オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

全体表示

[ リスト ]

 
高度な微細加工技術を有していたと考えられ、ラピス・ラズリ加工において栄えたシャフリ・ソフタの次は、さらに南西に400キロほど進むと現在のケルマーン州にあるジロウト(ジーロフト?Jiroft)という街に到着する。
 
 この地域の古代文明を概観するといくつかのキーワードが浮かび上がってくる。
 
 
トランス・エラム文明 アラッタ王国 古代エラム・・・
 
 
考古学はおろか歴史も素人の僕としては・・・
 
 
そんなの学校の教科書に登場したっけ?
 
 
という感じなのだが、
 
トランス・エラム文明をネットで調べようとすると、かなりの数がヒットする。ところが、英語や日本語の海外のサイトをTrans-ElamとかTrans-Elamiteなどのキーワードで調べようとするとこれが、それほどヒットしない。
 
そもそも トランス・エラム文明っていったい何だ?
 
 
誰が名づけたんだ?
情報モトム!
 
 
エラム王国というの明白だ。チグリスの東岸にあるスサを首都とする古代王国の一つだ。都市化が始まったのは紀元前3500年頃とされている。ほぼメソポタミア文明の勢力圏に含まれそうなのだが、話された言語はエラム語といって、シュメール語とは若干異なる。しかしながら、古代エラム王国の歴史は常にシュメール、アッカド、バビロニア、アッシリアといった勢力の支配下に置かれていたとようだ。
 
 
ただ、日本語のサイトでは、トランス・エラム文明=アラッタ王国として述べられている。
 
 
それじゃ・・・
 
 
アラッタ王国って何んなのさ!?
 
・・・
 
アラッタ王国を探せ!
 
アラッタ王国と言うのは、シュメール神話の一つである『エンメルカルとアラッタ市の領主』の題名にもある都市だ。
 
エンメルカルというのは、シュメール神話によればウルクを建国した伝説上の人物だ。神話上の話ではあるが、楔文字の発明者であるとも言われている。
 
以下はウィキペディアより抜粋
『エンメルカルとアラッタ市の領主』によれば、エンメルカルが金属細工や工芸品で知られた都市アラッタを服属させようとした。しかしアラッタ市はウルクから7つの山を越えたエラムにあった。

降伏を勧告する使者を立てるものの彼はエンメルカルの長大な言葉を覚えることができず、何度練習しても復唱できなかった。そこでエンメルカルは粘土板を整え言葉を粘土板の上に置いた(即ち文字を記した)。
 
使者はアラッタに到着し、粘土板に書かれた言葉通りに降伏を勧告し、アラッタの領主を威圧した。これが最初の文字記録であるとされている。
 
後の楔文字による碑文ではシュメール人のもともとの出身地がアラッタにあることを示す碑文がいくつか出土しており、実際長い間シュメール文明の起源はアラッタにあるとみられていた。しかしながら、「邪馬台国はどこか?」という問題同様、そもそも「アラッタ王国はどこか?」という問題は長年考古学者の間で議論されていた。
 
伝承されたシュメールの物語や、各方面の学術的な研究成果から、アラッタの存在した場所は以下の条件を満たさなければならないという結論に至った。
 
1.アラッタ王国へたどり着くにはスサ(Susa)を通り、アンシャン(Anshan)地方の山脈を越えていかねばならない。
 
2.様々な宝石や鉱石、特にラピス・ラズリの鉱脈とそれを加工できる場所にアクセスできなければならない。
 
3.ウルクに水路を使ってアクセスできる環境でなければならない。
 
4.紀元前2700年頃にシュメールの軍隊が辿りつくことのできる程度の距離でなければならない。
 
 
そうした中、いくつかの有力な説が登場する。
 
ウラルトゥ説
国家としてのウラルトゥが歴史に登場したのは紀元前9世からで、最終的には紀元前585年にスキタイによって滅ぼされてしまう。しかしながら、ウラルトゥという地域は、紀元前13世紀の記録にも登場しており、その範囲はヴァン湖を中心としてミタンニ王国のあったアナトリア東部からコーカサス山脈の南部にまで達する。
 
アッシリア王のシャルマネセル1世(紀元前1274年〜紀元前1245年)がウラルトゥ地方で起きた反乱を鎮めるために、8つの国と52の都市を破壊したとある。8つの国と52の都市とは誇張であるにしても、何らかの都市国家のようなものがあったと思わせる。アラッタ王国はウラルトゥ国家の前身であるというのが、ウラルトゥ説である。
 
ウラルトゥ王国の位置
 
イメージ 1
 
ヴァン湖説(オルーミーイェ湖説?)
ウラルトゥ説から派生したバリエーションで、イランとトルコの国境沿いであるヴァン湖の東岸にあったとするものである。聖書のエデンの園の位置を特定するために語源学的な推測によってたてられた仮説を基礎にしていて、所謂デーヴィッド・レール(David Rohl)のエデン仮説とも呼ばれている。
 
その説によると旧約聖書に登場するエデンの園があった場所は、
 
シュメール神話に登場するアラッタ王国があった場所だとしている。
 
 
『エンメルカルとアラッタ市の領主』では7つの山を越えたところに広がっている平原にアラッタがある。彼の説では、実在するオルーミーイェ湖の湖畔にある平原にアラッタが存在したとしている。また、シュメール語の平原とはEdinであり、これがおそらくエデン(Eden)の語源となったと言うものだ。
 
このブログでは一度ディルムン(現在のバーレーン)がエデンの園のモデルである説を紹介したこともあるが、そもそもエデンの園とはどんなところだったのだろうか?
 
すこし旧約聖書をのぞいてみよう。
 
以下はリンク先より転載http://bible.e-lesson1.com/2bible1.htm
 
神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。

神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。

これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。主なる神が地に雨を降らせず、また土を耕す人もなかったからである。

しかし地から泉がわきあがって土の全面を潤していた。 イメージ 2

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。

主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。

また一つの川がエデンから流れ出て園を潤し、そこから分れて四つの川となった。

その第一の名はピソンといい、金のあるハビラの全地をめぐるもので、その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。

第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの。

第三の川の名はヒデケルといい、アッスリヤの東を流れるもの。
 
第四の川はユフラテである。

主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。
   
ふむ。
 
この、エデンの園を流れる川は、4つの川の源流であるとされているが、その4つはピション川(Pishon)、ギホン川(Gihon)、ヒデケル川(Hidekel)、そしてパラス川(Phrath)である。それらの川の正体は次のようである。
 
ギホン川(Gihon)= アラス川のこと。7世紀頃まではGihunと呼ばれていて、聖書に登場するクシュの山の近くを流れる。
 
ヒデケル川(Hidekel)=アッシュールの近くを流れるチグリス川のこと
 
ペラト川(Perat)=ヘブライ語でユーフラテス川のこと。上記の翻訳ではすでにユフラテとなている。
 
ピション川(Pishon)= Qizil Uzan (Sefid Rud/セフィード川) セム語族的な解釈をすればUではじまる語句は、簡単にPに置き換える事が出来る。つまり古イラン語の川の名前であるUzanは、ヘブライ語を仲介してPishonとなることが出来る。。。ホンマカイナ。
 
そして、この4つの川の源は、オルーミーイェ湖を源流としている。
 
                 オルーミーイェ湖
イメージ 3
 
 
                オルーミーイェ湖の位置
 
イメージ 4
 
 
さて、上記の翻訳部分で
 
 『その地の金は良く、またそこはブドラクと、しまめのうとを産した。』
 
・・・という個所がある。ただ、翻訳の土台となっている英文のbdelliumthe onyx stoneには若干の解説が必要だ。
 
Bdellium(→ブドラク)は天然樹脂の一種でブデリウム樹脂のことだ。ただ、ここではハトシェプストのプント遠征でも登場した没薬(もつやく)の一種を指していると思われる。あの東方三博士の3つの贈り物の一つだ。紅玉、水晶や真珠などとも解釈されることがあるが、没薬は凝固すると真珠の形をした白乳色になる。
 
the onyx stoneとはダイレクトに書かれているが、実際は「Shohamの石」というような表現をしているらしい。ただ例として登場した英文のようにオニックス(オニキス)と訳されることが圧倒的に多い。緑柱石やカーネリアンとも訳される場合もあるが、同名のイスラエルの都市Shohamとエデンの園が何らかの関係があったのではと言う見方もある。
 
また、実際に聖書にも記述があるように今日でもセフィード川では金が採れるのは事実だ。
 
 
しかし、ラピス・ラズリについては言及していない。
 
 
この説は幅広く一般受けしたものの、考古学者など学術的な立場の人間には受け入れられなかった。
 
ちなみにこの説はアラッタ王国に関する説というよりは、エデンの園に関する一説として見る方が良いだろう。。。
 
 
さて、
 
3つ目の説として近年注目を浴びているのがジロフト説だ。
 
もともとはイラン人考古学者であるYoussef Madjidzadehが1976年に主張しはじめたものであったが、はじめはあまり関心が払われなかった。
 
しかしながら、2001年からの発掘作業によって徐々にその全貌が明らかになってくると、アフガニスタンのサルイサンク鉱山からメソポタミア地域をつなぐラピス・ラズリの道の中間点に位置するジロフトにアラッタ王国が存在したと言うのは、もはや定説となってきた。
 
次回はジロフトについてだ。
 

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事