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音楽

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メリー・クリスマス! クリスマスは俗物になろう・・・という話は去年書いた。
世の中には「イブはいいから、25日はいっしょにパーティーをやろう」という誘い方もあるようだ。いまさら遅いが・・・

先週、Mステの特番を見た。今年の音楽シーンを振り返ってみようかと思ったからである。
でも途中で飽きた。今年は大きなトピックスはなかった、という印象だ。ビーズなど、まだやっているのかと思ってしまった。

どの楽曲もあまり特徴がない。長くポップスに親しんできた身としては、どこか似ているように聞こえてしまう。おじさんの感想に過ぎないが・・・
たとえば、絢香をラジオで初めて聞いたとき、ドリカムと勘違いした。メロディーラインが似ているだけでなく、声質が近い。
ラジオを何の気なしに聴いていると、本当に勘違いしてしまうことが多い。男性ボーカルでも、スピッツの新曲かと思ったらニューフェイスだったりした。ミスチルに似たものも多い。この間など、「またミスチルみたいな曲か」と思ったら、本当にミスチルの新曲だった(笑)。

声質に特徴があれば差別化できるのだろうが、あまり特徴的だと万人向けのポップスにはそぐわない。
あとは、ビジュアルで目立つしかないのか、とも思ってしまう。倖田来未などいい例だ。「彼女を見てみたい」という欲求をおこすことに成功しているから、楽曲もきらびやかに聴こえてしまう。12週連続リリースなんて無謀なことをやること自体、楽曲よりも存在感で勝負! ということだろう。悪いわけではない。そういう時代というわけだ。

あと、Mステを見てて感じたのは、一発屋で終わるミュージシャンも多いのだろうな・・・ということ。これもおじさんの感想でしかないが。

ソングライティングにはセンスが問われる。これはいつの時代も同じだ。ヒットする曲はそれなりによくできている。シンガーソングライターも多いが、それなりに自分の個性を表現している。
昔の曲と似ているといっても、2〜3年前に流行った曲と似たメロディーでは売れない。ここ数年なじみのないポップなメロディーラインを使って、うまく構成するセンスが必要である。だれにでもできる芸当ではない。

オレンジレンジは以前、古い曲のパロディーと非難されたが、問うべきはそのセンスだろう。昔の曲を知らない若年層をターゲットにしているという見方も可能だが、多くのポップスは所詮焼き直しである。ありきたりなポップなメロディーを使ってうまく構成することが、今どきのセンスといえる。美術に例えれば、コラージュみたいなものである。芸術というより職人の世界、と言ってもいいかもしれない。
かつてのモームスだって同じだったわけで、むしろ気取りがなく潔いといってもいい。

手島葵にはビックリした。単なる童謡じゃないかと思ったものだ。映画で流れる曲だから、雰囲気が重要なわけで必ずしもヒットする必要はないわけだが、昔の童謡みたいな曲が伴奏なしでポップスシーンに表れるとは! 聴く方としては、非常に新鮮に感じることになる。谷山浩子の作曲とは最近知った。

これは特異な例だが、ここまで個性的でないと私にとっては新鮮味がないということか。
しかし、新しいミュージシャンは、ある意味、存在そのものが新鮮だ。ビジュアルを売りにする人でなくても、それぞれ個性があるわけで、声質も含めて、存在の新しさは、飽きっぽい現代人にとっては魅力となる。
だからではないが、飽きられるのも早いといえる。

一発屋とは、かつては、たまたまヒットする要素を備えた曲が一曲だけできたというケースだが、最近は楽曲の特徴より、人間的個性があまりなかったので飽きられた、という部分が大きいのではないだろうか。楽曲づくりのセンスだけでは差別化できないから、そうした部分が相対的に大きくなる。

まぁ理屈はそれぐらいにしておこう。前にも書いたし。

シーモの『また合いましょう』はよかった。ケツメイシにはない明るい曲調が新鮮だった。そのあとのルパン三世はどうかと思ったが。

ボニーピンクがブレークしたのはうれしかった。声が非常に魅力的で、英語詞の響きが日本人離れしている。ヒット曲はあまり新鮮さを感じなかったが、まぁいい。昔みたいにブルージーな曲も出したら面白いのだが・・・売れないかな?

GTPの『冷凍みかん』も愉快だった。彼女たちはまだまだ行けそーだ。
ボノボや風味堂の路線も新鮮であった。
さまざま風合いの曲が流れてくることを、来年も期待したい。
絶対音感があるなしで友人と議論になった。
といっても、私の「絶対音感があるというを、あたかも先天的な特殊能力であるように考えるのはおかしい」という主張に対し、友人が「まず絶対音感がある人間がいることを認めろ」と返す意地の張り合いになっただけである。あまり高等な議論ではない。

この言葉がポピュラーになったのは、最相葉月の『絶対音感』が出版された頃からだろう。私は読んでいないが、それ以来、世の中には絶対音感を持っている人間がいて、それは極めて特殊な能力で、凡人には決して近づけない世界である、みたいな印象が流布されているようだ。なにやら超能力のような扱いになっている。あるいは、心霊現象のような人知を超えた世界といった感じか。
少なくとも、誇りなる天賦の才能という捉えて方は一般化しており、私の以前の上司なども「娘には絶対音感がある」と鼻高々に言い放った。

耳で聞いたメロディーをすぐさま音階に直せる。これは素人には驚きだ。
ただ、ピアノを習ったことがある人ならだれでも、音当てクイズ程度のことはやる。ピアノの単音を耳だけで聴いて、それが何の音かを当てるのである。ある程度弾けるようなった子ども同士の遊びであったりする。
楽器を弾くという修練の先にこの能力があるわけで、得て不得手はあるが、毎日弾いていれば自然と身に付く能力だろう。
プロの音楽家同士でも、この手の能力について「あの人にはかなわない」ということはある。しかし、全くない人と、完璧にある人という差では決してない。

街中で聞こえてくる音楽を頭の中で譜面化できてしまう、なんて聞くと確かにすごい。特殊な才能と感じてしまう。
ただ、譜面化というのはあるルールに従って行う行為である。欧州発祥の12音階の名称から始まって、さまざまな知識の集積として行っていることである。すなわち学習によって得られる能力である。
そもそも、音程というものはアナログなものである。それを12音階に分断し、かつ440ヘルツをAの音と決めることで成り立っているのがバロック以来の欧州音楽である。バッハの時代は440ヘルツではなかったという話も聞くし、決まったルールを後天的に学習することで得られる技能の部分が大きい。

駅で流れる業務用メロディーや、歩行者用の信号が奏でる盲人用メロディーを聞いて、その音程が狂っていることを指摘できたりもするが、これもいつも聞いてきる調音された楽器の音が目安となっている。音程の狂いは、主に粗末な音響装置が原因だろう。
メロディーラインが狂っていれば、素人でもわかる。それは相対音感を持っているからだ。全体がフラットしているとかシャープだという絶対音感的指摘は、一段高い能力であることは間違いないが、それにしても相対音感の延長線上にある能力だろう。
絶対音感の持ち主の中には、その音程の狂いが我慢ならず気分が悪くなるということもあるそうだが、それは特殊な才能を持った人間に起きる悲劇ではなく、単なる神経症だろう。机の上をきちっと整頓しないと仕事できない、といったよくある性格と同じ。その種の潔癖性が極端になっただけで、絶対音感の能力が高まるとともに生じる病理では決してない。天才的能力を備えた人間の負の側面、なんて捉え方は話を面白くするためだけのものだろう。

クルマのクラクションを聞いて和音解析できるともなると、いささか常軌を逸しているように見える。「あのクラクションの音は、おおむねC♯7である」なんて聞かされれば、とても人間業とは思えない。
ただ、単純な和音の解析なら大抵の人ができるようなる。C、F、Gの基本3和音ぐらいの解析なら、バンド練習に打ち込む青少年程度で十分到達できる。複雑な和音を多用する最近のポップスは無理にしても、単純な和音しか使わない昔のポップスなら、ミュージシャンを夢見る青少年の多くはコピーできるようになる。相対音感に負う部分が多いとはいえ、絶対音感が超能力というほど遠いものではなくなる。

絶対音感というときの“絶対”という語感が誤解の元だろう。音楽的才能に秀でた人にしか持てない研ぎ澄まされた能力であることは認めるが、おどろおどろしい奇怪な能力といった使われ方をすると違和感がある。

まぁ力んで主張するほどのことでもないのだろうが、この能力が魅惑の音楽を作れることに直接結びつくものではないし、称賛される音楽家への道は、この能力よるものではないだろうという思いは強い。

そんな能力がない人にだって音楽は作れる(私も作って見ました。ちょっとドサクサですが、よかったら聴いてください)。http://www.geocities.jp/mattac0621/index.html

音楽においては、感動させてくれる人こそが天才である。
のだめ(カンタービレ)がんばれ!

先週21日、山下洋輔PANJAスイング・オーケストラとゲストによるコンサートを、文京シピックホールで見た。
ゲストは大貫妙子(vo)、日野皓正(tp)、坂田明(as)、渡辺香津美(g)。それで5,500円は安いと思ったので、久しぶりに聴いてみる気になった。
彼らの演奏は10年以上聴いていない。年を取って演奏にも衰えがあるだろうと思っていた。オールスターのよるチャリティーコンサートだから、演奏も短めだろうとあまり期待はしていなかった。

ところがすごかった。
山下のフリージャズっぽい奏法には興奮した。激しい打鍵に身震いした。
日野の出す女性の声のような高音はすばらしい。
坂田の早引きも昔と変わらず、日野との吹き合いはバトルさながら。こちらも、突っ込んでくる感じは健在。

アコースティックギターによる新境地を見せていた渡辺には、新しい楽曲を期待していたが、披露してくれたのは昔の楽曲だった。こちらは期待してた分、あまり驚きはなかった。

大貫妙子と山下が接点があったとは知らなかった。間奏のように披露してくれた歌声は、一服の清涼剤といったところ。

第2部のPANJAスイング・オーケストラは面白かった。藤陵雅裕と梅津和時がおどける。おもちゃの楽器で笑わせ、各奏者のソロの最中に花吹雪を降らせる。観客の中にいた子供にも大うけだった。

うーん、リーダーアルバムを作れる面々も多いのに! そんなミュージシャンが一堂に会して、まるで学芸会。実に楽しそうに演奏してくれた。シング・シング・シングなどのスタンダードを取り上げてくれるので分かりやすく、観客と一体となって非常に盛り上がった。

みんなまだまだ若い。ジャズ奏者はあまりメディアに出てこなくなったが、みんな健在だった。
ただ、唯一TVで見かける村上ポンタ秀一は、CCB(「ロマンチックがとまらない」というヒット曲があるバンド)のドラムス兼ヴォーカルみたいな外見だった。金髪で真っ赤なフレームめがね!!! ちょっと若すぎ!

この楽しさは、山下の人間性にあずかるところも大きいのだろうな。酔っ払いの片山広明も実に楽しそうだった。
PANJAスイング・オーケストラのメンバーは以下のとおり。
山下洋輔(p)、杉本喜代志(g)、吉野弘志(b)、村上 ‘ポンタ'秀一(ds)、藤陵雅裕、梅津和時、片山広明、石兼武美(sax)、藤本忍、松島啓之、吉田哲治(tp)、中路英明(tb)

なお、このコンサートは中年以上の男性に多い前立腺ガンの早期発見を促すチャリティであった。自覚症状がなくても病院で検査を受けましょう、ということらしい。
収益の一割を寄付するというが、このコンサートのライブアルバムを出せば売れるような気もした。その収益も使えそうだ。

昨日、菊池雅章のソロライブを代々木ナルで見る。
巨匠は入場早々、お怒りの様子。「なんでサルのしたでやらなくてはならないんだ」とかなんとか。
「ほんと頭にくる」とこれ見よがしに吐き捨てながらピアノに向かい、いきなり演奏開始。

しばらく演奏に集中していると思ったら、今度は空調の音を消せと、立ち上がる。
全部は消せないと言われて、演奏再開したが、しばし愚痴る。
部屋はだんだんと暑くなり、自分も演奏しながらジャケットを脱ぐ。
黒ジャケットの下も黒のロンT。黒づくめは彼の定番か。

私の期待は、繊細なタッチの心地よい音楽だったが、さにあらず。
アドリブ全快の不協和音の連続と、怒りを表現するかのような激しい打鍵。
やれやれ、ひところのキース・ジャレットじゃあるまいし、ソロピアノの即興で聴衆を惹きつけることはそう簡単ではないだろうに。
唸りながら弾く様もキースさながら。激しく唸りすぎて咳き込むことも。

キースと違って、リズミカルになる場面は全く無い。感情に任せた緩急で通す。
全体の印象は前衛音楽。私には分からん。
「これが巨匠のつむぎ出す究極の音楽だ。オマエらにわかるか!」とばかりに、鍵盤を叩きつける。メロディアスになることをひたすら排す。高音を弾こうとして伸ばした指が空振りすることもあったが。

ときに鍵盤に身をかぶせ、ときに立ち上がり・・・、ひたすら音に集中しているがごとくの演奏は絵になるが、その音楽は聴衆を巻き込まない。ふと周りを見回すと、多くの客は瞑目している。高尚な音楽は雑念を拝して聞き入らなければならないのかもしれない。中には頭を傾けて寝入っている風の人もいたが。
私といっしょに来た人などはスケッチをはじめる。最近、デッサンを習っているとかで、後で見せてもらったら、菊池氏の特徴をよく捉えていた。

結局、MCは一切無く、1時間ほどで演奏は終わる。一人の知り合いの客にだけ、手を広げて演奏し終えた喜びを表明していた。

2ndステージに向けての休憩中、調律師がピアノを調音し始めた。調律師付きとは驚いた。打鍵が強いのですぐ狂うのだろうが、まさに巨匠だ。椅子も専用のものを持参したらしい。

私たちは2ndステージ前に退散した。

昨日は、向井滋春のライブを見てきた。
NHKFMのセッション2006という番組の公開録音で、ふれあいホールなる小ホール(定員約280)で行われた。
正確なバンド名は、向井滋春Super4トロンボーンズ。

向井滋春を最後に見たのは10年以上前だ。久しぶりに見る彼は歳を取っていたが、熱演していた。
こんなに熱演するタイプだったっけ? と思ったぐらい。

4つのトロンボーンとピアノ、バス、ドラムスという編成は始めて見た。
バストロンボーンが加わっていることもあってアンサンブルを聞かせる部分は、ビックバンドのような響き。4人が交互にソロを取るというのもバトル感があって興奮した。

アレンジも4人が曲ごとに担当しているので、向井がリーダーという感じがしない。
それもあってか、歳に似合わずの熱演となったのかもしれない。
はっきりいえば、切れ味は少々鈍った観はあるが・・・

曲目はスタンダードが中心。私には哀愁のあるオリジナル曲が向井の真骨頂というイメージがあるが、アップテンポに仕上げたスタンダードも悪くない。

観客の年齢は高かった。若い女性も連れ立ってきていたが、少ないから目立つ。向井も昔の人になりつつあるのかもしれない。

ところで今の若者はジャズを聞くのだろうか。
昔は、難解で大人の音楽というイメージがあってとっつきにくいが、だからこそ挑戦しようという気にもなった。ジャズ喫茶なんてのが廃れても、質の高い音楽として興味を持つ奴は少なくなかった。アルバムをコレクションして気取る奴もいた。

でも今は斜陽かな。理由のひとつに、前衛っぽいジャズがもてはやされる時期があって、大衆性が失われていった部分があるように思うが、それよりも、今の若者としては、年配者が愛好しているものに興味を持つという心性が薄くなっているんじゃないかな。
そんな話をしていたら、綾戸智絵がいると、いっしょに公開録音に行った人間が言ったが、彼女は個性が立っているからTV受けするのだろうし、ファンも彼女のヴォーカル曲をジャズと意識していないような気がする。
上原ひろみの方がジャズ奏者としては有望だ。ただ人気があるといっても、楽器演奏そのものに興味のあるオーディエンスに受けるているに過ぎないように思う。層は薄い。

別の理由として、ポップスにジャズの要素がどんどん入ってきている。映画音楽もしかりで、たとえばテンションを活用しない楽曲はないといっていいほどだ。ジャズっぽさは、音楽を好む人間ならだれでも常日頃、耳にしているといっていいだろう。高級感は薄れる。

ということで、ジャズの未来はあまり明るくないかな。

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