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短足おじさんのブログで、福島さん逝去のことを知りました。
「一台のリヤカーが立ち向かう」と言う中川五郎さんの歌を聴く度に
いつもこの写真家のことを思っていました。 一人でも権力に立ち向かわれる姿に、勇気を得ていました。 追悼の思いを込めて、3年前の記事を再掲載致します。 「時代」を超える力を持つモノクロ写真。写されたのは“現代”の日常のひとコマ。勘違いしてしまいそうですが、 これは「戦後」の写真です。 家の本棚にあったこの写真を見て初めて、私はこれを撮影した写真家のことを知りました。そしてその方が現役で今も、写真家としての生き方を貫いておられることを、このドキュメンタリーによって知りました。 1921年生まれ、91歳。福島の被災地とも、福島菊次郎さんは写真家として向き合いました。本作は、これまで福島さんが歩んでこられたカメラマンとしての人生を、被写体に向き合った時代と、撮影に向かわせた動機とを福島さん自身が語りながら、その足跡を辿るものです。 山口県下松市生まれ。戦後、民生委員などの活動を通して作家活動を始め、広島に投下された原爆被災者の10年におよぶ困窮生活を活写した作品『ピカドン ある原爆被災者の記録』が、日本写真評論家賞特別賞を受賞(1960年)。この年、離婚して子どもを連れ上京しプロ写真家となる。 原爆、政治・軍事問題、学生運動、公害・福祉問題などをライフワークとし、「ピカドン」などの個展を開き12冊の写真集を出版。中近東、アラブ、ソビエト連邦などに長期にわたる取材もこなした。(wikipediaより) 戦後日本を見つめ続けてきた報道写真家・福島菊次郎の2009年から11年の3年間に密着したドキュメンタリー。彼の写真家としての生き方を決定付けたのは、広島で原爆症に苦しむ中村杉松さんとの出会いでした。 その時の衝撃から暫く、写真が撮れなくなった福島さんでしたが、中村さんからの「ワシの仇を討って欲しい」という願いに応え、中村さんとそのご家族を11年間撮り続けます。中村さんの瞳の中に燃える冷えた炎。その怒りの激しさを冷静な福島さんのカメラは、的確に伝えていました。 それ以降も、三里塚闘争、東大安田講堂、70年安保、あさま山荘事件、水俣、祝島など時代を象徴する数々の事件を25万枚以上の写真に収めてきました。常にあったのは「反権力」の強い信念。 同じく信念を持って闘う人々の姿を福島さんは撮り続けました。 60年代後半には、自衛隊と兵器産業の現場を取材します。事前に記事を見せると言う約束を破り、軍備の拡張を批判するキャンペーンを雑誌で展開した福島さんに、「騙したな」と、記事の撤回を要求した当時の防衛庁。それに対して福島さんは言います、「ウソを言って撮影したのは詫びるが、そっちこそ大ウソで国民を騙していないか」。 それから程なくして福島さんは路上で暴漢に襲われます。直後に不審火で自宅は全焼。それでも、福島さんはシャッターを押し続けました。 印象に残っているのは、過去を振り返りながら、この時、燃える家の中から、撮影された写真のフィルムを持ち出してくれた長女に心から感謝の意を述べておられたところ。 そして「この国を攻撃しながら、この国から保護を受けることは出来ない」と年金受給を拒否。子からの援助も断り、自らの原稿料だけで生計を立てている生き方でした。 この気骨のある生き方。数を頼み、目に見える敵を作って攻撃し、権力を笠に力で抵抗者をねじ伏せて行く大阪市長のやり方に、本当に闘うとは福島さんのような生き方を言うのだと、見せ付けたい気持ちになりました。 また、「日本人の誇り」を取り戻させねばと息巻く前東京都知事や現自民党総裁らにも、「日本人としての誇り」はみんなが共通して持つものではなく、各人がそれぞれに感じるものであり、私は福島さんのような生き方こそ、 日本人としての誇りだと思いました。 生涯「反権力」を貫き、多分最後の仕事として「国のウソを暴くため」に被災地福島に向われた福島菊次郎さんの信念に、心から敬意を表します。 「てめえは生きながらえて、仕事も評価されて・・・」。戦争に無批判で加わったこと、そして生き残ったことへの罪悪感、それが「償い」として、福島さんを反権力に向わせたのです。 福島さんには「ひろしま」と「ふくしま」が重なって見えると言います。過去を見つめなおさなければ、前には進めません、福島さんは自分の思いを文に綴り、後の世に残したいと思っています。 福島菊次郎さん、有難うございました。 |

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