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武蔵野市は毎年「国際オルガンコンクール」を開いているのですが、2004にその審査員特別マスタークラスで来日したイタリアのオルガニスト、アンドレア・マルコーン氏の公開レッスンが行なわれた。
その時の内容が「日本オルガン研究会」発行の「オルガン研究 XXXII 2004」に掲載されていて、師匠と二人でそのことが話題となったこともある。

トッカータを弾くにあたっては、G.フレスコバルディのトッカータ集第1巻の序文に、どのように演奏すべきかが箇条書きにされている。
フレスコバルディに限らず、17世紀のトッカータを弾く上でこの序文を読まずに済ませることはできない。
で、先の「流行」と言っているのは、その序文を踏まえた最近のイタリアオルガン界での解釈を指している。
フローベルガーで頻出するパッセージのひとつに長いティラータ(tirata)がある。
ティラータとは4度以上跳躍する主要音間を急速に経過音で埋める装飾のことだ。
このティラータは16分音符で始まり32分音符で終わっていますが、必ずアチェルランドを伴って弾かれるものであるというのが最近のイタリア的解釈なのだそだ。
つまり譜面通りの音値やリズムではないということになる。
また、トッカータは冒頭の和音をゆっくりと、好きなように装飾やアルペジオにして弾くのが通例だ。
でも楽譜にはただ基本となる和音が書かれているだけ。
上に掲げた序文や当時の演奏習慣が理解できていないと音楽が構築できないわけだ。

ピアノなどクラシカルな演奏習慣を身に付けていると、そうした自由さや楽譜とは違う解釈に戸惑うかもしれない。
何しろ「楽譜通りに弾きなさい」と言われ続けてきたから。

やはりクラシックとバロックは本質的に違うものなのだと思う。

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2007年 初レッスン

年が明けても相変わらずFrobergerのRicercar Iをやってる・・
Ricercar VIの譜読みは始めたけど 今日のレッスンではついぞ弾かず終い
まだまだ各声部の読み込みが甘いというか
声部間の共通項を探しきれてないようだ
テーマとは別に隠されたモティーフがいくつかあるのだが・・

うーん 来月いっぱいぐらいかかるかな...

バッハは弾かない

はじめにお断りしておくが
自分がバッハを弾かないのはバッハが嫌いだからではない
かつては大のバッハファン バッハ狂 バッハ信者だった
いつもバッハを聴いていたし楽譜もたくさん買いあさった

宗教論争のようなチェンバロ vs ピアノの争いで
ほとんどバッハに対する興味が失せてしまったのが理由のひとつ

チェンバロを習い始めていろいろなバロック作品に出会ううちに
バッハの異質さに気づいてしまったのも理由のひとつ

そう 自分のようなバロックの鍵盤曲を弾く者から見れば
バッハこそ異質な存在なのだ
他に類を見ないほど独特の構造的緻密性を有する対位的音楽形式
その異質さからあまりに洗練された近代性すら感じ取ってしまう
自分の琴線に触れたのはもっと荒削りで武骨な17世紀の音楽だった

バッハには中毒性がある
ひとたび接してしまうと他に眼が行かなくなってしまう
ピアノ弾きがショパンを溺愛するがごとく
「バッハこそ音楽の原点」
「バッハがわたしのすべて」
「バッハを弾くのがライフワーク」
そんな人が世の中たくさんいるわけで・・
だがしかし 自分はそうなりたくないのだ!

Canzon終わってRicercarへ

長らく取り組んでたFrobergerのCanzon IIも佳境を迎え
Ricercar Iへと進むことになりますた♪

Canzonは16世紀フランスのシャンソンに影響された器楽曲で
長・短・短のリズムで開始され同音反復を伴う冒頭動機と活発なリズム
ホモフォニーと模倣的な部分の交代から成ってる

な〜んてどっかで読みかじったような説明では片付けられないわけだな実際のところはw
各セクションを繋いでいる自由な形式の部分が曲者
たった数小節なんだけどね

Ricercarってのはもともとは宗教的な歌詞による多声部曲というか
いわゆるモテットと言えばいいのかーw
それの原理によるポリフォニー書法で作られてる・・ってよくわかんないね(・ω・;A)アセアセ…

要は段落毎に新しい主題(ソジェット)が提示されて通模倣されるってわけで
フーガの先駆的な曲ってやつですかね

今度も長〜く取り組むことになるのかな
のんびりマターリと逝きませうかねw

先日 ある新聞に某ピアニストの記事が掲載されていた
あまりに有名なその人の発言に愕然とするとともに
落胆というかやるせないというか
そんな気分になってしまった

ひっかかったのは大きく2つ

★楽器
"モーツァルト時代のピアノは発展途上で、作曲家はより大きな音を求めた。
そういう事情を無視して同時代の楽器で弾きさえすれば、より「真実」に近づけるという考えは安易だ。"

本当にそうだろうか・・
確かにヒストリカルな楽器を単に弾くだけでは意味が無ない
その楽器にふさわしい奏法や演奏解釈なくしては片手落ちだと思う

ベートーヴェンなんかは常にピアノに不満を持っていたようだ
5オクターヴの小さな木枠の楽器だからそれは当然かもしれない
彼の書く曲にはこの小さな楽器からはみ出さんばかりのエネルギーがある
だからと言って現代のピアノで弾こうと考えるほうが安易な気がするのだ
現代に生きる我々も彼が感じていた不満をその時代のフォルテピアノにぶつけてみればいい
現代のピアノは大きな音と引き換えに音色の鮮明さやデリケートなニュアンスの表現を失ってしまっている
聴きとれないほど微かなピアニッシモ
壊れんばかりに悲鳴をあげて鳴り響くフォルテッシモ
どれも余裕のある現代ピアノでは体験できないものだ


★楽譜
"音楽家が参照すべき唯一の規範は楽譜である。演奏の歴史や演奏家の個性は余計なもの。"

これも納得しがたい話
というか 未だにこんな考え方をする人がいるとは思いもしなかった
しかも名の通った世界的なピアニストが言うとは・・

楽譜は素材にすぎない
そこに作曲家の思い描いた音楽がすべて書き込まれているわけではない
実際の演奏に際しては必ず解釈がつきまとう
単に楽譜通り弾いても音楽にはならないからだ
だいいちロマン派の音楽ならいざしらず それ以前ともなれば
演奏者の解釈に委ねられている部分は少なくない
当時の楽器を使い 当時の演奏慣習を調べ
自分なりに解釈した上で演奏することの何が余計なことなのだろう


古楽もずいぶん浸透して市民権を得たとばかり思っていたが
思い違いをしていたのだろうか
あるいは凡人には理解が及ばない高みに達している方のお言葉だからなのか...?

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