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日本人の気質を表現する時によく言われるのが、
肉が主食の西洋人は狩猟民族、米や豆腐を食べる日本人は農耕民族
というような事がよく言われる。
まぁ、おかしな議論ではあるが、
そもそも 日本人対西洋人にあまりにも固執したり、意識し過ぎるからこんなおかしな議論になるのだろう。
これから何回かは古代オリエント世界で活躍した2つの民族を取り上げる。
1つは前々回にも登場したアムル人。アムリ人は記録上で分かる世界最古の遊牧民族であろう。
もう1つはフルリ人で、謎の多い民族ではあるがひょっとすると古代オリエント史の中で果たした役割は大きく、考古学上では世界最古の遊牧騎馬民族である可能性もある。
まずはアムル人について調べた。
遊牧民族としてのアムル人アムル人はおそらく現存する資料の中で世界最古の遊牧民族かもしれない。前回にも書いたが、歴史に登場するのはウル第三王朝(紀元前22世から23世紀頃)の時代だ。
呼び方にはいろいろあり、アッカド語ではアムル(Amurrū)、シュメール語ではマルトゥ(mar.tu)、そして旧約聖書にはアモリ人もしくはエモリ人の名で登場する。
シュメール人達の記録にある「マルトゥ」というのは、野蛮人という意味だ。
中華思想の下に遊牧民族が匈奴だとか鮮卑だとかと表現されていたことにも少し似ている。
あるシュメール語の碑文には以下のように記述される。
マルトゥの手は破壊的であり、その特徴は猿のものである。…敬意を表す事を知らず、神殿を憎悪する…麦を知らず、家も町も知らぬ山の住人であり、神域の丘でキノコを掘り起こし、膝を曲げること(耕作)を知らず、生涯家に住むこともなく、死者を埋葬する事も知らない。… また、『マルトゥの結婚』というようなシュメール文学作品の題材にもなっている。
この話の中で、マルトゥが格闘技コンテストにも優勝し、主催者の娘と結婚することを要求する。そのコンテストの主催者ヌシェダは、見返りとして大量の家畜を要求するが、マルトゥは町の有力者だけでなく、奴隷女たちにまで貴金属を気前よく与えた。そして結婚が決まると、ヌムシュダの娘の女友達が忠告する
マルトゥと結婚してはなりません。あんな野蛮な、テント住まいの、かずかずの禁忌を犯し、神を敬うことをしない人と結婚してはなりません マルトゥの結婚式については↓を参照ください。
さて、
ウル第三王朝はマルトゥとも呼ばれたアムル人との戦争を繰り返すうちに衰退してしまうが、アムル人自身は、その後メソポラミア社会に溶け込んでいった。そして、アムル人は次第にこの地域での一大勢力となっていく。イメージとしては(これも今では正しくないのだろうが)、ゲルマン人の大移動にも似たような感じだろうか。
アムル人が具体的にどのような経過を辿ってシュメール人社会に溶け込み権力を握ったのかについて正確にわかる資料は少ないが、シュメール・アッカド以来の王権、宗教観に決定的な影響は与えなかったと考えられている。むしろアムル人達はシュメール・アッカドの文明を受け入れ同化していく事になる。(ウィキペディア参照)
ウル第三王朝が衰退しはじめた紀元前2017年頃のメソポタミア流域、ウルの近くにイシンという都市が栄えていた。アムル人でありウル第3王朝の将軍であったイシュビ・エッラがこのイシン市を拠点に王朝を建てた。
おそらく傭兵としてシュメール人に雇われていたアムル人が次第に軍隊の中で力をつけていき、最後にはクーデターを起こし王朝を転覆させたのであろう。世の中では常とまではいかないが、遊牧騎馬民族が傭兵として定住社会の民族と関係をもち、そしてその後、力関係が逆転するという典型のはじまりがここにある。
実戦部隊として動いている人間が力をつけ、最終的に組織の歯車を牛耳ることで下剋上を起こすというのは、歴史の中ではよくあることだ。取り分け古代オリエント世界ではそれが顕著にみられた。
このイシュビ・エッラによる独立(イシン第1王朝)を契機に、メソポタミア社会の支配層においてにわかに遊牧民族であるアムル人が台頭することになる。
カトナ(Qatna)、アレッポ(Alepo)、ラルサ(Larsa)、マリ(Mari)、そしてバビロン(Babylon)などの都市に続々と遊牧民族の王朝が建てられたのだ。
そして、碑文などから分かることは、ウル第3王朝の滅亡以後メソポタミアで権力を握ったほとんど全ての王達がアムル系であった事である。アムル系の王として有名な人物には、アッシリアのシャムシ・アダド1世や、バビロンのハムラビ(ハンムラビ)王がいる。
その後、時代がすすむにつれてバビロニアやアッシリアに移住したアムル人は現地人と同化してしまったが、シリア方面に移ったアムル人については12世紀までアムル人としての記録が残っているという。(ウィミペディア参照)
世界最古の法典: ハムラビ法典(遊牧民族のルール)とウル・ナンム法典(農耕民族のルール)ウル第三王朝の初代王はウル・ナンム(紀元前2115年頃〜紀元前2095年頃)だ。有名なウルのジッグラトは彼の時代に建設されたと言われ、そして何よりも重要なのはからの時代にウル・ナンム法典が成立された。この法典はハンムラビ法典よりも古いのだが、『目には目を』というような「同害復讐法」 は採用していなかった。
ウル・ナンム
ハムラビ法典
ハムラビ
シュメール人はどちらかと言えば、
アムル人や彼らの風習を野蛮的と軽蔑しており、
このウル・ナンム法典は、時間軸の上ではハムラビ法典より300年ほど前だが、
進歩的で、すでに傷害罪の賠償などが記されていた。
なお、ハムラビ法典も196条(目には目を)、197条(歯(息の骨)には骨を)以外の個所には、かなり詳細な傷害罪や賠償、そして利息なども記されている。
詳細はこちら↓のリンク。ハムラビ法典とウル・ナンム法典の違いなどがとても分かりやすく解説されている。
ハムラビ法典の全文訳はこちら
そして・・・
この「目には目を、歯には歯を」の同害復讐原理は、
もともとは遊牧民族であるアムル人の風習からきている。
ん?
そう、知っている人も多いと思うが・・・
『目には目を・・・』 というのは、聖書にも登場する。
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思うに…
通貨の価値は強大な権力とその力が及ぶ地域間の連携があって初めて価値を共有できます。
金や銀などの貴金属もグループ(民族と言われるもの)の文化的・技術的要件で価値がかなり変わるでしょう。
それに比べ、目や歯などの体の部位は、初めて会う話の通じない者同士でも、ある程度共有できる価値を持ちます。
すなわち、定住をせず広範囲の多数のグループと接触しながら生きる遊牧民の通貨(罰金)として、体はうってつけの素材です。
また、グループ内のみでの価値共有ならば、原始的な肉体という共有価値に頼らずとも他の物で成立するはずです。
原始的に肉体を共有価値として使うのであるならば、グループ横断的な取り決めと思った方が合点がいきます。
つまり「目には目を」は○×人がどう、どかではなく、広い地域に広がる多種多様な価値観をもつ遊牧民グループ間に共有された基礎的なルールだったのではないでしょうか。
まぁ、この時代ですしルールと言っても「トラブル時はそうやって解決するとうまくいくことが多いよ」的な、遊牧民の”あるある”的な、道徳観念的な、ものだったのではないでしょうか。
2018/3/8(木) 午後 4:46 [ たび☆びと ]