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紋章シリーズのファスケスとファシストの話から少し脱線して、ファシストの生みの親であるムッソリーニの経済政策について少し調べてみた。 前回 -> http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22089550.html イタリアにおけるムッソリーニ政権の人気にはそれなりの理由があった。ドイツのヒトラーと同じく、彼はほとんど救世主のような役まわりで大胆な経済政策を実行し、不況を退治し、イタリア国民に自信を回復させたのだ。 そして、ヒトラーが行った経済政策の裏方として、ドイツのハイパーインフレを退治した伝説の魔法使いシャハト博士がいたように、ムッソリーニには、アルベルト・デ・ステファニ(Alberto De Stefani)がいて、自由貿易の拡大や税を低くする一方で、あまり歴史上注目される事もないが、ヒトラーのアウトバーン(高速道路)よりも先に高速道路を整備し、鉄道の電化などの公共政策を行った。 ここでは述べないがドイツの状況について、『ヒトラーの経済政策』の書評を書いたDdogさんのブログがありますのでご紹介 → http://blogs.yahoo.co.jp/ddogs38/28276079.html 比較してみると面白いかもしれません。この本は僕も読みましたが、とても読みやすく「目から鱗」の内容満載でしたね。是非お薦めです! このアルベルト・デ・ステファニという人物は、学者肌の人間でパドヴァ(Padova)にて法学、ベネチアで経済学を学んだ後、ローマにて大学の講師を務めていた。1920年にファシスト党に加入すると、彼の徐々に非凡な政治的な才能も開花させていくことになったのだろう。ムッソリーニによって財務省を任される頃には、自由主義(レセフェール)経済にのっとった政策を支持する者としてすでに有名だった。 ムッソリーニが元社会主義者であったことは知られているが、新政権発足にあたりここまでリベラルな人間を起用するとは驚きだ。 ステファニは、『夜警国家論』者とまではいかないまでも、小さな政府を志向する典型的な古典派だった。彼は苦境に立つイタリア経済の舵取りをする責任者となると、相続税の低減、労働時間の短縮伴う賃金カット、電話会社の再民営化などをおしすすめた。 また、国内経済においては極端に自由市場主義的な経済政策を推し進める一方で、対外的にも伝統的な保護主義政策によって高い関税障壁を引き下げて自由貿易を促進していく政策をとった。 世界初の高速道路はヒットラーが建設したアウトバーンだというのが通説だが、実はファシズムの先輩格であるムッソリーニが先に高速道路建設に着手している。彼の政権下で、まず1921年から1924年の間にはミラン(Milan)とヴァレーセ(Varese)を結ぶ高速道路が完成し、これをモデルとしてとして次々にイタリア主要都市を結ぶ高速道路が建設されていった。 先輩格のアウトストラーダ 後輩のアウトバーン 1930年代にはファシスト政権は100マイル(160キロ)を超える新しい高速道路を建設し、800マイル(1300キロ)におよぶ旧来の道路を整備し、イタリアの主要都市を結んだ。
古代ローマ時代に権威と団結の象徴とされた「ファスケス」をこよなく愛したムッソリーニにとって、高速道路の建設と言うのは、かつての巨大な古代ローマ帝国の権威復興とオーバーラップしていたに違いない。 イタリアの経済が第一次世界大戦後に激しく後退したのは、戦時中の需要が消えてなくなり産業界では厳しい生産調整を強いられたからだが、このムッソリーニの公共事業をバックアップすることによって、あらたな需要が創出しようとした企業もあった。 他でもないイタリアの巨人フィアットだ。
当時イタリアの産業界で力をもっていたのはフィアットだろう。第一次世界大戦前にはイタリアで30番目の企業に数えられていたフィアットは、戦争中にはイタリア北部の工業都市トリノにある工場をフル操業し、航空機、鉄道、トラック、エンジンなどあらゆる軍需製品を製造した。 フィアット社製の軍用トラック そして第一次世界大戦が終わる頃には、フィアットはイタリアで3番目に大きな企業にのし上がった。1915年から1918年までの間に資本も7倍増え、従業員数も4千人から4万人に増大した。92%のイタリアにおけるトラックの生産を行い80%の飛行機の原動機などを製造したといわれている。 しかし、どれも軍需に依存していたため、戦後激しい生産調整に迫られ、ストライキも多発した。1921年、労働者が工場を占拠して共産主義の赤旗が掲げられると、創業者のアニェッリは辞職した。しかし、労働者による会社経営は上手くいかず結局会社に復帰することになる。 イタリアの自動車産業は、その誕生からすでに高級車に特化していた。1919年時点における欧米諸国の自動車生産台数は以下の通りである。 イタリア: 3万5千台 USA: 165万7千台 イギリス: 17万1千台 フランス: 9万8千台 ドイツ: 9万5千台 ロシア: 2万8千台 ムッソリーニが政権につくと、新しい市場の開拓に迫られていたファイットは、モータリゼーションの流れにのり自動車の生産を増大させていき、ムッソリーニのアウトストラーダ建設を財政の面でも支援したと言われている。 フィアット社製の車 ちなみにアニュッリは、ムッソリーニの支持者として1923年に上院議員に任命されている。 アウトストラーダは、現在民営化されており、ドイツのアウトバーンと違い速度制限が設けられた有料高速道路となっている。なお、道路建設や自動車とはまったく関係ないが、日本でおなじみのベネトンの参加になっている。 なんでベネトンなの? 一方、戦時中膨れ上がった20億ドル以上にもなるアメリカに対する戦時借款の問題があった。これが片付かない限りアメリカより更なる借金をするのは無理となり、ムッソリーニはステファニを米国に派遣し交渉にあたらせた。この時のムッソリーニを助けたのがあのJ・P・モルガンのトム・ラモントだった。 トム・ラモントは 『1929年 ウォールストリートの群像』 シリーズでそのうち取り上げることにして、ここではさらっとムッソリーニとの関わりについて述べておこう。 「ドル外交時代」の申し子であるラモントは、イタリアからの外債引き受けを狙っていた。イタリア・リラの通貨危機を契機としてイタリアに急接近した彼は、アメリカ政府に働きかけ、イタリアに有利な条件で戦時債務の問題を解決させることに成功する。そして、さっそくラモントは、一億ドルのイタリア向け借款を決定した。 まぁ、ステファニが行った対イタリア投資に対して税制的にもかなりの優遇政策がとられていたので、もともと海外の投資家にとっては魅力的な国でもあった。 ウォール街でムッソリーニの支持者だったのは、ラモントだけではなかった。ジャック・モルガンもジョージ・ホイットニーも、ムッソリーニを偉大な愛国者と歓迎し、クーン・ローブ商会のオットー・カーンは、彼の冷酷な統治ぶりを破産会社をてきぱきと整理する意思堅固な管財人の腕にたとえた。またギャランティ・トラスト社のウィリス・ブースは、ムッソリーニが「イタリアを絶望の泥沼から前途有望な国へと蘇らせた」と称え、USスチールのエルバート・ゲアリー会長らも、ムッソリーニのファン・クラブの一員となった。 (モルガン家 上 より引用) ウォール街だけではなく、ヨーロッパの国々からも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える動きがあり、イギリスのウィンストン・チャーチルも「偉大な指導者の一人」と彼を高く評価した。 ウォール街はムッソリーニをスト続きで荒廃したイタリアを共産党の手から救った人物と寛容な目で見て、1921年の総選挙で多数の人々を殺害した同党黒シャツ隊のテロ行為などは都合よく見逃していた。当時のイタリアを旅行中だったジャック・モルガンは、友人宛ての手紙に「ムッソリーニ氏の革命の成果を見て、大いに満足した」と書いている。はじめの頃のムッソリーニは、保守的な金融政策を堅持する一方で、取巻きを大事な金融面の地位につけないなどして、イタリア金融政策は他国のお手本の観があった。 (モルガン家 上 より引用) でも、 イタリア金融政策が他国のお手本ですか・・・ にわかには信じられませんな。。。 ただ、 この時代のイタリアの通貨政策を調べているうちに分かったことなのだが・・・
しかも かなり フツー に。。。 続く・・・ |
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「ムッソリーニ万歳」
こういっただけで逮捕されるなら、その国末期。
どういう体制でも、戦前戦中のどの枢軸国よりもひどい。
どっちにどう進んでもその国の終わりは近い。
日本に無関係の話ではない。
日本で不敬罪が事実上存在している以上、そうならないと誰が断言できるだろうか。
2019/7/29(月) 午後 0:58 [ 芋田治虫 ]