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タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

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インド洋の歴史について、日本人はどれぐらい知っているだろうか?


というかインドの歴史でさえ、あまり知られていないのが現状だろう。しかし、それは日本に限られたことではなく、欧米社会でも大差はない。『アメリカ大陸発見』とか『インド航路発見』ということ自体が、先住民や既存の文化をさしおいた欧米中心の歴史観であることに違いはない。

ただ、それを議論したところで何も変わらないだろう。

自国の歴史に関する説明責任はむしろ日本も含めたアジア諸国にある。


前回、フラ・ムラーノの地図に描かれていた中国の宝船について触れ、それが喜望峰にも描かれていることを述べた。それは中国の船がすでにアフリカ大陸の南を回って、ヨーロッパの航路を発見していたのではないかという仮説さえ思い起こさせられる。


そんなの偶然。 タマタマですよ〜 (^-^)


そうかもしれない。


ただ、それはそれ・・・


もし、インド洋の歴史を知るのであれば、そうした仮説にはむしろ必然性さえあると感じるだろう。


僕がインド洋の歴史について知ったのは、2005年8月22日に在日インド大使である榎泰邦氏が海上自衛隊遠洋練習航海参加者に対して行った講演内容がネットで公開されていたのを見つけたのがきっかけだ。
リンク → http://www.in.emb-japan.go.jp/Ambassador_Lectures/Ambassador_Lectures3.html


とても興味深い内容だったので、大部分を抜粋してみる。(タイトルは除きます)


インド洋での海洋ネットワークはすでに紀元前3000年に確立


オマーンからグジャラート・カンベイ湾までは僅か1,000キロ。本年9月にインド・オマーン国交50周年を記念して一本マストの古代帆船を使ってオマーンのスールからグジャラートまで航海する企画が進んでいるが、航海に予定している日数は僅か15日間である。

紀元前30世紀には既に北インドと湾岸との間で活発な海上交易が行われていた。紀元前25世紀になってインダス文明が栄えると、これがインダスとメソポタミアという2大古代文明間の海上交易と発展し、インダス渓谷で作られた綿織物がメソポタミアに輸出されていた。紀元前23世紀ころのメソポタミア遺跡から発見されたインダス文字の印章も当時の交易を物語っている。また、紀元前30世紀ころのエジプト古代王朝も紅海貿易を展開していたが、孔雀を輸入したとの記録があり、インドとの交易を示唆している。

紀元前10世紀頃には、夏には東アフリカからインドへ向け、冬はその逆方向に吹くインド洋貿易風を使った航海術が確立しており、紅海と北インドとの間ではダウ船が往来していた。

インド洋の貿易風とはようするにモンスーン(季節風)で、6月から9月にかけての夏には南西の風が、10月から5月にかけての冬から春先にかけては北東の季節風が吹く。

インド/アフリカ東海岸のモンスーン
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紀元前7世紀には鉄製釘を使って竜骨材と側板を張り合わせたダウ船がこの海域の代表的な航海船となる。1世紀にエジプト人商人が記述した「エリュトラ海案内記」(The Periplus of the Erythraean Sea)は、アラビア海貿易の模様を生き生きと描写しており、ソマリア海岸のスパイス、奴隷、亀甲、象牙、及びエジプトの衣料、食糧、インドの鉄製品、綿織物、ごま油など各地の名産が活発に交易されている模様を紹介している。

ここで登場する『エリュトラ海案内記』の著者はエジプトに住んでいたギリシア人航海士と考えられ、この書物時代は西暦40年から50年頃に書かれたものだそうだ。『エリュトラ』という言葉の意味は、ギリシア語で『赤』という意味で、もちろんこれは『紅海』を指す。ただ、古代においては『紅海』とは、アラビア海からインド洋などのすべての海を指していたので、実質的にはインド洋全般を指すと考えて良いだろう。

この書物の歴史的価値は大変に高いものがあり、榎氏の講演で言われているように、東アフリカ、アラビア、インド、そして東南アジアに至るまでの国家や湾岸地域についての記述や、海洋交易とその取引内容についてまでも書かれてある。

この『エリュトラ海案内記』に言及のある都市や国家は、インド、アラブはもちろん、中国の秦王朝やマレーシアについての記述があり、東アフリカ方面では;

ソマリアのベルベラ港(Berbera:古代はOponeという名称)やハフン港(Hafun:古代はMalaoという名称)

イエメンのヒムヤリテ王国(Himyarite Kingdom)やフランキンセンス王国(the Frankincense Kingdom)

エチオピアのアクスム王国(Aksumite Empire)

タンザニアのラプタ(Rhapta)湾(タンザニアを流れるRufiji川の河口と推測される

などが言及されている。


イエメンのフランキンセンス王国ヒムヤリテ王国の近辺には、シバ(Sheba)と言う名の都市があり、幻の国シバ王国があったとされている。旧約聖書やコーランに登場する伝説のシバの女王については聞いたことがある人も多いだろう。

伝説のシバの女王
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ヒムヤリテ王国の硬貨
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ただし、邪馬台国と同じように、シバの女王のいたシバ王国の所在については『イエメン説』と『エチオピア説』がある。この『エリュトラ海案内記』に記述のあるアクスム王国の遺跡には、シバ女王の神殿と言われる遺跡もある。


アクスム王国
アクスム王国の建国は紀元前1世紀頃であったと推定され、現在のエチオピアの交易地点として栄え始めたのは紀元前3世紀頃からであったと言われている。このエチオピアはそもそもシバ女王の遺跡だけでなく、オベリスクにも負けない130本の石柱群や、『契約の箱(アーク)』があるマリアム・シオン教会など、歴史的興味は尽きることのない地域だ。

さて、このアクスム王国で注目すべきは、交易国として栄えながら、ローマ帝国にならって独自の硬貨を鋳造し始めたところだ。おそらくアフリカでは最初に硬貨をもった国だろうと言われている。

アクスム王国の位置
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エジプトのオベリスクよりも高いものもある石柱群
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アフリカ最古と言われるアクスム王国の硬貨

アクスム王国の硬貨
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ここからまた榎氏の講演に戻ろう。


仏教と海

紀元前3世紀にはマウリヤ朝第3代アショカ王がインド統一を果たし、仏教を広める。仏教は陸上ルートで中央アジア、中国に伝わるとともに、海上ルートから次第にスリランカ、東南アジアに伝播する。仏教と並びヒンドゥー教も広がるが、ヒンドゥー教はバリ島など一部の例外を除き東南アジア大衆層には浸透を見なかった。仏教文化の伝播とともにインドやスリランカへの仏教徒巡礼が盛んになるが、貿易も活発化し、紀元前1世紀にはインド商人がビルマ、メコンデルタにまで浸透し、紀元前後には東南アジアがインド洋貿易ネットワークに組み込まれる。

また、紀元1世紀以降、インド東海岸を中心としてインド人の東南アジア殖民が活発化する。インド洋仏教文化・貿易圏の誕生である。そして、7世紀以降インド洋が「イスラムの海」になるまで、仏教文化圏がベンガル湾を中心とするこの海域の中心となる。

陸上ルートと海上ルート
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三蔵法師 インド留学の帰りは海路で・・・ (注:玄奘三蔵ではありません)

400年ころパミール高原越えでインド留学を果たした法顕三蔵も、帰路はベンガル、スリランカ、マラッカ海峡ルートで海路、中国に戻っている。貿易対象品目を見れば、当時、東南アジアからはインドに、金、スパイス、中国製シルク、すず等が輸出され、インドからは綿織物、デカン高原の鉱物資源、米などの農作物が、またスリランカからは真珠、象牙、シナモン、貴石類が輸出されていた。

ひょっとしてローマが滅びたのは貿易赤字と金の流出か?

他方、アラビア海貿易も引き続き活発に行われ、サンチー仏教遺跡でも知られるアンドラ王国(BC1世紀〜AD3世紀)は、ネロ皇帝時代のローマとの交易を盛んにし、インドから宝石、綿織物、香料を輸入するためにローマから大量のローマ・コインがアンドラ王国に流入していた。

ここで言われているアンドラ王国というのは、アーンドラ朝(Andhras)のことでサータヴァーハナ朝と呼ばれること画多い。その頃最盛期とも言えるローマでは、インドで採れる香料や宝石が、何と原価の100倍で売れたとも伝えられている。

この時代にもローマとの貿易は当然この地域にも貨幣の発達を促せた。

紀元前180年から124年頃サータヴァーハナ朝のサタカルニ王のもとに鋳造された銀貨
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その後、・・・7世紀に入ってウマイヤ朝のもとにイスラム帝国が統一されると、インド洋はイスラム・カラーに染まる。


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