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対馬の写真集 (31)
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[ 海洋文化交流・貿易振興 ]
2017/5/3(水) 午後 9:39
旧石器時代に人が、大陸から対馬の陸橋を通過した足跡は発見されていない。
現在までに確認された最古の遺跡は、新石器時代に属する縄文文化のもので、この時代はすでに陸橋が切れ、対馬が、島として孤立している。
大陸からのナウマンゾウ等の哺乳類の化石も見つかっていない。
縄文時代の峰町佐賀貝塚や上県町志多留(したる)貝塚からは外洋性の魚の骨が出土し、峰町では多くの貝輪(腕に付ける装飾品)の材料が、沖縄の貝(イモガイ、ゴウボラ他)と北海道産の貝(ユキノカサ他)を使っていることが確認されている。
また、石器の材料は、佐賀県伊万里市腰岳産の黒曜石である。さらに、峰町吉田貝塚からは縄文時代晩期の夜臼式土器、弥生時代前期の板付I式土器などが出土し、九州地方北部と同じ文化圏に属していたことが判明している。
イネの収穫具であった石包丁はあまり出土していない。ただし、大陸系磨製石器や青銅器・鉄器などの金属器などは出土している。
弥生時代前期の舶載品の有柄式石剣が多く見られる一方、北九州で製作された中広銅矛・広形銅矛も多く出土している。
11月15日
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[ sor*k*rb5ua* ]
2015/2/7(土) 午後 8:31
はじめましてー♪d(´▽`)b♪
all*t*e_*ondersさんのブログのファンになったものです!
むしろブログだけじゃなくて、all*t*e_*ondersさんのファンになりつつあります(o^^o)
落ち込んで塞ぎこんでる時にふとヤフブロを検索しました。
そして色んなブログを読ませて貰う中で、all*t*e_*ondersさんのブログに偶然出会いました。
派手さはないけど(失礼)でも、読む側をぐいぐいと引き付ける文章。
観察眼が鋭い方なんだというのはすぐに気づきました。
夢中に読んでいくうちに、気持ちのモヤモヤがいつのまに晴れてることに気づきました(o≧∀≦)o
all*t*e_*ondersさんに実は聞いて欲しいことがあります。
何ていうか、このブログの管理人である、all*t*e_*ondersさんだからこそ話せることっていうか私の悩みというか。。。
勝手ながら。。。私の連絡先です。
koikaren@i.softbank.jp
もし聞くだけなら聞いてもいいと思って貰えたなら連絡欲しいです。
ご迷惑は絶対におかけしないので(´ェ`*)
五島列島小値賀(おぢか)の写真集(01)
長崎県・小値賀島
[ 法律違反を考える98 ]
2014/7/26(土) 午前 11:33
古事記の国産みにおいて、イザナギ・イザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。
古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残である。
また、イザナギ・イザナミが生んだ最後の「両児島(ふたごのしま)」は、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市 に入るが、この島も女島灯台が設置されるなど近年に至るまで重要な島であった。
これらのことからも、古代において五島列島や周辺の島々が中央にもよく知られていたことが分かる。
五島列島小値賀(おぢか)の写真集(14)
長崎県・小値賀島
[ 観光立国 地方創生 ]
2014/7/26(土) 午前 11:33
古事記の国産みにおいて、イザナギ・イザナミが大八州を生んだ後、更に「児島」「小豆島」「大島」「女島」「知訶島(ちかのしま)」「両児島(ふたごのしま)」を生むが、この中の知訶島が五島列島である。
古くは福江島を「おおぢか(大知訶、大値嘉)」と呼び、上五島の島を「こぢか」と呼んでおり、現在行政区画上ではたまたま五島列島に入れられていないものの五島列島の一部としてその北に位置する小値賀島(おぢかじま)がその呼称の名残である。
また、イザナギ・イザナミが生んだ最後の「両児島(ふたごのしま)」は、五島の南西に離れて浮かぶ男女群島のことであるとするのが通説である。五島列島に比してかなり小さい男女群島は現在の行政区画では五島市 に入るが、この島も女島灯台が設置されるなど近年に至るまで重要な島であった。
これらのことからも、古代において五島列島や周辺の島々が中央にもよく知られていたことが分かる。
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対馬 浅藻のふしぎなレンガの建物
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[ 底質汚染 ]
2012/10/24(水) 午後 9:05
厳原町・浅藻(あざも)は、明治初年までほとんど人の住まない土地(天童法師信仰の聖地・八丁郭がある)でしたが、明治10年ごろに大島郡久賀浦(現・山口県周防大島町)の漁民が住み着き、続いて沖家室島(現・山口県周防大島町)の漁民が住み着きます。
久賀の漁民達は、干潮時に海に潜って海底の岩に縄を結びつけ、満潮時に船の浮力を利用して岩を海底から持ち上げて沖に捨てるという方法で港を整備していきます。
1回の干潮・満潮で1つの石を運ぶことしかできず、大波によって捨てた岩が岸に押し寄せたこともあり、それは気の遠くなるような作業でした。
その後、浅藻は鯛や鰤の漁港として大きな賑わいを見せることになります。
それから約100年。現在の浅藻は過疎が進み、小学校も廃校となり、静かな漁村に姿を変えています。
また、本土と離島の格差に胸を痛めた宮本常一の奔走によって離島振興法が策定され、対馬島内のハード整備は進みました。




