オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

全体表示

[ リスト ]

大航海時代の真実

ポルトガルのエンリケ航海王子の話を書こうとしたら、一気に話がそれはじめてしまった。まぁ、とりあえず、地球が平面ではなく、球体であることはすでにヨーロッパ社会の知識人においては常識であったことは、前回述べた→http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22802975.html

もう少し 中国の大航海時代を築き上げた鄭和(ていわ)という人物について知りたくなったので少し調べてみた。

ということで・・・ちょっと 番外編 『大航海時代』 です。


前回、1418年に作成されたという世界地図を紹介したが、その後、紙の状態や使われているインクなどの鑑定が進み、あまり信憑性がないことが判明してきたようだ。

彼がアメリカを発見したという話も歴史家によって否定され、どうやらカラ騒ぎだったようだ


・・・なんだぁ〜 偽物か・・・。



ところが、どうも 偽物と簡単に決め詰めるにはまだ早いようだ。


というのは、15世紀初頭に作成したとされているもう一つ精巧な世界地図(アメリカは描かれていないけど)が存在しており、それが今問題となっている。


そして


その問題はそれらはどうも 一人の人間へと繋がっている。


おそらく今後歴史の教科書が書き換えられる可能性がある人物・・・


鄭和 だ・・・。


鄭和の像
イメージ 1



前回も少し述べたが・・・


いったい どんな人物だったのだろうか?


大航海時代の先駆者 鄭和(ていわ)


馬三保、すなわち後の鄭和は、馬哈只の子として雲南省昆明市にある街の敬虔なイスラム教の家庭に生まれた。


雲南省昆明市 かなり南の奥地だね・・・
イメージ 2


彼の生誕時の名前である『馬(Ma)』は、預言者ムハンマドの末裔であることを示していると言われている。鄭和の父親と祖父はメッカに巡礼をしたこともある。


面白いのは彼の祖先だ。


彼の先祖はチンギス・ハーンの中央アジア遠征のときモンゴルに帰順し、フビライの時には雲南の開発に尽力した『色目人』財務大臣のサイイド・アジャッル(賽典赤)の直系ある。彼はそこから6世代後の人間にあたる。


サイイド・アジャッルは、チンギス・ハーンの時代には、中央アジア遠征の時にハーンに仕え、オゴデイの時は北中国の山西地方の行政官や北京の断事官を歴任すると、第4代モンケの代にマフムード・ヤラワチによって、中国全土を統括する燕京(北京)等処行尚書省の最高責任者に任命された。


ちなみに、ヤラワチは、世界で最初に政府紙幣を大規模な形で流通させた『色目人』だ。


元を滅び、朱元璋が明を建てると、元の影響下にあったこの地は討伐を受けた。その際にまだ11歳であった鄭和は、朱の軍隊に捕らえられてしまい、13歳の時に去勢させられてしまう。その後、鄭和は、宦官として当時燕王だった朱棣(のちの永楽帝)に献上された。


そして、朱元璋が亡くなると、永楽帝が帝位を奪取する靖難の変において彼は功績を挙げ、永楽帝より『鄭』の姓を与えられ、宦官の最高職である太監とされた。

伝説によると彼は、2メートルにもなる豪傑だったそうだが、航海の間、彼は去勢された部分を硝子瓶に入れて常に携帯していたと言われている。もし、不慮の事故で死んだ場合、あの世で再び『男』になるために・・・(独版ウィキペディア参照)

格好良く描かれたりもしているけど・・・


イメージ 3


なんだか セツナイネ・・・。



鄭和(ていわ)の7つの航海



第一次航海(1405−1407年)

最初の航海は62隻の船からなる船団であった。

コロンブスは合計4度の航海を行っているが、最初の航海は90人(120人という説も)を動員しサンタマリア号をはじめとした3隻、二回目の航海は最大で、1200人(1500人という説も)を動員して船17隻、3度目は6隻、そして最期となった4度目の航海では小型の4隻で編成した船団だった。

ちなみにバスコ・ダ・ガマは3度の航海を行い、1回目は180人4隻という船団を編成。2回目では20隻となった。船の全長も21メートル程度(120t)。

それに比べると、2万7千人を動員した62隻の船団は桁外れに大規模であり、使用した船も120メートルもあった。まさに格とスケールが違う。。。


インドへの道は、すでに7世紀玄奘三蔵(三蔵法師)によって陸路は開拓されていいて、ユーラシア大陸を支配した元の時代を経てアジア地域の地図もかなり完成されていたと考えられる。この鄭和率いる船団の目的は、海路を開拓しながら、インドとカルカッタにおいてコショウを陶器やシルクと取引することであった。


混一疆理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)
略称疆理図(きょうりず)とは1402年に李氏朝鮮で作られた地図。
イメージ 4


船団はベトナム、インドネシア(ジャワ島)などを経て、インド洋を西に向かって航海を続け、スリランカ島とインドの南東に到達した。そこで、商人と大使の立場として冬を越すと、帰路は海賊などに悩まされながらも、1407年に南京に戻ってきた。


第二次航海(1407–1409)
カルカッタの王の権力を確かなものにするために、再びインドへ。この航海では、鄭和は寺院の整備などを監視する委員会の仕事をしていて、航海には参加できなかった。

鄭和の率いた船団
イメージ 5


第三次航海(1409–1411)
鄭和にとって二度目の航海となる第三次遠征は、48隻に3万人という編成で行われた。第一次航海と同じようなルートで、途中で商品の倉庫となるような基地をたてた。

スリランカの王は、中国からの使いに対して絶えず好意的であったと言われているが・・・三万人の大軍勢を眼前に好意的にも何も・・・という気がしないでもない。

当時スリランカ王の対立勢力を撃退し、その主犯格を生け捕りにすると南京へ連れて帰った。


第四次航海(1413–1415)
1412年に鄭和は、時の皇帝より第四次航海の使命を受ける。1413年から1414年の年の変わり目に、63隻と2万8560人という編成で出航した。ただし、今回の第四次遠征の目的はもっと野心的で、ペルシア湾のホルムズ海峡で採れると言われている真珠や宝石といったモノだった。船団の一部はさらにアフリカ大陸の東海岸に沿って航海を続けモザンビークにまで到達した。1415年の夏に船団は帰路につき、アラブとアフリカからの使者、及びオリエント世界からの財宝を南京に持ち帰ったと伝えられている。


鄭和の航路
イメージ 6

第五次航海(1417–1419)
第五次航海は第四次航海の時に連れて来た大使を故郷に連れて帰るというミッションを皇帝より受けた。帰りはソマリアにあるモガディシュに立ち寄り、1419年に帰国した。


第六次航海(1421–1422)
東南アジア、インド、ペルシア湾、そして再びアフリカへ向かった。鄭和自身は一足先に1421年に中国に戻ったが、他の船員達は1422年にもどった。


宣徳帝が1424年に亡くなると、鄭和にとって大きなショックであったばかりでなく中国の大航海時代の終焉を意味していた。新しく皇帝となった洪熙帝(こうきてい)は、航海を中止させ、船団を解散させた。鄭和は、当時の首都南京の軍隊の指揮官となった。


第7次航海(1431–1433)
ところが洪熙帝(こうきてい)は翌年の1425年に亡くなってしまったあと、後継者を巡り内乱が起こったが、結局は長男の宣徳帝が皇帝の座につく。彼は祖父の意志を継ぎ、航海事業を再開させ、1430年に命令を下す。その時に司令官として選ばれたのは他でもない鄭和だ。その時の目的は、タイやマロッカの王朝と再び平和的な関係を修復するという外向的な意味合いがあったという。そして、引き続き行われた2万7500人と100隻の大艦隊で出航した。

この時に別働隊はメッカに至ったという。


彼は1433年7月に帰国し、間もなく死去したとあるが、諸説あり、また記録も若干矛盾しているところもある。


ここまでが、だいたい現状の歴史家が認識しているところだ。



ただし、彼の率いた船団の一部が、実はすでにアフリカの喜望峰を超えてヨーロッパに向かって行ったのではないかという説が最近問題になっている。


その可能性を描写しているのが


フラ・マウロ(FraMauro)の世界地図である。

続く→
https://history.blogmura.com/img/history88_31_purple.gif
にほんブログ村 歴史ブログへ(文字をクリック)

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(1)


.


みんなの更新記事