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いまこそテレビから「全能感」をはぎ取れ
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 山本太郎率いる「れいわ新選組」が大旋風を起こしている。
 インターネットでの影響力は圧倒的。街頭演説のたびに大群衆が押し掛ける。

 重度の身体障がい者、派遣切りでホームレスにもなったシングルマザーに、拉致被害者家族で脱原発を訴える元電力会社職員など、候補者には見た目も経歴も大きなインパクトがある。何より党首が山本太郎だ。しかし、地上波テレビはなぜか黙殺している。

 「視聴率」を考えれば、これほど絵になり話題性を持つ彼らを扱わないはずがない。
 「諸派だから」報じないというのもおかしい。NHKから国民を守る党はアリバイ程度にでも取り上げているし、山本太郎代表は現職の参議院議員である。
 とにかくれいわ新選組を扱わない合理的理由が何1つない。

 れいわ支持層を含めた左翼の間では「政権の圧力」を指摘する声が出ているが、私はそうは思わない。ファクトがなく陰謀論でしかない。
 では「れいわ新選組」を地上波テレビが全く取り上げない理由は何か。私はそれを地上波テレビの人間たちが持つ「全能感」が理由だと考えている。

 昭和の時代、テレビが国民世論に影響を与える最大のマスコミだった。テレビが作り、テレビが流す放送を浴び、染まることが日本国民の特徴だった。テレビが庶民宰相と田中角栄を持ち上げれば国民は礼賛し、ロッキード事件で失脚すればテレビとともに国民は金権腐敗政治家としての田中叩きに明け暮れた。
 娯楽だってそう。ドリフターズのお笑い、巨人戦のナイター中継。みんな国民が夢中だったが、テレビが仕掛け、テレビが放送し、テレビがカネを稼ぐというビジネスモデルで、国民はただ受動的に番組を見て、染まり、スポンサーやそのコンテンツの関連商品にお金を払い続けたのだ。

 日本は世界の国の中でも特にテレビ文化が高度に発達し、影響力を有したことは有名だ。「風雲たけし城」のような昔のテレビ番組が欧米で現地フォーマット版が作られ放送されるのは、企画力のクオリティがそれほど高かったからだ。さらに欧米ではテレビはリビングにあってカウチでくつろいでみるものだ。家族で食事をする時にテレビを見る習慣などテレビ全盛期にもなかったし、特にヨーロッパだと国民のテレビ接触率は相当少ない。
 かつ海外は1980年代以降多チャンネル化が進んだので、地上波キー局の全国放送でも国民の影響力はなく、視聴が分散すればするほどテレビの側の「主導権」は失われ、「視聴者にに選んでもらうため」の番組姿勢に切り替わっていった。

 世界的現象としてインターネットの普及が起きている中で、日本だけおかしいのは、昭和時代の国民の情報を支配する「全能感」がいまだにギョーカイにはびこっているからではないか。放送現場で決定権を持つ世代は50代のバブル世代、経営者は団塊世代である。いずれもテレビネイティブの戦後生まれで、昭和のテレビ黄金時代にテレビマンになった人たちだ。彼らはテレビが情報を支配するという意識をいまだに持ち続けていることが、れいわ新選組が取り上げられない原因ではないか。

 れいわ新選組を取り上げれと言っているのは有権者であり、れいわ支持層の国民である。しかし、欧米のテレビのように「視聴者にに選んでもらうため」という視聴者第一の姿勢がテレビにはない。主従関係が逆転することなどありえないと、余計かたくなになって、テレビの暴走が続くのではないか。

 考えてほしい。
 今のテレビは誰も見ていないに等しい。視聴率10%が人気番組の基準だという。
 あり得ない話ではないか。残り90%は見ていないのだから、こんなの「諸派同然」ではないか。政権の支持率だったら20%を割れば危険水域である。しかし今のテレビだと、20%近い視聴率を稼げば大々大成功番組らしい。朝ドラの瞬間最高視聴率が62.9%だった時代、紅白歌合戦の視聴率が70%台だった昭和時代からすれば、あり得ないくらい誰も見ていない。

 国民はテレビ離れしきっている。多メディア環境で、趣味も考えも分散している。
 にもかかわらず、テレビの側は一方的に情報を作って、一方的に押し売りし、国民を染めようとする。この10年くらいのテレビは日本スゴイ番組、東大生クイズ番組、不幸ポルノ番組ばかりやっているらしいが、テーマの時点で性格のひん曲がった人間の思いつく企画であり、実際誰も見ていない。いや、視聴率10パーセント台未満の「諸派」の人々だけは、昭和時代の惰性で地上波テレビを見続け、昭和と同じように染まり続けている。彼らはテレビがどんないかれた放送をしても見るだろう。フェチモデルが鼻糞をほじくるだけのアダルトビデオを放送しようが、首都高に設置された渋滞観測用の定点カメラの映像を垂れ流し続けようが、地上波テレビをつけて毎日4時間以上視聴するというテレビ漬けを直せない以上、ブーブー言いながら見るのである。そういう狭い市場を相手にしていることで今のテレビは成り立っているので、国民とテレビの対立が起きるということだ。

 テレビから全能感をはぎ取る必要がある。
 ここ近年のテレビの政治報道を振り返ると、小泉改革を煽り、民主党への政権交代を煽り、第二次安倍政権になったらアベノミクスを宣伝し、舛添要一都知事を失脚させ、小池百合子を都知事にした。この流れの中で、実際に国民世論とテレビが足並みをそろえていたのは民主党政権発足あたりまでじゃないか。
 特に小池百合子は、ネトウヨからは反日扱いされ、リベラルからファシストと呼ばれ、誰からも歓迎されていなかった。しかしあの時、国政より都政ばかり煽り、水道民営化や種子法やカジノに比べるとはるかにはるかにどうでもいいチマチマした政治とカネの問題で舛添を失脚させ、その代わりとして小池を担ぎあげ、一時は彼女のもとで政権交代をさせようと仕掛けたのは、ほかならぬテレビである。
 けど小池が「排除」発言をした途端、急にテレビはトーンダウンし、持ち上げはしないが批判もせず都政の話題から引き揚げてしまった。まるで子どもが執着していたオモチャに飽きてポイと放り投げるかのようだ。こうしたテレビの「全能感」の政治に国民が翻弄されていた時代と、もう決別する時がきているのではないか。

 大衆世論をさらに高揚させる必要があると思う。
 テレビは、私たちが考えるほど大きな存在ではない。1億3000万人の生きる国で、たった1000万人が見れば人気番組と自画自賛するような媒体だ。かつて1億③000万人を夢中にしたテレビは今、中四国地域在住者だけが話題にしているようなことを作ることが普段の放送では限界なのだから、より大きな大衆世論を可視化させ、テレビに思い知らせてやる必要がある。

 今リベラルは、あえて右から学ぶ必要がある。
 在特会がまだ社会問題化してヘイトデモ参加者が陰りをみせ出す前、ネトウヨたちが「韓流反対デモ」を起こしたことを覚えているだろうか。当時K-POPを多く放送していたフジテレビが標的にされ、局舎が何度も包囲された。
 K-POPは実際に多くの若者に支持されているのだが、当時のネトウヨはそんなのは間違いだと、「日本を愛するような番組をやれ」「韓国を叩く番組をやれ」と息巻いていた。そんなバカバカしい話あるかと、私はネトウヨを観察していたのだが、デモの直後、フジから、全地上波から韓流番組が一掃されたのである。そして、入れ替わるように地上波テレビに広まったのは、「日本スゴイ番組」と「ヘイト番組」である。ワイドショーがナッツ・リターンのような嫌韓ゴシップばかりやり、夜のバラエティ番組は日本を自画自賛する、まさにネトウヨの理想のようなテレビになった。テレビはますます国民と溝が深まっていったが、あの時のネトウヨたちの要望は通ったのである。

 つまりリベラルもテレビ局を包囲するとか、具体的な地上波テレビに対して意思表示する行動をするべきではないか。
 テレビの持つ「全能感」なんてあくまでそんなものである。全国でたった120万人しかいないというネトウヨの、その中でもごく一部の数百人程度がキー局の局舎を包囲しただけで、各局並んで朝から晩まで放送し続けていた話題を正反対に切り替えるというのは、本当の意味での「全能」ではないということを意味している。つまり自分たちが主導権を持っていると思い込んでいるのは昭和のままだが、本当はテレビの側も自らの世論影響力に自信喪失になってるんじゃないか。

 だったら右のやったことと同じことを左もやるべきだ。もっとリベラルな放送をするよう文句をつける。渋谷スクランブル交差点や首相官邸のデモ、れいわ新選組の街宣と同じ光景を、テレビキー局の前で再現すればいいのである。フジテレビデモは最大でも2000人前後しか集まらなかったそうだが、SEALDsは最大12万人集まっているのだから。






 



高校野球有害論を「右」しか訴えられない現実

 夏の高校野球という軍国趣味の害悪スポーツの予選がまた始まったらしい。
 2019年である。今の高校生はみんな21世紀生まれで、平成時代すら終わったのに、丸坊主の高校球児が炎天下で繰り広げる封建時代の軍国趣味のスポーツ大会に異常性しか感じない。これは右翼文化そのものである。邪悪な高校野球を廃止しろというのがリベラルのあるべき姿勢だ。

 しかし現実にはリベラル系メディアは全く甲子園批判をしない。なぜか?
 それは彼らこそまさしく開催者だからだ。夏の大会は朝日新聞、春のセンバツは毎日新聞と、左派全国紙の2大紙がこの右翼文化丸出しの、子どもの人権侵害のようなブラック部活の極みをやっている。紙面を用いて「甲子園の伝統」だの「球児の死闘」を美談にしている。水も飲めないようなパワハラ指導は「熱血コーチ」になってしまう。

 では甲子園を批判しているのは誰か。右派である。
 それも読売新聞のような「保守」ではない。読売のさらに右に位置する産経新聞の電子版IRONNNAは去年「「炎暑でも高校野球」朝日の二枚舌」と題した特集を展開。ブラック部活を批判しながら高校野球をを主催し続ける朝日新聞の二枚舌がインターネット上で大炎上したことを受けての特集だ。炎上にはネトウヨの朝日新聞バッシングだけでなく、多くのリベラルの人も憤りを抱いたはずだが、こうして堂々と記事にできたのは産経だけなのである。
 日本では昭和時代、野球は国民的スポーツだった。国民的人気チームは王者・巨人軍であり、高校野球とは卒業後に巨人で活躍する大物選手の卵を見定めるオーディション大会の面もあった。高校球児たちはドラフトでみんな巨人に行きたいというのがお決まりだった。巨人のオーナーは読売新聞である。
 本来、部数で保守最大手新聞の読売と、リベラル最大手の朝日は、思想でも経営面でもライバルなはずだが、野球文化をめぐっては甲子園→巨人軍でプロ入りというモデルで「相互依存状態」だったわけだ。
 保革全国4大紙のうち産経だけ、高校野球を主催しないし、自社球団も持たない。ゆえにシガラミなしに甲子園有害論を掲げることができるのは、産経だけなのである。

 私はこのIRONNNAで、自民党・和田政宗参院議員の記事にはたいへん共感した。
 「リベラルのブログなのにネトウヨ議員を評価するなんて!」と左翼の皆さんに怒られるかもしれない。しかしいいものは褒める。橋下徹氏元大阪市長が在特会を目の前で罵倒してヘイトスピーチ条例を作ったのも、大英断として評価した。是々非々のスタンスとしてみると、この和田参議の記事は非の打ちどころがまるでない正論なのだ。いい部分だけ抜粋してみるとわかる。

「一度負けたら終わり」のトーナメント戦では、どうしても「勝った負けた」の結果にこだわってしまう。甲子園で優勝したものの、勝利至上主義によって消耗し、大学では野球を続けることができなかった高校球児を実際に私は見ている。 
高校野球は本来、子供たちが野球を通じて成長するために行うものではないのか。またスポーツとしても、選手が将来的にプロ野球などで継続して活躍できるように育成するための基盤を作るものではないのか。
(中略)
であるならば、サッカーのワールドカップ(W杯)のように、甲子園や地方大会においても、たとえ一度負けても、また次に向かって前進することができる「リーグ戦形式の大会」の方が望ましい、その上で、プレーオフや決勝トーナメントを実施すれば、球児らへの身体的、精神的負担も今よりは随分軽くなるだろう。
実際、アメリカでは高校野球の試合はリーグ戦が主体となっており、甲子園のような全国大会はないが、卒業後にメジャーリーガーとして飛躍する選手が数多く生まれている。
朝日新聞の皆さん、夏の甲子園「無理」「もうダメだ」の勇気を (和田政宗) - オピニオンサイトiRONNA

 この和田氏の主張のどこにネトウヨ性があるだろうか。リベラルそのものである。
 「伝統ガー」としがらみに固執し、便所を素手で掃除する人々のような感覚で雨風を凌げるドームではなく炎天下の甲子園球場にこだわり続けるような封建的な高校野球関係者に対し、外国のスポーツを例に出すなど柔軟な提案をできる人間が、なぜか野党議員ではなく、和田参議なのである。

 和田参議は旧来型の保守政治家ではない。もともと「自民党の右」の次世代の党にいた超タカ派だ。ゆえに古いしがらみを持たないから、古い自民党の世襲のいかにもな保守政治家ではありえない主張や振る舞いをできてしまうわけだが、それが良く作用した例が高校野球批判だ。

 その一方で、「日本共産党 高校野球」とTwitterで検索すると、現職議員を含む共産党関係者の高校野球を支持し、迎合するツイートがくさるほど出てくる。
イメージ 2

 共産党の世間ズレを感じる。
 共産党は、時のリベラル野党第一党(今は立憲民主党、少し前の民主党、さらに昔は日本社会党)よりも左側の政治勢力である。つまり主要な公党で最も左翼的なはずで、当然この右翼文化は批判しなきゃ筋が通らないはずだが、ところが現実には、共産党関係には甲子園に対する批判的思考ゼロなのである。当然、それこそ立憲民主党などの穏健リベラルは「保守性」ゆえに批判はできないだろう。

 共産党の支持者はシニア世代が多い。シニア世代であればあるほど昭和の野球=娯楽の王様の時代の感覚に縛られているものだ。それが現代的感覚とあわない。なので、都市部の現役世代、特に若者に、既存の革新勢力が支持されず、右ばかり勝ってしまうのではないか。

 神奈川県郊外に生れ育った自分の世界には、高校野球というものは存在しないも同然である。県内に強豪校はあるが、県民の多くは興味はない。強豪校の在校生さえたぶん他人事なんじゃないかと思う。東京首都圏、大都市部特有の傾向で、あの軍隊みたいな世間ズレした右翼趣味こそ「ダサい」し「不気味で怖い」と思うものである。とにかくアレルギー反応が先行して嫌うか、あまりにも遠い存在すぎて無関心が基本だ。なので、最寄り駅に地元高校が予選で勝ったことを祝う垂れ幕が下がっても素通りである。
 だがしかし、お盆休みに祖父母のいる東北地方に遊びに行くたびに気づいたのが、地方では高校野球はオリンピックやサッカー日本代表に匹敵するかそれ以上の娯楽であるということ。「故郷に錦」と県民ナショナリズムを高揚させるわけであるのと、地縁血縁社会が広く、出場校やその関係者にも自分の身内がいるので他人事になれないのだろう。
 例えば東北自動車道の下りを走っていると、カーステレオで聴く在京のFMラジオは通常放送。サービスエリアに立ち寄っても、食堂のテレビ画面は民放バラエティ番組を映していたりするのだが、ラジオの選択肢が激減する栃木を越えたあたりで、地元FMラジオさえ高校野球特別番組を流すようになる。そしてサービスエリアに立ち寄ると、食堂のテレビは民放でも高校野球をやっていて、ラーメンをすすりながら地元住民が釘付け状態だったりする。祖父母の家や親戚の家にやってくると、そこでも高校野球をつけていて、いとこから祖父母まですべてが野球の話題をしている。
 甲子園開催中だけ東京・神奈川と東北地方で別の国に分裂するのである。もっというと都市部と地方部の文化的断絶である。

 アメリカでは、都市部と地方部で保革の思想が異なり、好まれる文化も違う。
 都市部ほどバーニー・サンダースやオカシオコルテスのような急先鋒左翼が支持を集め、地方部はトランプ大統領やブッシュ元大統領のような超タカ派が支持される。こうしたギャップが文化的思考と一体的で、都市部で若者に絶大な人気を誇るポップシンガーが路上でデモ活動をしたり政権批判を堂々とする一方、地方部では都会では無関心でアメリカ以外の国では完全に無名なカントリーミュージシャンが脅威的な支持を集めたりする。保守的心象をくすぐられるというわけだ。ニューヨークやカリフォルニア都会でLGBT運動に取り組む人が休日に公園でピラティスをしているころ、中西部や南部の白人主義者たちは庭でライフルをぶっ放しているわけである。右翼的思想には右翼的文化がある。

 日本がおかしいのは、右翼文化を左翼政治が支えるという「ねじれ」が起きているということだ。左のオピニオンリーダーの朝日新聞が主催する高校野球を、共産党や旧民主党といった左翼政治家が批判せず乗っかり、選挙区の地元の高校が優勝すると一喜一憂するのである。あの学校の快進撃のように自民党に勝とうとハッパをかける。そういう左の政治家は、都市部の選挙区にもいて、都市住民にとって非現実的な存在である旧住民の地域コミュニティに食い込んでいて、市民の僅か一部でしかない旧住民向けの論法で「ふるさと○○市の××高校が予選突破!私も△△期卒です!」と自己アピールをしていたりすると、左翼そのものが保守的に見えてしまう。「うわ、政治って古いなあ」と思ってしまう。大都市だって昔は農村、古くから住んでいる人は東京都民でも都会の田舎者なのである。

 そういう地縁・血縁と無縁の人たちからすると、自民党に属していても堂々と高校野球を批判できる和田政宗参議の方が、そこだけを見ればよほど現代都市住民の感覚を共有するまともな政治家だと思えてしまう。故に注目され、支持される。大阪で維新が支持された理由も同じだと思う。地縁・血縁をアピールすると既成政党(自民党から共産党まですべて)の古い政治家と同類とみなされ、たとえ政治的イデオロギーがまともでも、存在そのものが疎ましく思われてしまう。

立憲民主党は枝野幸男の「AKB礼賛」を糺せ!

 私が甲子園の高校野球とともに「右翼文化」として憂いているのが、秋元康氏率いるAKB48やその関連グループだ。しかし政界きってのアイドルオタクは、実は野党第一党・立憲民主党の党首枝野幸男なのだ。

 御年55歳、安倍晋三首相と同期のベテラン政治家である以前に、そもそも孫がいてもおかしくない年齢の「相当なおっさん」が、最新のAKBや関連グループのメンバーや曲を網羅していて、記者会見とかメディアに露出するたびに元気が出るだの歌いたいだの言っている様子は、正直枝野氏の子どもの世代である我々からするとあり得ないものだ。自分の親がアイドルオタクだったら気持ち悪い。これが左右問わず、そもそも常人の感覚である。

 AKB48ブームの当時秋元康氏はCNNから性的搾取に関与しているのかと批判された。程度の低い日本ローカルのアイドル文化になんて無関心なはずの欧米メディアが峯岸みなみの丸刈り謝罪NGT48暴行事件などはいっせいに注目したのは、政治的公平性の面(女性、特に少女の人権の観点)でナンセンスだからだ。その文脈は、児童ポルノとかJKビジネスへの批判と同じ流れにある。制服姿で歌って踊ってデビューするAKB界隈は、それ自体が本来リベラリズムからあり得ない、「反対側の文化」というのが欧米基準だ。
 また韓国でBTSと秋元康氏のコラボレーション計画が取り消しに追い込まれたのは、韓国リベラル層の間で大炎上したからだ。中央日報が論じるところではこの通り。
秋元康氏は日本ガールグループAKB48を企画したプロデューサーで有名だ。 

  しかし、彼がプロデュースしたAKB48が靖国神社の前で公演したり、旭日旗が描かれた衣装を着て公演したりした事実が知らされ、論議を呼んだ。 

  また、秋元は曲の歌詞に女性の性を露骨に表わすなど、性を商品化するという批判も浴びた。 

  防弾少年団のファンたちは右翼性向をもつ人物という論議を呼んでいる秋元氏とのコラボが今後防弾少年団の音楽に悪影響を及ぼすだろうと懸念した。 

  ファンたちは「右翼、女性嫌悪の作詞家とのコラボを直ちに中止して関連資料の全量廃棄を要求します」という文書をインターネットに掲載するなど、積極的に反対の声を出している。
防弾少年団、「右翼論議」日本プロデューサーとのコラボを取り消し | Joongang Ilbo | 中央日報

 欧米先進国でも、隣国韓国の感覚でも、AKB界隈はリベラルの反対の文化という認識が基本だ。日本でも、フェミニストの多くはAKB界隈に猛批判をしているし、自衛隊とのコラボなど安倍政権との距離の近さをリテラなどがたびたび批判している。

 しかし立憲民主党は、党代表がAKBかぶれ丸出しなのである。
 それどころか、そういう人たちを引き寄せる傾向にある。結党当初、漫画家の小林よしのり氏が街頭演説をしたことは多くのリベラルを失望させたが、小林氏も「AKB論」を出版してしまうほどの筋金入りのマニアである。その時点でナンセンスだし、ネトウヨの多くは彼の漫画の影響を受けている。

 AKB48と高校野球のナンセンスさはそっくりだ。
 AKBは東京ではキモヲタ(アイドルオタク)以外興味がなく、無関心か嫌悪しかないが、田舎に行くと、TSUTAYAとテレビ朝日「ミュージックステーション」とドン・キホーテがマイルドヤンキーの貴重な娯楽なので、東京のように多様な文化や音楽の選択肢を持たない彼らにAKB48は圧倒的影響力がある。まるで高校野球ではないか。
 しかもプロデューサを「先生」と呼んだり、縦社会の集団主義っぷりは反吐が出るものがある。甲子園が全員丸坊主なら、AKB系のグループがデビューする時は横並び全員同じ、東京圏の個性豊かな女子高校生とは違う管理教育の制服姿で出てくる。春のセンバツでは行進曲がAKB系が高頻度で採用されているし、AKB総選挙のスタジアムを貸し切った謎の感動の押し売りのカルトな雰囲気は完全に甲子園そのものではないか。

 しかし、私が見る限り、AKBをまだマイナーだった頃からゴリ押しし、ブームを煽ったのは、テレビなら国営放送NHKであり、新聞なら産経より朝日新聞だった記憶がある。つまりはこれも「甲子園メディア」である。結果既成事実的に国民的グループになった。SNSを見ている限りでも、総選挙の際に国民生活にはどうでもいいAKBの話題にリアルタイムで張り付いて、一喜一憂して速報している新聞社も、朝日の方だ。これも、東京の日常生活で限られた甲子園マニア以外興味がない甲子園の話題を、時期になると延々紙面を割いて押し売りする朝日新聞スタイルに似ている。

 高校野球もAKB48も不公正の集合体で、本質的には全体主義で、日本のクソみたいな旧態依然の現実を煮凝りにしたような集団でしかなく、洋楽志向が多いリベラルが求めるようなより非日本的な、より自由で、個性を尊重したような方向性と相容れなくなる。

 しかし大衆がそのような方向性を持っていても、日本では左の政党が、左のメディアが、このように寧ろ率先して右よりも高校野球やAKBを持ち上げ続けている。私が「右翼文化」を批判できない朝日新聞や旧民主党に日本式リベラルの限界を感じる理由だ。

左派の統合に「文化」が足りない日本

 おととし、アメリカのスポーツ選手が膝をついてトランプ政権に抗議する運動を起こしたことを皆さんもご記憶だと思う。

 日本に足りないのはこれだ。
 どんなにSEALDsのようなデモ活動が活発になり、草の根の大衆運動がリベラリズムを高揚させても、方向性の違う野党勢力が共闘構造を構築しても、「左翼政治」が1つになっても、大衆娯楽、スポーツとか文化がそこに続かない。
 決め手が足りないとすれば文化である。だから大多数の国民世論を動かせない。一方、自民・維新の保守勢力は、主に大阪方面で松本人志を筆頭とした吉本興業のお笑い芸人とか、百田尚樹氏とか、保守サイドの文化圏を築くような取り組みが続いている。そうすると、本来中立だった人、リベラルにもなりえたような人も、娯楽を通じて保守に取り込まれてしまう。

 日本のリベラル陣営がすべきことは高校野球をお祭りのように大喜びで取り上げたり、AKB48を礼賛することではない。
 むしろその逆で、こういう右翼文化を徹底的に批判すること。本当は立憲・共産と言った主要国政政党や、朝日新聞などの主要メディアの紙面で批判がなされるべきなのである。と同時に、右翼文化とは異なる左翼文化を発信するべきことだ。SEALDsやANTIFAにはクラブミュージック関係者が多い。朝日の紙面が音楽娯楽を取り上げるなら、AKBではなく、そうしたリベラルなDJ関係の方がよほど筋が通っているし、何よりカッコいい雰囲気が出て、若者の新聞=ダサいという意識から生ずる朝日離れに歯止めをかけられると思う。朝日新聞は甲子園を廃止することができれば、それだけで失うものより得るもののほうが多いビックニュースになる。

 今こそリベラルな文化を高揚させ、政治やメディアを変えよう!











野原ヨシマサ旋風から考える本質VS同調圧力

 れいわ新選組の野原ヨシマサ候補が話題だ。
 日本最大の新興宗教で公明党の支持母体である創価学会の「壮年部」に所属するベテランである。にもかかわらず、先日は、公明党の本部もある信濃町で街宣を実施。創価学会本部前に赴いてもマイクを握った。

 創価学会の"門前町"である信濃町で公明党批判はタブーのようなこと。
 あのヘイトスピーチ団体の在特会が急拡大した背景にも、信濃町での公明党批判の街宣がニコニコ動画で「タブーに挑戦するネタ」として拡散されたことにある。
 しかし野原氏の演説は、もちろんそんなネトウヨの嫌がらせ目的なものではない。むしろきわめて健全で、至極まっとうなことだ。ベテラン壮年部ということもあって、時折、学会員(信者)でなければ通じない教団用語や話題を用いながら、本来の創価学会・公明党の平和思想の路線と、安倍政治ベッタリの自公連立政権の問題点を厳しく追及している。

 私はもちろん学会員ではないし、むしろ公明党はリベラルの立場から批判して来た面が多いが、第三者的に見ても野原氏の主張は筋が通っていると言える。
 創価学会は戦時中に激しい弾圧を受け、創設者・牧口常三郎氏が逮捕され獄死した苦い歴史がある。そうしたこともあってか戦後は1957年の原水爆禁止宣言をはじめ、様々な反戦活動や世界平和をアピールする取り組みをしながら、国内最大の宗教団体に発展。海外でも折伏(布教活動)が広まり、いまや世界192か国地域にネットワークが広がった。そうした学会の戦後高度成長を率いたのが池田大作名誉会長である。池田氏は教組ではないが(開祖はそもそも日蓮で、団体創設者は牧口氏)、信仰上の指導者として学会員から篤い支持がある。

 我々平成生まれは気づかない人が多いが、公明党は長らく野党だった。
 ゆえに創価学会の平和思想を共有し、福祉の党としてそれなりの存在価値があったのだと思う。90年代には野党第一党の新進党に合流したこともある。自民党政権と連立するようになったのは新進党の分裂後、小渕首相の時代だ。
 しかし小渕首相はご存じのようにリベラルである。沖縄問題に精通し、振興策やサミット開催などの実績を持つ。その後の自公政権では小泉純一郎氏のような新自由主義者もいたし、福田康夫氏のようなリベラルな総理大臣もいた。何より自民党内に戦争体験世代の政治家が多くおり、改憲右傾化に慎重な宏池会的な路線の政治家がたくさん健在だった。第一次安倍政権が短命に終わったのも安倍が若すぎて党内に影響力がまだなかったからだろう。
 だが今では、宰相に「右からしがみつく」ようなヒラメ議員だらけにり、安倍一強構造のもとファシズムが広がりつつある。本来リベラル政党の公明党は歯止めになるどころか、むしろ党所属議員のタカ派的発言、リベラル野党叩きがちらほら見えるようにもなっている。かつて在特会が信濃町に嫌がらせに来た頃ネトウヨは「保守の足手まといのカルト集団」としてあしざまに罵っていたが、いまはネトウヨの公明党批判はトーンダウンしている。
 おそらく組織なりの論理があるのだと思う。公明党としては、長年続いた連立与党というという権力力の座を失うことへのためらいがあるのではないか。第二次安倍政権の前、つまり民主党政権の3年間は自民とともに下野していたので、公明党にとっても「悪夢の民主党時代」なのである。しかし、自民党のブレーキ役として左派色を出すようなことをすれば、連立解消で切り捨てられかねない。いまは20年前と違い、改憲勢力に「維新」もある。自民党にとっては自維連立でもいい。

 こうした組織の論理に基づき、公明党は安倍カラーに染まり、「自民党公明派」に変貌しつつあるのだと思う。その象徴的な政策が辺野古新基地建設で、公明党は沖縄県本部は反対としながら中央は推進というねじれが起きている。前もブログで触れたが、地上戦を経験した沖縄は池田大作名誉会長がとくに重視した地域で、県民でなくとも信心深い学会員ほど沖縄の基地問題には強い関心を持つものだ。

 そうした中、れいわ新選組のもと、現役の創価学会壮年部である野原ヨシマサ候補が沖縄から上京し、東京選挙区で公明党批判や辺野古反対をアピールしていることは、とてもシンボリックなことだ。
 あえてこう表現するが、「創価学会原理主義」のような信仰心の篤い人物が、真正面で公明党とガチンコ勝負をしているのである。学会員にとっては、とくに惰性と同調圧力だけに生きているわけではない信心深い人ほど「踏み絵」になってしまう。

 これまでのあからさまな公明党批判とか、信濃町での街宣をする人々といえば、だいたい右翼や左翼、別の新興宗教団体であり、学会アンチであり、池田名誉会長を中傷するような悪意のある人々だったが、その逆である強い信仰心の持ち主から、信心に基づいた批判が起きるということは非常に興味深い。

 かつては日蓮正宗の事実上最大の「講」だったが、宗門と対立し破門されたのが1991年のこと。その際多くの信徒は宗門を選ぶか学会を選ぶかの運命の選択を迫られ、結果、学会を選んだ。信心深い宗教者はみな一途なのである。
 ゆえに私が公明党だったら、空前の野原ヨシマサ旋風に頭を悩ませると思う。組織の論理や利益を優先すれば下野なんてありえないが、このまま野原氏が選挙戦の中で浮上していけば、仮に彼が落選して山口那津男代表が議席を守り抜くことができても、大きなシコリが生じてしまう。党と教団の溝が広がろうものなら、また分裂騒動にもなりかねない。

 しかし、それが今の創価学会員の葛藤であり、その葛藤ゆえに野原氏が立ち上がったのではないかと私は思う。むろん日本国では信仰は個人の自由だし、政治思想も個人の自由なので、創価学会を信じながら我流の教義の解釈で折り合いをつけながら改憲や核武装を求める人もいるだろうし、公明党以外に投票する学会員だっているだろうし、いなきゃおかしいのだが、この野原旋風は、創価学会・公明党ローカルの問題ではなくて、日本のあらゆる諸問題に通じることだと私は思う。

「新聞記者」でのマスメディア・官僚の葛藤も同じ

 野原旋風の背景を考えると、どうしても現在上映中の映画「新聞記者」で描かれたテーマとダブって見えてしまう。

 この映画では、社会部の女性記者吉岡エリカと内調に出向しているエリート官僚という二人の主人公がいる。
 「新聞記者」としての使命は、本来なら社会の木鐸であり、権力の番犬であるにもかかわらず、日本では記者クラブメディアは政権とズブズブの関係にあるため、下手なことはできない。部下は上司に逆らえず、上司は権力の顔色をうかがい、ジャーナリズムが崩壊し、「報道貴族」とリベラルから批判されるようになってしまう。
 そんな中、本来なら自身の取材活動を後押ししてくれる存在であるはずの同僚から白い目で見られたり、圧を受け続け、組織の論理に阻まれながらも我流に孤軍奮闘する吉岡エリカの姿を見ていると、今の日本そのものではないかと思う。
 そしてそれは内調に出向した官僚・杉原拓海だって同じだろう。全体の奉仕者として、国民に尽くすために公務員になったはずなのに、政権の安定のために滅茶苦茶な仕事を命じられ続ける。同僚はみんなズラリと並ぶパソコンの画面にくぎ付けで、不気味な上司には自分自身の生殺与奪の権を握られ、脅しのような発言もちらつく。

 それでも筋を通そうとするとどうなるのか。それが知りたい人は、この映画を見てほしい。あの衝撃的すぎるエンディングである。大きな問いが、我々にも投げかけられている。

 私はそれでも、おかしな日本を変えなければ、おかしな日本はもっと異常な日本になると思う。異常な日本とは、大日本帝国時代への回帰であり、もっというと先の大戦の軍国主義に狂った時代だ。あるいはそれより酷い未知の時代が来ることだってある。それは避けたい。

 おかしな日本を変える最大の武器は「本質に立ち返り、同調圧力を突破する」ことにあるんじゃないかと私は思っている。あの映画を見て、そして今野原旋風を見ても、思う。

 これはあらゆることにいえるんじゃないか。
 あなたが働いている職場環境だって、程度の差はあれブラック企業だろう。本当なら意志や目標を持ってその仕事に就いたはずなのに、実際は程遠い仕事をしているし、理不尽も経験する。しかしおかしいと思っても「忖度」をさせられ、抵抗しようものならクビになる。誰もが自由意志を持ち、ルールの厳格な運用で世の中が回っている国ではない。法治国家になりそこねた「形だけでいい民主主義の国」の鳴れの果てである。
 そうした日本の異常性の究極が、国民総ブラックの労働環境と言えるし、その支配構造の4番目に、第四の権力であるマスメディアがいて、さらにその上に官僚がいて、頂点に安倍晋三主総理大臣が7年君臨している。

 今こそありとあらゆるものが本質に立ち返る時なのである。
 マスメディアが終わっているようでも、記者クラブ制度の中でも望月衣塑子記者のような人がいる。官僚の腐敗は昔から言われてきたけども、前川喜平元文科次官がいる。そして宗教者をみれば、野原ヨシマサ氏がいる。
 どんなに組織集団がおかしくなっても、それでも十人十色ではない。中には本質をちゃんと忘れずに現状を批判的に見れる人が実はそれなりにいるのである。そして、体当たりで同調圧力を突破しようとする人が出てくる。

 そこにこそ日本の希望があるのだ。
 さあ参院選だ。今こそ、世の中のこと、政治のこと、日本の問題についてもう一度考え直そう。私たちの目の前に広がる日常をどうにかしたいなら、選挙に行かなければ何もできない。しかし選挙に行きさえすれば有権者は誰もが意思を表示できる。民主主義のすばらしさをいまこそかみしめる時だ。













 

 





広島の公共交通は政令指定都市ドベの自覚を持て
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コモンズより広島を走る市電。広島駅〜中心街〜観光地宮島口をむすぶ

 人口120万。市としては日本で10番目を誇る広島市には、いまだに地下鉄がない。人口では下の仙台市にもあり、100万都市にも満たない船橋市や川口市や市川市や藤沢市さえも存在する地下鉄路線が、広島だけはないのである。

 デルタ地帯の地盤の問題が最大の理由だという。
 しかし地下鉄に代わる移動手段が旧来の路面電車しかないというのが、致命的だと思う。3大都市圏なら地下鉄がなくても都心からの通勤電車網がある。また北九州市にはモノレールがある。静岡市、浜松市には私鉄が走っている。これらの公共交通では、郊外と市街地、主要拠点を早く結ぶことができるが、路面電車はとても遅い。

 路面電車なら、広島駅から中心市街がある紙屋町まで14分。まずこれが相当長い。
 そして紙屋町から宮島口まではなんと1時間。約19km、東海道線なら東京〜川崎間より短い距離で、東京から茅ヶ崎まで相当する移動時間がかかるのである。これはあまりにもバカげている。
 ちなみに北九州モノレールなら全8.8km区間を19分で結ぶ。静岡鉄道なら全11kmを21分でむすび、仙台市営地下鉄南北線は全15km28分。19kmに1時間がかかる広島の路面電車は、あまりにも時間効率の悪い乗り物だ。

 これは地域の発展を考えると改良が必要である。
 ただでさえ広島は、新幹線も停まる中心ターミナル駅が町はずれで、市街地と分離しているハンデがある。そのうえイオンモールやサッカースタジアム、いくつかの大学やニュータウンは北側の山の手にあり、路面電車でカバーできる範囲は完全に限られている。安佐南区、安佐北区、東区民にとっては区内を全く走らないので他所の街の乗り物という他人事感もあろう。

 沿線がきわめて狭く、駅は多いが速度は遅く、肥大化した都市圏とかみ合っていない広島市電の存在を、広島はいい加減ちゃんと見直すべきではないか。
 ただでさえマツダ自動車の企業城下町。多くの市民は、路面電車なんか見限って、マイカーありきでバイパスに生きるクルマ社会を選ぶんじゃないか。

 私はこういう地方都市には将来性はないと思う。
 中長期的な目で見れば、旧来の工業都市の仕組みを脱却できない広島は、いわば「デトロイト化」して空洞化して中心から壊死していくだろう。支店経済、中四国のハブの地位は、瀬戸大橋が伸びて山陰方面にも通じる岡山に奪われる。岡山の方が都合が良ければ、みんなそっちに移って脱広島の流れになる。さもなくば半端に近い大阪と統合されるだけではないか。

広島に必要なのは「市電ではなくBRT」だ
モンズよりオーストラリアのBRT

 こうした広島のような都市にこそ必要な交通手段がある。それがBRTだ。
 BRTは連接バス車両と専用道・車線を駆使した新交通システム。車体はバスだが、限りなく都市鉄道に近い交通機関として機能している。

 たとえばアメリカ・コロラド州フォートコリンズのBRT「MAX」を利用すれば、ダウンタウンから7km南の郊外にあるトラウトマン地区まで所要20分で行ける。途中のBRT駅は11駅とかなり多い感じがするが、この区間、通常の路線バスなら37分〜50分かかることを考えるとかなりの時短である。
 広島駅から紙屋町のたった2kmに14分かかる路面電車と、7kmを20分で走るBRT。一体どちらの方が必要性が高いか。明らかにBRTである。
 路面電車は40km以下でないと走れないため、通常の路線バスより遅い。専用軌道の場合は法律が変わるが、宮島線の認可最高速度は毎時60kmと、なんだかんだで大して早くない。車両性能の問題もあってそれ以上を出せない。もしここがバス専用道でBRTだったら、それより早く爆走できる。

 広島に必要なことは、路面電車を廃止にし、BRTに転換することだ。既存の線路をそのまま専用道に転換し、宮島線の軌道区間は専用道に切り替えれば、すぐにできることだ。

 





 朝日新聞はネトウヨから目の敵にされているように、発行部数世界2位を誇る日本最大手のリベラル新聞だ。しかしながらその紙面にたたかう意志は全く見られない。第一次安倍政権頃から論調の保守化、御用化、ネオリベ化が進んだ結果、かつて自民党政府を舌鋒鋭く批判したようなペンの力が失われてしまって今に至っている。今リベラルが朝日をどう思っているのかは、SNSで安倍政権打倒の社会運動に取り組む人々のアカウントを見てほしい。連日のように失望させられてばかりだ。

 元気だった頃の祖母から聞いたことがあるのだが、我が家は100年くらい朝日新聞を購読し続けている家系らしい。そんな筋金入りのリベラルの私が、朝日新聞の「体たらく」を糺す方法を以下に提示したい。

組織改革で縦割り廃止 セクショナリズムを改める
 日本では世界で唯一の記者クラブという制度が存在し、権力と新聞メディアの癒着構造が問題視されている。首相官邸の記者会見もそうで、フリーランス・週刊誌・海外メディア・ネットメディアなどが自由に取材に訪れることはできない。

 菅義偉官房長官が何かを話すといっせいにカタカタとパソコンを叩く容易な光景は、この制度の病理そのものだ。彼らは「政治部記者」で、会社の命令でルーチンワークとして会見場にやってきて、文字おこしをしているのである。ニューヨークタイムズが「尋問者というよりはタイピストような行動を取る」と評したほどだ。記者クラブが存在するせいで、よそのメディアには足を運ぶことのできない官邸の会見場に入れてもらい「大本営発表」を垂れ流すという業務の存在が、日本では新聞媒体の優位性となってしまっていて、その既得権益を守るために、政権を真正面から批判できなくなってしまう。
 映画「新聞記者」の主人公吉岡エリカのモデルになった東京新聞望月衣塑子記者は、そんな会見場で菅長官と徹底抗戦を繰り広げることで有名だが、彼女は社会部の所属の遊軍記者だから。つまり同じ記者クラブメディア、新聞媒体であっても、畑違いの部外者が上からの命令ではなく自発的に官邸にやって来て、自由に取材をしているのである。
 彼女がやっていることは、決まりきったルーチンワークをやっている政治部記者からすれば目障りなのだろう。事務作業をやっている傍らでモンスター客が予期せぬ言動を振りまいてワアワア喚いているような疎ましい感じがするんじゃないか。だから望月記者がいくら発言妨害や言論弾圧に等しい扱いを受けても、その場の会見場にいる記者たちは無言でパソコンカタカタを続けるだけで、佐藤栄作元首相が「新聞記者は出ていけ」と言った時のように一緒になって抗議して退席するようなことをしないのであろう。映画「新聞記者」の中でも、同業者が吉岡を嘲うような場面がいくつもあった。
 東京新聞は、ブロック紙で全国紙ではない。親会社の中日新聞ほどの影響力がなく、シガラミが薄いほうなので、望月記者のような人を抱えることができるんだと思う。しかし朝日は、リベラル最大手の全国紙という大きな既得権益を持つので、それを守るために必死で、社会部記者にさえ下手なことをさせられないんじゃないかと思う。

 すべては、新聞が縦割り組織だからいけないのである。
 政治部と社会部で、身内が身内を責めるようなお役所のような縄張り争いが発生してしまうから、政権を監視できず、批判できなくなる。内輪の事情から、御用化してしまう。これを阻止するには、朝日新聞だけでも縦割り制を見直してはどうかと思う。
 安倍首相がスポーツ(日本代表や相撲、東京五輪など)やバラエティ番組を何かと政治利用する時も、縦割りの新聞では政権批判ができない。スポーツなら運動部、娯楽は娯楽の担当部署が普段通りのお遊び感覚のトーンの記事を書き、結局これが政権の宣伝になってしまうからだ。海外であれば芸能人もスポーツ選手もガンガン政権批判の発言やパフォーマンスをするが、ちゃんと新聞記者は政治報道と同じやり方で記事にする。日本だと反体制色のある「娯楽でも無粋な話題」はスルーしてしまう。これも間接的にリベラルの力をそぎ、ファシズムに加担しているも同然だ。

 読売・日経・産経は保守新聞なのでどうでもいいが、発行部数世界2位のリベラル紙の朝日くらいはまともな報道をするべきである。そのために縦割りを見直し、どの記者もちゃんとリベラリズムをもとに取材にあたり、記事に携わり、分野を越えた横断的なつながりを持てる新聞社に切り替えると、朝日もまともなメディアになると思う。

不動産部門とテレビ局を完全分離する
 朝日の大きな収益の柱になっているのが不動産事業だ。大阪での社屋の建て替えのように、都心の一等地に自社が保有する建物が収益源になってしまっている。これはリベラル紙としてはよくない。なぜなら新自由主義が進めば進むほど不動産事業はよくなるわけで、会社の利益を優先するとリベラル路線と矛盾してしまう。腑抜けになるわけだ。
 アメリカでニューヨークタイムズが劇場を持っていたり複合施設を経営しているなんて話は聞いたことがない。これは世界的に見て異常なので、朝日がリベラル紙として筋を通すなら、不動産を分割して完全な別会社に切り分けるべきだ。

 こうしたリベラル紙の方向性を阻むもう1つが、朝日新聞とテレビ朝日の系列構造だ。地上波テレビ局と新聞社が同じグループになるなんてことは、海外では絶対にありえないことである。結果、日本は、テレビ局の抱える問題を新聞社が批判するというようなメディアの相互監視ができず、テレビも新聞もおかしくなって今に至る。
 ハワイの空港でニューヨークタイムズを1部買って読んだのだが、文化面は芸術などのハイセンスな話題が多い。日本の新聞に墓鳴らす存在する「テレビ欄」がない。リベラル新聞は高級紙であって、低俗な娯楽とは距離を置いていて、これにより紙面の品位を保つことができる。ヨーロッパのル・モンドでもガーディアンでも、リベラル新聞は普通、権力批判とハイカルチャーを発信することでブランドを築いている。
 朝日はそれができない。
 テレビ朝日は地上波テレビ局の中でも全く面白くない低予算バラエティ番組をくさるほど放送している局だ。テレビっ子で、子どもの頃はフジテレビの低俗番組を見まくった私でさえフジは「低俗で面白い」が朝日は「低俗なだけでつまらない」という印象しかなかった。
 そしてテレビ離れが若い世代を中心に進んだ2019年現在、朝日がテレビ欄を掲げ続け、試写室と称した欄で今夜放送するバラエティ番組の宣伝までやっていることは、我々大衆感覚とかなりズレている気がする。低俗でつまらないから誰も見なくなった地上波テレビのバラエティ番組を、インテリの朝日新聞がいちいち紙面を割いて宣伝しているのは頭がイカれているとしか思えない。テレビが身内だから、昭和時代の万人誰もが地上波テレビを娯楽にしていた時代の名残をやめられないのである。
 朝日はこの10年でかなり紙面が低俗になった。団塊世代以上の「テレビがない時代の記者」が退職し、子どもの頃からテレビ漬けのバブル世代やそれより若い記者が増えた結果だと思う。芸能面で扱えばいいようなAKB48の総選挙を社会面でデカデカと掲載したり、薬物などの芸能人ゴシップのようなワイドショーや週刊誌が扱うようなテレビ的低俗記事ばかり紙面をにぎわすようになった。コラムや人物紹介コーナーっは大学教授などの有識者だけではなくなり、テレビ的なお笑い芸人やサブカル芸人が平然と取り上げられるようになったのも、テレビ病が新聞を根幹から蝕んでいるからだろう。先の東京新聞のほうがまだ本来の新聞社としての筋を通しており、高級紙らしいとさえ思うが、東京新聞は在京テレビキー局をグループに持たないからだろう。

 このように朝日がリベラル紙として、あるいはそれ以前にちゃんとした新聞としての機能を果たすことを阻み、「普通の新聞」じゃなくさせていたような有害要因を分社化することができれば、朝日の紙面をまともにすることはできる。もし都心のエリートとしてふんぞりかえりたいだけなら遠慮なく自分の筆を折ってでも不動産屋に出向けばいい。記者としてちゃんとした責務を果たしたい人だけが、後継の新聞社にとどまり、いままでできなかった仕事を存分に発揮すればいいのである。

 ところで朝日の発行部数世界2位というのは称号になるのだろうか?

 首位はもちろん読売新聞である。しかしどうせこの読者たちは、昭和の時代にプロ野球が娯楽の王様だった時に、契約すると巨人戦のチケットがもらえたから読んでいるだけではないか。だから読売の記事があの程度なのは分かり切っているが、朝日だってみんな洗剤がもらえるから勧誘員の言われるままに購読しているんじゃないか。宅配制度というビジネスモデルが新聞業を肥大化させた結果、本来の新聞社の筋を通せなくなったというのが日本の新聞社が抱える構造問題ではないか。アメリカには自宅に配達する新聞というものはなく、スタンドで買うか、電子版を読むものだ。日本で電子版が伸び悩んでいるのは、昭和の宅配モデルが中途半端に生きているからでもある。

 フランスのル・モンドは発行部数が30万部にも満たない。減ったとはいえ朝日は560万部。しかし、どう考えても世界的影響力のある一流メディアは、私が見る限りはル・モンドではないか。
 つまり新聞としての筋を通すということに、部数を死守することにこだわる必要性もないのである。まともな購読者層を維持しつつ、まともな取材を、調査報道をやって記事を発信し続けていれば、リベラル新聞の存在価値は発揮できる。

 私は朝日新聞に必要なのは、脱大衆化だと思う。
 戦後昭和の拡大期にあまりに大衆に迎合し続けたことが今を招いている。今の朝日の記者はそんな古い大衆時代のやり方を若手時代から叩きこまれつつ、それより大昔から普遍的にあったはずの新聞の価値とか社会の木鐸としての意味を失っていて、守りに入り、目先の数字だけを固執して、サブカル趣味をまきちらしながら他紙と変わらない話題を横並びで伝えるだけのチンケな御用紙に落ちぶれたのではないか。

 大衆性を削ぐのである。
 ニューヨークタイムズは屋号からわかるようにニューヨークのローカル紙だ。マンハッタンに勤めるそれなりの階層が読者であり、中西部のうらぶれた工業地帯でトランプの帽子をかぶってピックアップトラックに乗っている太っちょは一切読まない。朝日もそうあるべきではないか。つまり、東京新聞が東京圏ローカルであるように、朝日も全国紙から撤退するべきだ。
 地方は人口減と高齢化であるし、そもそも高度なジャーナリズムを求めない人しかいないし、何より県紙が幅を利かせている。地方紙は「おくやみ欄」で地元のムラ社会の知り合いが死んだのを確認するために重宝している人が多いというが、朝日にはそんなディープな仕事はできないだろうし、もししたところで昔からずっと県紙を読んでいる田舎の人がわざわざ朝日に切り替える動機は何もない。こういうどうでもいい市場を、朝日は放棄するべきではないか。

 そして東京圏においても、テレビ欄を見てバラエティ番組を求めるような人、AKB48やキモヲタ・アニメのような低俗サブカルを求める人とは一線を画するべきである。徹底的に尖った形で高度な権力監視をしつつ、まだ人々が知らない社会問題を取り上げて啓発し、居酒屋談義やネット原住民の馴れ合いの低俗な話題と全く次元の異なるオピニオンで高度な言論を展開・発信するべきである。脱大衆化と和製ニューヨーク・タイムズ、和製ル・モンドへの転換歯科、朝日の生き残る道はない。

 もし朝日がそうすることなく、うわべではキレイゴトを言いながら児童虐待のブラック部活で右翼趣味でしかない「甲子園高校野球大会」を主宰し続け、この軍国趣味を利用して戦前回帰を画策する体制をまともに批判せずに取り入り続けるのなら、このまま明治から続いた長い歴史に幕を下ろしたいのだと認識するまでのことだ。改善の余地がないなら、リベラルは毅然とした朝日批判をし、かつてあれほど一世を風靡した由緒ある新聞社が落ちぶれて滅びゆく末路を見届けるしかない。

 その暁には、東京新聞や神奈川新聞は創業以来またとないチャンスがめぐってくる。かつて朝日ほどの大新聞が独占していた地位に、全国紙に勝てるはずもなかった自分たち地方紙が交代できるかもしれないからだ。そうした未来も想定しつつ、東京新聞は3.11のタブーなき原発報道以来のたたかうリベラル路線を、神奈川新聞は「時代の正体」以来の路線を継続し、さらに飛躍させていってほしい。






 



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