“わが谷は緑なりき”〜私の映画ノート

原発のない、戦争のない世界に。そして「縮小社会」に向かう覚悟を。

ドキュメンタリー

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本作を制作された監督のインタビューをもとに、映画のご紹介をします(週刊金曜日2/26号)。
今の日本がこの映画から学ぶものは多いと思います。

訴訟・メディア操作…Dole社からの圧力を描く『バナナの逆襲
フレデリック・ゲルテン監督に聞く

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米国ドール・フードは、米国内で禁止されたDBCPと言う農薬を中米ニカラグアのバナナ農園で散布し続けた。その結果、無精子症など、労働者たちに大きな被害が出た。
スウェーデンのドキュメンタリー映画作家フレデリック・ゲルテン監督は、ニカラグアのバナナ農園労働者たちがドールを訴えた映画を作った。だがドールは、その上映阻止のために訴訟を起こし、強力なメディア操作などで攻撃をして来た。監督は、その顛末を新たな作品に仕立て上げた。この2作が『バナナの逆襲』というタイトルでまとめられて公開される。

―――正しいと分かっていた
第二話のバナナ農園シーンで流れるのはニカラグアのラウール・ソマリーバ・ゴンザレスが歌った「鉈を研ぎながら」。「撮影監督フランク・ピーネーダが昔、ニカラグアバナナ農園を撮った短編があり、その中で流れた歌なんです。仕事はつらく、儲けは他人に行ってしまうという歌詞。気に入ったので私もこの歌を使いました。映画全体を物語っている歌です」
ドールは50年代末、既にDBCPの危険性を知っていた。だがフィリピンの日本向けバナナ農園では、90年代までこの農薬を使い続けた。

―――大企業は今力を持ち過ぎています
「市民がコントロールすべき政府が力を取り戻すべきですが、スウェーデンでも大企業と政府は仲がいい。さらに近年はネットの普及と不況のため、ジャーナリストの仕事が減っています。政府を批判する自由な報道にとって、これは危険な状況です。でもスウェーデンにはまだ独立したメディアがあります。民主主義には情報を批判的に捉える活動的な市民と、独立したジャーナリストが必要です。

「自由な報道は、社会の不都合な部分を見つける手助けになります。例えば、ジャーナリストが原発に対する津波の危険性を本当にきちんと指摘していたら、福島の状況は変わっていたかもしれない」

―――ドールにはモラルが無かった
でも、裁判はモラルを扱う場ではなく、事実を明らかにする場に過ぎません。結局、私にとって、この裁判での勝敗は問題ではなかったのです。何故なら、私は社会的正義が米国の法廷でつくられるとは思っていないからです。社会的正義は、人々の奮闘と団結から生まれるものなんです」

今、民主主義が揺らぐ日本。大企業の専横と、それに屈しない人々を描いた『バナナの逆襲』から学ぶことは多い。
福島在住の、私の息子たちの年齢に近いdatechibuさんの記事をコピーさせて頂きました。
お近くの方で、時間の許す方、福島のことをもっと考えたいと思う方は是非、お出かけください。


「吾妻山の種蒔きウサギと、かけてんだべがな・・・?時間こさって、観さいぐべ」
(吾妻山の種蒔きウサギと、かけてのかな・・・?時間作って、観にいこう) 

 映画「種まきうさぎ フクシマに向き合う青春」。震災後に神戸で知り合った南相馬在住の映画好きな友人や、拙ブログにお越し下さる宮城のしゃんしゃんさんなどがら紹介いただいた映画です。

 正直、福島のことを「フクシマ」と書くこと・呼ぶことは苦手なのですが、出来るだけ広めて欲しい・・・と複数から案内いただいたので、宣伝効果は薄いと思いますが、紹介いたします。

 ・フォーラム福島 10/24(土)〜10/30(金)
 ・ポレポレ東中野10/24(土)〜11/13(金)
 ・ほか、決まり次第

「選挙」想田和弘監督

以前からずっと見たいと思っていたドキュメンタリー作品(想田和弘監督)に漸く出会えました。

2005年秋に行われた川崎市議会議員補欠選挙で、自民党公認で出馬した山内和彦氏に密着したドキュメンタリーです。音楽、ナレーション無し、状況解説の字幕も無し。

「僕は自らのドキュメンタリー映画を『観察映画』と呼んでいる。あらかじめテーマやメッセージを決めて「先に結論ありき」で作るのではなく、目の前の現実をよく観てよく耳を傾け、その結果『発見』たことを映画にすることをモットーにしている」。そう言う監督の言葉通りの映画でした。

ただただ、「主人公」山内さんが、選挙に立候補してどういう選挙戦を展開してきたがが、2時間ずっと流され続けただけの作品。それ故の「臨場感」はありました。


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2006年。監督:想田和弘。登場した人々:山内和彦(川崎市議会補欠選挙・自民党公認候補)、山内さゆり(山内和彦の妻)、石原伸晃、荻原健司、川口順子、小泉純一郎 (参院神奈川補欠選挙の川口順子候補者応援の「ついで」に訪れる)、橋本聖子、地元の自民市議県議ら、川崎市の皆さん、自民党川崎支連の皆さん、各後援会の皆さん、東大同窓生の皆さん、補選の候補者(民主党・神奈川ネットワーク運動、共産党)。
 
川崎市議補選に「公募」により、立候補することになった東京で切手・コイン商を営む山内さんが、縁もゆかりもない土地で如何に自民党公認候補として戦っていくかが、淡々と映し出されて行きます。

そこに見られるのは「日本の政治を支配してきた自民党が“政治の素人”を“公認候補”に仕立て上げていく、選挙戦の過程」。監督・製作・撮影・録音・編集を1人でこなした想田監督は、山内氏の東大同級生。

選挙活動は「体育会系」的と吐露する山内さん。上下関係あり、縁を作り、それを広げ、粗相のないような「型通り」の挨拶の繰り返し。とにかく名前を覚えてもらうために、様々な場所で「平身低頭」。妻も同様。先輩議員から「妻ではなく、『家内』と言うのが慣例」と教えられる場面も。女性の位置づけの差別性を感じました。


〜監督の想い〜
選挙とは間接民主制の基礎部分を支える極めて重要な制度。もし選挙の制度やプロセスそのものに不備があり不健全であるならば、その土台の上に立つ民主主義も健全であるはずがない

現実には山内さんは選挙を熟知したスタッフにあれこれと指示される側。「組織のリーダー」であるどころか、大会社に入ったばかりの新米社員のごとき存在に見える。実際、山内さんはお辞儀の角度やタイミングなどについてまで、事細かに「指導」を受けたりもしている。僕の目には、選挙運動のやり方や方針、公約までがすでに組織的にお膳立てされていて、山内さんはその神輿にポンと乗っただけのように見えた。

義理=しがらみ」が彼らを動かしていた。彼らの多くは他の自民党議員の支援者で、地元で会社やお店、駐車場やアパートなどを営む経営者。彼らはそれまで山内さんとは付き合いがなかったが、「自民党の公認候補だから」「……先生の頼みだから」という理由で、山さんの手伝いに狩り出されていた



やっぱりそうか、と感じたのは、選挙運動中、山内さんがきちんと「政策論」を語る場面がなかったこと。新聞記者からの取材は受けていましたが、丁寧にそれを語ることはできませんでした。選挙運動って何。それを強く感じさせた作品です。



その後の山内さんのことをwikipediaより〜
  
議員活動を続けたいという意思はあったが、次の選挙は自民党の公認を取れる見込みが無く、また無所属での出馬は自分を支えてくれた自民党や支持者への裏切りとなると判断し、出馬を見合わせることに。

現在は主夫として、子育てに専念中。また国内外での『選挙』上映時の舞台挨拶や、講演活動も行っている。

2011年4月10日投票の川崎市議会議員選挙宮前区選挙区に無所属で出馬し、脱原発などを訴え、防護服を着て演説を行なった。(『選挙2』ではその様子が撮影されている)。落選
2015年江戸川区議会議員選挙にも、無所属で出馬した。落選
短足おじさんのブログで、福島さん逝去のことを知りました。
一台のリヤカーが立ち向かう」と言う中川五郎さんの歌を聴く度に
いつもこの写真家のことを思っていました。
一人でも権力に立ち向かわれる姿に、勇気を得ていました。
追悼の思いを込めて、3年前の記事を再掲載致します。

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これは戦時中の写真ではありません。「自衛隊観閲式後の新宿駅」の写真です。

「時代」を超える力を持つモノクロ写真。写されたのは
“現代”の日常のひとコマ。勘違いしてしまいそうですが、
これは「戦後」の写真です。
家の本棚にあったこの写真を見て初めて、私はこれを撮影した写真家のことを知りました。そしてその方が現役で今も、写真家としての生き方を貫いておられることを、このドキュメンタリーによって知りました。

1921年生まれ、91歳。福島の被災地とも、
福島菊次郎さんは写真家として向き合いました。本作は、これまで福島さんが歩んでこられたカメラマンとしての人生を、被写体に向き合った時代と、撮影に向かわせた動機とを福島さん自身が語りながら、その足跡を辿るものです。


日本の戦後を見つめた伝説の報道写真家、福島菊次郎のドキュメンタリー。監督は『ガイアの夜明け』等TVを中心に活躍する長谷川三郎。朗読は俳優の大杉漣、撮影は「誰も知らない」の山崎裕が担当しています。

福島 菊次郎は、写真家、ジャーナリスト、ノンフィクション作家。

山口県下松市生まれ。戦後、民生委員などの活動を通して作家活動を始め、広島に投下された原爆被災者の10年におよぶ困窮生活を活写した作品『ピカドン ある原爆被災者の記録』が、日本写真評論家賞特別賞を受賞(1960年)。この年、離婚して子どもを連れ上京しプロ写真家となる。

原爆、政治・軍事問題、学生運動、公害・福祉問題などをライフワークとし、「ピカドン」などの個展を開き12冊の写真集を出版。中近東、アラブ、ソビエト連邦などに長期にわたる取材もこなした。(wikipediaより)



戦後日本を見つめ続けてきた報道写真家・福島菊次郎の2009年から11年の3年間に密着したドキュメンタリー。彼の写真家としての生き方を決定付けたのは、広島で原爆症に苦しむ中村杉松さんとの出会いでした。
その時の衝撃から暫く、写真が撮れなくなった福島さんでしたが、中村さんからの「ワシの仇を討って欲しい」という願いに応え、中村さんとそのご家族を11年間撮り続けます。中村さんの瞳の中に燃える冷えた炎。その怒りの激しさを冷静な福島さんのカメラは、的確に伝えていました。

それ以降も、三里塚闘争、東大安田講堂、70年安保、あさま山荘事件、水俣、祝島など時代を象徴する数々の事件を25万枚以上の写真に収めてきました。常にあったのは「反権力」の強い信念。
同じく信念を持って闘う人々の姿を福島さんは撮り続けました。

60年代後半には、自衛隊と兵器産業の現場を取材します。事前に記事を見せると言う約束を破り、軍備の拡張を批判するキャンペーンを雑誌で展開した福島さんに、「騙したな」と、記事の撤回を要求した当時の防衛庁。それに対して福島さんは言います、「ウソを言って撮影したのは詫びるが、そっちこそ大ウソで国民を騙していないか」。

それから程なくして福島さんは路上で暴漢に襲われます。直後に不審火で自宅は全焼。それでも、福島さんはシャッターを押し続けました。

印象に残っているのは、過去を振り返りながら、この時、燃える家の中から、撮影された写真のフィルムを持ち出してくれた長女に心から感謝の意を述べておられたところ。
そして「この国を攻撃しながら、この国から保護を受けることは出来ない」と年金受給を拒否。子からの援助も断り、自らの原稿料だけで生計を立てている生き方でした。

この気骨のある生き方。数を頼み、目に見える敵を作って攻撃し、権力を笠に力で抵抗者をねじ伏せて行く大阪市長のやり方に、本当に闘うとは福島さんのような生き方を言うのだと、見せ付けたい気持ちになりました。

また、「日本人の誇り」を取り戻させねばと息巻く前東京都知事や現自民党総裁らにも、「日本人としての誇り」はみんなが共通して持つものではなく、各人がそれぞれに感じるものであり、私は福島さんのような生き方こそ、
日本人としての誇りだと思いました。

生涯「反権力」を貫き、多分最後の仕事として「国のウソを暴くため」に被災地福島に向われた福島菊次郎さんの信念に、心から敬意を表します。

「てめえは生きながらえて、仕事も評価されて・・・」。戦争に無批判で加わったこと、そして生き残ったことへの罪悪感、それが「償い」として、福島さんを反権力に向わせたのです。

福島さんには「ひろしま」と「ふくしま」が重なって見えると言います。過去を見つめなおさなければ、前には進めません、福島さんは自分の思いを文に綴り、後の世に残したいと思っています。



   福島菊次郎さん、有難うございました。




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沖縄 うりずんの雨

米国のジャン・ユンカーマン監督制作の映画「日本国憲法」を見た時は、とても感動しました。
成立の背景、憲法に込められた思い。中でも、最も印象深かったのは、この憲法が(特に九条に込められた思いは)被害をもたらしたとりわけアジアの国々、そして世界への、二度と戦争はしないという約束、誓いを示すものだという事でした。それを変えるという事は、約束の破棄を意味するのです。

同監督による本作では、こんなに様々なフィルムがあったのかと思わせる程に、当時の貴重な記録映像が適宜に挿入され、沖縄のこれまでと今とが描き出されていました。
戦後70年を経た現在も平和を求めて不屈の戦いを続ける沖縄の人々。先月鑑賞して涙した「戦場ぬ止どぅみ」に繋がる思いを作品に感じました。監督の視線は、常に沖縄の人々と同じ位置にありました。

12週間の地上戦で4人に1人の住民が命を落とした沖縄戦」。どれ程壮絶であったか…想像を絶します。
その後も続く「占領政策」から途切れることなく続く「基地」による沖縄支配。沖縄の人々への差別と抑圧、それに対する怒りの思いと行動、沖縄の“終わらない戦後”と向き合った4部構成によるドキュメンタリーです。


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2015年。監督:ジャン・ユンカーマン、企画:山上徹二郎、音楽:小室等。出演:安里英子、池田恵理子、石川真生、玉城洋子、稲福マサ、大田昌秀、近藤一、高嶺朝一、知花カマド、知花昌一。


<第1部 沖縄戦>凄惨を極めた沖縄の地上戦で対峙し、生き残った元米兵と元日本兵。さらに、現地徴用され、戦闘に駆り出された沖縄の人々の証言と新たに発掘した米軍撮影の資料映像を重層的に構成し、70年前の沖縄戦の実像に迫る。

<第2部 占領>1945年 6月 23日の組織的戦闘の終結を待たず、4月1日の沖縄本島上陸直後から始まっていた米軍による差別的な沖縄占領政策の実態と米軍基地建設。そして、占領下での沖縄の人々の平和を求める反基地闘争を中心に追う。

<第3部 凌辱>読谷村でのチビチリガマ集団自決“集団強制死”に関する証言。米軍基地の存在によってもたらされる沖縄の女性たちに対する性暴力の実態を、被害者側だけでなく、加害者である元米兵まで、双方への取材を通して明らかにする。さらに、基地周辺の住民に対する被害だけでなく、米軍内でも女性兵士たちが同僚の男性兵士から性的被害を受けている実態が、アメリカでの取材から見えてくる。

<第4部 明日へ辺野古への新たな米軍基地建設を巡る日本政府の強引な対応と、沖縄への差別的な扱いを許している私たちの無関心に対し、沖縄の人たちの深い失望と怒りが語られる
(movie walkerより)


最も印象に残ったのは、沖縄米兵少女暴行事件(1995)の実行犯三人へのインタビュー。そのうちの一人は、最初からレイプ相手を物色していた主犯の米兵とは違い、単に仲間に付き合って行動していたにすぎないことが、彼が語る言葉から伝わりました。インタビューでは涙ながらに「少女」への詫びの言葉を繰り返していました。

もう一つ驚いたのは。映画の冒頭で紹介されたのですが、ペリーがまだ鎖国状態の日本へやって来た時、既に沖縄占領の意思を持っていたという事でした。沖縄に向けて語られる中での「捨て石」と言う言葉の繰り返しには胸が痛みました。
圧倒的な戦力の差。沖縄上陸時の記録フィルムは、正にその言葉と重なる沖縄の惨状を映しています。

過去の沖縄も、そして今の沖縄で起こっていることも、単に沖縄だけの問題ではないことを理解し、問題解決に向けて、私たちみんなで考えて行かなければならない事を再認識させてくれた作品です。

インタビューで、監督は「平和の礎」を訪れた時の想いを語っておられますが↓、私も、そこに刻まれている戦没者名が、沖縄の方々だけではなく、外国の方も含めた、沖縄戦での全戦没者名であることに、沖縄の方々の命に対する、敬虔な思いを感じ、いつも心打たれます。
その穏やかで包容力ある願いと思いは、今の辺野古を含む、基地反対運動にも反映されていると感じます。



今年6月岩波ホールでの監督の舞台挨拶より

ユンカーマン監督は、2年前の6月23日に、国籍や軍人・民間人の区別なく、沖縄戦などで命を落とした全ての人々の氏名を刻んだ祈念碑『平和の礎(いしじ)』での慰霊祭に参加した際の事を振り返り、「あちこちの小さい集落で慰霊祭が行われていた。各集落に沖縄戦が及んで、犠牲が出たということを実感しました」。さらに、「最後に米軍の基地と戦地を空撮した日、また『平和の礎』を撮影し、思わず涙が出てきました。少しでも礎の魂を呼び起こす映画になっていればいいと思います。その魂が今でも沖縄には生きている。その魂が沖縄の力になっていると思います」と沖縄の現状に思いを馳せていた。

タイトル内の「うりずん」は、沖縄の方言で沖縄戦と同時期の3月〜5月頃を指す言葉で、今でも沖縄には、この時期に戦争の体験から体調を崩す人々がいるという。

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