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			<title>おぴにおん０号</title>
			<description>身の回りであった出来事や事件から私なりの意見を思いつくままに書きます。いろいろな社会問題にも関心大です。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/albert110713</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>おぴにおん０号</title>
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			<description>身の回りであった出来事や事件から私なりの意見を思いつくままに書きます。いろいろな社会問題にも関心大です。</description>
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			<title>ブログはどこかに移行するつもりだが…</title>
			<description>Yahoo!ブログ サービスが終了する。記事の投稿は９月１日までという。残念だが仕方ない。始めたのが2005年４月だから、今年で14年目。長い間お世話になりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これまでの記事数は1,677とある。見ての通り大半が長文なので、結構、労力を費やした。特に、最初の５～６年は熱心に投稿を重ねた。だが、似たようなことばかり書いている。思いつくままに書くからこうなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2011年８月からしばらく休んで近年再開したが、投稿のペースは週一ぐらいに落とした。それでも似たような話になりがちなのは、私の進歩の無さが原因である。ただ、レトリックを新調することだけは心掛けた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
８月はこれまで投稿しなかった。暑いと思考が鈍る。それと人付き合いも増える時期だから余計に書くための時間を作る気になれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それはそれとして、これからもブログを続けるとしたら、どこに移行すべきか。研究してから決めたいが、今週末も友人の来訪がある。今月中に決められないかもしれない。どなたかアドヴァイスください。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ということで、Yahoo!ブログに投稿するのは今日が最後になるかもしれない。&lt;br /&gt;
読みに来てくれた方々に感謝を申し上げないといけない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
長い間、駄文にお付き合いいただきありがとうございました。またどこかでお会いしましょう！</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/albert110713/65528335.html</link>
			<pubDate>Wed, 21 Aug 2019 22:59:13 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>社会の発達を止めろ！という政治思想</title>
			<description>「政治的であることをタブー視したまま投票率を上げることだけを目的にしてしまえば、与党の票が増えるだけでしょう」とは、吉田徹・北海道大学教授の言。(190717)&lt;br /&gt;
そうかもしれませんね。政治的話題を避け、政治活動に無関心な人は、現状に甘んじる傾向が強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのような人に、ボーっと生きてるんじゃねー！と意見しても意味はない。ボーっと生きるのって最高ですしね。個人的な楽しみだけに没頭していられる人生こそ、だれもがうらやむ境遇です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私も偉そうなことは言えない。我々のほとんどは、大した努力をすることなく豊かさを手にしている。いつのまにか、不正を許しても、不快は許さなくなった。不道徳を見逃しても、不愉快は見逃さない。面倒を嫌い、ボーっとしていても生きられる権利を欲するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政治家たちも、我々の権利を認めてくれている。選挙のたびに「ボーっとしていても生きられるようにします」と訴えている。充分でないにしても、日銀に借金を肩代わりさせて、豊かさの維持に努めてくれている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ財政破綻が怖いので、消費税の税率は上げさせてくれと政府は言う。人手不足が加速するので、高齢者もなるべく働いてくれと言う。甘い言葉にはウソがある。当面はボーっとして生きるのは無理なようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「消費税は低所得者の負担感が大きい。企業減税しなければいい。所得税の累進率を高くしろ」(某野党)&lt;br /&gt;
「高齢者就業を促進するのは、少子高齢化社会を作った“つけ”を国民にまわしているだけ」(71歳・男)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政府批判は許される。国家財政の赤字は運営者たる国家に責任がある。でも国家に予算を要求したのはだれでしょう。私は消費税率を上げることに賛成です。一方、累進課税を強めることにも賛成です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政府が少子高齢化を防ぐための有効な手立てを打てなかったのは事実です。でも「少子高齢化社会を政府が作った」は言いすぎでしょう。セックスが面倒と思う人はまだ少ないが、結婚が面倒と思う若者は着実に増えている。便利で快適な生活の中、唯一残っている面倒が子育て、ということかもしれませんよ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
税金は少ない方がいい。だれもが願うことだが、そのためにはどうすればよいのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
減税を求めるならば、政府に無駄遣いをさせないという発想が必要だ。無駄が多いから予算額が積み上がる。あなたが自分の利益に執着するのならば、なおさら無駄遣いチェックという政治的関心を持つべきだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政策の不手際により、国家賠償の支払いを余儀なくされることがある。これも国家予算からの支出であり、税金が使われる。謝罪する首相を冷やかしている場合ではない。国が不手際を犯さないよう監視することも、増税圧力の緩和につながる。&lt;br /&gt;
そして、国に戦争という判断をさせてはいけない。厖大な軍事費が国民にのしかかる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国にできることは限られるとの“あきらめ”も重要だ。施策充実や予算要求だけが政治活動ではない。政府への要求を減らす運動もりっぱな政治活動である。減税につながるならば、他の有権者も動かせる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
助成金の使い方では怪しいものがたくさんある。たとえば商店街への助成では、結果的にシャッター街となってしまった例が多い。高度成長期には、なんとなく店開きして、言われるままに仕入れて、売ってやるみたいな態度でも商売が成り立った。&lt;br /&gt;
他にも、就業時間の半分はボーっとしていられる職場の延命に手を貸してきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社会全体は豊かになったが、それなりの職を得なければ「豊かな社会」に参加できない時代になった。高給を得るには才覚が必要なのは昔と変わらないが、充分な収入を得るにもそれなりのしたたかさが必要となった。ボーっとしていてもそこそこの収入が得られた高度成長期とは違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしかしたら、社会が発達すればするほど格差が広がるのかもしれない。才覚の差が明瞭に判別できるようになり、ストレートに収入に反映、凡人はすべからく低所得に甘んじなければならなくなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であるならば、凡人としては、社会の発達を止めなければならない。もっと言えば、発達しすぎた社会を破壊することで、凡人たちが活躍する世界が復活する。ボーっとしていても生きていける時代の復活は難しいが、少なくとも格差は縮小する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
機械化・自動化を不能にしてしまえば“知性は平均以下だが、体力だけには自信がある”人たちが活躍できる。&lt;br /&gt;
医療の高度化を阻止すれば、“知性では劣るが生命力に優れる”人たちが生き延びる。&lt;br /&gt;
社会秩序が崩壊すれば、争いの絶えない世の中になり、身体の頑強さが尊重されるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ポピュリズムの台頭には、そんな気分が隠されているのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
おっと、話の方向が急カーブして選挙から離れてしまった。ただ、どうでしょう。社会制度が発達し、科学が進歩して便利で快適となり、面倒が少なくなっても、同時に格差が拡大するならば、そんな未来は拒否するという政治判断があり得ます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
科学技術に予算を投じるな！　医療なんか高度化しなくてもいい！　社会福祉なんか最低限でいい！　そんなことよりも、所得格差の縮小や、生活水準の平等が実現される方がよい――といった考え方もりっぱな思想でしょうし、政治的意見ですよね。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間本来の欲求である豊かさの実現を否定するような思想がなぜありえるか。“みんなといっしょ”が大好きだからです。豊かさよりも平等を好む人が多数派だからです。劣等は屈辱であり、格差は苦痛であり、疎外は最大の苦悩だからです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ともかく、政治は自分の利益に直結し、選挙は生き方の選択を迫るものである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/albert110713/65522384.html</link>
			<pubDate>Sun, 21 Jul 2019 00:57:13 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>政治の要諦は仲間づくりというけれど…</title>
			<description>「立法府の力が衰え、行政府と官僚が力をもつにつれて、デモクラシー国家の議場の中での討論は不愉快で意味のないものになる」とは、マイケル・イグナティエフ氏の言。&lt;br /&gt;
日本の国会を評したわけではない。ひと頃のカナダ政界の話である。どの国でも起こり得る事態のようです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イグナティエフ氏は政治学者から下院議員に転身し、カナダ自由党の党首にまで昇り詰めた人だ。だが2011年に落選し、政界を引退。&lt;br /&gt;
上の発言は、その顛末を克明に記した『火と灰　アマチュア政治家の成功と失敗』の中の一節である。カナダ政界の動きを詳述する部分は退屈だが、学者らしい鋭い分析がちりばめられている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
強力な行政府を作り出したのは、もちろん有権者だ。国民すべてに選挙権を与える民主主義国家であれば、“国民の仕業”と表現してよい。行政府が強くなりやすい選挙制度というものはあるが、いずれにしろ、国民が与えた力であることに変わりはない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ではその選挙の様子を、イグナティエフ氏はどう見たか。&lt;br /&gt;
「政治の世界では、本当のメッセージは身体的であり、瞳や手によって伝達される。何を言おうとも、身体がメッセージを、すなわち あなたは私を信頼できるというメッセージを伝達しなければならない」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
地元に足&amp;#32363;く通い、寄合いのような小さな会合にも顔を出し、有権者との接触を重ねる人こそ選挙で勝つ。そんなドブ板選挙が通じるのは日本だけではないようだ。人柄が分かる近しい人間、つまり仲間こそが自分たちの代表にふさわしいと感じる。そんな投票行動が一般的なのは万国共通。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
カナダの有権者は「誰もが、どの人間が信頼に値するかどうかを決定する能力については、それなりの自信を持っている」らしいが、日本とも共通する部分があろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
有権者の多くは、個々の政策について意見や感想を述べつつ、正確な評価を下す自信がない。専門家に任せるしかないと思っている。そこで、選挙では人物そのものに目を向けることになる。&lt;br /&gt;
身体的メッセージに頼る人物評価は、多分に感覚的なものとなる。しかし有権者は感覚だけの判断を卑下しない。感覚は絶対であり、感覚を疑うことは自分への裏切りとなるからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな有権者たちは、立法府の力が衰えることに危機感を抱かない。国会で不愉快な言葉が飛び交い、議員たちが意味のない論争に終始しようとも嘆くことはない。政策に無関心というより、関心の向け方が人物本位なのだ。だれが雄弁だったか、だれが攻められたか。だれが優位か、だれが劣勢かなどに、より関心が向く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、強い政治家にあこがれに近い好意を示す。イグナティエフ氏は次のように解説する。&lt;br /&gt;
「人々は、自分の守り方も分からないような人物を支持しようとは思わない」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
プロスポーツの世界で常勝チームが人気を博すのとほぼ同じ。高齢者たちの青春時代は「巨人、大鵬、卵焼き」だった。今も、強いチームが観客を増やし、強い選手の出場する試合が高視聴率をとる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政治を勝ち負けという観点でながめているだけの有権者にとっては、攻められて謝罪を繰り返す行政府は好きになれない。責められる場面の多い内閣は支持率が上がらない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、政治での勝敗はスポーツと異なり、仲間の数で決せられることが多い。政治の世界は“数は力”が基本である。自分を守るためには言い訳に説得力を持たせる必要があるが、それ以上に重要なのは、味方となってくれる仲間を増やすことである。従わせる能力と言ってもよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多数派政党に所属していた方が自分を守りやすい。なので多数派政党に所属したがる議員が増える。有権者も党員になりたがる。ますます選挙に強い政党となる。有権者の人気も増大していく。こうして多数派政党に支えられた行政府は絶大な力を持つようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうような循環が続けば、いずれ絶対権力が形成されるが、普通、絶対権力は永続しない。権力を手にした人間が腐敗するだけでなく、内部分裂しやすくなるからだ。絶対多数となればなったで、今度は、内部での多数派工作が始まる。結局、同じことの繰り返しだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
イグナティエフ氏も、党派内での主導権争いを経験した。そこで得た教訓とは…&lt;br /&gt;
「真の政治家には、永遠の敵を作ることなどできないのだ。デモクラシーが要求する仕事をしようとすれば、対抗者を仲間に引き入れる必要もあるのだ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
思うに、多数派を形成するという行為は単純なものではない。多くの人が持つ感性や価値観に合わせていればよいというものではない。感性や価値観は移ろいやすく、求められるリーダー像も状況によって変化する。また、情勢が安定するほどに変化を求める人が増え、権力争いにうつつを抜かす輩が出現しやすくなる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
豊かさの実現も、人々を良識ある有権者に導かない。生活が快適になるほどに、不快を嫌う人間を増やす。不快除去が最優先という価値観は政治にも反映され、“不正は許しても不快は許さない”という投票行動になる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民主主義が成熟すれば政策に対する見識を備える人が増える―なんて期待も幻想に終わる。良心的な官僚が懸案事項を半分に減らし、実行力のある政治家が重症の問題を軽症に抑え込んだとしても、対抗者は「何も解決していない」と叫ぶ。識者やマスコミも「すべてが解決したわけではない」とくさす。庶民の味方を気取りながら…&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、無責任で判断力に欠けるリーダーが問題を悪化させても、リーダーは「原因は外にある」と強弁することで地位を守る。有権者も判断力に欠けるから、リーダーの強弁に呼応してしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
仲間を増やし、多数派を形成する能力は、政治家の生命線であることは認める。しかし、それが単なる感覚的な誘導というテクニックでしかないのなら、政治ゴッコの域を出ない。願わくば、多数派形成のためには、真摯な姿勢から生まれる“高度な説得力”が最も重要と言われるようにならんことを。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/albert110713/65520993.html</link>
			<pubDate>Sun, 14 Jul 2019 00:44:18 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>Keep America Great！の行く末</title>
			<description>Ｇ20は大過なく終わったようだ。&lt;br /&gt;
超大国の大統領がコブシを下ろすしぐさを見せた。ただ保護貿易主義の看板は下していない。いずれまた、コブシを上げてみせるのだろう。そしてまた下げる。永遠の上げ下ろし運動…それがオレの仕事だ！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政治ショーと皮肉ることは簡単だが、一方でショーを求める人たちがいる。日常に倦んだ人々がいるからこそ政治ショーは成り立つ。そして、皮肉る人も実は加担している。冷やかしたり非難する人びとも、このショーの参加者だ。かくいう私も楽しいぜ！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分で火を点けておきながら、相手の反抗に対し「火遊びはやめろ！」と叫ぶショーマンシップは素晴らしい。&lt;br /&gt;
本心かもしれない。自分が「火遊び」感覚だから、相手の反応も「火遊び」に見えてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
倦んだ人々にとって、マッチポンプという所業は最高の暇つぶしだ。だがポンプの性能を考えずに火を点けてしまう危うさがある。思いのほか燃え広がってしまうことがよくある。彼らは後始末せずに逃げる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
結局、遊びなのだ。そこに切実さはない。目的は、Keep America Great！でしかない。あいまいな概念だ。だから簡単にコブシを下ろすことができる。あるいは役に立つポンプの用意なしにマッチを擦ってしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
America First！とも言う。他国と協調せず、孤立主義をつらぬいても&amp;#32363;栄できる偉大な国！とでも言いたいのか。リーダー国の地位から降りるだけでなく、国際ルールさえも無視して独歩するつもりだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『狼の群れと暮らした男』という本の中に興味深い指摘がある。&lt;br /&gt;
＜人間は本来的には群れの動物でない。家族を持ちたいが家族なしでも、必要なら一人でも生き延びることができる。そして犬たちも、長い間 私たちと付き合うことによって、人間の真似をするようになった。　……　彼らはお互いを攻撃し始め、闘い、時には仲間を殺しており、飼育環境下では群れはだんだん頭数が縮小している。なぜなら縄張りを侵される恐れがなく、飢餓の可能性もないから、彼らは家族を必要としないのである＞&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
著者のショーン・エリス氏は文字通り『狼の群れと暮らした男』である。野生の狼の生態を知り尽す。そこから見えてくる犬たちの生態の変化であり、人間の特徴である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間は群れの動物でない？　一般的には人類は群れる動物と理解されている。古来より群れてきた。狩りは集団で行うものだった。現代においても、人間は社会的動物との認識は有効だ。私もそう思っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
群れることの意義はたくさんある。大型肉食獣に一対一では勝てない。資源を巡る争いなど、人類同士のせめぎ合いも大きな集団を形成した方が有利だ。知恵の伝承もしやすい。役割分担した方が生産性が高まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だが群れることは必然ではない、「必要なら一人でも生き延びることができる」と言われればそうかもしれない。集団を形成した方が生き延びる可能性が高まるというだけの話。分業という生産体制は、生存のための必要条件ではない。現代でも自給自足の生活を追求できる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本でも、狩猟中心の生活をするサンカという民がいた。昭和30年代までいたとの記録がある。彼らは群れない。家族単位で山中を漂白しながら生命を維持していたらしい。&lt;br /&gt;
世界には、今でも採集だけで食が満たされる地域がある。帝国軍人の横井正一さんも一人で数十年生きた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
サルでも狼でも群れから追い出される個体が存在する。そうした観察記録がある。他の哺乳類も多くが「必要なら一人でも生き延びることができる」と思われる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正確には、現代人は群れる必要がなくなるぐらい豊かになった、ということではないか。飼い犬の生態変化がそれを暗示する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エリス氏は、飼い犬が人間の真似をするようになった理由を「縄張りを侵される恐れがなく、飢餓の可能性もないから家族を必要としない」とするが、ほぼ擬人化できてしまう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ある超大国は、他国に核の傘を貸せるぐらい過剰な核兵器を所持する。縄張りを侵される恐れはほぼない。穀物を大量に輸出できるくらい食糧自給率が高いから、飢餓の可能性もない。シェールガス革命によってエネルギー自給もほぼ達成。だから本来的には家族のような同盟国なんか必要としない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
資源をめぐって死活的な争いを繰り広げる必要がない人たちは何をして過ごすのか。偉そうに振る舞える立場の獲得ぐらいしかやることがないのではないか。こうして“Keep Great”が唯一の生き甲斐となる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家族を必要としない人が求める“Keep Great”とはどういうものか。まずは、国際協調を無視する独歩主義の実現である。偉大なる人間は、他人から指図を受けないものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それだけでは留まらない。切実でないからこそ純粋な欲望となる。“Keep Great”のための行動は次第にエスカレートしていく。逆らう奴は許さない！となり、隷属させることが目的のような攻撃が始まる。正しく「いじめの政治学」(中井久夫)である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらを実現し、さらに自信を深めればどうなるか。飼い犬の行動が暗示する世界は恐ろしい。人類も「お互いを攻撃し始め、闘い、時には仲間を殺し、群れはだんだん頭数が縮小」となるのだろうか。人類も、意味のない殺戮を始めるようになるのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
群れの解体によって、紛争の規模は縮小していく。やがて身近な人間に対する容赦のない攻撃となる。遊戯のように仲間を抹殺し始める。バトルロワイアルというゲームの世界が現実となる。もっとも、ゲームは際限なく続くわけではなく、「一人で生き延びることができる」という前提が崩れれば終わるであろうが…&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
暗い話になってしまった。ある識者が言うように「アメリカ人は反省が得意」に期待しよう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/albert110713/65519426.html</link>
			<pubDate>Sat, 06 Jul 2019 23:51:15 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>老後資金2,000万円に騒ぐ人たちの愚鈍</title>
			<description>2,000万円騒ぎがうるさい！　年金だけでは老後の生活費がまかなえないから自己資金として2,000万円ぐらい必要、というアレである。&lt;br /&gt;
メディアは、生活に困る高齢者世帯が増えるというニュアンスで、連日、騒ぎ立てる。&lt;br /&gt;
野党は、年金制度は「100年安心」ではなかったのか！ウソだったのか！と政府を責め立てる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ホントに世話が焼ける日本人だぜ。いつから老後の生活まで国に依存するようになったんだ。情けない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私の友人も、おまえの老後は大丈夫なのか？というニュアンスでこの話題を振ってくる。たしかに関心の高いテーマであろう。以前、会社員生活からドロップアウトした別の友人からも、どのくらい貯めておけばいいと思う？と尋ねられたことがある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
週刊誌が定期的に取り上げる話題でもある。その友人が、「老後資金は5,000万必要らしい」との情報を仕入れてきたのは何年も前の話。出費の内訳は説明してくれなかった。高級老人ホームにでも入るつもりかと思った。このときも、金額だけがひとり歩きしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1,000万円ぐらいあれば十分な人もいるはずだ。生活費は人それぞれ。生活の仕方で平均の二倍にもなるし、半額にもなる。&lt;br /&gt;
そんなに心配なら、生活費を洗い直し、節約に努めることだ。金を貯めることを最大の目的に生きればよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、2,000万円騒ぎに過剰反応する人に限って家計簿さえつけていない。しかも普段の出費はルーズ。&lt;br /&gt;
その友人は、私に数百円おごってもらうだけで狂喜するが、持て余すような家を買ってみたり、見栄でクルマを所持してみたり…。自炊せずにファミレスに通い、趣味はパチスロだとさ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
親類にも、子供の教育費などに苦労している割に計画的な支出という考えに欠ける人がいる。専業主婦なのに家計簿をつけていない。住宅ローンを抱え、旦那に70歳まで働いてもらわないといけないと言いつつノンキだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
住宅ローンといえば、前の職場の上司に、バブル期にあわてて持ち家を購入した人がいた。当然、高値づかみで長期ローン。でもクルマはプリウス。テレビは４Ｋ40型。それでいて後輩に飲食代を余計に払わせようとする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
計画性のない人たちは、見栄っ張りで無駄遣いするくせに、他人より得することが大好きだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それでなんとかなってきた。家計のことをあまり考えなくても、それなりに生活できた。だから、将来設計を立てるという発想が湧かない。年金があればなんとかなるだろうという気分のまま、老後を迎えることになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん、老後の費用を正確に想定することは難しい。医療や介護にどのくらい出費することになるのか。何歳まで生きるのか。だれも答えることはできない。&lt;br /&gt;
想定し得ることすべてに備えるなんてことになったら、資金はいくらあっても足りない、という思いも正しい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、だからこそ、ある程度の計画を立てることに意義が出てくる。生活費は世の中の平均ではなく、あくまでも自分にとって必要な出費を思い描いてみる。現在の生活費を把握すると同時に、節約できる部分を見極める。そこから、抑えたくない支出だって浮かび上がってくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな計画的思考を経て、万が一の出費は他人に頼るしかないとの諦めが成立する。親類縁者に頼る、保険に頼る、行政に頼る…。事態によって頼る先は違ってくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
年金も実は保険である。年金給付金は現役世代に頼ることになる。あなたが納付した年金保険料は、上の世代に使われてもう無いのである。&lt;br /&gt;
ご存じのように積立金はある。そこからの充当はある。だが制度としては、あくまでも仕送り方式なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
年金制度は、計画性のない人が最も必要とするものであろう。計画性のない人は目先の欲望をかなえるために散財しがちだ。老後資金を貯めておくことができない。だから保険料納付を法的に義務付けることによって、老後の資金を確保するよう仕向けるしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貧乏人には保険料納付はつらい。でも年金給付には国庫負担があるから、低所得者には比較的有利な制度と言える。国庫の原資は税金である。つまり、納税額が低い人の年金には、他の国民が収めた税金が充当されている。早死にしなければ、収めた保険料以上の給付金が得られるのはこのためである。&lt;br /&gt;
（ただし、少子高齢化が今より進んだ未来は、少しヤバいことになりそうだが…）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
制度のことはともかく、年金だけで老後が過ごせると思っていた人なんて、無計画な人生を歩んでいる人たちだけだろう。&lt;br /&gt;
弱者に寄り添うことを使命とするマスメディアが騒ぎ立てるのは分からないでもないが、計画性の無さによって窮地に陥る人というのは、本当に弱者と言えるのか。少なくとも生活者としては低レベルだ。そうした人たちをも救済しろとの論調は、一般の人たちを低レベルな生活者に誘導することにならないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政治にも似たような誘導がある。弱者救済は政府の義務であるが、“頼りになる国”を演出したいあまり、怠惰な人たちさえも守りますといったポーズをとりがちだ。与野党の政策合戦でも、“こちらの水の方が甘いですよ”といった競い合いになりがち。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして、国の施策に頼り、政府に甘える国民ばかりとなる。計画性の無さを反省する機会を失い、面倒なことは考えない方向に進んでいく。低い保険料で充分な給付水準を実現しろ！などと言いだす国民が増えていく。&lt;br /&gt;
もちろん理想は追求すべきだ。だがそれが無謀な要求であるならば、それを知らしめ、説得するのが政府だけでなく、マスメディアの役目だろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無計画に散財する人が増えることでＧＤＰが増えていく…とでも思っているのか、どうも国民を愚鈍にさせる機能が民主主義には備わっているような気がする。我々は、そのことに自覚的でなければならない。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/albert110713/65517706.html</link>
			<pubDate>Sun, 30 Jun 2019 00:35:55 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>韓国人気質と純化する反日</title>
			<description>岩井志麻子氏が、「岩井さんは、ご主人が韓国の方ということで、韓国人気質というものは分かっている？」と問われて放った不適切発言が興味深い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「手首を切るブスという風に考えておけば、だいたい片付くんですよ」&lt;br /&gt;
「（韓国が）『来てくれなきゃ死んじゃうから、死んだらあんたのせいだから』って言って、中国とか北朝鮮は『死ねば』と言っちゃうけど、日本は『そんなこと言うなよ、お前のこと好きなんや』 （と言ってしまう）」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
文喜相・韓国国会議長の問題発言に関する議論の中で出だものだが、所詮、バラエティー番組での問答だ。岩井氏は笑いを誘うコメントを期待される立場であり、発言の辛辣さには一定の作為があろう。韓国人との付き合いは数十年に及ぶらしいが、主に男女関係のようだから、韓国人気質を知るといっても限度がありそうだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
恋愛に限らず、人間には相性がある。あるタイプの人間を引き寄せてしまうという現象はよくある。岩井氏は、狂言じみた行為に走るくらい懸命な相手にほだされやすい。そのことが、あるタイプの人間にはぐバレる。岩井氏にとっても気おくれなく付き合える相手である――といった関係性が思い浮かぶ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とはいえ、生活を共にするとなれば、恋愛感情だけでは済まない。韓国人の生活態度や考え方に、ある程度は精通することになる。それなりに実感のこもった感想であり、一定の見識が伴っているように思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
魅力がないことを自覚するゆえ、手首を切るマネをしてでも相手を振り向かせようとする。つまり韓国人は、目的のためには手段を選ばないという意味か。ブスという言葉に“弱者意識”を仮託したのかもしれない。解釈の仕方には幅があるが、“姑息な手段を使うやっかいな相手”ぐらいの受け取り方でいいだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
興味深いのは、そんな韓国に対する近隣国の態度を述べる後段。中国や北朝鮮の人たちとは異なり、日本人は&amp;#22099;と分かっていても突き放すことができない。つまり、お人好し。そんな日本人気質を我々に突きつける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黒田福美氏の発言を思い出す。韓国人に対して同様に辛口だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
黒田氏といえば、韓国に詳しいタレントとして有名である。さまざまな交流の果てに日韓友好に尽力するまでになった人だ。当然、韓国を擁護する立場だと思っていた。なのに、文議長の発言問題を受けてのインタビューで、韓国人に手厳しい発言をしていたので驚いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「日本人の道徳観は“善悪”が基本です。しかし韓国人は“損得”が大切です。韓国人は「ゴールポストを動かす」と言われますが、おそらくそんな意識はないのだと思います。言葉の重みが日本人と違うからです。言葉は韓国人にとって相手を自分の思う通りに動かす手段なので、自分の発した言葉に責任があるという意識が薄い。もしも実現できなかったら、彼らは「理解してください」と言います」（190311日経ビジネス)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言葉は相手を思い通りに動かす手段でしかないのか。しかも責任感が希薄ですか。岩井氏の解釈と似ている。狂言を働いたあげく「あなたのせい」と言い放つ姿と通底する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３月に書いたようにクレイマーさながらだが、黒田氏は次のようにエクスキューズする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「彼らもまた、行政や親戚たちから、そのようにされて泣いてきました。だから平気で日本人に対しても、「天皇が謝罪すればおばあさんの心が安らぐ」などと言ってしまえるのです。それが本当にそうなるかどうか、自分の発した言葉に責任を取るべきという感覚はないと思います」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エクスキューズしつつ、再度、容赦のない解釈を付け加えているから、あまり擁護する気はなさそうだ。&lt;br /&gt;
そして黒田氏はインタビュー後半で、日本人の振る舞い方を指南する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「身をもって体感したからこそわかります。日韓関係の改善には、韓国社会や国際社会に対して、発信することが重要です。韓国の若者もユーチューブなどをよく見ていますし、地上波ではその意見を取り上げられない保守派が、ネット番組などを使ってどんどん発信しています。日本もネットを使うことで韓国民に対して、日本人の率直な考えや歴史的事実について、もっと活発に発信すべきだと思います」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この指南も、岩井氏が示す日本人の態度から立ち現れる教訓に通じる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
責任を取らない人の意見に振り回され過ぎてはいけないということでもあろう。&lt;br /&gt;
また、「心は、言語化されない状態が最も危険」(小谷真理2017）で、突然の暴力につながりかねないとの指摘がある通り、積極的に発信することは、日本人自身の精神衛生にも寄与する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、慰安婦問題にしても徴用工訴訟にしても、一般の日本人には当事者意識がない。戦後生まれの日本人だけでなく、存命の戦中世代にしても当時は青少年だったので、主体的な意識を持ちづらい。当時、命令を下していた人たちは死に絶えた今、全般的に他人事とならざるを得ない。&lt;br /&gt;
韓国も同じだ。今日、ほとんどの韓国人にとって、被害者意識は切実なものでない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
30年前であれば、日本では、日本軍は悪いことをしたという意識が一定の世論を形成していた。韓国では、戦前のひ弱な国力に思い致す気分があっただろう。互いに謙虚にふるまい、妥協もしやすかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、後継の世代にとっての反日や反韓は、クレーマーのように攻撃することが目的と化す。歴史的事実などおかまいなしに、難癖付けることだけを純粋に追求するようになる。これは、当事者意識が欠如していることの裏返しである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言うなれば、“純化”した姿だ。屈折した思いや、自分たちの落ち度など見たくないものは風化させ、相手を責める材料だけを残存させる。そんな自分に都合の良い純化闘争でしかないから、もたらされる結果についても責任を取るつもりがない。&lt;br /&gt;
このような状態に陥っていることに気づくことが、関係改善の第一歩のような気がする。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/albert110713/65515959.html</link>
			<pubDate>Sun, 23 Jun 2019 00:18:15 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>自分で判断する時代：再考…覚悟と諦念</title>
			<description>前回、他者の判断に身をゆだねることが性に合う人がいることで、世の中は上手く回っている――と書いた。しかし時代は、自分で判断することを求める方向へと着実に進んでいる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
裁判員にならなくてよい。公平な判定を下すのは一つの職能であり、訓練を積んだ職業裁判官に任せた方がよいと思うが、法律の制定や存廃に関する意見は持つ必要がある。立法府の代議員を決める選挙への投票権は、国民に等しく与えられている。政治的判断に関与したり評価を下す見識が求められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社会生活も判断の連続である。職業選択の自由はほぼ達成された。経済活動における自由度は増している。起業への道も資金調達の方法も多様になった。&lt;br /&gt;
移動の自由も保障されている。地縁に縛られることはない。優れた人材は国籍を問われない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
消費生活は、気ままな選択でおおむねやり過ごせるようになったが、判断力を放棄した人を陥れる罠はむしろ増えた。食品の安全性は高まったが、加工食品の多くは偏食すれば毒になる。「安全」は質を保証しない。質を犠牲した商品開発が盛んに行われている。&lt;br /&gt;
日用品は欠陥品が少なくなったが、高性能な商品はときに危険性も高い。扱いを間違えると大きな損害を被ることがある。また、宣伝力が高度化した結果、費用対効果が疑わしい商品が増えている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スマホは個人情報の固まりである。インターネットはトラブルの元になる。ＳＮＳは事件の入り口である。情報管理のための判断力も必須となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シェアリング・エコノミーという考え方が浮上し、進展中である。ある人は、“個人が主体の経済社会”と表現する。「だから自分の物差しで、リスクを排除するスキルが必要です」(石山アンジュ)180615&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、人間の組織は旧態依然のように見える。典型は軍隊で、相変わらず判断を上位の者に預ける世界である。上官の命に服すのが絶対であり、下位の隊員は考えてはいけない。それが組織を維持し、軍事力を効率よく発揮する前提である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし軍事行動においては、個人の責任を問う風潮が高まる。国際法は戦争犯罪を定義し、個人を裁く要件を整える。人道に対する罪を犯せば、たとえ命令に従った結果であっても許されない。つまり、命令に従わないという判断を世界中の隊員に認めているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
会社組織においても、上司の命令に従うのが決まりだが、法令に反する指示は拒否すべきであり、法を犯せば個人として裁かれる。また、目的を達する手段や、成果を得る方法が個人の裁量に任される職務が増えつつある。自分で判断することが求められる時代傾向と符合する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とはいえ我々は、常に孤独な戦いを強いられているわけではない。「自分で判断する」といっても、大方は常識や通説が導いてくれる。先達の教えに従う生き方は今でも有効である。考えるより真似した方が手っ取り早い事案の方が多い。一般人には、自分の価値観が問われたり、信条を明確にするよう迫られる場面は限られる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
過去に参照するものがない新しい問題や、多くの人が判断に迷う事案にしても、助言や説明を試みる人が増えた。玉石混交とはいえ、インターネットのおかげで、そうした情報が手に入りやすくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注意すべきは、最良の判断を見つけたとしても、それは現時点での最良でしかないことだ。今日の最良が明日の最良とは限らない。新たな発明や発見が、最良を一瞬のうちに最悪にすることさえある。大きな天災や事故・事件などで環境が変われば、判断の仕方も変わってくる。　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
変化の激しさが現代の特徴だ。狩猟採集の時代は長老の意見に従っていれば間違いなかったが、現代はそうはいかない。手本となる意見や見本にすべき人物は、次の瞬間、交代を余儀なくされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こんなことを言うと、諦念に陥るかもしれない。判断力を身につける努力をしても無駄、所詮 運任せ、とやる気をなくすかもしれない。あるいは、変化を察知するために神経を常に働かせるなんてうんざり、と思うかもしれない。それをこなすだけの知力も体力もない！というわけだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
開き直ることもできる。参考になるのが漫画家・今日マチ子氏の次の卓見。&lt;br /&gt;
「少女の強さは、周りや社会のことがほとんど見えてないことですよね」(170118)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社会を知る努力を放棄し、時代の変化を察知する労力を省いて、ひたすら目の前の享楽にふける。狭い地域から出ず、仲間内だけで情報を共有し、楽しくやっていればよい、との思想は最強だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そんな生活を続けていても生きる糧が得られるのなら、それでもよい。しかしほどんどの人はそんな生活を続けることはできない。環境の変化を見極め、社会と対峙していかなければ生活は成り立たない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自由とは「自分で判断しろ」ということであり、「自由気まま」には自己責任が付きまとう。「自分勝手」の行く末には大きな代償が待っている。これらはよく言われることだが、同時に世の中に絶対はないとの覚悟を持つ必要がある。この覚悟を持ってこそ、判断力が研ぎ澄まされる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この判断は絶対だ！と思うことは思考停止に陥ることである。相手によって判断を変え、状況によって判断を変え、環境の変化に合わせて判断を変える…。そのような対処能力を身に着けてこそ、判断力は完成に近づく。そのためには、世が平穏なうちに情報を収集し、他者の意見を参照し、判断材料を増やしておく必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、判断力はどんなに頑張っても完成しない。個人では森羅万象を知悉できないように、完全な判断力もない。自分の能力に照らして、どこかで妥協する必要がある。そんな諦念を得ることも判断力のひとつである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
努力の先に諦念がある。諦念によって自己認識の正確さが増す。やがて価値観が定まり、信条が明確になる。そして判断する際の迷いが消えていく。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/albert110713/65513827.html</link>
			<pubDate>Sun, 16 Jun 2019 00:22:31 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>司法を「民主化」してはならない by斎藤文男</title>
			<description>「決断するのは性格に合わず、裁判官ではなく弁護士になった」とドイツの政治家グレゴール・ギジは言う(201803glove)。…なるほど、そんな考え方もあったか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ギジ氏は、弁護士活動を経て、ドイツ統一後に政治家になった人だ。政治家には決断がつきもの、決して他人の判断に身を任せるタイプではないはずだ。ここで言う「決断する」とは、罪科を決めたり、正否の判定を下すぐらいの意味だろう。他者を裁くよりも、他者を弁護する方が性に合っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ということは、他者を裁く方が性に合う人が裁判官を目指すのだろうか。ただ、そのような自覚を持つ職業裁判官は少ないように思うがどうだろう。裁判官の知人がいれば尋ねてみたいが、あいにくいない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
思想信条が明確な人はいる。自分の価値観に絶対的な自信を持つ人はいる。そうした人たちは、使命であるかのように他者を裁くだろう。実際、しばしば他者を断罪する。反対に他者を称賛するときも手放しだ。その判断は揺るぎない。&lt;br /&gt;
しかし、そうした人たちが、公平な判断が求められる裁判官を目指すとは思えない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自分の判断を広めたり、従う人間を増やすことが好きな人はいる。裁判官が性に合っているように見える。しかしこの性格も、裁判官になる意志に直結しない。裁判官は、判定を下す立場であると同時に、自身も公平なジャッジをしているかどうかを世間に判定される立場でもあるからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
欧米の裁判では、一般市民が審理に参加する。特にアメリカの陪審制では、陪審員となった一般市民だけで審理が行われる。職業裁判官は、有罪と評決された被告の量刑を決めるだけである。ここで期待される裁判官の職能とは、過去の判例を参照しながら、罪状に見合う量刑を導き出すことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日本でも十年前に、無作為に選出された一般市民が審理に参加する裁判員制度が始まった。量刑も裁判官と合議で決める。対象となるのは刑事裁判の一部に限られ、二審は裁判官だけの審理になるが、一部とはいえ市民感覚を裁判に反映させることが可能になった。他者を裁く権限は裁判官が独占するものではなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
裁判員制度の運用上の問題として、栽培員を辞退する人の増加が挙げられる。今や、三分の二が辞退を申し出るという。無断欠席者もかなりいるようだ。世論調査では約８割が「審理に参加したくない」と答える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ほとんどの市民は「判断する自信がない」のである。他者を裁くことが性に合う人というのは、一般市民の間では異質な存在と言ってよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
日常生活でも、独自に判断して行動する人というのは少数派ではないか。&lt;br /&gt;
２月に新聞で見た投稿には笑った。&lt;br /&gt;
＜会社の先輩は長女。上手に仕事を教えるのに、他人に指示されるとイラっとするらしい。次女の私は、指示されると安心する。履歴書にきょうだい構成の記入欄があればいいのに、と思います＞&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
他者の判断に身をゆだねることが性に合う人がいることで、世の中は上手く回っている。&lt;br /&gt;
人に任せて文句を言うだけの受け身な有権者が多数いることで、政治的混乱は抑制される。&lt;br /&gt;
他者の願いをかなえたり、施しを与えることに愉悦を覚える人いてこそ人間関係が育まれる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「判断できない」とか「主体性がない」と非難するのは簡単だが、人間集団の形成には、そのような人たちが不可欠である。社会を成り立たせるための役割分担とさえ言える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
裁判員制度は司法を民主的なものにする。しかし、裁判官が性に合わない法律家がいるように、一般市民すべてに公平な判断を下す立場を求めるのは無理がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
司法を「民主化」してはならないと主張する学者がいます。&lt;br /&gt;
＜裁判員制度は国民の司法参加によって、司法を法の支配ではなく、多数の支配のための機関に変えてしまいました。これでは、三権がいずれも多数支配の原理によって運用されることになり、権力の抑制・均衡が働く余地がありません＞（斎藤文男『ポピュリズムと司法の役割』）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
判断を下す自信がない一般市民が裁判員になったとき、頼るのは世相です。世の中の多数派が納得するような判定を下すしかない。いきおい情緒に流されることが増える。情緒こそ市民感覚のもっともたるものだからだ。裁判員制度を導入する意図と矛盾しないが、多数派による断罪となる恐れは強い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もちろん職業裁判官の判断にも世相が反映される。市民感覚を無視するようでは裁判官失格である。法律が改正されるように、判例も時代と共に変容してよい。ただし、より正義に近づくよう変容する必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
裁判官は、永続性のある正義に基づき公平な判断をする義務がある。その上で、己の名誉にかけて判決を下す。それでこそ、裁判官としての地位が約束される。&lt;br /&gt;
そんな覚悟は裁判員にはないだろうから、自分の判断が将来あるいは二審で覆されても傷つくことはない。裁判官と違って、永遠に匿名の判事のままでいられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アメリカの陪審だって問題を抱える。以前、有名なプロスポーツ選手の犯罪審理で、刑事と民事の評決が異なることがあった。一方で有罪、片や無罪。なぜ逆転したか。弁護士の力量ということらしい。陪審員は自分の心情に重きを置いて判断するから、いかに彼らの情緒に訴えるかが勝負となる。事実よりもプレゼン力！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間の判断から情緒を排除しろと言っても無理だ。裁判官だって人の子、一般市民に劣らず情緒が判定に影響する。日本の民事では“公序良俗”というあいまいな概念で判定されることがあるし、“社会通念”なんて言葉も多用される。それでもなお、裁判官は冷静さを失わず、ときには多数派に対峙する覚悟で、時間の経過に耐えうる判決を下そうと努力する職業意識を持つ、と思いたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
司法を「民主化」してはならないとの意見に、私は賛同する。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/albert110713/65511468.html</link>
			<pubDate>Sun, 09 Jun 2019 00:36:14 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>増税再々延期？…人は集団になると間違える</title>
			<description>消費税の増税を再々延期するのではないかとの憶測が流れる。政治部の記者たちが描くシナリオは、安倍首相が再々延期の是非を国民に問うとして衆議院を解散し、７月に衆参同日選挙を行うというもの。&lt;br /&gt;
記者たちは、まるで延期を煽るかのように、首相や官房長官に、予定通り増税するのかと再三尋ねる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記者たちの思いは分からないでもない。政府は、リーマンショック級の事態が起こらない限り再延期はないとの約束をあっさり反故にしている。「新しい判断」だと称し、国政選挙で国民に判断を仰げば公約違反も許されるとの理屈だった。二度あることは三度あるである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
民主主義を絶対視するならば増税はなしだ。増税を喜ぶ国民なんていない。野党もそれを知るから、我が党こそ国民の味方だとばかりに、こぞって「増税したら大変なことになる」などと主張する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
政府は今回、増税後の消費減退を緩和すべく、さまざまな対策を準備している。食料品に対する軽減税率導入だけでなく、商品購入代金の２％分をポイント還元するだの、商品券を配るだの、住宅ローン減税を拡充するだの…。経過措置もたくさんあり、行政経費の増大が心配になるほどだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
増収分の使い道もすでに決まっている。社会保障の充実に使うのは前回同様だが、今回は保育費や高等教育の無償化が加わる。恩恵を受ける国民は少ないが、金額は大きい。いきおい、財政赤字を減らすという本来の目的から遠ざかる。&lt;br /&gt;
軽減税率によって当初の見込み額から１兆円程度減ることを考え合わせると、心もとない増収効果である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
なんか、計画性のない家計を見ているようだ。浪費癖のある家人は、後先考えずに、金を使ってしまう。おかげで収支は赤字だが、そんなことも忘れ、収入が増える見込みの段階で、早々に新たな使い道を考え始める。初めてこずかいをもらう小学生じゃあるまいし、自制心というものがまるでない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
増税延期となれば、滑稽さはさらに増す。商品やサービスを物色し、購入を通知し、支払いを約し、後戻りできなくなったところで収入が消える！　小学生なら泣いて許されるかもしれないが、そうはいかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
支出への執着あるいは無駄遣いは、民主国家の宿痾かもしれない。人間集団特有の問題でもあろう。人はしばしば、集団となった途端に幼稚で無責任になる。恥ずべき幼稚な振る舞いも、みんなといっしょだと臆することがない。集団の一員としてなら無責任な行動も平気になる。不良少年はたいてい集団で悪さをする。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜赤信号　みんなで渡れば怖くない＞である。赤字に鈍感になった国民は、財政の赤信号を無視して、遠慮なく集団使い込みに走る。みんなのお金となった税収に、オレもわずかだが拠出したとの言い分を掲げ、寄ってたかって食らいつく。他の納税者に対する感謝はなく、使う権利ばかりを主張することになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところで税金の使い道となると、なぜだか“政府に要求する”という構図ばかりが強調されるが、とても違和感がある。たしかに政府は予算を差配する権限を持っている。しかし国家予算を決めるのは国会だ。国会議員は国民の代表であり、国民の意向を忖度して議事に反映させる役割を担う。つまり税金を使いたければ、本来は国民の理解を得ることの方が大事だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
たとえば著名な学者たちが、基礎研究に予算を投じるよう訴えている。しかし、実需に結びつくかどうか分からない基礎研究なんて、借金大国が無理してやることではないと、国民の大半から言われれば引き下がるべきだ。&lt;br /&gt;
芸術分野への助成も同じ。&lt;br /&gt;
日本人がノーベル賞を受賞したり国際映画祭で優秀賞を獲得するのは誇らしいが、受賞は助成の目的ではない。&lt;br /&gt;
納税者に対する認識に欠けるから、国の助成＝国のおかげのようなすり替わりが起きる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国のおかげなどとは口が裂けても言わない是枝祐和監督の認識も似たようなものだ。&lt;br /&gt;
昨年、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した『万引き家族』に対し、ネット投稿者などから「文化庁の補助金を受けていながら日本の恥部を描く反日映画を作った」との非難があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対する是枝監督の主張は明快である。「補助金をもらって政府を批判するのは真っ当な態度なんだ」という価値観を定着させたいとし、「公金を入れると公権力に従わなければならない、ということになったら、文化は死にます」と訴える。(180625)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は是枝監督に賛同するが、この主張も、国民の大半から否定されれば「死にます」。補助金の原資が税金である以上、文化に公金を投じることの是非も国民の意向を無視できない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもまぁ、なんだなぁ～、国民の意向を尊重しすぎたばかりに、日本は借金超大国をなってしまったわけで…。「原資は税金である」と書いたが、日本はこの論拠を失いつつある。&lt;br /&gt;
近い将来、国民に問うまでもなく、基礎研究や文化に公金を投じる原資がありませ～んとなりそうだ。&lt;br /&gt;
すでに、労働力を確保しないと経済が維持できない、あるいは子育て環境を改善して出生率を高めないと国家の存続があやぶまれるといった危機感が漂う。&lt;br /&gt;
戦争論を唱える人たちも危機感を持つべきだ。借金超大国のままでは、戦費がありませ～んとなりかねない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところがどっこい、海の向こうからヘンテコな経済理論が舞い込む。現代金融理論（ＭＭＴ）と称し、「インフレを招かない限り、財政赤字は心配ない」と説く。アメリカの経済学者の間で一つの勢力になっており、なんと、その実例として日本の財政が挙げられているそうだ。&lt;br /&gt;
これには積極財政論者のポール・クルーグマンもビックリ。ＩＭＦが否定し、主流の学説にはなりそうもないが、財政赤字の擁護に使われかねないし、危機感を緩和させる効果がある。いやはや恐ろしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人間は集団になると経済政策でも間違える。このことを理路整然と説く経済学者が増えてほしいものだ。広く集めた金を集団で使うとなると、途端に幼稚さが露出し無責任がはびこる。そうした実例は古今東西いくらでもあるではないか。&lt;br /&gt;
借金による積極財政も超低金利政策も、一時しのぎのカンフル剤でしかない。カンフル剤は常用によって耐性がつき、麻薬と化す。身体がボロボロになろうとも、麻薬は死ぬまでやめられない。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/albert110713/65508475.html</link>
			<pubDate>Sat, 01 Jun 2019 23:47:34 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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			<title>分断の世紀：再考…みんなといっしょに破滅したい</title>
			<description>その昔、ある友人が、趣味の仲間づくりに精を出していた。友が友を呼び十数人の規模となった。異性関係にも期待が持てたが、彼はモテない。その腹いせに始めたのが、“同性の仲間を引きずり下ろす”だった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大衆は“みんなといっしょ”が好きだ。“我々”という意識を重視し、“私”というこだわりを嫌う。ただし、平等を求めているわけではない。むしろリーダーを欲し、序列を作りだがる。リーダーがいてこそ集団が形成され、序列を守ってこそ集団が維持されると考える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
“みんなといっしょ”のためならば、喜んで上位者の指示に従う。同じ方向に進むためならば、進んで関心を一致させ、主流とされる判断に身を任せる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
古来、“みんなといっしょ”志向は、生き延びるための有力な資質だったに違いない。&lt;br /&gt;
現代は生き延びるのが容易になったが、人々は相変わらずこの資質を引き継ぐ。今でも統率された集団は、生産活動などで有用である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
精神面での効用もある。大方の人間は孤独に耐えられない。“みんなといっしょ”だと、わけもなく安心する。心理学でも指摘されるとおり、同じ悩みを持つ人の存在を知るだけで、悩みは軽減される。同じ苦労を抱えている人が身近にいるだけで、苦労への耐性は高まる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、喜びは共有してこそ倍加する。怒りなどの負の感情も、共有することで正当なものとなる。特に女性は“共感”を求めてやまない。自己実現を生きる糧にする人は、今でも少数派である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
“みんな”の範囲は少し注意が必要だ。「人類みな兄弟」みたいな意識は、日常的ではない。凡人が実感する“みんな”の範囲は狭い。家族の結束が保たれることにしか関心を示さない人がいる。仲間に後れを取っていない程度のことで満足する若者がいる。小さな集団の中で、価値観を一致させることを目指し、共通体験を重ねる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして利益の分配は公平に！である。長幼や優劣の序列を感じつつも、同類・同質として得られるべき利益に格差があってはならない。仲間の間で差別はいけない、と考える。ただ、ときおり、自分勝手な序列意識を持ち込んでしまう人がいる。「自分がモテないのはおかしい！」などと言いだす。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
…容姿の序列でオレは上位にいるのだから、本来ならモテるはずだ。モテないのは理不尽だ。不当な立場に追いやられている。ならば仲間を引きずり下ろすまでだ。悪口を言いふらすなどは、いやらしい行いかもしれないが、正常な序列に戻すためだ。正しい情報を広めるためだ。正当な行いだ！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、大衆の時代を向かえ、“みんな”の範囲は広がりつつある。現代人は国民意識を日常的に持つようになった。嫉妬などの強い感情が沸き起こる範囲は狭いままかもしれないが、国は国民格差をなくす努力をすべき！との思いは共有され、大衆の正当な主張となった。&lt;br /&gt;
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しかし、有能な人が存分に能力を発揮できる環境を作ることも国の仕事だ。研究開発予算は、効率よく仕事ができる人、忍耐強く努力できる人などに投じたい。外国から富を国内に持ってくる人たちを優遇したい。所得再配分は重要だが、そればかりでは国力が衰退していく。&lt;br /&gt;
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能力差があることは、庶民もよく分かっていたから、以前はそのような施策に不平を言わなかった。おかげで高度経済成長が実現した。凡人とは、低い能力と少しの努力しかできない人のこと、などと言われても、かつてなら、ほとんどの庶民が受け入れた。&lt;br /&gt;
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今日、先進国では経済成長力が衰え、福祉の充実が停滞。所得再配分しようにも原資が限られる。にもかかわらず、国民の中には富を増やし続ける人たちがいる。“みんなといっしょ”が崩れていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大衆は、移民排斥や貿易戦争が、庶民の生活に悪影響を与えるのを承知で賛成する。その真意は、自らの身を切ってでもエリートたちを引きずり下ろす！にある。自分の経済の一部を犠牲にしてでも混乱を引き起こし、富裕層たちに危機感を覚えさせたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
庶民は甘やかされることで大衆となった。民主主義の名の下、能力差による経済格差を認めなくなった。少なくとも格差が縮まることが正当な民主主義だと考えるようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エリートたちは、こうした大衆をなだめ、なんとか説得しようとする。しかしその説得が論理的であればあるほど、大衆は心を閉ざす。エリートたちに疑い持つからというより、大衆は論理そのものが嫌いなのだ。&lt;br /&gt;
そういえば、「倫理的でないトランプ氏と議論しても勝てっこありません」と嘆息する識者がいたっけ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
エリートたちは大衆の劣等感に鈍感だ。論理が理解できないという不安、みじめさ、あるいは恐怖…。&lt;br /&gt;
義務教育で机を並べていた頃、エリートたちは先生に盛んに質問していた。一方、劣等生たちは理解できない自分を恥じ入り、将来に不安を抱く。長じても社会生活に一定の恐怖を感じている。だまされているとの被害妄想にも陥りやすい。そうした不安や恐怖をまぎらわすためにも、“みんなといっしょ”志向に走る必要がある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
多様性なんてのも、大衆にとって価値はない。同類・同質の仲間と共感しあうことが至上の喜びなのである。確かに外国人と仲良くなれる庶民はたくさんいるが、彼らは相手の人間性をしっかり見ている。同類・同質であると見極めた上で受け入れている。&lt;br /&gt;
“みんなといっしょ”志向とは、一つにまとまることであり、多様性の否定とも解釈できます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうした大衆の心理を理解しているエリートも、中にはいるに違いない。そこに悪意がある事を…。みんなで破滅するならそれでもいいという集団破滅思想を持つことを…。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも、こうした大衆現象は、次の言葉が正しければ、今に始まったことではない。&lt;br /&gt;
「近代史が、かつて興味を引かないように見えていた集団による、侮蔑あるいは無視に対する一連の反逆として展開されていることは、ほとんど見紛う余地がなかろう」(ペーター・スローターダイク『大衆の侮蔑』)</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/albert110713/65505029.html</link>
			<pubDate>Sun, 26 May 2019 01:32:08 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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