今後も期待できないという考え方も広がり、国家的規模での自信喪失が進行している。

こうなると、国民のメンタリティは限りなく後進国に近くなる。(ただ、後進国的メンタリティーを保持したまま経済大国になってしまったという見方も可能か)

とはいえ、それだけはないだろう。TV局のフィーバーぶりには、他に有力なコンテンツがないという側面も大きいように思う。国民の熱狂に便乗し、煽り立てる形でオリンピックに頼る。自ら強力なコンテンツを生み出せないから必要以上に頼る。安易に頼っているとも言い換えられる。

まぁ、オリンピックの巨大コンテンツ化はいまに始まったことではない。メディアにはお祭りを盛り上げる役割があるし、国民もそれを求めている。熱狂したいという欲求は多くの国民が共有する。

メダリストたちの出ずっぱりも仕方ない。少ないメダリストだからこそ需要が集中する。英雄は少数であるからこそ輝きを増す。メダル大国から嘲笑されようとも、それが国民の欲求だ。

ならばもし日本が、金メダリスト十数人といったメダル大国になってしまったらどうなるのだろうか。

そうなったらそうなったで、TV局は連日の高視聴率で潤い、メダリストたちの軌跡という番組が増えるだけだろう。賑わいがより大きくなるだけだ。(さすがに銀や銅メダリストたちの存在は霞むだろうが)

そうした事態は当面(永遠に?)無理だが、メダリストを増やしたければ、団体競技を強化するという手がある。今大会でも終わり間際になって、女子スピードスケートの一種目だけで3人の銀メダリストが生まれた。団体競技だからこそである。おかげで、日本人メダリストの数は急に7人になってしまった。

それに団体競技には予選が付きものだ。注目される試合数が増えることはTV局にとっては大歓迎だ。
国民も予選を突破して行く過程での盛り上がりを味わえる。チームのために頑張る!というメンタリティも日本人は好む。
個人的能力で劣るなら集団の力で突破すればよい、という考え方でもある。それも一つの勝ち方だ。

国別メダル数の記録では数個であっても、それがすべて団体競技であるならば、メダリストは簡単に十人を超える。TV局はたくさんのコンテンツを手にし、盛り上がる選手の地元も十箇所以上になる。

ところで今日のフジTVのスポーツニュース番組「すぽると」は、五輪美女SPだそうだ。TV局にとしては、スター選手は日本人である必要はないということか。それともこれもコンテンツ不足の表れか。そう皮肉ることもできるが、国の威信という呪縛から、国民が解かれつつある兆候と見ることも可能だろう。

浅田選手は残念だった。でも仕方ない。キムヨナが強すぎた。
試合後のインタビューで浅田選手は涙に暮れていた。ジャンプの失敗が悔しかったようだが、たとえ失敗がなくても逆転は難しかったのではないか。

しかし勝つ気でいたのだ。だから失敗を悔いるのだ。その心意気はやはりすごい。前に、オリンピックは勝利への執念に燃える選手たちの戦いが見られる場と書いたが、浅田選手の姿を見てその思いを強くした。

慰めるつもりはないが、アスリートとしては、トリプルアクセルを二度成功させた浅田選手の方が上ではないか。難しい技に挑戦してこそアスリートだ。ステップの難易度も高そうだし。(でもスピンの速度はちょっと遅い?)

浅田選手は今後どうするのだろうか。勝ちたい気持ちは消えていないように思う。現在のプログラムでは勝てないとなれば、次の手を考えるかもしれない。
ひとつには、キムヨナがクリアしたジャンプをすべて自分のものにする。3回転連続ジャンプなど同じように取り入れ、そこにキムヨナができないトリプルアクセルを加える。

ただひとつ心配なのは、ジャンプの争いは若い選手に有利ということだ。安藤美姫が4回転ジャンプを成功させることができなくなったように、年とともに増える体重が跳躍の邪魔をする。妙齢になるにしたがって付いてくる脂肪はいかんともしがたい。

確かに陸上のハイジャンプなどでは十代が有利とはなっていないが、瞬発力だけをつければいいというものでないのがフィギュアスケートだ。4分間滑り続ける体力も必要である。
となればジャンプの完成度の高さは、いまがピークかもしれない。これはキムヨナにもいえることだ。

実際に近年は、二十代後半ともなれば引退である。前回大会の荒川静香は最高齢の金メダリストだそうだ。当時24歳である。

それはさておき、大きなプレッシャーの中で実力を出し切ることのできる選手たちはすごい。オリンピックは、全国民が注目しているといってもいい大きな舞台である。
(それに比べて情けないのが私のピアノ演奏だ。2〜3人の友人の前で弾くだけでも間違える。レコーディングなんかしようものなら、100回ぐらい弾かないとダメだ。オリンピック選手たちのプレッシャーに打ち克つ胆力には感服する。まぁ、私には勝利への執念などそもそもないが…)

ところでスピードスケート元日本代表の清水宏保氏が、新聞のコラムで、日本はスポーツ後進国だと言っていた。その根拠として、韓国との比較を持ち出す。韓国では、選手が国の施設に召集された時点で日当がでる。一方、日本といえば、国立スポーツ科学センターを利用するのにも料金が発生する。さらに「韓国ではもし、メダルを取れば、ほぼ生涯が保証されるのに対し、日本の報奨金は多いとは言えない」(100223)

笑ったのが、次の指摘。
「バンクーバー五輪では、JOCの役員、メンバーが大挙して現地入りしている。予算は限られている。そのため、選手を手塩にかけて育ててきたコーチや、トレーナーがはじき出され、選手に快適な環境を提供できていない。お金の使い方が逆だろう」

なんか目に浮かぶようだ。偉そうに会場周辺を闊歩する老人たち。だれにも注目されていないのに主役気取り。自分たちのおかげで大会が開催できていると言わんばかりに肩書きをふりかざす。
たしかにお祭りには長老が必要だ。長老が運営に関わってこそ箔が付く。しかしそんな大勢はいらない!、である。清水氏よ、よく言った。

IOCの役員なんてボランティアでいいのではないか。お祭りでは長老はたいそうな役割を担うわけではない。運営でも主役は若い衆だ。だから村祭りでは、長老は報酬をもらうどころか、むしろ寄付したりする。
なのにオリンピックでは大挙して押しかけ、ふんぞり返って観戦とは。あーみっともない。

ただ日本でも、メダルを取ればほぼ生涯が保証されるようになるべきとは思わない。そこまでいくと、なんかスポーツでしか国威発揚できない国のようで、これまたみっともないような気がする。
(でも浅田選手には、特別年金ぐらい上げてもいいけどね)

女子フィギュアスケートのSPが終わった。
いやはやキムヨナは強い。浅田選手に勝ってもらいたかったが、キムヨナのプログラムの良さには太刀打ちできない。特に音楽に007と持ってきたところが画期的だ。

007についてはキムヨナ本人もエキシビション用の曲みたいだと言っていたが、この意表をつく作戦は当たった。壮麗なクラシック音楽を背景に華麗に踊るのがフィギュアスケート女子の定番だったが、それを見事に覆し、愛らしさで勝負してきた。なんとも憎い選曲だ。

フィギュアスケートは女子といえども高い運動能力が要求されるようになった。3回転ジャンプは当たり前のようにできないと話しにならない。その上での芸術性である。

そして芸術性も甲乙つけがたくなってきた。上位選手はみな有能な振付け師に頼り、モダンバレエの要素も取り入れてくる。トップを争うならば、まるでバレリーナのように優雅に演技しなければならない。

そんな高度な争いに突入したのなら、演技内容での差別化は欠かせない。19歳という若さならではの愛らしさも武器として使わない手はない。また、観客を魅了することが芸術性であるならば、エキシビション的要素を取り入れるのは当然だ。

とはいえ、007はひとつの賭けだったに間違いない。意表をつくことは必ずしも肯定的に受けとめられるとは限らない。保守的な審判員ならば、その俗物性を嫌悪する可能性があった。

だからフリーではなくSPで取り入れた。それで様子を見る作戦だったように思う。
しかしそんな心配は杞憂だった。審判団は受け入れた。

キムヨナの成功で、今後はクラシック音楽に頼らない時代を迎えるかもしれない。まさに時代を画する007と言える。

ただ、キムヨナだから成功したと言っていい。だって前回大会の金メダリストである荒川静香が、007で演技することを想像してみればいい。ぜったい違和感の方が強い。

ならば、若くて愛らしい容姿ならば007みたいな曲を取り入れていいのか。それも違うだろう。キムヨナはジュニア時代から活躍し、シニアになってからも好成績を収めてきた。すでに評価される下地があった。

芸術性はどうしても主観が入る。昔ほどではないにしろ、やはり実績を積まなければ高い点数はとれない。実力者だから007という差別化作戦が許された。実績に乏しい選手は、まずクラシック音楽によって、演技の華麗さを後押ししてもらわなければならない。ポピュラーミュージック全盛時代が急に来るとは思えない。

さて浅田選手は勝てるのか。キムヨナ選手との得点差は約5点だ。キムヨナ選手のフリープログラムはSPほど画期的なものではない。チャンスはあるだろう。

それにはトリプルアクセルを成功させることが必須だ。コケれば終わりだ。
もちろん、キムヨナ選手のプレッシャーも高いだろう。グランプリシリーズのときほどの得点差はないから、少しでも失敗すれば逆転される。

でも浅田選手の過去の逆転劇は、「SPは不本意な結果に終わった。開き直ってフリーに臨んだ」という過程を経て成し遂げた印象がある。今回はSPでほとんど実力を出し切った。開き直るという心境にはなりえない。

むしろ、実力を出し切ってもキムヨナに追いつけなかった、という後味を残した可能性が高い。「勝てるとしたら、自分が完璧にフリーを演じ、かつキムヨナが失敗を犯すという展開しかない」という思いなのではないか。つまり、プレッシャーは今まで以上に高い。加えて演技途中、少しの失敗で気持ちが折れる可能性がある。

しかし試合はどうなるか分からない。滑走順次第で結果も変わってくる。期待して観戦しよう。
…なんてオレもプレッシャーかけてるか。言い直そう。浅田選手よ、観客を魅了する演技ができればいい、ぐらいの気持ちでフリーに臨んでください。

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お〜、こんなところにも桜が!
城山口(伊豆)からの登り道、ちょっと開けた場所に人の手で植えられたとみられる苗木。桜だったのか。
でも咲くの、ちょっと早くないか。ソメイヨシノではないということか? どう見ても梅ではないし…。

話は変わる。
先週の土曜日、親類の家にいて暇だったので、TVでオリンピック・カーリング女子、日本対イギリスを見てしまった。カーリングなんてスポーツじゃない!とかつて書いたことがある。

「カーリングはゲームだ!」という印象は変わらない。鍛えるのは身体能力じゃないし…。だれでもできそうだし…。40歳を超えた選手も活躍している競技だし…。デッカイおはじきみたいにも見える。
そんなゲームがなんでスポーツの祭典たるオリンピック種目なんだ!

しかし試合というのは面白いものだ。どちらが勝つか。当然日本を応援するわけだが、一投一投、手に汗握る争いであった。選手たちの緊張感は確実に伝わってきた。

初めて試合開始から終わりまで見たが、発見もあった。けっこうチームワークが試されるようだ。ストーンを投げ入れた後に行われるブラッシング動作(スウィープ)は、ストーンの距離を伸ばし、方向も変えることができるという。投げ入れる人だけがすべてを決めるわけではないということだ。
加えて作戦を協議し、投げ入れる位置や方向を決めるのも合議。

また、対戦相手との駆け引きがあり、頭脳プレイが要求される。ゲームとしてもそう単純ではなさそうだ。

それはそうと、本橋選手は評判どおりの美人だ。目黒選手も凛々しい。近江谷選手の若さもまぶしい。
オジサンとしては、そんなところも正直、見入ってしまう理由だった。

今日はロシアには勝ったが、ドイツには負けてしまった。まだ決勝へのチャンスはある。頑張ってもらおう。

でもまぁ、やっぱりビリヤードみたいなもんだなぁ〜。

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ルイス・サッカーの『穴』を読んだ。
児童文学である。寓話である。しかし大人が読んでもおもしろい。
無駄な叙述が一切ない小気味よさ。周到に張り巡らされた伏線。ストーリーテリングの妙が味わえる。

当然、ハッピーエンドである。どんでん返しというほどでもないが、納まりの良さは心地よい。
最後に添えられる後日談風の語り口も実に魅力的。

ちょっと褒めすぎか。たかが児童文学と期待しないで読んだから、そのギャップに驚いただけかもしれない。

主人公の少年は、無実の罪で砂漠にある矯正キャンプに送り込まれる。そして毎日、穴を掘らされる。
そんな奇妙な導入部であるが、それ以外は児童文学によくある設定。肥満でいじめられっ子の主人公。腹黒い大人。友情。勇気。冒険。目くるめく展開の末の結末。

児童文学であるゆえんは、少年たちの世界のリアリティーにある。
たとえば、主人公は決して仲間をチクらない。著者はそのときの主人公の心境を描写しない。大人はその理由を求めがちだが、少年にとって深い理由などないからだ。自明の行動だからだ。

仲間意識が強いからだと説明すれば大人たちは納得するだろう。しかし主人公の仲間意識はたいして強くない。むしろ敵対意識の方が強い。仲間割れがあり、いじめもすぐに起きる。上下関係も意識されやすい。そんな少年たちにとって、仲間を守る気持ちは薄い。

大人は忘れがちだが、少年たちの世界は狭いのである。チクらないのは、その世界から放出されたくない、ただそれだけの理由である。居心地の悪い世界であろうとも、なんら喜びが得られなくとも、すがるしかない。

苦しければ大人に助けを求めることもできるが、大人の世界は安住する場所にはならない。知識や知恵で上回る大人たちである。不利な立場に追いやられることもあろう。体格でも上回るから、嫌われたら太刀打ちできない。恐怖の対象でもあるのが大人である。
それに子供の世界に戻るように言われたら従うしかない。子供の世界で自分の地歩を固めていくしかない。

友情も簡単に成立してしまうが、これも大人には不可解に見える。この作品でも、ふとしたきっかけで友情が芽生える。
しかしこれも同じこと。狭い世界では、小さな利益の交換も重大なやり取りになる。

こうした子供の世界を知る大人はもちろんいる。少年少女を利用しようする大人たちだ。
児童文学はなぜ必要なのか。そのひとつは、少年少女を利用しようとする大人がいることを教えるためではないか。子供の世界で居場所がない少年少女につけ入って自分のために使う。そんな大人は数知れない。

少年少女たちにとって、大人の欲望を明確に把握することは難しい。ただ、大人の欲望はうかがい知れないもの、と思わせるだけでも充分に教訓になる。

ちょっとひねくれた解釈になった。児童文学の必要性の第一は、やはり夢を与えることであろう。
たとえば冒険心あふれる主人公の物語。これは、行動すれば新しい世界が開けるという希望を抱かせる。
不思議な力が働くことで困難を克服できてしまうファンタジー。これは、行動できない自分を責めるな、じっと耐え忍ぶ時間があっても大丈夫というメッセージになる。明日になれば辛いことも消えるかもしれない。子供には生きる時間が充分にあることを気づかせることにもなる。

ヒーロー物? これは児童文学に入れたくないな。正義がいずれは勝つという教訓は良いが、神がかり的な人物がすべてを解決してくれるという設定は、カリスマ待望になり、教祖様待望にいざなう。弱いという自覚は、受動的で他力本願になるのは仕方ないにしても、他者依存にまで発展しては本人の成長はない。盲目的な依存は精神を退化させる。狭い世界に留まっていろという教えに等しい。

世界は広い。だから勇気を持って突き進もう! リスクはたくさんある。だが喜びも待っている。そんな感情を呼び覚ましてくれるのが児童文学だ。
そして大人もそうした寓話に感化されていい。未来が0の人間はいない。


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