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反論、質問受け付けますが、何せ思いつくままなので

雑感

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松家仁之氏によれば、橋本治は生前、次のように語っていたという。
「自分の頭で考えろと言ってもね、他人の頭が考えたことをなぞるのが精一杯、というのが普通の人間です」

彼なら言いそうである。普通の人間に向けての評論活動を続けてきた人だ。やさしさが滲み出ているが、これが長い評論活動の末の結論であるならば、少し悲しい。

私は若い頃、彼の理屈っぽいエッセイにハマったことがある。評論あるいは啓蒙書の類もいくつか読んだ。平易な表現だけで伝えようとする努力は並々ならぬものがあったが、回りくどくなってしまうのが難点だった。そして、読者に高度な思考を求めることに変わりはなかった。

普通の人間にも自分の頭で考える習慣を身に着けさせることができると期待しての評論活動だったように思う。しかし、その努力も空しかったということか。

分かる気がする。義務教育をへて高等教育を授かる頃までに、ほとんどの人が自分は足りない頭を抱えていることを知る。他人の知恵を盗みながら生きることが最善であると悟る。周りの人からバカにされないためにも、優れているとされる考え方をなぞるようになっていく。

ただ、皆、幼少時は考える習慣など持っていない。他人の考えに耳を傾ける中で、考えるとはどういうことかを知る。他人の考え方を学ぶ中で、考え方は一様でないと悟る。他人が考えたことを理解しようと努める中で、自分の頭で考えるという姿勢が育っていく。

私には、自分の頭で考える習慣を身に着けた人の方が精一杯生きているように見えるがどうだろう。人間は、悪戦苦闘の末、自分の頭で考える人になっていく。

橋本治の感慨も分かるが、実態は、頭や身体を使わなくても生きていけるような豊かな社会に住む私たちに、自分の頭で考えろ!という指令は届きにくい、ということではないだろうか。

最近、このブログに「豊かさはバカの始まり」あるいは「便利は堕落の始まり」みたいな話を書く機会が増えた。それは、そのような自覚がないと生きる力が衰えていく恐怖があるからだ。ゆでガエルになりたくないからだ。そんな人間ばかりになっては人間社会が成り立たず、私も困るからだ。

困る場面は実際に増えている。他人の説明を理解しようとしない人たち…。分からないことは、いつまでたっても分からないままで放ったらかし。当面の安楽だけを求め、危機回避のための行動は後回し。その結果、困難は他人に預けて逃げるしかない弱い人間が増殖中。

人間関係の構築や継続の仕方が稚拙なままなのも、自分の頭で考えることを怠ってきた結果だろう。感情優位という生き方が一向に改まらない。相手の思考に目を向けない。想像力が働かない。精神年齢は停滞したまま、成人らしい思考回路が構築される気配がない。

友人関係を続けたければ、精神的に成長するな!みたいな圧力を受けることがある。頭を使う会話は敬遠され、互いに小バカにし合う関係が好まれる。感情のやり取りさえしていれば満足な人たちばかりになった。

そんな彼らは、本当に相手の感情を読み取るだけで精一杯なのだろうか。

確かに感情優位の自分を変えられないもどかしさはありそうだ。でもそんな自分を基準に、人間関係は、相手の感情の動きだけを見ていればなんとかなるとの態度が苦々しい。相手の嗜好や思考の仕方を見極める努力もせず、あげくに関係が険悪になれば、すべて相手のせいだ。

こうして“人を見る目”が衰えていく。信頼すべき人間を間違え、だまされる。良きアドヴァイスを聞き流し、利用しようと近づいてくる人の甘言に乗ってしまう。

想像力の欠如は、自己を見つめる能力の欠如でもあるから、異性関係などでも勘違いが多発。
年を重ねても、選ぶのは私の方よ!と自惚れたままの女――関係が発展しないのは男がだらしないからとうそぶく。平均以上の容姿とセンスを持つと信じ切る男――モテないのはだれかが邪魔しているからと思い込む。

自分が何を求めているのかが曖昧なのも、自分の頭で考えていない証拠だ。ところが自意識だけは一人前。友人に振り回されるしかない主体性のない自分を顧みず、意識の中では「つき合ってやっている」。人のマネばかりしているくせに「相手に合わせてやっている」。まるで、自分の方が優位な立場にいるかのごとく。

そして、中身がない人ほど優越感に飢えている。他人を笑う機会をうかがっている。それだけが行動規範のような人もいる。困るのが、そのような人の前で謙虚にふるまうと、自分に自信のない奴と解釈されること…。あきれて物が言えないときの沈黙を、言い争いに勝ったと受け取ること…。暇つぶしといえば、勝てそうな相手にちょっかいを出すぐらいしかないこと…。

これらは、他人の頭が考えたことをなぞるのが精一杯な人間のふるまいであろうか。そのような自覚を持つ人間のやることであろうか。
生き延びるのに精一杯だった時代、人々は宗教の教えに従い、先祖を敬い、保守思想に則って謙虚に生きてきた。ところが楽に生きられるようになった途端、自分を賢いと勘違いし、慢心が目に余るようになる。共生の意味さえ忘却したような危うい行動に走り出す。

やはり、思考力に欠ける人間の尊大は、愚かであることが死を意味しなくなった現代の“病”として位置づけるべきだろう。豊かさは思考停止に誘うと分析すべきだろう。

自分の頭で考える習慣が身に着いていない人に、なぐさめの言葉を与えても何も変わらない。あくまで辛口でいくべきだ。それが、私の最近の結論である。

クレーマーたちの憂鬱

クリーニング取り次ぎ店で働く人が「クレーマーが増えている」と嘆いていた。

クレーマーという言葉をだれもが口にするようになって久しい。揶揄する響きは初めからあったが、最近は社会に害をなす非難すべき対象として語られるようになってきた。苦情を繰り返すことで業務を妨害したり、威圧的な態度で相手を困惑させ、理不尽な要求をする人たちというわけだ。

となれば、人々の間で「クレーマーと呼ばれたくない」という心理が生まれそうだが、実際にはクレーマーは増えているようだ。脅迫罪に発展する事件もよく耳にする。店員に土下座を強要して、その様子をネットにアップするなんていう甚だしい人権侵害さえ起こっている。

犯罪となる事例はともかく、事業者にとってクレーム処理が日常業務になったことは間違いない。サービスや商品流通の末端に位置する一般消費者が苦情を申し立てるケースが多くなった。

クレームの増加には、消費者保護に対する社会的要請が強まり、そのための政策が充実してきたことが大きく影響している。製造者責任法ができてから20年以上たつ。販売やサービス契約におけるクーリングオフ制度も拡充していく。消費者庁という専門官庁までできた。

さらに消費者生活センターが設置され、行政による苦情受付の体制が整う。直接メーカーに苦情を持ち込むのをためらう人は多い。苦情として成立するかどうか迷ったら、消費者生活センターに相談すればよい。

メーカーの対応も丁重になっていく。すぐに「全品回収します」と告知するようになる。消費者に損害や健康被害を及ぼせば賠償だけでは済まない。会社の信用問題に発展する。通信の発達により、風評は瞬時に広がる。健康被害が出ていなくとも、不正を働けば、雪印のように業務撤退を余儀なくされる時代となった。

豊かになれば安全や安心を求めるようになるのは当然。衛生管理は完璧を目指すことになる。「一億総潔癖症!」と皮肉る向きもあるが、安全や安心の最大化は人類共通の願いである。

ただ、こうした消費者保護気運の高まりは、クレーマーと呼ばれる常習者を育む土壌ともなる。

彼らの魂胆はあくまでも利益獲得にある。精神的な利益である「相手に謝罪を求める立場の獲得」も動機となるが、常習者たちの最大の目的は、やはり実際的な利益獲得にあろう。

クリーニング店の窓口にやってくるクレーマーたちは、それなりの雰囲気をかもすという。苦情を申し立てるのは当然とばかりに威圧感を漂わせるから、それとすぐ分かるそうだ。ひと言でいえば“クレーム慣れ”している。受ける方としては「またか」と心中でつぶやくことになる。

彼らの目的は店側に弁償させること。新品購入と同額の賠償金を手にすること、いや、「この服はもう手に入らない」と認めさせれば、それ以上の「誠意」を受け取れると期待している。

本部はクレーマーたちの過剰な要求に手を焼き、対応マニュアルをつくった。取り次ぎの窓口では安易に謝罪したり、「弁償します」と言ってはいけない。「お調べして、ご連絡します」と締めくくること。

先日の記事によると、製造小売の衣料品チェーン店には、品質保証が目的の返品制度を悪用し、着古したものを返品しようとするクレーマーがくるそうだ。拒否すると怒鳴り散らす! (190209)

食品では昔から、異物混入などの事故があった場合、メーカーは現品を上回るお詫びの品を被害者に返送し、謝罪の意を示す慣習があった。
私ももらったことがある。若い頃、カップ麺一つの事故で、詰め合わせセットをもらった。十年ぐらい前には、ソーセージ一袋の事故で、数袋入りの小箱が送られてきた。

そんな食品メーカーの対応を念頭に置きながら、小売業やサービス業へも過分な「誠意」を求めるようになったのではないか。実際、しばしば成功するのだろう。

そういえば思い出した。これもだいぶ前の話だが、友人宅でのこと、レジ打ちの間違いを友人が電話で伝えると、スーパーの店員が一パックのブドウを持って友人宅まで謝りに来た。

こうした経験に味を占め、一部の人たちが常習者となる。気分としては「クレームはもうかる!」。余得に与ることが目的となり、少しでも不手際があろうものなら、大げさに難癖をつけ、利益をせしめようとする。それが高じて作為的なクレームにも発展していく。

習慣とは恐ろしいもので、クレームをつけることが面倒でなくなる。500円分の利益のために半日ついやすのも平気になる。もはや遊戯だ。
多くの人は「そんな暇人、いるわけがない」と思うだろうが、さにあらず。金銭面で意地汚い人を思い浮かべてほしい。たった十円だろうが相手が得することに我慢がならない。ひとりの時は浪費するくせに、いっしょに食事したときなどの支払いはえげつない。相手に多く払わせたくて仕方がない。

その手の人は金銭以外でもセコイので、友を失い、縁者に愛想を尽かされる。人間関係が希薄になっていく。だから暇なのだ。だからクレームに多くの労力を費やせるのだ。

精神面でも空虚を抱えるから、被害妄想のようなクレームともなる。なめられてはいけないとばかりに気張るし、孤独を紛らわすためであるかのように、長い時間、相手に食ってかかる。

クレームを繰り返すたびに人間性はますます卑しくなっていき、さらに人が離れていく。そんな悪循環になるが、もはや止められない。だれからも相手にされない日頃の憂鬱を払拭するためにも、生きている実感と利益が得られるクレーム活動に専念するしかなくなる。

心理カウンセラーの大嶋信頼氏は言う。
<嫉妬されやすい人は、自分を実際より「劣っている」と考えがちです。真面目で謙虚で、もっと自分を高めなくては、と常に努力するタイプです>(『THE21』2018年4月号)

反対に、嫉妬するタイプは<自分は評価されて当然だと思っているので、賞賛や評価や関心などを「奪われたくない」思いが強くなります>
<そんな嫉妬体質の人物にとって、謙虚な性格の持ち主は「自分よりも周囲から優しくされやすい人」、つまり脅威になります。自分のほうが優れているはずなのに――と思うと我慢ならず、何かしら口実を見つけて攻撃します>

分かる。4月に書いた『少数派だから冷遇され…』での私の主張を下支えしてくれる心理分析だ。

嫉妬されやすい人はどうすべきか。大嶋氏は「正しいか否か」より「快・不快」を重視することが、自衛策のヒントだと述べる。
<謙虚さ・真面目さ・高潔さを、捨ててしまえばいいのです。相手は自分に嫉妬しているだけだ、自分のほうが上だ、相手がバカなのだ―と笑い飛ばすのが一番です。「自分が上と言える根拠は?」などと考えてはいけません。理由など度外視し、「とにかくあっちが悪い」と思える不真面目さを持ちましょう>

痛快だ。自分の良さを消してしまうことにもなるが、“目には目を”ぐらいしか方法がないと言いたいのだろう。相手は自身の快楽だけを求める自堕落な人間だ。真面目に対処していても埒があかない。謙虚さのカケラもない相手なら、こちらも謙虚さを振るい落とし、相手を軽蔑するぐらいの気構えがないと防御壁を築けない。

私は『頑張りすぎないため…』との記事で、組織内で生き延びるための処世術としては、突き放すのではなく巻き込むことを推奨しました。でも、大嶋氏が示す自衛策の方が面倒がない。嫉妬するタイプ相手に無駄な神経や労力を使う必要はないと、私も思います。

特に親類縁者や友人が相手の場合は、この自衛策で十分でしょう。私の親族にも「みんなと一緒」が大好きで、その集団の外で楽しみを見つけることを嫌う人がいます。当然、その親族が経験していない体験談を披露しても興味を示しません。あるいは対抗するかのように私が知らない話を振ってきます。

困るのが、優位に立つことが生き甲斐?と思えるほど、事あるごとにマウンティングしてくること。どうも、求めているのは優越感だけでなく、命令できる立場になって実利を得ることのようです。実際、こちらが謙虚にふるまっていると、要求はエスカレートしていく。

嫉妬するタイプは、図に乗るタイプでもある。謙虚さは危険です。

先日、久しぶりに会った友人も相変わらずでした。私の家の近くに来ると言うのでOKした。ところが行動計画はこちら任せで、まるで「自分を満足させるのはあなたの役目」てな感じです。今まで、こちらから誘うケースが多かったことの反映ですが、こちらに来て遊ぶときは、ほんとに何の役目も担いません。

彼は“もらう”ことが大好きです。行動計画を立てて“もらう”、クルマを運転して“もらう”、ナビゲートして“もらう”、買物して“もらう”、食事を作って“もらう”…。文句を言っても改まらない。それどころか、おごられて当然みたいな態度さえ示す。数年前のことだが、それ以来、こちらから誘うのをやめました。

今回の態度で面白かったのが、ファミレスでの会計の際のやりとり。私が切りのいい金額だけを要求し、数百円おごることを申し出たら満面の笑み。次の瞬間、彼の口から出てきたのは御礼の言葉でなく、なんと「使ってない財布があるので買わないか」だった。それは十年近く前、私のマネをして買った財布である。

彼の理想の生き方は“フリーライダー”。相手の行動力にうまく乗っかって、おいしいところだけを味わおうとする。判断する面倒も避けようとするので、相手の判断を無批判に受け入れてしまうことがある。たとえば、相手が買うのを見て同じ財布を買ってしまうとか。

女子生徒の連れションみたいなものと思えばいいわけで、異常な心理ではない。相手の判断に同調してしまうのは、社会性を備えた人ならだれしもやりがちなこと。問題は、安易に同調してしまった後悔を、謙虚な人を利用して埋め合わせようとする意地汚さにある。

彼もかなり嫉妬深い。特に損得には敏感だ。私より一円たりとも損をしたくないと思っている。若い頃、焼き肉食べ放題で“負けた”思い出を今もって忘れない。私の方が余計に食べたからだ。二度と行きたくないそうだ。

ただ、この異常な嫉妬深さは誰に対しても発揮されるわけではない。対象は兄弟や、自分が優位にある気にさせてくれる謙虚な人たちのみのようです。それ以外の人との接触はむしろ避けている様子。
そういえば、ある共通の友人との飲み会に彼を誘ったら、彼は断った。理由は割り勘負けの恐怖が主だと思うが、共通の友人は社会的にある程度成功しているので、気が引ける部分がありそうだ。

嫉妬するタイプは、要は“幼い”わけである――との結論は前にも書いた。愚痴の内容も繰り返しだ。
そこで、最後に変化球。はたして嫉妬深いことは悪いことなのか。一般的には、人間社会の利点になっている側面がありそうだ。

他者と比較する習性があるからこそ、格差に目が行く。格差を悪とする考えは一般的だが、格差を嫌悪する心理は、嫉妬する心理と地続きに見える。
他者との優劣が気になるからこそ、弱者に目が行く。弱者を守ろうとする考えは一般的だが、弱者擁護の心理は、嫉妬する心理が授けているように見える。

自分を基準に他者も嫉妬深いと想像するからこそ、格差無き平準化を願い、弱者を優遇したくなる。

Q.相手より優位でないと安心できない人物が親族だったら、どうすれば?

親や兄弟の場合、友人や職場の同僚と違って関係を終わらせるのは難しい。悩ましい問題です。もっとも、絶縁したいほどの深刻な悩みではないとお察しします。法的に親子の縁を切ることはできるけど…

身近な存在だからこそ、その優位願望が癪にさわるし、煩わしさが倍加するのでしょうが、その親族にしてみれば、あなたが身近な存在だからこそ、優位に立つことへの願望が倍加している。そんなわけで、どちらが優位かの争いは、家庭内が主戦場かもしれませんね。私にも身に覚えがあります。

まず軽症の場合。つまり「相手より優位に立つ」喜びに飢えているというより、暇つぶしといった軽い動機で、あなた相手に自分の優位さをひけらかしている場合です。

知識や能力の面で自分より劣る者をからかったり、いじめたりするのは、主体性のない人が思いつく遊びとして、もっともありふれたものです。この遊びがいつ始まるかは当人次第なので、被害に遭う人にとっては、たとえ笑って済ませる程度のことでも煩わしいものです。

ただ暇つぶしなので、当人の思惑を覆してやれば、収まる可能性が高い。一つには、あなたの知識や能力が当人と同等以上になれば、この遊びは終了です。

短期決戦を望むなら、反撃能力を身に着けるしかありませんが、長い目で見れば、あなたよりもからかいやすい人が見つかって終わる場合があります。さらに、あなたをからかうことに飽きたり、暇でなくなったり、当人に主体性が目ばえて優位に立つことそのものに興味がなくなることもあり得ます。

穏便な対処としては、日頃から当人の優越願望を満たしてあげることです。あなたが劣位にいることを当人に示すわけですが、卑屈にふるまう必要はありません。教えを請うたり、相手の能力を活用させてもらいながら、物心両面で頼りにしているふりをすればよい。

この<頼りにしてます作戦>には少しテクニックがいります。相手の知識と能力を大きく超えるような頼み事をしてはいけない。相手が余裕をもって対処できる時を見計らって頼まないといけない。

難点としては、見返りを求められることです。主体性のない人ほど図に乗りやすく、自分の貢献度を過大評価しがちです。敬う気持ちを形で示せとばかりに、利益を要求したり、自分がしたくないことを押し付けてくる。

そうなったとき、明確に拒否できるかどうかが<頼りにしてます作戦>を決行するか否かのカギです。
また、相手が重症、つまり優位に立つことへの願望が強い場合も、この作戦は危険をはらみます。

外の社会で劣位にさらされ、強いストレスを抱えた人などが重症になりやすい。昔は“内弁慶”と表現しました。弁慶のように威勢がよいのは身内の中だけ、というわけです。

親族関係の中で優位に立つことで、やっと精神のバランスを保っている状態なので、自分の優位さを過剰に求めてきます。<頼りにしてます作戦>を実行すると、優位願望は肥大化し、尊大さが増す。求めてくる見返りもエスカレートし、手に負えなくなる危険があります。

良好な関係になるよう冷静に説得する、みたいな対応も成功する確率は低い。自分に自信がないから虚勢を張っているわけで、そのような人にアドヴァイスしても批判と受け取るだけだし、批判とはすなわち“バカにしている”との解釈になります。

傷つきやすい人と見立てて対処することも可能ですが、自己認識が甘い人をさらに甘やかすことになる。実は彼らは、自分が弱い存在であることを忘れている。忘れようとしている。だから彼らは自分を卑下しません。自分は誤解されているとか、低い評価しか与えられていないと、周囲の人間を悪者にする。

とはいえ、この手の人も、あなたの方が知識と能力で格段に上回るようになれば変わります。親ならば、老齢になってあなたを頼るしかなくなったときです。そのように立場が逆転するまでは如何ともしがたい。しばらくは距離を置くしかないでしょう。

ただ、立場が逆転した後も、やっかいなことがたくさん起こります。たとえば、あなたの歓心を買うために、あなたの世話を焼くことがありますが、そのやり方は、幼子を世話するような類になりがちです。あなたが幼かったときに味わえた自分の優位さを無意識に求めるからです。

主体性のない人にとって、他者の世話をすることは、自分が優位であることの確認作業みたいなものです。余計なお世話になりがちなのも、そんな不純な動機ゆえです。あなたに関心を示しながら、あなたの趣味嗜好が分からないという矛盾も、相手の主体性を想像することができないからです。

“関心を示す”を通り越して“監視”みたいになるのも、主体性の無さが関係します。今まで、他者のふるまいを取り入れてみたり嫌ってみたりしながら、自分の中身を埋めてきた人生です。相手のふるまいを凝視しているだけで、相手の趣味嗜好を解釈する思考は働いていない。

もっともやっかいなのが、当人にしてみれば、十分に相手のことを考えて世話しているつもりであること。実際、当人基準では多大な労力を費やしている。だから求められる見返りが大きくなる。つまり、高くつく!

なんか悲観的なことばかり書いてしまいました。対処不能と言っているに等しい。私が対処できなかったからです。というより面倒だった。やりたいことがたくさんあったので、対処に費やす時間が惜しかった。

それと、主体性がないとの前提も言い過ぎでした。主体性の強度は相対的なものです。社会と断絶してまで創作活動に邁進する芸術家などを除けば、主体性といえども社会の影響下にあります。その風潮に左右される度合いが相対的に高い人を「主体性がない」と表現しているにすぎない。その辺は誤解のないように…

恒例だった友人たちとの新年会がキャンセルになったので、埋め合わせに昔の上司を誘ってみた。二年ぶりぐらいだったが、彼は相変わらず尊大だった。もう変わりようがないのは承知しているが…

昨年のこの時期に<第一子の特性>について書いたが、その人は第一子の負の面を過剰に抱えている。偉そうに振る舞うことが唯一の生き甲斐で、「そんなことも知らないの?」と叫ぶときが最も生き生きしている。

つまり求めるのは、自分が優位でいられる対人関係だけで、対等な友人など必要としてしない。当然、定年退職後は人間関係が広がらず、昔の部下に「おごるから〜」と言って誘うしかない境遇である。

そんな人だから、正月も暇を持て余しているだろうと踏んで誘ってみたわけだ。私はこの手のタイプと付き合うのが上手く、在職中は仲良くやっていた。ITに詳しく、社会の動向にも目配りしている人なので、それなりの会話ができる。間違っても自分の子供の事を嬉々としてしゃべるタイプではない。

でも退職後はこちらも遠慮なく言い返すようになったので、元上司にとって、気持ち良いやり取りは減ることになる。私に言わせれば、主体性のない意見ばかりなので、いくらでも反駁できてしまう。

今回も、私が疑義を唱えたNHK受信料の強制に対する彼の反論は、権威に盲目的に従う人間のそれでしかなかった。公共性とは?、公共の範囲はいかに…といった話に発展することはなかった。

主体性のない人は権威が好きだ。権威が与えてくれる方向にしか進む道を見い出せないからだろう。趣味もなく、嗜好といえば生理的なものだけの人にとって、NHKがまとう権威はまぶしい。彼に「Nスぺなんかを見るタイプだよね」と質したら、苦笑いしつつ「BBCもドキュメント番組に定評がある」と返した。

彼のようにテレビ視聴に多くの時間を費し、NHKを毎日のように見ている人にとって、BS込み2千数百円の月額受信料は妥当なのだ。しかしテレビをほとんど見ない人にとって、公共性があると思えるのは災害情報などのニュースだけだ。教育番組の公共性を容認したとしても、許容できる受信料はせいぜい月300円ぐらい。

今後は300円派が増えるだろう。放送以外の情報環境が格段に進歩している以上、いずれはNHK解体論がでてくると私は予想する。

300円だなんて、なんかセコイ話になってきたが、ついでに言わせてもらうと、主体性がない人が飲み会で見せる態度はとてもセコイ。割り勘負けしてなるものか!とばかりに急ピッチで胚を重ねるだけではない。支払いの際、他の人が代表してクレジットカードで支払い、ポイントを獲得することさえ気に食わない。

数年前、ある友人は、私がレジでカードを差し出したのを見て「クレジットカードだ!」と叫んだ。とっさには意味が分からなかった。私が指定した店だから、支払いの煩わしさを引き受けたに過ぎないのだが…

今回も支払いを引き受けたが、私が現金をレジに出そうとするのを見て、元上司は「現金主義なんだ」とつぶやいた。カードで払うと思っていたらしい。一万円の支払いで50円分のポイントが付くだけだが、その数十円が気になる。私が5百数十円おごってあげたのにもかかわらずだ。(私もセコイか〜)

他人との間の損得勘定は非常に細かい彼らであるが、奇妙なことに、自分の所有物となる買物では無駄な出費をする。クルマ購入では必要以上のグレードを選択するし、デカい4Kテレビを買ったりする。そして自慢する。見栄を張るのは主体性のなさの証であるとはいえ、幼稚だ。

損得勘定は大事だし、他人より損したくないのは人情である。でも人間関係を重視する人なら、きっと逆の行動をとる。つまり、飲み会での金銭のやり取りでは大らかに、生活物資を購入する際は必要性を厳密に見積もる。(そういえば、たった3人の飲み会で、支払いの際、電卓を出す友人がいた)

このセコさは主体性のなさとの関係性が強い。主体的な喜びを創出できない人にとって、「他人より得する」喜びは、生きる上での重要な位置を占める。

相手より優位な立場にいないと安心できないという性格も、同じことが言える。己の喜びを主体的に選び取ることができないから、「相手より優位に立つ」喜びが、幸福感の上位に君臨することになる。

だが、この快楽をむさぼり合う関係は対立しか生まない。それを彼らも分かっている。だから対人関係に臆病だ。孤高を気取っているようで自信などない。優位に立てると分かってからでないと他者に近づけない。

自信がないから、優位に立てる相手を求め、必要以上に面罵する。面罵できない相手には陰で批判したり、愚痴ったりして、空想の中で自分を優位づける。

結局、いつも逃げてばかりなわけだ。だから自信を持てない。だから逃げる…という循環に陥る。精神はいつまでたっても成熟しない。

考えてみれば、主体性というのは、居心地の悪い場所で生活や仕事をしてこそ高まるものだろう。居心地の良い逃げ場があるから、自分を振り返る機会を逸する。意志力も育たず、苦手を克服する意欲も生まれない。

そういえばある指南書に「意志力は筋肉のように鍛えられる」という惹句があった。想像力だって、自分と質的に異なる人に囲まれ、刺激を受けてこそ身に着く。自分を客観視する契機にもなる。主体性も芽生える。

でもそんな煩わしい刺激にさらされなくても生きていける時代になったのかもね。自分の欠点や未熟さを見つめるのは苦痛だし…。自己修正するのはもっと苦痛だし…

弱くても生きていける社会。
精神的に幼稚でも排除されず、生きる場所が与えられる豊かな社会。
しかし、根性を出したことがなく、最大限の努力をした経験もない人生では、永遠に“自信”は得られない。


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