オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

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ヨーロッパに大航海時代が到来した最大の要因は何であったのか?


まず第一に、イスラムの文化とともに羅針盤やその他の航海技術、キャラック船キャラベル船などの造船技術がイベリア半島にもたらされ遠洋航海が技術的に可能になったということが挙げられる。。。

ポルトガルのキャラベル船
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ヨーロッパの航海技術はイスラムやアジア世界に比べて後れをとっていた理解しされているのだが、太古の昔においてはむしろ航海術に長けていたということが最近の明らかになりつつある。


紀元前7千年ごろのオーストロネシア語族の拡散については以前述べたこともあるが、それよりもずっと以前の出来事であるらしい。


以下 ナショナルジオグラフィック ニュース より抜粋
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20100218001&expand
2年前、ギリシャのクレタ島の峡谷で、アメリカとギリシャの考古学者チームがある発掘調査を行っていた。約1万1000年前に地中海を往来していた海洋民族が使っていた小型の石器を探していたのである。 

 目当ての石器は見あたらなかったが、代わりに驚嘆すべき遺物が発見された。アメリカにあるボストン大学の考古学者で石器の専門家であるカーティス・ランネルズ氏が、長さ約13センチの頑丈な手斧を見つけたのである。 

 現地産の石英から削り出されたその粗雑な斧は、17万5000年前ごろまで人類の祖先がヨーロッパ本土やアフリカで使用していた手斧と類似していた。捕獲した動物の骨や肉を加工したり、皮を剥ぐのに使われる石器であり、約100万年間そのままの形で受け継がれてきた技術とみられている。 

 今回の手斧が発見されたクレタ島は、約500万年前から広大な海に囲まれている。つまり、高度な工作技術を持った現生人類以外の何者かが、数万年間にわたって地中海の島々を転々としていた可能性が出てきたのである。ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)か、ホモ・ハイデルベルゲンシスか、ホモ・エレクトスか、あるいは初期のホモ・サピエンス(現生人類)だろうか。 

 この時期の初期人類には、ボートや簡素な筏(いかだ)さえも生み出す能力はなかったと考えられていた。装身具を身に付けたり、芸術品を生み出したりといった現代的な習慣を有する現生人類が出現したのは、約10万年前のことだ。 

 しかし今回の新発見がその定説を覆すかもしれない。人類の祖先は、単純な石器からは想像できないほど知的な方法で計画、協調、物作り(造船)を行っていた可能性が出てきたからだ。ランネルズ氏は、「こんなに早い時期からクレタ島に石器が存在したなんて、驚天動地の発見だ。ツタンカーメン王の墓からiPodが見つかるようなものだ」と話す。



もう1つの理由としては、十字軍の派遣が失敗となった後、イスラム世界を介さずに金や香辛料の新たな交易路を開拓するのが目的であったということである。


もちろん直接実利に結び付くので、合理的に考えてまず間違えないだろう。


しかし、世界史でも有名なポルトガル出身の3名の航海者、


エンリケ航海王子 1394年 〜1460年
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喜望峰に辿り着いたバルトロメウ・ディアス 1450年〜1500年
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インド航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマ 1469年 〜1524年
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彼らが実際に背負っていたミッションは、宗教的な思想や根拠のない逸話が元になっていて、実際にはかなり非合理的なものだった。



彼ら共通の目的は



プレスター・ジョンの王国を探すことだった。



プレスター・ジョン。。。。 



誰それ???




航海者たちよ、プレスター・ジョンの王国を探せ!


プレスター・ジョン(Prester John: 司祭ヨハネス)は、十字軍の衛星が12世紀から17世紀にかけて流布された、伝説的な東方キリスト教国家の君主だ。


プレスター・ジョン(Prester John)
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1145年にシリア人司教のフーゴ・フォン・ヤバラがエウゲニウス3世にエデッサ伯国が再びイスラムの手に落ちたことを伝え、再び十字軍を招集するように説得した。

エデッサ伯国
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プレスター・ジョンの伝説はこの時に始まった。


ヤバラはこの時に、ヨハネス(ジョン)という偉大なキリスト教王の存在を伝えた。彼はペルシアとアルメニアの東方にある王国の支配者で、すでにイスラム勢力に支配されていたハマダーンの都市を征服したという。そして、ジョンは彼によると東方の三博士の子孫であるそうだ。


オットー・フォン・フライシング(Otto von Freisin)は、1143年から1146年までの年代記『Chronica sive Historia de duabus civitatibus(二国年代記)』にてこれらのエピソードを紹介している。そして、ジョンがきっとイスラム世界との戦いを勝利に導いてくれるという希望でむすんだ。


なにはともあれ、第二次十字軍が組織された。


しかしながら、現実に対立しているフランス王やドイツ王たちはそれぞればらばらにエルサレムをめざして行進した。そして全軍集結したものの、士気は極めて低く、すでに帰りたがる兵士たちも続出した。

こうした十字軍の遠征の中でも最も成果のあがらなかった戦いが始まった。

以下はウィキペディアより抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
1148年7月23日、ダマスクス攻撃が始まったが、ダマスクスの領主ウナルは城の周囲の井戸や泉を埋め、対立していたザンギー朝の面々(ザンギーの後を継いだヌールッディーンや、その兄であるサイフッディーン等)ほかさまざまなムスリム国家に救援を求めた。さらに、西欧からの大軍の到来で動揺していたエルサレム王国はじめ土着十字軍国家に、「ダマスクス陥落の次は、十字軍国家を直轄化して取り上げるはずだ」と文書を送り離間策を行った。そのため、元々数が少なかった十字軍はヌールッディーンらのムスリム軍やダマスクスの伏兵に悩まされた上、給水にも困り、さらなるムスリムの援軍の脅威を吹き込む十字軍国家の説得を受け、わずか4日後、何の成果も無くエルサレムへ撤退した。

エルサレムに戻った後、十字軍は解散し、それぞれ帰路についた



そして、



教皇の権威は地に堕ち、



新しい十字軍に応じる者は誰一人としていなくなった。



このままであれば十字軍は終焉を迎えたかもしれない。。。




そんな時・・・




奇跡が起きた。



1165年、ジョン自らが東ローマ皇帝のマヌエル1世コムネノスにあてた手紙が現れたのだ。



その手紙には驚くべき伝説の国の描写が書かれてあった。


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世界を創った男 チンギス・ハン (堺屋 太一) によると、チンギス・ハンがユーラシア平原を平定し大ハーンとなった1206年。西欧では第四次十字軍が失敗に終わった直後、イスラム教国ホラムズを侵攻し、プレスタージョン=チンギス・ハーン説 NHKで昔プレスタージョンの話がその時歴史は動いたで取り上げられた時はたしか、チンギス・ハーンの義父トオリル・ハンもその候補だったような・・・

2010/2/24(水) 午後 9:48 Ddog

さすが見識が広いですね。
実際にチンギス・ハン一家の中には景教を信仰していたという記録もあるようですし、程度のほどは分かりませんが実際に元帝国でも広まっていったようですね。
NHKでも取り上げられていたんですか…見たかったな。。。

2010/2/25(木) 午後 1:35 [ 9回裏二死満塁 ]


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