おぴにおん0号

反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

雑感

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Yahoo!ブログ サービスが終了する。記事の投稿は9月1日までという。残念だが仕方ない。始めたのが2005年4月だから、今年で14年目。長い間お世話になりました。

これまでの記事数は1,677とある。見ての通り大半が長文なので、結構、労力を費やした。特に、最初の5〜6年は熱心に投稿を重ねた。だが、似たようなことばかり書いている。思いつくままに書くからこうなる。

2011年8月からしばらく休んで近年再開したが、投稿のペースは週一ぐらいに落とした。それでも似たような話になりがちなのは、私の進歩の無さが原因である。ただ、レトリックを新調することだけは心掛けた。

8月はこれまで投稿しなかった。暑いと思考が鈍る。それと人付き合いも増える時期だから余計に書くための時間を作る気になれない。

それはそれとして、これからもブログを続けるとしたら、どこに移行すべきか。研究してから決めたいが、今週末も友人の来訪がある。今月中に決められないかもしれない。どなたかアドヴァイスください。

ということで、Yahoo!ブログに投稿するのは今日が最後になるかもしれない。
読みに来てくれた方々に感謝を申し上げないといけない。

長い間、駄文にお付き合いいただきありがとうございました。またどこかでお会いしましょう!

Q.悪態の数々! しかし愚痴っているだけでは何の解決にもならない。貴殿の分析が正しければ、円満な関係に導く手段も見つかるのでは? もっとも関係を続けたければの話ですが…

ごもっとも。
今でこそ悪態を浴びせたくなる彼らではあるが、これまで多くの時間を共有してきた。会食を重ね、旅の道連れとなり、娯楽に興じてきた。息の合う仲間として、誘い誘われる間柄であった。

よって、関係を断つ気はない。好みが食い違い、関心事が異なるようになっても、旧知の情は簡単には消えない。それに、情報交換すれば今でもそれなりに有益だろう。近況報告は互いの見聞を広げる。万が一、天災にでも見舞われれば、助け合うことがあるかもしれない。

私の悪態が強烈であることは意識しています。とてもじゃないが面と向かっては言えない。言えば、必ず相手は怒る。それもあって、実社会では自重している。自重しすぎるとマグマが溜まるので、この場で吐き出して、いかばかりか憂さを晴らしている。同感してくれと申し上げるつもりはありません。

面と向かって言えない小心者の繰り言として、大目に見てくれるとありがたい。ユニークなレトリックとなるよう努めております。その辺を楽しんでもらえればと思います。

円満な関係に導くためにも、もう一度、愚痴りたい。彼らが忘れがちなのが、次のような人間関係のルールだ。
<直接的な利害関係があるわけではないので、関係を継続する必然性はない。必然性がないからこそ、相手に対する配慮がそれなりに必要になってくる>

これを忘れ、<直接的な利害関係がないから気安くつき合える>に重点を移すから、甘えとなり、相手に不快感を与えても平気になる。こちらの欲求を優先しろ!、配慮するのはあなたの役目だ!といった傲慢さも、自分勝手な理由で正当化する。
こうした兆候が表れると、さすがの私も、付き合いを続ける気力がなくなる。

甘えがちな人というのは、大抵、傷つきやすく怒りっぽい。反省が嫌いなためです。反省なんて面倒なことをしなくても生き延びてこれた。そんな幸せな人生を歩んできた人たちと言えそうです。そのような人に直接、悪態をつくのは禁物です。恨まれて終わりです。

反省するためには自己を客観視する必要がある。だから客観視の必要性を何度も説いてきました。でも最近はこんなふうに思っています。<客観視>という能力は、苦悩してきた人のみが得られるささやかな特権であると…。幸せばかりだった人には決して身に着かない能力であると…

とはいえ私の方も少し反省する必要がありそうです。おっしゃるとおり、愚痴ばかりでは何も解決しません。

感情の行き違いなど人間関係の齟齬は、おおむね共犯関係です。一方だけに原因を帰すのは間違いだ。甘やかすから甘えてくる。配慮してきたから、配慮する役目を押し付けられる。相手の欲求実現に手を貸してきたから、引き続き手を貸すよう求められる。

ベストを尽くすことが好きな私は、もてなす立場だと自覚した途端、相手の欲求に敏感になる。相手の欲求に十分に配慮し、甘えを許容しようと努めてしまう。すると、相手は助長する。要求はエスカレートしていく。私が図に乗るな!と怒り出すまで続きます。

私は怒ると同時に、相手が反省することを期待します。いままで受けた配慮やもてなしを振り返り、返すことを考え始めるのではないかと期待してしまう。

しかしこの期待は、反省する習慣のある人間が、自分を基準にして導き出した期待でしかないことが判明する。相手は謙虚になったように見えても一時的なものでしかない。私の機嫌が直るのを待っているだけ。過去に味わった甘美な体験は決して忘れられないようで、こちらが隙を見せれば、すぐにその再現をねらう。

彼らをうまくコントロールできないのは、きっと私にも、そんな意地汚さや自分本意なところがあるからでしょう。中身は大して違わない。
せいぜい言えるのは、「私は自分が俗物であると分かっている程度には、俗物状態から脱している」「小市民と自覚する程度には小市民を卒業している」ぐらいのことなのだ。この違いは大きいと思うのだが、私もまだまだ修行が足りない。

高い評価を得ている小説に対し、「エロい」部分ばかりに目が行く彼は、ことさらエロい人間なのではない。低俗なこと以外に考えることが無いだけ。関心の範囲が狭いから、低俗さが目立つ。

タダで巨匠の作品が見られる喜びに浸る彼は、市民としてのレベルがことさら低いわけではない。小市民的な欲求とは異なる欲求が見い出せないだけのこと。小市民という外套を脱ぐ機会がない。

そうした人たちに気づきの機会を与えるために、「ちゃんとバカにしてやらないといけない」といった手荒な方法があるのは知っている。子供時代はだれもが採用する残酷な教育法だ。子供たちは互いにバカにし、バカにされながら成長していく。

でもね〜、これと同じことを大人になってまでやるべきことなのか。中年を過ぎれば、幼稚さなども一種の個性として認め、許容できる範囲でつき合うべきでないのか。特に、関係を継続する必然性がさほど強くない相手とはね。
実際、幼稚さは欠点ばかりとは言えない。人生には自我や主体性が邪魔になる場面がある。個人的な価値観なんて持たない方が、生き延びやすい社会集団ばかりです。

ということで、もうしばらくは実生活で悪態をつくのを自重し、適当にやって行こうかと思っています。

新しい天皇が誕生し、元号が改まり、祝祭ムードが世間を覆う。メディアは式典を詳細に報告し、寿ぐ国民を映し出す。知識人たちは天皇制について語り出す。
さほど関心がなかった私も少し浮足立つ。改元商戦に参加するつもりはないが…

Q.新しい元号、令和の印象は?
A.音の響きとしては、平成なんかよりずっといい。「へいせい」という音を初めて聞いたとき、マヌケで汚ならしいとさえ思った。平らに成るという意味のみに着目した、頭でっかちな選定であった。

その点、「れいわ」という響きは落ち着きがある。令和の字ずらも新鮮だ。
ただ私が選定委員なら選ばない。命令の令である。音からは「お礼は」や「零和」などを連想してしまう。

いかにもヤンキーが選びそうな名称でもある。日本のいわゆるヤンキーたちの言葉の選択は、カッコよさに淫する。それなりにセンスはあるが、知性と教養を放棄したような言葉選びになちがちだ。
そういえば、安倍首相はヤンキー体質を色濃く持つ。


Q.お祭りムードに対する感想は?
A.好ましいと思っております。私自身はムードに乗るつもりはないし、性格的にも乗れないが、人々が歓喜の色を浮かべて群れ騒ぐ姿を見るのは嫌いではない。楽しそうな群集を見れば、こちらも楽しい気持になる。私も根が俗物ゆえ、気分は伝染してくる。

意外ですか? 確かに、群集欲や集団心理に対する嫌悪を何度も書いてきた。己の愚かさを糊塗するために利用されることが多いからだ。集団心理に自ら陥ろうとする人々の目的は、己の弱さを隠し、無能さを忘れ、怠惰に生きることを正当化するためであったりする。

その種の悪徳に使われるのでなければ、大衆のお祭り気分に水を差すつもりはない。商業主義に乗せられることも止めない。「だって買わなきゃ資本主義から排除されてしまうもの」by岡崎京子

なにより、お祭りは人類にとって必要なものだ。一生のうち何度も訪れる日ではないという特別感は、生きていく上で欠かせない。イベント参加に積極的でない私ですら、たまには高揚感を欲する。

但し、みんなが騒いでいるから自分も騒げるという行動原理や、みんなが欲するから自分も欲するという主体性のなさは冷やかしたくなるけどね。長蛇の列に並ぶことが好きな人たちの精神は、大方が幼稚だ。

そういえば、列に並ぶのが好きなある友人は、「村上春樹の新刊、読んだ?」みたいな話もしたがる。ところが本の感想を聞いても、「エロい」ぐらいしか返ってこない。平成初期の著作『ねじまき鳥クロニクル第一部』に次のような一節があるが、彼はどう思って読んだのだろう。

<自分の価値観というものを持たないから、他人の尺度や視点を借りてこないことには自分の立っている位置がうまくつかめないのだ。その頭脳を支配しているのは「自分が他人の目にどうのように映るか」という、ただそれだけなのだ> だから<どうしようもないほどの見栄っ張り>になる。

絵画展にいっしょに行く機会の多い知人にも困っている。巨匠クラスの展示会ならば、私が喜んで誘いに応じると思っている。だからこの連休は、当然『クリムト展』に行きませんか、となる。彼は高齢になって急に美術に目覚めたが、いつまでたっても自分の価値観が育たない。

それはそれとして、今回のイベントは、諸外国の首長などから祝意が寄せられ、外国メディアも論評を寄せるレベルである。意味もなく酔いしれることを肯定する。


Q.天皇制に賛成か否か?
A.賛成する。
賛否を論じるだけの見識はないし、私には必要のないものだが、現状の日本にとっては必要だと思う。言うなれば、新憲法制定時にGHQが「占領統治に天皇は必要」と考えたのと同じだ。

権力側は“国民をまとめ上げるために有用”いう理屈を持つが、かくいう国民が国民統合の象徴を求めている。まさしく条文の文言どおりだ。国民は天皇を敬うことによって、自分も国民の一人だとの認識を得、日本国に所属しているとの自覚が持てる。

社会に翻弄され、権力者に苦役を強いられ、隣人から蔑まれることがあっても、目線を天皇に向けることによって、なぜか日本の中で地位を得たような気になれる。あるいは己のアイデンティティを見い出す。

理想の人間像を天皇に仮託する人も多い。天皇を憎む国民はいないと断言。天皇がいるからこそ、利害を越えて参集し、団結できる。感情的にすれ違う隣人との融和にも役立つ。そんな媒体としての天皇…

ただ、そんな天皇像が悪用することもできる。戦前戦中に多くの例がある。統帥権干犯!
そこで戦後の憲法は、政治的権能を有さない天皇という制度に改めたわけだが、超越的な存在を求める心性が国民から消えたわけではない。

こうした日本の現状(多数派の精神性が“ヤンキー”)が変わらない限り、天皇制に賛成し続けることになる。

そういえば平成の初期、「税金でタダ飯を食っている天皇が気に食わない」というセコイ理由で天皇制に反対していた友人がいた。彼は、この度のお祭りムードをどう思っているのだろう。

価値観が育たず、主体になり切れない無明なる大衆は、イメージだけを食べて生きる。

世の中には「思い通りにいかない」があふれている。話を聞けば、主に人間関係だ。相手が自分の気持ちを理解しないと言っては嘆き、自分の意に沿う動きをしないと言っては傷つき、自分に逆らうと言ってはイラつく。

しかし、すべて相手が悪いのだろうか。自分勝手なところはないだろうか。自己中心的な欲望、自分に都合のよい願望、自己認識の誤りが生み出す妄想…である可能性は?
自分を顧みることができれば、思い通りにいかないことへの悩みは、半減するように思えてならない。

欲望は持つべきだ。愛されたい、仲良くなりたいという気持ちは人間関係の根幹だ。尊敬されたい、認められたいという欲求は人間存在の基本だ。そんな欲求に沿って行動することになんら問題はない。自分の気持ちに素直であってよい。それでこそ、綾なす人生が送れる。活気ある社会の一員になれる。

とはいえ相手のあることだ。相手にだって欲望や願望がある。それらを無視することはできない。

世の中の「思い通りにいかない」の多くは一方通行。我がままなだけだったり、高望みだったり、現実感のない夢だったり…。童話の世界とは異なり、白馬に乗った王子様が現れることはない。

あなたの夢を友達や親は応援してくれるかもしれない。「夢は必ずかなう」と夢を抱き続けることを奨励する風潮もある。世の中には夢をかなえた人がたくさんいる。でもそれは、かなったから公言され、知れ渡ったに過ぎない。かなわなかった夢は表に出てこない。そして、埋もれたままの夢の方が断然多い。

人生、そんな簡単ではないことを教えた方がその人のためである。少年少女の夢じゃあるまいし、空想にふけってばかりでは前に進めない。人のせいにばかりする心根を改めた方が、よほど希望に近づけると諭すべきだ。

そういえば私が若い頃、ある女性に「責任取りなさいよ!」とスゴまれたことがある。その女性の友達のことだ。身に覚えがないことはないが、彼女が勝手に我が家に押し掛けてきただけだ。私の意志は介入していない。責任を取るいわれはない。

恋愛感情を持たれたからといって、それに応える義務はない。なのに、相応の好意を返すのが義務だと言わんばかりに「責任」を突きつける。悩む友達に助力したい気持ちは分かるが、圧力をかければなんとかなるほど人間の気持ちは簡単ではあるまい。

もう一つ思い出した。異性関係を半ば諦めている女性に勘違いされたことがある。公平中立が好きな私としては、基本的に異性とも分け隔てなくつき合う。同僚であれば、親切にふるまうことに躊躇はない。ところが、容姿や年齢で差別する異性に囲まれて過ごしてきた女性にとって、親切な異性は、自分を特別視していると映る。

人間のふるまい方や感情の動きには、それなりに法則がある。だが個人差も大きい。自分が理解する法則と相手の法則が一致するとは限らない。それを分かっていながら、自分の願望に沿う法則を当てはめてしまう。だから誤解が生まれる。思い通りにいかない相手に癇癪を起こす人さえ出てくる。

こうして、「思い通りにいかない」から発展した次のテーゼが生まれる。
世の中には、理不尽な恨みつらみがあふれている。

たとえば支配欲の強い人たちが、「思い通りにいかない」相手に対し怒りをあらわにする。
親は、言うことを聞かない子供を𠮟り、逆らう子供に罰を与え、反論する子供に報復する。
上司は、指示通りにできない部下をなじり、従わない部下の評価を下げ、意見してくる部下を左遷する。

学校での“いじめ”にも、支配欲にからんだものが多い。すべての集団で同じようなことが起こる。支配関係が人間集団の基礎であると考える人間が必ず出てくる。だから報復の仕方も似る。家庭でも職場でも、恨みを買った人間は孤立させられ、無視され、無謀な要求を突きつけられる。

独占欲から派生する恨みつらみもよく見かける。親の愛を独占したい子供は兄弟を憎む。嫁は「私だけを見ていて」とばかりに、夫の友人にさえ嫉妬する。友人関係の独占を目論む人は、共通の友達の悪口を並べ立てる。

地域社会でも、わけのわからない諍いが発生する。隣人が自分の好意に相応する反応をしないとか、自分以外の家族と仲がいいとか、無駄話につき合ってくれないとか、そんなたわいのない理由が村八分を引き起こす。

彼らは、相手も同じ欲求を抱えていると勝手に思い込んでいる。だから相手の言動を曲解し、自分の行動を正当化し、戦うことに意欲を燃やし続ける。関わるほどに誤解は広がるから始末に負えない。

欲深きは人間の業であろう。欲望を抑制しろとは言わない。思い描く理想に向かって進んでよい。だが相手の「思い通り」を無視する権利はない。すべてを相手のせいにするから対処の方向性がねじれる。感情にはゆがみが生じ、ますます自分の「思い通り」から離れていく。

そんな迷走しがちな人が増えているように思える。人間関係における欲求不満は、文明の発達と反比例するように増大しているような気がする。なぜだろう。

人類の生活は、アイデアの蓄積と、科学技術の発達と、社会制度の高度化によって、「思い通り」が進んだ。現在も日々、生活上の面倒は減り、ストレス軽減へと向かう。そんな中、人間関係だけは、簡単には「思い通り」とはならない。人間関係の構築だけは、相変わらず努力と忍耐が求められる。

こうして人間関係のストレスが際立つことになる。思い通りにいかない人間関係が大きな悩みとして浮上する。諦めが悪くなり、相手への憎悪も倍加してしまう。

同時に、生活上のストレス軽減は、人間関係に労力を傾ける余裕を生み出す。支配欲は遊戯のように気まぐれで執拗なものとなり、独占欲は切実さに欠けるにもかかわらず渇望するがごときものとなる。

西野亮廣氏は、「最近の若い奴は…」との苦言は太古の昔から繰り返されてきたとし、次のように断ずる。

「もし、そのオヤジの言い分が正しければ、理論上、人類なんて、とっくに絶滅しています。スケールダウンを繰り返している生物が生き残るわけがありません」
「だけど、僕らは今日も生きています。時代や環境に合わせて成長を続けてきたからです。動物であろうと、植物であろうと、いつの世も“種”として優秀なのは“年下”で、これは抗(あらが)いようのない自然界のルールです」(181102)

芸能活動はもはや過去のものとなり、今やクリエーターとしての活躍が目立つ西野氏である。進化論を下敷きに繰り出す「年下の方が優秀」論は、ユニークであり鋭い。

「年下の方が優秀」論の否定は進化論の否定になる!との論法に、オヤジたちはタジタジ。西野氏相手にディベートしたら、敗北必至。オヤジとしては、「1980年生まれの西野君も、二十代の若者に劣ることになるが、それでもいいのか!」と叫びながら逃げを打つしかない。

いや、ちょっと待て。そんな陽動作戦に出なくとも、反論する余地はありそうだ。論法としては少し荒い。
まずは、「最近の若い奴は…」との苦言が繰り返されてきた背景を考えてみる。

人類は皆、未熟児として生まれる。他の哺乳類と比べてもかなり未熟だ。馬も鹿も生まれてすぐに自分の足で立つ。サルの乳児は母親に長時間しがみついていられるだけの腕力を備える。人間の乳児と言えば、導かれないと乳も飲めない。二足歩行できるようになるのは一年後。

これは環境に適応する準備期間が長いことを示す。自然環境だけでなく、人工的な時代環境にも適用しやすくなる。脳の発達のためにも小さく生まれる必要があったと進化生物学は教える。出生時の知能は成犬に劣り、乳児期の知力もチンパンジーに負ける。幼児期以降の知性の発達がいかに目覚ましいかが分かる。

免疫機能が成人とほぼ等しくなる少年期以降も、教育の名の下に知性の発達が促される。さらに人類は、成人以降も学び続ける。知恵の習得、知識の獲得、経験の集積は死ぬまで已むことがない。歳とともに衰える能力はあるが、向上心を失わない限り、対応力や判断力などは洗練されていく。

「最近の若い奴は…」との苦言が時代をまたいで繰り返される理由の一つに、この「成人以降も学び続ける」がある。年配者から見れば、いつの時代も若輩者は未熟さを抱えている。習得漏れの知恵があり、洗練さに欠けた判断力で生きている存在に映る。また、人間心理に精通するにも経験がものをいう。

知力の面では、成人以降も発展途上であるのが人間の宿命である。ゆえに、若い時よりも知力が向上していると自覚するオヤジたちが、いつの時代にも存在することになる。

ただ西野氏が感じているように、時代の変化についていけなくなったオヤジたちが、愚痴として苦言を発する場面も多い。技術革新が続く近代以降は、特にその傾向が強い。

画期的な技術の登場によって、日常使いの道具が一新される。生活様式が一変する。価値観が急転することもしばしばだ。若者の方が、旧来の価値観に染まっていない分、新技術への適応は早い。

同時に、血気盛んな若者は、同世代だけでなく上の世代に対しても競争心を燃やす。このことも適応力が高まる要因となる。新しい道具を使いこなし、価値観の変化を素早く捉えることで、時代の先頭に立とうとする。

こうした行動や意識は生き延びるためであるから、オヤジたちの苦言など馬耳東風と受け流し、思いのままに突き進めばよい。社会で実権を握るオヤジたちに抵抗されたって、勝ち残るのは君たちだ。

でも気になるのでしょうね、オヤジたちの苦言が…。オヤジたちほど実績を積み上げていないこともあり、自信と不安が交錯しているからだ。彼らを取り巻く年配者たちは、いうなれば「適者生存」の実例でもある。

国家間の戦争だけでなく、小さな分野の企業間競争でも、負ければ自分たちの価値観は覆(くつがい)される。そんな実例を年配者は体験し、見聞きしてきた。そこから会得した知恵を持つ。

西野氏の「適者生存」の使い方も腑に落ちない。適者になれるかどうかは、多分に受動的である。自然環境に翻弄され、地理的要因に左右され、天変地異によって逆転するのが適者としての地位である。つまり、適者は変転する。進化論が言う「適者生存」とは、それくらいスケールが大きい。

人工的な技術に関しても、その存続は「適者生存」に似る。その優劣は、様々な偶然によって覆る。あるいは新しい研究成果や発見が、優勢だった技術を退場させる。

いずれにしても、進化論は、「年下の方が優秀」との論を導き出さない。旧来の道具を使いこなす能力が尊重されるようになったり、前時代の価値観が再び脚光を浴びることがある。歴史がそれを肯定する。

進化論は別の面でも冷酷さを突きつける。同じ種でも多様な遺伝形質を備えるのは、環境が大きく変化した際に、種が絶滅しないためである。寒さに強く暑さに弱い人類ばかりでは、温暖化によって絶滅しかねない。

西野氏はむしろ、この“多様性”に着目すべきだ。堀江貴文氏との共著タイトル『バカとはつき合うな』の心境はよく分かる。でも攻めるべきは“オヤジ”というカテゴリーではない。年齢を問わず“多様性”を否定する人たちである。多数派というだけで自分たちの価値観を押し付けてくる人たちである。

前回指摘した通り、<理性・知性>が高まるほど、少数派に追いやられる。少数であるほど、多数派から変人奇人扱いされやすくなる。彼らは少数派が生み出す創作物を楽しみながらも、創作者とは和合しようとしない。そればかりか、嫉妬心を含んだ無体な悪戯をしかけてくる。当然、つき合う必要はない。

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