オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

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前回はイングランド銀行を企画したパターソンが、母国スコットランドに帰ってきた時に企画したダリエン計画とそれにまつわるスコットランド・カンパニーと世界最初の兌換紙幣を発行したスコットランド銀行について書いた。
前回→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22310392.html 

それに対抗するイングランドとイギリス東インド会社について、今日は書いてみようと思う。

東インド会社と言うのは、学校での授業を覚えている人もいるかもしれないがいくつもある。

東インド会社設立年
イギリス東インド会社1601年
オランダ東インド会社1602年
デンマーク東インド会社1612年
フランス東インド会社1664年
スコットランド社(スコットランド東インド会社)1695年
南海会社(イギリス)1711年
ミシシッピー会社(フランス)1717年
オステンド東インド会社(ドイツ)1722年
スウェーデン東インド会社1731年
プロイセンベンガル会社(ドイツ)1754年
(南海会社とミシシッピー会社はこれからの参考として)

ほぼ近代的な株式会社の形態をとっていたオランダ東インド会社に比べ、イギリス東インド会社の場合は当初、航海ごとに資金を集め、航海が終わると資金に応じて利益を配分すとおいう遅れた方式をとっていた。つまりオランダのような永続的な企業としてではなく、プロジェクト・ベースで資金を集め、清算するというものであった。

しかし、それは1657年にクロムウェルによって組織の改編が行われると、イギリス東インド会社はぐっと株式会社らしくなった。

当時の東インド株式会社には8人の大株主がいた。その中でも、群を抜いていたのが『無冠の帝王』と言われたジョサイア・チャイルドであった。

1698年には「新イギリス東インド会社」が設立している。これは、スコットランド・カンパニー設立によって利権がおびやかされたイングランドが、対抗策として設立したと言う見方もあるが、少し違っているようだ。

これは、当時東インド会社を思いのままに動かす最大株主ジョサイア・チャイルドに対抗する商人たちが議会に働きかけ誕生したものだった。

ジョサイア・チャイルド Josiah Child 1630〜1699
イメージ 1
イギリスの商人。ロンドンの商家に生まれ、ポーツマスで海軍への食糧供給業者として財を成しました。1658年にはポーツマス市長にも選ばれています。1671年に東インド会社の株主となり、会社の貿易特権を擁護する論客として株主の間で知られるようになりました。1677年には理事に昇進、 1681年総裁に就任した後、7度も総裁・副総裁を歴任して、およそ10年間、東インド会社を思いのままに動かします。

チャイルドは、従来の主流であった香辛料貿易をオランダと争いながらも、一方でいち早くインド亜大陸産の綿織物(キャラコ)に注目、その輸入体制と欧州での販売経路を確立し、以後のイギリスの東インド貿易を方向付けました。また国内では、国王や宮廷との結びつきを深めて、会社の持つ政治的特権の強化を図ります。

東インド会社の発展に力を尽くしたチャイルドでしたが、その独裁的な経営に加え、総裁の権限を乱用して自社株を操作し私服を肥やすなど問題のある行動も多く、政財界や会社内部からも非難を浴びていました。 1688年、チャイルドと懇意だった国王ジェームズ2世が名誉革命で亡命すると、反対派の不満は一気に表面化、1698年の新東インド会社設立へと向かう事になります。

経済学者でもあったチャイルドは、東インド貿易や宿敵オランダの経済事情に関する研究を行い、『東インド貿易に関する一論』(1681)や『新貿易論』(1690)といった著作を遺しています。
リンク先引用→ http://www.geocities.jp/bombay_marines/history/history-2.html

経済学の世界で言わせるとチャイルドは、重商主義時代の一人のエコノミストのような存在だ。しかしながら、経済史上で彼の存在が注目されるようになったのは、アダム・スミスが『国富論』の中で彼に対する批判を展開したからだと言われている。

重商主義はその「リベラル」期に入ってもう一ひねり加わった。それを実現したのは、ダドリー・ノース卿 (Sir Dudley North) (1691) とジョサイア・チャイルド卿 (Sir Josiah Child) (1693) で、この二人は国際貿易というのがゼロサムゲームなんかではなく、双方にとって有益なものに成り得るということを認識した最初の人物たちかもしれない。
リンク先引用 → http://cruel.org/econthought/schools/mercant.html

専制支配者としての彼の振る舞いは、金と権力をあわせもった実業家として、ロンドン財界で騒がれた。財界ばかりでなく国王や宮廷とも結びつき、「無冠の帝王」とまで言われた。

さて、
このブログでは、時々ロスチャイルドについて述べてきた。

国際金融資本家の陰謀論では、ロスチャイルドロックフェラーが世界を影で支配しているとか、闇の支配者だとか・・・相場が決まっている。

何だか名前が チャイルド と ロスチャイルド で似ているが、実は二人の間にはとても似ている伝説がある。

ロスチャイルドの方は、必ず語られる伝説で内容は次の通りである。

ネイサン・ロスチャイルドの伝説

(リンクより抜粋 → http://www.anti-rothschild.net/lecture/rothschild_03/index.html)
1815年にはワーテルローの戦いが起こります。ナポレオン率いるフランス軍とウェリントン将軍率いるイギリス・オランダ・プロイセン連合軍のヨーロッパの覇権を賭けた戦いですね。

この時、イギリスは国債を発行することによって戦費を調達していました。イギリスが負けることになれば、当然、イギリスの国債は大暴落してしまいます。

ある日、ネイサン・ロスチャイルドが青ざめた顔をして、急にイギリスの国債を売り始めました。

ネイサン・ロスチャイルド
イメージ 2

ネイサンが独自の情報ネットワークを持っていて、いち早く情報を入手できることは知られていましたので、それを見て投資家たちはイギリスが負けたのだと思い込み、英国債を我先にと売り始め、最終的に大暴落しました。

その裏でネイサンは秘密の代理人を使って、紙クズ同然となった英国債を買いまくっていたのです。

翌日、イギリス勝利の情報とともに英国債は暴騰しました。

しかし、その時はネイサンがイギリス国債を大量に買い漁った後だったのです。

これにより、多くの投資家と、ほぼ全ての名門の家系が破産したのに対して、ネイサンは当時としては天文学的な数字である約100万ポンドの利益を得、この日の儲けだけで財産が2500倍に増えたと言われています。

このことは後に「連合国はワーテルローの戦いに勝ったが、実際に勝ったのはロスチャイルドだった」という諺となってヨーロッパに残っているそうです。

ジョサイア・チャイルドの伝説

では、ネイサン・ロスチャイルドの伝説ではなく、今度は ジョサイア・チャイルド の伝説です。
手付金をもらったチャイルドの仲買人はこわい顔をして手をすくませ、インドから10万人もの異民族が東インド会社ベンガル商館を襲撃したという悪いニュースが届いたことをみなに暗示する。

そして2万ポンド分の株を売る。そうすると取引所全体が売り手でいっぱいとなる。誰もが1シリング分も買おうとはしなくなって、株価はみるみる10パーセントとか12パーセントとか下落する。

その時彼は、別の人を使って密かに買い急がせる。10万ポンド近くも買って値上がりを待つ。このようなやり口で、株価は35ポンドから150ポンドまで上下させることによって、チャイルドは巨富を築き上げたのであった。「至極きたなくて貪欲な男」と悪評されたのも無理からぬところであった。
(『東インド会社』 浅田 實 より引用)

ほら、この2つの話・・・何んだか似てますよね。


ワーテルローの戦いにまつわるネイサン・ロスチャイルドの伝説は、ほとんどのロスチャイルド関連の文献に登場するが、実際ロスチャイルドの国債売買によって影響を受けた値動きは確認されなかった。。。ようだ。


まぁ、この手の伝説なんてのはよくあることだが・・・



やはり このネイサン・ロスチャイルドのワーテルロー伝説も・・・



所詮は・・・創作だろう。



ちょっと さみしいけどね。。。

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>やはり このネイサン・ロスチャイルドのワーテルロー伝説も・・・所詮は・・・創作だろう。

*創作だったのですか?

2010/10/8(金) 午前 11:46 マーラーー 返信する

創作に・・・に近いですね。
ナポレオンとの戦争において、ロンドンのロスチャイルドが金を供給していたのは事実だと思います。(現地で必需品調達にはイングランド紙幣は受け入れてもらえなかったからです。)

しかし、戦争の終了と同時に金の価格が下がるのは分かっていたはずです。そのポートフォリオの一環として、おそらくイギリスの公債(コンソル債?)を事前に買っていたのだと思います。戦争が終われば戦費の調達のために発行される公債の量は下がって、その価格が上がると考えられていたからです。

実際に債権の価格は40%上がったようですが・・・

ちなみいワーテルローの戦いは1815年6月18日に開始、ナポレオン退位は6月22日、ネイサンが債権を売ったのはその年の11月で、第二次パリ条約が締結された時のようです。
(ドイツ語ウィキ参照:情報元はニーアル・ファーガソンの著書のようです)

2010/10/8(金) 午後 2:05 [ 9回裏二死満塁 ] 返信する

大々的なロスチャイルド批判を始めたのはバルザックの著書(1838年)で、ワーテルロー伝説を広めたのはGeorges Dairnvaell(1846年)らしいのですが、長くなるので今度改めて取り上げます(笑

2010/10/8(金) 午後 2:39 [ 9回裏二死満塁 ] 返信する

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