オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

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前回の続きで、プレスター・ジョンの王国にまつわる伝説の背景について調べる。

ネストリオス派から景教


431年に現在のトルコ共和国のエフェソスでキリスト教の公会議が行われた。

公会議というのは、共産主義でいうところの第○インターナショナルのようなもので、全世界のキリスト教教会から司教などの代表者が集まり、教会法などの諸々のおことについて話し合う最高会議のことだ。

325年に行われた最初の公会議である第1ニカイア公会議(現トルコ)をはじめとして、何世紀もの間にわたり行われてきた国際会議で、最近の公会議としてはパウロ6世によって執り行われた1962年から1965年の間に開催された第2バチカン公会議がある。

第1ニカイア公会議
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さて、キリスト論のようなものの解釈をめぐっていろいろな議論がされるわけだが、このエフェソス公会議においては、アレクサンドリア総主教であるキュリロスコンスタンティノポリス大主教のネストリオスが争った議論が問題となった。

そこでの議論は深入りしないが、結果的には、ネストリオス派が敗れ異端とされることとなった。


しかしながら、ネトリアオス派は498年にセレウキア・クテシフォンに新しく総主教を立てると、その後、東方において布教され続けることになり、イラクのアッシリア東方教会、あるいはインドのトマス派教会(マラバル派)に繋がっているとされている。

これが、『東方にはキリスト教の王国がある』という、そもそものプレスター・ジョンの伝説のスタートであった。


さて、『唐会要』という資料によると635年にこのアッシリア東方教会からペルシア人阿羅本(アラホン、Alopen Abraham)なる人物に率いられたネトリアオス派宣教師の一行が、長安にやってきたという。


この時代の唐の皇帝は第2代にあたる太宗であった。彼は兄の李建成を殺害して皇帝の座ついたとんでもない奴だ。彼の父であり、唐王朝の祖である李淵(りえん)は、史書では西涼の李舛遼裔、つまり漢族であるとされているが実際は騎馬民族である鮮卑(せんぴ)系の出身で、大野部(だいやぶ)が漢化した氏族であるそうだ。


太宗
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そしてこの時、太宗の命によって彼らを迎えたのが、宰相の房玄齢(ぼうげんれい)という人物で、何を隠そうジャッキー・チェンの祖先だったとか・・・。

これはチェン自身が主張しているようです。


さて、'阿羅本達がやってきた初期の唐王朝の支配層は、鮮卑系、つまり北方系であったので非中華的な思想にも寛容であったそうだ。ただ、宰相の房玄齢に出迎えさせるような歓待ぶりをみるかぎり、政治的な調整はすでについていて、むしろ太宗が招いた感もある。


そして、3年後の638年に景教は唐により公認され、長安に寺院が建立されることとなった。

この段階では「波斯寺」(あるいは「波斯経寺」、波斯はペルシアのこと)と呼ばれており、「大秦寺」の名称は使われていなかったが、745年に教団の名称が「波斯経教」、「波斯教」から「大秦景教」に変更されたため、朝廷側からの寺院の呼び名が「波斯寺」から「大秦寺」に改称された(『旧唐書』大秦寺の条参照)。

これは、キリスト教が大秦国で(すなわちローマ帝国で)生まれた宗教であることを、唐側が認知したからといわれている。唐代では景教寺院は、マニ教やゾロアスター教の寺院と総称して、三夷寺と呼ばれていた。
(ウィキペディアより抜粋:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A7%A6%E5%AF%BA)


ペルシア(波斯)のお寺からローマ(大秦)のお寺に変わっているのが面白い。


つまり、この時代においてすでに東ローマ、ヨーロッパ、そしてキリスト教世界についての情報が中国にはかなり入ってきたと思われる。


この景教に関わる伝説・逸話というのがまた多い。

聖徳太子 と 景教


かなり有名な話だが、聖徳太子厩戸の王子と呼ばれ、厩戸の前で出生したことによるとの伝説があり、これが同じく馬小屋でうまれたキリスト教の生誕と重なるというものだ。

「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は救世観音が胎内に入り、厩戸を身籠もった」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教(キリスト教のネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる
(ウィキペディアより抜粋:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90)


聖徳太子
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そうした逸話の類似性に拍車をかけるのが聖徳太子(今となっては実在した人物かどうかでさえ議論されている)と彼を支える秦河勝(はたのかわかつ)という人物の関係だ。

秦河勝
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このあたりの古代日本史というのは謎が多くて本当に面白い。


秦河勝の出身は秦氏で、日本書紀によると日本の本当の意味で建国したとみなされている応神天皇14年に百済から120県の人を率いて渡来し、帰化したとされている。この秦氏と大秦寺(だいしんじ)のかけあわせが根拠になっているのだが、それだけでは何とも薄い。



聖徳太子が実在したかどうかは別として、彼にまつわる逸話の形成において景教が何かしら影響をあたえたというのはおそらく本当だろう。


さらに、景教にまつわる逸話はたくさんある。


空海 と 景教


空海が唐に行った年代と景教が唐で広まっていた年代というのは合致しているので、空海が2年間の滞在期間中に景教に遭遇したのは間違いないだろう。

彼の師匠であった般石三蔵も景教に傾倒していたようでもあるが・・・。

9世紀に「空海」は、中国(唐)へ渡って真言密教を学びましたが、この「真言密教」は、当時中国に影響を与えていた様々な宗教の混合宗教でした。真言密教の立宗者(不空三蔵)のいた中国の首都・長安では、当時、景教寺院、仏教寺院、ゾロアスター教寺院、道教寺院などが、軒を並べて建っていたのです。

真言密教の内容は、明らかに仏教とは異なるもので、そこにはゾロアスター教や、景教、バラモン教などの影響が歴然としています。空海自身、中国にいたときに、景教に触れる機会がありました。空海は、景教徒の般若三蔵という人物に会い、景教の知識を吸収しました。般若三蔵は、「大秦寺」という景教の教会を営んでいた人物です(大秦とはローマ帝国のこと)。

空海は彼とかなりの議論をしました。とくに絶対者をめぐっての論争です。さらに、実在する救い主は誰かという論になったとき、空海は、「それは仏陀だ」と言いました。それに対し般若三蔵は、「違う、イエスだ」と反論しました。

こうして空海は、キリスト教についてかなりの知識を吸収したのです。もしこのとき、般若三蔵の個人伝道が成功していたら、日本の歴史は変わっていたかも知れません。しかし彼のキリスト教伝道は成功せず、空海はクリスチャンにはなりませんでした。しかし以来、空海の思想の中には、キリスト教的なものが混合するようになりました。
引用先:http://www.melma.com/backnumber_151486_3061309/
元記事引用:、「仏教の仏とキリスト教の神」(レムナント出版)


いずれにしても、日本の文化というのは本当にさまざまな文化の影響を受けていたということなのだろう。


親鸞 と 景教


時代はかなり進むが、親鸞がひらいた浄土真宗も、景教の影響を受けていると言われている。それは彼が、景教の『世尊布施論』を学んだということらしいのだが、真相のほどは分からない。

京都西本願寺保蔵されているのらしいのだが・・・・


と、ここまで書いてみたものの、その情報ソースの大部分が副島のようで却下・・・。

サヨナラ…


騎馬民族と景教


さて、唐の末期には支配層が代わり、中華思想に対する意識が高まると、景教はだんだんとその勢力を失ってしまう。


そして、風前の灯となるが、後にモンゴル帝国を築き上げる北方騎馬民族にはしっかりと根付いていたようで、チンギス・ハンの一族などは熱心に景教を信仰していたと言われている。


元の時代に景教は、もう一度中国全土にて復活した。


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太秦に本拠を置いた渡来系最大氏族秦氏がユダヤ系ネストリオス派景教徒説や、秦氏は古代イスラエル失われた十部族の末裔説もあり興味が尽きないですね。聖徳太子の話も厩戸の王子の話も出来すぎた話ですが、そこには歴史トンデモ論ではない真実が隠されていると思っております。

2010/3/3(水) 午後 9:06 Ddog

実は最近かなり古代史にはまってます。
ギリシア神話と日本神話の類似性をみてもそうですが、日本書紀が編成されたころには、ギリシア神話やキリスト教の教えはすでに日本の支配層には周知のことだったのではないかと思います。

2010/3/4(木) 午前 1:31 [ 9回裏二死満塁 ]


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