ここから本文です
現代日本を独自の視点で考察する

書庫全体表示

記事検索
検索

全140ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

原因は「移動距離にかかる時間」がすべてだ
イメージ 1
コモンズより首都圏郊外の駅前でおなじみの風景

 市の人口だけをみれば大都市郊外と地方都市は似ている。
 神奈川県茅ヶ崎市と長野県松本市は同じ24万人都市。埼玉県越谷市と滋賀県大津市はともに34万、千葉県市川市と愛媛県松山市は50万だ。しかし、市域のスケールが違う。茅ヶ崎市は35.70km2だが、佐賀市は431.84km2とケタが違う。佐賀市の南北長はおよそ38kmにも及ぶが、茅ヶ崎市ならば最大でも8kmもない。つまり人口密度が明らかに違う。

 茅ヶ崎の場合、JR茅ヶ崎駅がある中心市街地から郊外の広がりはおおむね3km程度。だいたいの茅ヶ崎市民は2km位の場所に居住し、神奈中バスで茅ヶ崎駅に出ている。たとえば市内南東部の松が丘二丁目から茅ヶ崎駅まで神奈中バスでは10分で、ちょうど2kmほど。この中心街まで2kmの場所に住んで路線バスで街に出るというのが少なくとも神奈川県のほとんどのベッドタウン都市の構造だといえる。隣接する平塚市や藤沢市も駅北口から3kmも離れれば田んぼが広がっている。首都圏郊外というのは、ひたすら圏内すべてが住宅街というわけではないのだ。
 一方地方都市は中心街まで5kmの場所に住んでマイカーで街に出るパターンが多いと思う。私が言ったことある地方都市の1つ、三重県津市は松菱デパートのある津新町が市街地だが、そこから5km南に行くと高茶屋や久居という田んぼを開拓した地方型ニュータウンが広がっている。秋田市の仁井田という新興住宅地もちょうど市街地より5km離れた場所だったし、基本的にどこの地方都市も、住環境と街が地続きではなく完全に分離している。あくまでこの5kmは基本であり、10km離れた住宅街地区に住むことだってある。秋田駅〜仁井田間は路線バスを使うと秋田中央交通仁井田御所野線で30分程度。これがGoogleによればマイカー移動だと14分になるという。

 大都市と地方では距離のスケールは違う。しかし移動時間は10分前後と変わらなくなる。これが大都市郊外で公共交通が支持され、地方都市でクルマ社会になる原因ではないか。
 バイパスの整備事情の恵まれた地方都市なら、渋滞につかまらなければ15分で10kmくらい先から市街地に出ることができたりする。しかし、路線バスを利用すると、それだけ長い距離、途中停留所がいくつも存在し、そこでの乗り降りに時間を費やし、10分で行ける場所が30分にも40分にもなるのだ。
 一方、大都市は、戦後高度成長期以降の急激な人口増で過密化した。茅ヶ崎のようにもともとが小さな町で戦時中の空襲などもなかった都市だと人口増に比例した道路環境整備が間に合わなかったため、バイパスがほとんどなく、幹線道路も道幅が狭く、駐車場も充実しておらず、マイカー移動が煩わしいこともある。どうせ信号や渋滞に何度も捕まるのだから、路線バスで移動しても移動時間はほとんど同じになってしまう。

 そして大都市郊外と地方都市は鉄道の存在が違う。
 たとえば神奈川県大和市では、小田急・相鉄・東急の3鉄道会社の路線網が縦にも横にも存在しており、「狭い市域に8駅がある。このため、市内のどこからも最寄り駅まで約15分前後で行ける」(WIKI)環境がある。市の真ん中に位置し、市街地がある中心駅はもちろん大和駅だが、たとえば南部の高座渋谷から小田急江ノ島線で5分。距離は4kmと、バスでの移動だったら辛い長さだが、鉄道利用だとあっという間だ。茅ヶ崎市内にも相模線の駅が2つあり、郊外地域の各駅停車駅から中心駅まで鉄道で出るという選択肢も浮上する。
 一方、地方都市にはそのようなきめ細やかな鉄道は存在しない。秋田市仁井田地区は、地域の裏に広がる広大な田んぼのど真ん中を奥羽本線が突っ切っていて、秋田新幹線が素通りする感じだ。いかにも田舎という趣深い情緒だが、奥羽本線の駅は地区や周辺にはない。秋田駅から隣の四ツ小屋駅までは6.4km離れており、四ツ小屋駅があるのは仁井田から南に2~3km離れたやはり何もなさそうな広大な田んぼのど真ん中だ。ちなみに小田急江ノ島線で大和〜東林間が6.1kmだが、その間は鶴間、南林間、中央林間と3つの通過駅があり、相模原市内に入る。市境をも超える膨大な距離隣の駅がないのが秋田の奥羽本線だ。また、相鉄線で大和駅から隣にある瀬谷駅までは1.9kmで、もちろんここは横浜市瀬谷区の中心駅である。仁井田から四ツ小屋駅までの2~3kmは、別の街に行けるほどの次元なのである。
 福島で東北本線の鈍行に乗った時も、福島駅からすぐ隣の駅までが凄まじく距離があり、市街地をビュンビュン走り抜け、さらに郊外住宅街も終わったあたりの辺鄙な場所に停まった時に「こりゃあ地方で鉄道が支持されないわけだ」と思ったものだ。だってそこに人が住んでいないのだから。わざわざそんな場所に駅を置いたところで、交通弱者の高齢者と高校生しか利用しないはずである。JR東日本はいったい何を考えているのか。
コモンズより文字通り「小屋」の四ツ小屋駅。

 地方都市で公共交通が支持されない理由は、公共交通の設計と生活実態の都市スケールが全くかみ合わないことにある。
 都会でも田舎でもマイカーが普及する前、高度成長期以前なら、移動手段は公共交通ありきだった。地方都市だってたとえどんなに遅くてもバスに乗り、駅が遠いならひたすら歩いたのだろう。それしか手段がないから。しかし、マイカーが普及することで飛躍的に便利になった。バイパス網が広がると、その新道を用いて街に出ることが可能になり、それまでタヌキやキツネが出るほどの里山や農地の大自然だった場所が、宅地分譲でニュータウンになったりしたのではないか。しかしそうした時代の進歩があっても、高度成長期以前のバス・鉄道の路線の在り方、停留所や駅の設置間隔や運行ダイヤのままであり続けてしまえば、地方の公共交通は間違いなく破綻する。いや、破綻しないのほうがおかしいだろう。

 それでも鉄道の場合は、駅を住宅街の近くに移転させるとか、新駅を作ることがいくら理想であっても、現実的に費用の問題でとても難しい。青森市郊外の青い森鉄道みたいに工夫して駅の移転や新駅設置をしている例もあるがまれだ。

 問題はバス交通なのである。
 バスは大型の車体が走れる道路があればどこまででも走行できるはずだ。しかし、本来ならショートカット可能なバイパスがいくら増えても、昔と同じ路線のまま旧道を走り続けるのが日本の路線バスである。
 余談ではあるが、これは地方に限らず首都圏も共通の問題だ。茅ヶ崎市内内陸の路線バスは、鶴が台団地に北部地域に一直線に抜ける新道ができたにもかかわらず、いまだに高田商店街の歩道もロクにないゴミゴミ窮屈な旧道を走っており、ほかの車両や通行者の妨げになっている。混雑する交差点のすぐ目の前にバス停があるのは交通事故のリスクにもつながる迷惑そのものだが、誰も問題視していないのが不思議でしょうがない。市議会も取り上げるべきだと私は強く思う。
 これはおそらく日本の路線バスをめぐる法律が悪いんだと思う。アメリカや台湾では、バスの経路や停留所の位置はひんぱんに変わるが、日本ではいったんここを走ると決まった路線バスは、経路を変えることが難しく、周辺環境が変わっても停留所の位置も変わらない。大昔に路線を作った時の論理が令和まで続くわけである。

 私は地方の脱クルマ社会ののために、路線バスの徹底的な構造改革が必要だと考えている。マイカーが存在しない時代のバス網、人があまり住まなくなった古い地区に無駄に停留所があり、新興住宅地となり大勢の人が住む場所に停留所がほとんどないようなバカげたバス網を切り替える必要があると考えている。

地方の交通の救世主はBRTだ

 地方都市の交通の救世主がBRTだ。
 BRTは、連節バスに専用道路・専用車線などを駆使した新交通システム。これを使えば、大幅な時短と大量輸送を実現することができる。

 土地ならいくらでもあり、車線も広い道路だらけの地方都市では、高度なBRT路線を整備することは容易だ。このようなBRTを用いれば、鉄道は素通りし、路線バスはあまりに停車が多すぎて公共交通と断絶している多くの地方都市の「5kmの住民たち」に支持されることは間違いないといえる。

 マイカーの最大の利点は「時短」だった。BRTによってこれを解決したうえで、たとえば郊外移転した大型駐車場付きの公共施設(総合病院やスポーツ公園など)に直接施設内に乗り入れるとか、自宅と市街地の二転換の移動以外のメリットを持たせるべきだと私は思う。
 駅前ロータリーを大量の路線バスが集まる風景は、もう首都圏だけのものにしたほうがいい。誰も乗らない無駄な路線バス網を地方からなくし、かわりにBRTによる市街地と主要な郊外への移動網の整備をすること。BRTと他の交通を乗り継ぐ「トランジットセンター」を各地に設置してパーク&ライド機能を作ること、コミュニティバスを走らせたり、さらに細かい集落を結ぶ予約型乗合バスを発着させること。そうすることで合理的かつ切れ目ない交通網を確保すること。これが今の地方に必要だと私は強く思う。

イメージ 1
台北郊外の日本統治時代の歴史建築の大広間にて筆者撮影

 ネトウヨの脳みそでは台湾は世界一の親日国家らしい。
 彼らは日本統治時代に近代化したことを「感謝」しており、中国を嫌悪しているという。またその台湾でも外省人や国民党は「反日」だという。
 このネトウヨ典型の教条主義のような主張は大きな間違いがある。ネットで「真実」に目覚めてヘイトスピーチを垂れ流してしまうレベルの脳みその人間でもわかるように、ものすごく簡単に解説してみよう。

台湾人は日本統治時代に感謝している?
 ネトウヨによると台湾が親日な最大の理由はこれだという。台湾が植民地になった際に豊かになったことに、当時を知る世代が感謝しているという。本当にそうだろうか?

 日本は、朝鮮半島なども植民地支配している。しかし韓国では当時は日帝強占期の暗黒時代とされている。外国に支配され、自己決定権を奪われる植民地など、だれも喜んで受け入れるものではないのである。台湾も同様で、下関条約で日本に編入された際には「乙未戦争」と呼ばれる大規模な抗日武装蜂起があった。また先住民族が警官とのトラブルをきっかけに日本人を襲撃した霧社事件は2011年に台湾映画「セデック・バレ」にも描かれ、台湾社会で大きな話題になった。朝鮮半島でも台湾でも植民地時代は命懸けで日本人とやり合う程の激しい抵抗があった。したがって「安重根や柳寛順がいた韓国は反日、植民地を喜んで受け入れた台湾人は親日」というネトウヨの発想は間違いだ。

 またネトウヨの中には「日本はそもそも植民地支配をしていない」という主張をする人がいる。つまり台湾であれ韓国であれ日本はその統治下でインフラ整備をしているが、欧米列強の植民地にはそんなことはないというのだ。これも嘘である。たとえばインドでは、ムンバイ大学は大英帝国時代に作られたボンベイ大学がルーツだし、インド軍のルーツをたどると東インド会社に行きつく。ネトウヨは、欧米列強は植民地から資源と奴隷だけをかき集めていただけだと本気で思い込んでいて、現地に投資したのは日本だけだと思っているが、実際はそうではない。ただし日本もイギリスも、こうしたインフラ整備はすべて内地の支配の都合で行われたものだ。

 また台湾人の日本統治時代生まれ(現在の70代後半以上)が日本語を話すのは、同化政策で日本語教育があったからで、それは植民地ならどこでも同じだ。ネトウヨから反日呼ばわりされた韓国の故・金大中大統領だってあの金大中事件当時のインタビューで日本メディアに対して日本語で答えているのである。多くの台湾人が幼少期を懐かしく思うのは、誰にでもよくある懐古主義である。日本人でも同世代は戦争体験により最低最悪な記憶しかないはずだが、軍国主義はうんざりでも懐メロ感覚で戦前の軍歌を口ずさむ人はいる。それだけのことだ。

台湾人は中国が嫌い?
 台湾人は嫌中だというネトウヨの主張も意味が分からない。
 なぜなら台湾国という国はない。台湾は「中華民国」を名乗っていて、大陸の「中華人民共和国」とは別の国だ。国共内戦の結果分裂したに過ぎない。日本は日中国交正常化の際に中華民国と断交したので、政府としては台湾を国として認めていないが、実際には「2つの中国」が存在する。国共内戦が理由で、下関条約以前は台湾は清国の一部だった。

 台湾人の公用語は中国語である。台湾語という言語もあるが、それは南部地方の方言であり年配しか話さず、公的な場面で使用され最も多くの人が話すのは中国語なのだ。マスメディアを見ても地上テレビ局は「中国テレビ」、新聞社は「中国時報」と、中国を名乗る企業は多い。以前は街中に「中国石油」のガソリンスタンドがあり、「中国造船」という造船会社もあった。

 台湾人のうち古来から住む太平洋系の先住民族は人口の2%だという。彼らは顔立ちではっきりわかる。東南アジアやハワイで見かけるような先住民だ。しかし多くの台湾人は漢民族である。つまり、中国人なのだ。たまにネトウヨが台湾人と中国人はDNAが違うと真顔でいう人がいるが、同じ漢民族が違うわけがないだろう。日系ブラジル人と日本人が国籍や社会や文化が違っていてもルーツは同じように。

 国共内戦以来、大陸との溝がある。共産主義と自由主義の陣営の違いもある。しかしそれはあくまで政府と政府の対立である。韓国が北朝鮮と軍事境界線で分裂して感情の溝があるからといって、人種が違わないことと同じである。台湾人は北京政府や大陸に不信感はあっても、そもそも自分たちが2つの中国人のうちの1つである以上中国を嫌うことはできないのである。

外省人は「反日」なのか?
 ネトウヨの中に外省人は反日、本省人は親日という謎の区分方法もある。これも不思議でしかない。ちなみに本省人とは日本統治時代以前までに中国大陸から台湾に移り住んだ漢民族で、外省人は国共内戦後に敗れた国民党軍とともに台湾島に逃れた人々をさす。

 謎である。たとえば先祖代々江戸っ子と戦後高度成長期以降に上京した東京在住者で人間の質が変わるだろうか?どちらも同じ日本人である。それと同じで、本省人も外省人も、ともに中華民国の漢民族でしかない。「日本統治を経験していないから反日になってしまう」のなら戦後生まれの本省人も反日なのだろうか?2019年現在、存命の戦争体験者はわずかだろう。

 どこの国を好きになるか、嫌うかなんて、人によるのである。
 バブル時代の貿易摩擦のときに日本をあしざまにののしったトランプ大統領はドイツ系アメリカ人だが、だからといってドイツ系アメリカ人全員が我々を「ジャップ」と呼ぶような人間だろうか。違う。人による。それと同じことである。

 ネトウヨからさんざん反日政治家呼ばわりされ続け、国籍騒動でつるし上げに遭った台湾系の蓮舫参議は、あの騒動の結果、本省人のルーツの持ち主だということが明らかになっている。また、日中戦争を「たったの8年」と発言してしまったことをきっかけにネトウヨに超親日アイドルとして注目されたレイニー・ヤンは、実は広東系外省人だ。日本プロ野球界のレジェンド、国民栄誉賞受賞者第一号である王貞治選手も外省人で、日本の国民的ヒーローでありながら今もなお中華民国国籍だそうだ。

 つまり、このように親日・反日の二者択一のラベリングで論じることの方がおかしいのである。

国民党は反日で「北京の手先」なのか?
 またネトウヨたちは外省人とともに国民党を毛嫌いしている。ネトウヨの脳内では国民党は親中派勢力で反日なのだという。もちろん台湾も中国だということはすでにふれたが、あえてネトウヨの側に立って中国=大陸にある共産党政府と解釈してみても、そもそも国民党が最初から北京寄りだったら国共内戦自体起きておらず大陸と台湾島の政治体制が分裂していないだろうに。どれだけ近現代史を超解釈しているのだろうかと呆れてしまう。

 戦後ながらく、韓国とともに台湾は軍事独裁政権であったが、それは冷戦構造下「反共の防波堤」として機能していたからだ。同時期に民主化を実現したのは、ソ連邦崩壊で冷戦構造が集結したから。1954年から1996年まで頻発した台湾海峡危機では、台湾軍と人民解放軍が一触即発の危機になったほどだ。つい20年ちょっと前までそのような緊張があったのに、それまでずっと政権の座にいた国民党が共産党寄りの政党に見えるネトウヨのエキセントリックさには驚く。

 ちなみに国民党を立ち上げた孫文は、たびたび日本に亡命し、右翼の大物頭山満と出会ったり、日本人妻と結婚したりもいた。日本の陸軍人佐々木到一が軍事顧問で、孫文の革命思想には明治維新や自由民権運動の影響があると言われている。台湾に「中山」という名の主要施設や道路などが多いのは、孫文が亡命時に名乗った日本名の苗字だからだ。
 また孫文の後継者で、国共内戦を率いたのちに戦後台湾を支配した蒋介石も、日本に留学し、日本陸軍に隊附士官候補生として勤務したほどだ。この来日時に孫文と出会っている。詳細は「蒋介石が愛した日本」(PHP研究所)を読んでほしい。

 極めつけが、ネトウヨが親日台湾人のレジェンドとして愛してやまない李登輝元総統だって、国民党だったということ。彼が民主化に舵を切ったことで民主化が実現したが、国民党=反日というなら李登輝も反日ということだろうか?なお、李登輝だって戦前礼賛ありきではなく日本植民地時代には複雑な感情を持っている。

 民主化以降の台湾では陳水扁、馬英九、そして今の蔡英文と3人の民選総統がいるが馬英九は国民党である。つまり国民党の政治を、台湾人自身が選挙によって選んだのである。ネトウヨが思うように、国民党が人口で少数の外省人だけの勢力であるなら、政権なんか取れるわけがない。陳政権の様々なスキャンダルがあった結果、大多数の本省人も国民党に票を投じたのである。

 このようにまともに考えるとネトウヨの台湾の評価がいかにい加減で滅茶苦茶であるかに気づくが、原因は、ネトウヨの台湾イメージの理論書が小林よしのり氏の「新ゴーマニズム宣言・台湾論」(小学館)にあるからだと私は思う。私も読んだが、日本語世代による日本統治時代の評価の記述や、国民党を過度に批判する論調が目立つ内容に、「ああ、2チャンネラーのネトウヨたちの台湾評のベースはこの本にあったんだ!」と思わずうなったほどだ。
 ネトウヨ的な偏った台湾イメージが誤りであることは、実際に台湾人と知り合ったり台湾に足を運べば誰でも気づく。よほど鈍感なのか、あるいはこの本を鵜呑みにして「台湾を知ったふり」になっているのである。

 もっとも、実際には多くのネトウヨは、たぶんゴー宣すら読んでないかもしれない。ゴー宣で培われたワンパターンな台湾評をネット上で書き込んだりコピペしたりしているうちに、エコーチェンバーが形成されていき、そのうち誇張や事実誤認がどんどん出てくるようになり、話が膨らんでいくうちに、私が指摘するようなトンデモ台湾論がまかり通るようになったのだと思う。

 ちなみにそのネトウヨにとっては小林よしのり氏は「立憲民主党を支持しながらネトウヨを批判する左翼文化人」という扱いらしい。自分たちは小林よしのりを左翼呼ばわりしながら、台湾の認識はゴー宣やその劣化コピーの受け売りというのは、情けない限りだ。













 





「大阪らしくなる大阪」から見える課題
大阪って、阪神で吉本で維新。年々、その色合いが濃くなる。
中之島文化やパ・リーグ三球団や松竹新喜劇は、完全に過去、もしくは絶滅危惧になった。梅田にドンキホーテがあって、それが一番賑わってるんや。
かつて、屋外水泳競技場があって、その館内で練習する大フィルの音が流れてた、マンデラの演説した扇町公園を抜けると、目の前に玉出が有るんや。
大阪はエコーチェンバーの中で、どんどん「大阪らしく」なってるけど、それは俺の知ってる大阪じゃないなっていう話なんだけど、そうちゃんと書かないと、tweetが独り歩きするみたいだ。
Twitterより

 吉本興業の問題が巷を騒がせている。
 日本の芸能界の有力企業でありながら、その記者会見や体たらくの酷さ。「まるで家族経営の中小企業のよう」「さすが"興業"と名乗るだけある」というような批判が殺到している。

 特にガッカリしているのは、大阪人だろう。
 吉本興業は大阪を代表する芸能文化の発信拠点である。なんばグランド花月での新喜劇鑑賞は大阪観光の名所にもなっているし、特に維新体制になってからは、大阪城公園内の商業開発など、官民協働の有力な担い手にもなっていき、政治的影響力を多く持ちつつある。大阪で何度選挙があっても維新が不敗でいられているのは、在阪局のワイドショーに吉本芸人が引っ張りだこで、彼らが維新ヨイショをしているからだと、リベラルたちの間でうわさされるほどだ。

 ところで大阪出身・在住者で維新や吉本的なるものへアンチ意識を持つ人々の間では、大阪の社会の質、とくに文化がおかしくなっているという指摘がある。橋下徹氏が台頭してからのこの10年ちょいを振り返れば、上岡龍太郎氏のようなリベラルで知性派のタレントが消え、故やしきたかじん氏や百田尚樹氏が台頭した。みやびな船場言葉を話す世代が他界し、大阪弁で「ゲスなホンネ」をくっちゃべる物言いこそ正しい大阪の言葉遣いのようになった。梅田駅や大丸百貨店などの大大阪時代や阪神間モダニズムを象徴する近代文化遺産が喪失し、代わりに増えたのは、東京人がイメージするB級な大阪像。コナモン、吉本、オバタリアン、道頓堀にダイブする阪神ファンというようなものばかりである。

 大大阪時代の戦前モダンの香りを残すシャンデリアのぶら下がった地下鉄駅が民営化により奇抜なデザインに改修される案が浮上すると、そうした人々が激怒し炎上した。そのとき橋下徹元大阪市長はこう言った。これだけ批判を浴びる案など絶対に出せなかった。これまでの慣行や概念をぶち破れ。東京と同じスタイルにする必要なし。都市格、品格など気にするな」これが今の大阪なのである。維新は政治的には保守に属し、反維新は左派がほとんどのはずだが、現状はこじれている。昔からの善き大阪像を守れと言っている側が革新で、保守の側が都市格なんか気にするなと、過去の財産をぶち壊して独自の存在感を示しているのである。

気づけば「B級文化」しか産業がない大阪
イメージ 1
コモンズより2005年愛知万博での地元企業・JR東海のリニアモーターカーの展示

 大阪は今、2025年大阪万博開催に向けて沸き立っている。東京が二度目の五輪をやって高度成長時代の夢よもう一度と盛り上がっているなら、大阪も再び万博をやろうという話だ。この万博招致政策も、維新支持の高さの背景にある。

 しかし、いまから14年前にも日本で万博が開催されていたことを皆さんご記憶だろう。2005年の愛知万博である。愛知県といえば日本最大の企業・トヨタ自動車の企業城下町だ。車輪のついたロボットがステージをグルグル回るようなショーの映像は何度も繰り返しメディアに取り上げられ、インパクトのあるものだった。最新技術や洗練された文化の発信こそ万博の魅力であるし、開催都市の腕の見せ所だ。

 愛知には産業があった。では大阪はどうか?
 現実問題、大阪企業というと全くイメージがつかない。大阪にトヨタのような大自動車会社はあるか?トヨタのライバル企業の日産の本社は横浜だ。江戸時代から「商いの都」と呼ばれた大阪。大大阪時代には人口も経済規模も東京を凌駕した大阪。しかし今、果たしてこの都市に産業があるだろうか。
 私たち首都圏の人間がイメージする大阪の企業はハッキリ言って「吉本興業」しかない。維新が吉本と密接なのも、安倍首相が来阪した時に吉本新喜劇の舞台に出たのも、ほかに有力な産業がないからではないか。つまり大阪最大の産業がB級文化になっているということだ。

 1970年の大阪万博開催当時、大阪市の人口は約300万だった。しかしその後の大阪は260万台規模で21世紀まで至った。一方愛知の県都・名古屋が200万人を突破したのは大阪万博の前年の1969年のこと。いまや230万都市と急成長。そして、大阪よりはるかに格下だった横浜市は370万人都市。300万都市の座は日産本社があるあの横浜に移り、大阪はいまや200万都市。同レベルの都市はいくつもあるし、GDPで大阪は愛知に抜かれつつある。1970年当時の大阪は工業都市で、地元企業がまだたくさんあったが、今はそれらも本社が東京に移り、大阪に残ったのは吉本興業に象徴されるB級文化だけなのである。

 この間開催された大阪サミットを思い出してほしい。
 その辺のセミナー会場のような狭い会議室での「大阪トラック」宣言の光景はあまりにも「ドケチ」だとネット上で波紋が広がった。まるでコミケ会場のような雰囲気のメディアセンターではタコヤキや串カツが振舞われた。首脳たちの晩餐会は田舎の親戚の家で法事をやっているような雰囲気だと言われた。近年日本で国際会議というと、伊勢志摩サミットや洞爺湖サミットが行われたが、けっしてチープに感じる要素はなく、当時のインターネットはこのようなツッコミが吹き荒れることはなかった。つまり、愛知に抜かれたとか神奈川に抜かれたとか以前にそもそも大都市ですらない志摩や洞爺湖のほうがよほど大阪より立派に見えたのである。そんな今の大阪で万博を開けば、開会式で新喜劇をやったり、オバタリアンのファッションショーをやったりするんじゃないかと大阪人ではない私さえ危惧してしまうほどだ。

 しかしそれが大阪の現実ではあると思う。
 大阪の長期低迷が、旧型の政治からの脱却を掲げる橋下徹氏や彼の率いた維新への求心力を招いた。維新政治の在阪局メディアを巻き込んだ「やってる感」が大阪をこうさせているんじゃないか。維新政治になったからといって、東京に本社を移した大企業が大阪に戻ったという話は聞かない。まして神奈川県に人口で巻き返したという話もないし、愛知に抜かれた経済規模が話題になったのは維新以降のことだ。表面上の街の風景、サミットや万博などの国家を巻き込んだ大規模イベントの招致などには活気がある。公共財が切り売りされ、跡地の再開発ラッシュが起きている、しかしそういう現状の賑やかさだけを見て、在阪メディアだけを見て、この大阪でいいと考える有権者が、残念ながら少なくない。

 今の大阪はただの200万都市だ。
 つまり名古屋と同格だし、北を見れば札幌市も200万人突破寸前。また、名古屋とともに日本第三の地位の座を狙う強烈なライバルとして九州では福岡市が台頭している。こうした各地の地方大都市は、大阪が東京と肩を並べる唯一の大都市だった昭和時代にはまったく存在感はなく、大阪では長期低迷が極まっていた平成時代になって短期間で人口も経済力も急成長したものだ。大阪には、200万都市ですらない福岡ほどの人口急増、福岡ほどの若者の多さや経済活況があるだろうか?残念ながらないのである。
 戦後昭和期なら、福岡市は工業都市である北九州より人口が少なく、経済面でも劣っていた。九州全土から人を集める求心力は福岡市にはなく。九州の若者はブルートレインに乗って大阪に上ってきたのである。

 今の大阪はただの地方大都市である。
 つまり九州人は同じ西日本でも福岡に上ればことたり、わざわざ関門海峡を渡る必要がない。そうするくらいなら最初から東京に出る。
 関西地方における一大都市であり、関西一円から集まる支店経済の地域ではあるだろうが、それはもはや東北地方における東京の衛星としての仙台市のポジションと何ら変わらない。仙台は人口108万人の都市だ。かつての300万都市が、今は100万都市と同レベルなのだ。百田尚樹氏が宮城をあしざまに罵る発言をしたくなるわけである。そこには大阪という都市の置かれた状況の焦りが見える。

 維新一強構造をなんとしてでも倒したい、維新的なるものに対するアンチテーゼを張りたいなら、やはり「ただの地方都市に成り下がる大阪」という現実を直視し、その上でまともな対抗文化を示し、都市の立て直しを図る必要が、リベラル勢にはあると思う。沖縄の政界ではオール沖縄がウチナーンチュの地域ナショナリズムを背負って高い支持を集めるように、東京の支店都市、東京人の思い描くオモシロB級都市大阪的な文化じゃいけないと、かつて上方と呼ばれた時代の地域ナショナリズムを高揚させる必要があると、私は思う。


 


 




 「沖縄では、以前よりも露骨に若い世代が自民に入れるようになってる。平和教育の形骸化とも連動してるし、ここから20年くらい、沖縄でどういう言論状況を作れるかで沖縄の未来は大きく変わるだろうな……。」
 そうツイートしたのは津田大介氏。参院選沖縄選挙区はオール沖縄のタカラ氏の勝利に終わったが、10代〜30代はなんと安里氏の方が優勢だった。

 故・翁長前知事が「オール沖縄」の政治状況を作って以来、国政選挙も地方選挙も政権側が推す候補とオール沖縄候補の一騎打ちの状態が続いている沖縄だが、どの選挙でも目立つのも若年世代の政権候補支持だ。
 辺野古のある名護市長選では、ゲート前で自身も抗議活動を繰り広げていた稲嶺前市長は敗北。スタバの誘致を掲げた渡具知氏が勝利した。前回の沖縄県知事選でも玉城デニー知事の票を集めたのは中高年で、若い世代は対抗馬の佐喜眞前宜野湾市長支持が優勢だった。佐喜眞氏はこの知事選でこそ負けたが、普天間飛行場のある宜野湾市であるにもかかわらず3年前の市長選でオール沖縄候補に競り勝った人だ。当時の公約はディズニーリゾート誘致だった。

 玉城知事は米領時代に生れ育ち、オキナワンロックの発信地でであるコザ(現沖縄市)でバンド活動をやっていたロック少年だった。県知事選でもライブハウスで演奏したりしている。新基地建設には反対しているが、アメラジアンである彼はアメリカと琉球の混ざったチャンプルー文化の体現者そのものだ。
 そしてそれは、内地の人々が思い描く、政治的にニュートラルな人や、あるいは安倍政権支持層さえもイメージする「沖縄らしい文化」でもある。ネトウヨには「左翼」と認識されるオール沖縄だが、私にはオール沖縄時代になってから、沖縄では公的な場面で標準語よりもウチナーグチでのあいさつが重視されるようになるなど、地域ナショナリズムが高まっているように見える。しかしそれと反動するように、若い世代の内地化が進んではいないかと思う。
コモンズより那覇新都心

 いまの二十歳くらいなら、幼い頃に「沖縄ブーム」があった世代だ。サミットが開催され、2000円札が発行され、首里城が世界遺産になり、朝ドラが大ヒットし、ゆいレールも開業した。しかし沖縄の若者が生まれ育ったこの21世紀は、内地化が進んだ時代だったといえる。

 たとえば全国チェーンの台頭。
 かつては国境があった時代の名残もあってジェフやジミーといったローカルチェーンが主流だっただろう。しかし今は、イオンやヤマダ電機は沖縄に当たり前にあふれている。那覇から遠く離れた離島の人口5万足らずの石垣島さえドン・キホーテやしまむらがある。
 また沖縄といえば赤瓦の古民家ではなくともコンクリート造りの四角い屋根の民家ばかりの風景を連想するが、21世紀以降に立った新しい住宅は、内地の建売戸建てと全く同じ見た目のものが同じようにズラリと分譲されているという。アパートやマンションも同様だ。シーサーが置いてあるわけでもない。
 さらに沖縄に限ったことではないが、地域コミュニティは希薄になっていっている。昔ながらの共同体に根差したような地元のお店、集まりなんかもなくなっているんじゃないか。そういうつながりは特に沖縄ほどユイマールの精神などもあって豊かだったと言われていたが、21世紀にもなれば変わってくるだろう。

 つまり生まれ育った我が家の建物も、家の近所に存在するお店もみんな内地と同じなのなら、アメリカ領土でも琉球王朝でも我々はウチナーンチュだという独自の意識より、日本の地方都市に暮らす沖縄県民という意識の方が大きくもなるんじゃないか。
 沖縄は結婚出産年齢が早いので、玉城デニー知事くらいでも若者にとっては祖父母世代。そういう若者にとっては、自分の親よりも上の世代の古い地域文化を守ろうという感覚よりは、内地と同じ文化が内地と同じように広まることを求めるようにもなるのかもしれない。モンパチや安室奈美恵のような沖縄発のアーティストがなかなか出てこないのも、オキナワンロックよりもEXILEを求めるマイルドヤンキーが増えつつあるからではないか。

 私には安倍一強で内地では敵なしの状態が続く、自民党が沖縄でだけボロ負けし続けている理由は、沖縄特有の地域事情を無視して、「内地式の選挙をそのまんま持ち込んでやっているから」だと思っている。しかしそれをやるほど若い世代の支持が集まりやすいのではないか。日本の県で中央から最も遠く、人口も少ない故のハンデから「足りないもの」を満たしてくれそうな候補が支持されるわけである。これは平和教育が薄れている、若者が右傾化しているというよりは、その逆で、地域ナショナリズムの喪失の結果だと思う。

 ところで中国・ウイグル自治区では近年「ウイグルのジャスティン・ビーバー」と呼ばれる歌手Ablajan氏が大ヒットしているという。そのミュージックビデオを見ると、ロケ地こそウイグルだが、北京語で歌い、音楽性やダンスの雰囲気はよくあるいまどきの大陸中華ポップスと言う感じだ。

 2000年代ならこういうアーティストはウイグルにはあり得なかった。
 私は当時にウイグル・ポップスに魅せられ、いろいろ聴いたのだが、例えば下の彼女たちのように、民族衣装姿で、バザールをほっつき歩いたりしながら、ウズベク風の楽器と音階の音色で魅了するようなアーティストが大半だった。

 この20年、中国は経済発展を遂げたが、例えばウルムチも北京やほかの街と同じような高層ビル街に変わったそうだ。去年は地下鉄も開業したと言い、写真を見る限りは中国のどの都市にもある地下鉄そのものだ。
 いわゆるウイグル問題で、中央政府の弾圧も酷くなっているが、独自の地域文化が失われていく一方、表面的・物質的には充実している。そうなると、力づくで自己決定権を求めるより、リスクを負わされてでも内地化を求める人たちも、出てくるんだろうと思う。で、内地方式がデファクトスタンダードになってしまえば、そのスタンダードのもとでさらに拡充していくことを求め、ますますもともとあった地域性と遠のいていく。

 ネトウヨはよくオール沖縄支持者に「中国が攻めてくるぞ!」とオオカミ少年のように噛みつくが、どうも沖縄を取巻く若者環境は、ウイグルと北京の関係を限りなくマイルドにしたようなものなんじゃないかと思う。これを克服するためには、過去と同じ運動のままでは限界もあるだろう。つまり内地にない新しさを示すことと、よりよいスタンダードの提示が必要となる。それを若者がしっくりくるように見せることができれば、オール沖縄はより高い次元に到達するものだと私は思う。

京都アニ火災に全世界が注目した

 "無敵の人"による残忍な犯行で、多くのアニメーターが犠牲になり、また貴重なアニメ作品の原画・資料を焼失した京都アニメーションの火災事件。全世界中が注目している。それ以上に、海外メディアで気になったのがアニメ文化に対する深い理解の姿勢だ。

 たとえばアメリカCNNの記事はこんな感じだ。
事件現場となったスタジオは多くの神社や寺が存在する美しい古都京都にあり、近隣にはミステリアスな雰囲気を持つ伏見稲荷神社がある。神社の急な階段を登り切った先には、思いがけない場所でキツネの姿をした像に出会う。

京アニの作品には神秘性とありふれた日常の双方が存在する。最も有名な作品の一つは「涼宮ハルヒの憂鬱(ゆううつ)」で、不思議で魅力的な少女が騒動を起こし、クラスメートが異世界の生命体や奇妙なシチュエーションに対処していく。この作品はゲームにも展開された。

多くの作品の舞台は日本で、場所や時代を強く感じさせる。人気のシリーズものでは日常生活に入り込む超自然的な存在が描かれ、SFやファンタジーの要素が入って宇宙人や幽霊も登場する。現実と幻想が入り交じるこうした作品設定は、京アニのシリーズものが世界中のアニメファンの支持を得るに至った大きな理由といえるだろう。

米動画配信大手のネットフリックスは昨年、京アニ制作の「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の配信を開始した。戦争後の世界を舞台としたSF色の強い作品ながら、愛の意味を求めて生きる少女を中心に物語は展開する。ストレスの多い複雑な現代社会で、若い視聴者は自分自身もプレッシャーやハードルに直面しながら美や悟りを求めている。

京アニ作品の美しさは、いくら強調してもし尽せない。日本の神道の伝統ではこの世のあらゆるものに神が宿るとされているが、京アニはこうした古来の伝統を、現代の作品世界で表現している。
京都アニメーション火災、人命と芸術の無残なる喪失

 CNNの記事にはアニメーターを月給制で雇い、社会保障面で支えた経営姿勢に触れているほか、イギリスBBCでも同様に京アニ作品の芸術性、世界中のファンがいること、アニメーターの雇用環境への言及がある。

 多くのオタクたちは、アニメはいまだに日本人の中でもオタク層だけの限定的な文化だと思い込んでいるが、それはあまりに自閉的すぎる誤解だ。実際には、全世界でこれほど評価されているし、事件後、多くの「オタクらしさとは無縁の」各界有名人(特に若い世代)が京アニ作品の思い出を語りながら弔意を示した。オタクのネット原住民なら「リア充」と呼ばれそうなファッションモデルなんかもだ。

 遠くの海外で、ライブ会場が乱射事件やテロに遭うことがあっても、普通は事実報道だけ。そこで演奏していたアーティストやその音楽ジャンルの詳細までは触れないし、だいたい世界的にはマイナーな娯楽だ。しかし、欧米メディアが報じるニュースでもここまで深い言及があるアニメは、もはや世界文化であるということは明らかだろう。

日本人が失望した「令和になっても昭和な芸能界」

 一方、日本では「大手芸能事務所への批判」が関心を集めている。
 ジャニーズ事務所では、創業者のジャニー喜多川氏が他界した直後、出演圧力問題が明らかになった。ほぼ同時期には、お笑いの吉本興業は闇営業問題が起き、それぞれ事務所が批判されている。また、時期はやや少し前の話だがNGT48の暴行被害問題では、AKB48やその関連グループをめぐっての批判も起きた。

 ジャニーズ、吉本、AKBはそれぞれニュースとなった出来事の性質は違う。
 しかしそれをとっかかりに批判されている点ではそっくりだ。支配下のメンバーは事務所には逆らえない。ジャニー喜多川氏や秋元康氏のようなドンがいて、地上波テレビや電通をジャックしていて、たまにテレビをつけたり、コンビニで買い物をすれば、必ずどこかでこの所属タレントの顔を見る機会があるということ。日本では支配的立場にあるが、世界的にはまるで無名だということ。そして当の日本人自身も、今となってはさほど関心を持っていないか、嫌悪感を持つ人の方が増えているということではないか。

 ジャニーズ事務所は戦後昭和以来芸能界で半世紀以上男性アイドルグループを輩出し、市場を独占してきた。一方それは既得権でもあった。たとえば15年ほど前にアジアで今でいうK-POPみたいな感覚で爆発的人気のあったW-inds.は、肝心の出身国の日本のメディアにはほとんど見かけなかった。EXILE界隈が出てくるまで、ジャニーズ以外の男性グループはほぼないに等しかった。競争が起きないうちに新鮮味を失い、ジャニーズ系の寡占状態が続いた結果、実力でのし上がったK-POPアイドルにJ-POPのお株は奪われてしまった。またAKB48こそ21世紀生まれだが、仕掛け人の秋元康氏は昭和時代におニャン子クラブという素人女子学生上がりのグループを結成してヒットした実績を持ち、そのフォーマットを下敷きにして今があるともいえる。吉本興業は明治時代から創業107年の膨大な歴史を持つ。いずれにしても古い芸能界のプレーヤーである。

 多くの日本人がなぜ芸能事務所をめぐる醜聞に注目しているかというと、それは令和時代になっても昭和時代から進歩のない芸能界へのいら立ちではないかと思う。
 昭和の芸能界は娯楽であるとともに、シガラミでもあった。家父長制の時代、チャンネル権を持つ父親が大河ドラマを見たいと言えば、子どもは黙ってそれに従いウルトラマンを見ることをあきらめた。正月になれば家族全員で映画館に連れていかれ、子どもには何も面白くない「男はつらいよ」を見させられた。こっちがつらいよという話である。で、村で春の例祭があれば、鎮守の傍らの自治会館が野外イベント会場となり、そこで演歌のカラオケがあり、梅沢富美男のような大衆芝居のドサ周りがやって来て、ムラ社会のシガラミでそういう娯楽に横並び全員参加させられた。インターネットのない時代、逃げ場はどこにもなかった。

 そういう昭和的な娯楽を煮詰めたものが、いまの芸能界になっていないか。
 地上波テレビ。その娯楽性の大半を占めるのが芸能人だ。吉本興業のお笑い芸人、ジャニーズ事務所やAKB界隈のアイドルグループはかなりの割合を占める。娯楽どころか、報道番組のキャスターにさえ芸人が出てくることもある。どのチャンネルを見ても、同じ事務所の同じ芸人が何かしら慣れ合いしている。それは昭和のシガラミの娯楽と同じ押しつけがましさがあるものだ。

 もちろん、本物の「昭和の娯楽」は平成になって衰退した。
 「男はつらいよ」とか「釣りバカ日誌」みたいな昭和の惰性で続けながら映画会社が企画から製作まですべて自力でやって商店街の片隅のボロい映画館や文化会館で上映する映画は、21世紀までに消えうせて、大船撮影所も鎌女とブックオフになった。演歌や大衆芝居なんかも化石みたいな文化にはなった。しかしそれでもなお昭和の大衆娯楽の負の遺伝子を引き継ぐコンテンツが存在し続け、それに多くの国民、若い世代が不信感や苛立ちを持っていて、肝心の当事者、所属タレント自身も事務所の言いなりの不本意な表現にウンザリして限界に達しているのが今なのではないかと思う。

大衆文化は「日本的古典性」を破壊できるか
 日本がアニメ大国になっていった上で、宮崎駿監督の存在は大きい。「アルプスの少女ハイジ」ではスイスの美しい風景と文化を描き、ジブリ作品は世界的に評価にされるに至った。

 アニメはかつては子ども向けの「ジャリ番」にすぎなかった。成長すれば卒業するもので、子どもだましに作られたものしかなかった。しかしいつしか、若者が魅了される文化になっていった背景には、実写には表現不可能な非現実をいくらでも描けるという無限の創造性があったからだと思う。そしてそれは、自由もないような狭い共同体でシガラミと旧態依然だらけな「昭和の日本のリアル」から逃避する格好のコンテンツだったと言える。

 元祖アニメおたく世代がいまの50代〜還暦前後だという。「宇宙戦艦ヤマト」のようなSF、西洋風の世界が舞台のファンタジー作品が流行った。その彼らは若い頃に洋楽を聴いてロックンロール魂に青春を謳歌し、ディスコで踊った世代でもある。つまりみんな昭和日本の現実にないものを、コンテンツに求めたわけである。1980年代くらいのテレビ放送を録画した映像をYoutubeで見ると報道番組のオープニング映像やCMに繊細な絵柄のアニメーションが用いられているものもあるし、洋楽アルバムのジャケットがアニメーションだったりすることもある。昭和世代にとってはアニメと世界が逃げ場だったのだ。

 その昭和世代の子世代が、我々20代。
 20代世代にとっては、生まれる前からアニメ文化は当たり前。そのまま「京アニ全盛期」に青年となり、今に至っている。デジタルネイティブであり、下の世代になるほどスマホネイティブで、つまりインターネットで全世界に接続されている世代でもある。新卒の20代前半の女の子に好きな音楽の趣味を聴けば「ディズニーチャンネルのドラマの歌しか知らない」「K-POPが10代の全てでした」「アニソン命!」とか、人によってまちまちで、J-POPの存在はどこにもない。ディズニーチャンネルもK-POPもアニメも、ネットを通じて全世界に同じ趣味の友だちを作ることができる趣味ではあるが、もしJ-POPや吉本興業のお笑い芸人を好きになっても、同級生とも大して話題が盛り上がらないんじゃないか。多分そういう感覚は、今の10代とかはもっと強烈になっていると思う。

 若い世代からすれば、地上波テレビのバラエティ空間ありき成り立っている既存の芸能界なんて、シガラミ丸出しの昭和の大昔の村祭りが24時間365日ひたすら続いているようなものである。そんなもの誰が興味を持つか。今日本に起きているのは、そういう大衆文化が岐路に立たされているということではないのか。

 ここ数年、NHKが「国営放送らしい」従来型のドキュメンタリーや教養番組を容赦なく打ち切り、民放ソックリな芸能人のバラエティ番組やワイドショーばかりに放送波全体を埋め尽くしている。これはNHKがあか抜けたからか。違う。NHKはいつの世も日本の封建社会そのもののようなメディアだ。つまり今の日本では、民放的なカルチャーこそ封建性の象徴になっているというころではないのだろうか。

 かつてのJ-POPがまぶしかったのは、本気で洋楽を見習って、一流をやろうとしたから。全盛期のXJAPANは今の我々が見てもカッコいい。しかし今、ジャニーズ事務所とAKB48がらみしかないJ-POPは、K-POPにも洋楽にもあまりに乖離していて旧態依然だ。ダンスミュージックのような新しさやノリで楽しめる感じがない。つまり演歌ばかりの歌謡界と同じということ。90年代以前のテレビが面白かったのは、芸能人はあくまで添え物で、タレント抜きでも企画が面白かったから。大橋巨泉氏などが欧米の進んだテレビ文化をよく研究し、見習うことで、ブラウン管をひねれば「日本的古典性」と程遠い別世界が広がっていたのである。今のテレビは、テレビなんか見ているより原宿の街中を歩いた方がよほど日本離れした娯楽があって気晴らしになる。

 芸能界とメディアの共依存構造が、もう限界にきている。「日本的古典性」を破壊できるかどうかである。さもなくば、昭和のどの農村にも存在していた村祭りがいっせいに滅んだのと同じ過去を繰り返すだけである。
 しかし重要なことは、日本であるということそれ自体を完全否定することではない。日本文化のなかにある価値ある伝統は継承するべきだということだ。冒頭のCNN記者をうならせた京アニしかり、日本の神秘性を描いたジブリしかり。

 世界に学び、古の伝統に学び旧態依然の惰性の現実をぶっ壊すのだ。











全140ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事