“わが谷は緑なりき”〜私の映画ノート

原発のない、戦争のない世界に。そして「縮小社会」に向かう覚悟を。

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序盤情勢 改憲勢力、3分の2うかがう 与党は改選過半数の勢い」。
新聞各紙が一面トップでそう伝えたのは6月23日のこと。2014年の衆院選の時も、選挙戦が始まって早々に「与党優勢」の見出しが使われました。

イメージ操作でもあり、でも半分は「現実」を伝えているとも思います。

熊本選挙区には、市民・野党統一候補あべ広美さんと自民党・松村祥史さん、他二人が立候補しています。
松村さんは3期目を目指しての立候補ですが、私はその人が国会でこれまでの6年間何をして来たのかも、選挙選での演説も聞いたことがありません。その人が、県内の40ほどの団体の支持受けて、非常に優勢に選挙戦を進めていると数日前の新聞は伝えていました。

あべ広美さんの後援会が出来て半年余り、県内には多くの支持組織が出来、私も自分にできる活動を続けてきましたが、自民がこれまで作って来た「利益誘導型」選挙の形を変えることの難しさをひしひしと感じています。

しかし、先週土曜日、共産党志位委員長が来熊された時の写真から伝わる熱気には、希望が感じられました。まだ投票先を決めていない無党派層が約3割。残された選挙戦で、どれ程そう言う方々へ「今の政治を自分たちの力で変えなければ」という思いが伝えられるか、そこにかかっています。


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…雨ばかりの九州地方、心まで曇りがち。
それでも、激しい雨の中、あべ広美さんを支援する市民たちは、連日スタンディングや電話かけで
応援を続けています。

月夜のバス

バス通勤をしながら自宅から徒歩も含めると1時間ほどかかる仕事場で働いていた時のこと。

通常より遅く仕事場を出たその日、帰宅のためにバスに乗った時刻は夜の7時を回っていました。
過疎地の交通機関。夜にそのバスを利用する人はほとんどなく、まだ降車バス停まで30分近くを残したところで、車内は運転士さんと私だけの空間になっていました。

すると50代と思しき運転士さんが「お客さん、どちらまで行かれますか」と問われます。「○○町中央です」と答えると、「どうせ乗って来る人もなかでしょうけん、前の席に来ならんですか」と。その言葉に応えて運転士さんの横の席へ。

更に運転士さんは「家はバス停の近くですか」と聞かれます。「△△商店です」というと、「じゃあ、H夫さんとM子さんの娘さんですか…」。「そうです」の答えに、運転士さんはとても懐かしげな声で、「この仕事に代わるまで、私は◇◇醸造所で働きよったとですよ。だから、よう○○商店にも商品を届けよりました」。

その後運転士さんは、両親が若かった頃の話や、○○商店で働いていた人たちの話をたくさんして下さいました。優しい表情と温かな声、癒される思いで30分の夜のバス内での会話を楽しみました。○○町中央のバス停に近づくと、運転士さんは、バス停ではなく、私の家のすぐ横にバスを止めて下さいました。

深くお礼を言ってバスを降りると、私はすぐに家に入って母にこの運転士さんのことを話しました。
母は「そうね…。□□しゃんよ。良か人だったもんね」

その後何度も乗った同じバス路線。同じ運転士さんに出会うことは二度とありませんでした。

今よりもう少し元気が残っていたひと月ほど前、庭の草取りをしていると、突然あの優しい時代の温かな空気が私を包みました。
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人吉市の夕景(借り物ですが)


コントラクト・キラー

コントラクトキラー」とは<雇われ殺し屋>のことのよう。初めは何のことか分からず見ていましたが、物語の進行と共にそう言うことかと理解できました。

悲劇的な出来事が静かに進行、しかし監督独特のユーモアと、無表情の役者達が見せる不思議な「安定感」が物語を「喜劇」にしてしまう、特別な雰囲気を持ったフィンランドカウリスマキ監督作品。
本作も、その特徴が最初から最後まで生きた、まろやかなストーリーでした。

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1990年、フィンランド・スウェーデン映画。監督・脚本・編集・製作:アキ・カウリスマキ、原案:ペーター・フォン・バック、撮影:ティモ・サルミネン、音楽:ティモ・リンナサロ。出演:ジャン=ピエール・レオ、マージ・クラーク、ケネス・コリー、セルジュ・レジアニ。


独り身のフランス人のアンリ(ジャン・ピエール・レオ)はある日突然、15年勤めてきた水道局をクビになります。退職金も無く、呆然自失のまま自宅に戻ったアンリ。絶望感に陥り、彼は自殺を決意。色々な手段を講じますがどれも失敗。

翌日偶々立ち寄ったカフェで見つけた新聞の記事.。「必殺の実績を誇る殺し屋、コントラクトキラー」の存在を知った彼は、早速ある依頼をしに、ボスのいるところへ出向きます。そこで彼が願い出たことに、ボスは困惑。しかし、依頼は依頼、ボスは承諾します。

その依頼によって恐怖を味わい続けることになるアンリ。そんな日々の中で出会った美しい花売り娘マーガレット(マージ・クラーク)。彼はすぐに恋に落ちます。それと共に一気に消え去った「自殺願望」。しかし、彼がコントラクトキラー結んだとんでもない「契約」は彼を益々追い詰めることになって行きます。そして…




登場人物のほとんどにとって「母語」ではない英語で綴られた作品。その発音の弱々しさ、単調さが、余計にこの物語の悲劇性を薄める働きをしている気がしました。
主人公アンリ(ジャン・ピエール・レオ)のオープニングからラストまでの無表情が、鑑賞者の感情の起伏を抑え、本作の流れの面白さの最重要ポイントだったことを最後に気付かせます。
随所に盛り込まれたユーモア、笑いどころも満載。弱った体には、効果抜群の作品でした。




―――少し前に夫が、部位は違っても同病の友人から、「自分はこれだけで体調維持できているから、使ってみて」と言われてもらってきた「薬」のようなものがありました。でも私には私なりの病気との向き合い方があり、またその「薬剤」のようなものが発する匂いが強烈なこともあって、使用はしませんでした。しかし、余りに急激な体調悪化に、何かが歯止めになればと考え、飲み始めました。

その匂いに激しく反応した息子。そんなものを飲むより、何でもいいから、とにかく笑うこと。そっちの方がどんなにいいか。…納得の言葉でした。そんなころに見た、私を心地よく笑わせてくれた映画。忘れられない作品になりそうです。

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山本裁判長、3月に続いて、実に的確な判断をして下さいました。
経済優先ではなく「人格権」を重んじた「司法」判断、当然の結果だと思います。
この流れが、安易な再稼働を認めない動きに繋がっていく事を願っています。

再稼働認めず 関電申し立て却下 大津地裁 毎日新聞6/17

関西電力高浜原発3、4号機(福井県高浜町)の運転差し止めを命じた仮処分決定について大津地裁は17日、関電による執行停止の申し立てを却下した。山本善彦裁判長は「決定を取り消す明らかな事情がない」と理由を述べた。少なくとも、関電が決定取り消しを求めて申し立てた保全異議の審理(異議審)が終わるまで、再稼働は不可能になった。
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異議審は5月10日の第1回審尋で法廷審理が終わり、6月10日に関電と住民の双方が追加書面を出し主張を終えた。地裁は今夏にも結論を出すとみられる。今回と同様、山本裁判長が担当しており、決定が取り消されない可能性が高まった。

山本裁判長は、自らが判断した今年3月の仮処分決定時と同様に、「(関電が)安全性に欠ける点のないことの立証を尽くさなければ、欠ける点のあることが推認される」と指摘。「(東京電力)福島第1原発事故の原因究明が完遂したと認めることはできず、新規制基準に従って許可を受けたことで安全性が確保されたとはみられない」とも言及した。

運転差し止めの仮処分は滋賀県の住民29人が申し立て、大津地裁の山本裁判長が3月9日、訴えを認めて全国で初めて稼働中の原発を停止させた。地裁は、新規制基準に疑義があり避難計画も不備だとし、「人格権が侵害される恐れが高いのに、安全性の説明が尽くされていない」と指摘した。

関電は同14日、仮処分決定の取り消しを求める保全異議と、異議審の結論が出るまでの仮処分の執行停止を申し立てていた。

関電は「申し立てが認められず、誠に遺憾だ。(異議審で)早期に仮処分命令を取り消していただきたい」とコメントした。


<高浜原発>核燃料棒取り出しへ 運転停止長期化と判断

毎日新聞 6月17日(金)
 高浜原発3、4号機の稼働を認めない大津地裁の判断を受けて関電は、3、4号機に装着しているウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料を含めた全ての核燃料棒(各157体)を、近く原子炉格納容器から取り出すことを決めた。隣接する核燃料プールに移す。停止期間が長期化すると判断した。

「子育て」や「育児」と言う葉にはやや抵抗があり、なるべく使うことを避けてきました。
なぜなら、4人の子どもたちと過ごす中で、親や大人が子どもを育てるのではなく、
環境の中で子どもたちは自力で育って行くものだと考えるようになったからです。

2週間ほど前に読んだ「折々のことば」の中に、その思いを簡潔に書かれた文章があり、とても納得しました。



教育はもつとも実験室化してはならぬものでありながら、
もつとも実験室化しやすいもの」 福田恆存

ゆとり教育との決別を、との声が喧(かまびす)しい。けれども、人は造られるのではなく育つもの。人は造り変えられるという「妄想」を、劇作家・評論家は「教育・その本質」(1957年)で強く警(いまし)める。人を造り変えるどころか育てることすら十分にはできないもの。それより、子どもがそこに居れば勝手に育つ、そのような場所をどう用意しておくかが、大人の責務ではないのか。(「折々のことば鷲田清一 6/2朝日新聞より)

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