オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

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ジロフトはイラン南東部のケルマーン州にある小さなだ。現在の人口は29万人程度。海抜は650メートルでメソポタミア地域へ向かう西側にはザグロス山脈、東にも標高3600メートルを超えるバーレズ山脈などに囲まれている。都市は広大な草原地帯を流れるハリル川(Halil)近くに築かれており、その点ではアラッタ王国の描写と合致する。

その位置をもう一度確認しよう。
 
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ここは肥沃な土地であり、昔はSabzewaranとも呼ばれていたが、その一方で大洪水の起こる地域としても知れられ、ジロフト遺跡の発見のきっかけとなったのも洪水だった。また、この文明が最終的に滅びたのも西暦1000年頃に起きたとされる歴史的な大洪水が原因だったとされている。


ふむ。 大洪水か・・・
 
 
洪水ついでに・・・
大洪水伝説で有名なギルガメシュ叙事詩が書かれたのが紀元前2600年頃だ。シュメールの王名表にも紀元前2900年頃から紀元前2750年頃に起きたとされている大洪水について言及されている。実際にウルクからも紀元前2800年前に起こったと思われる洪水層が発見されている。

ジロフト遺跡を中心として400キロ四方に700以上の発掘サイトある。シュメール文明や古エラム文明の結びつきは、発掘された数々の商業用印章(原エラム語)を通じて、ジロフトが一大交易都市国家であったことが分かる。また、ギルガメシュ神話にも登場する さそり男 の描写(偶像も)もシュメール人のそれよりも頻繁に遺物に登場すると言われている
 
                   サソリ人間
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さて、このジロフト文明の遺跡で、何よりも注目されているのはKonar Sandalという
発掘サイト出現したジッグラトだ。


こんなにバカでかいモノを指して出現したと言うのはおかしいかもしれない。ずっとそこにあったわけだし・・・。


しかも  2つだ。


現在最古のジッグラトと呼ばれるテッペ・スィヤールクの次に古く、紀元前2300年頃から2350年頃のものと言われている。ウル王朝のものよりははるかに古く、スサから700キロ近くも離れている。


しかもその大きさはギザの大ピラミッドをも凌ぐと言う。。。


このKonar Sandalという発掘サイトはジッグラトの残骸と思われる2つの丘陵AとBからなり、Aは13メートル、Bは21メートルの高さがある。サイトBには、2段からなるジッグラトがあったと考えられ、下段の方が上段よりも200年ほど古い。大きさは他のジッグラトと比べても広大で下段は400メートル四方で高さは7メートル、上段は250メートル四方で高さが10メートルある。
 
サイトA
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サイトB
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クフ王のピラミッドの一片が230メートル四方であることを考えても、このジッグラトがいかに大きいかが分かる。
 
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ジッグラトとは乾煉瓦を用いて階段式の宗教的な塔で、古代エジプトのピラミッドのように王の墓ではない。最上段には神を祭るための神殿が建てられている。


有名なジッグラトは次のとおりだ。
 

ウルの神ナンナのジッグラト
月の神ナンナのジッグラトと呼ばれ、建設されたのはウル第3王朝のウル・ナンムの治世だ。彼は、現存する最古の法典であるウル・ナンム法典をつくった人物で、治世は紀元前2112年から紀元前2095年頃だといわれている。このジッグラトは保存状態が最も良く、大きさは約縦62メートル、横幅が43メートル、高さが25メートルある。
 
 
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テッペ・スィヤールクのジッグラト
スサから北東に行ったテッペ・スィヤールク(Tappeh Sialk)という街には、原エラム語の時代に建てられたジッグラトがある。建てられたのは紀元前2900年頃とされるので、ウルのジッグラトよりも800年も早い。現存するジッグラトの中では最古のものだ。
 
エジプトのピラミッドの起源は、メソポタミアのジッグラトを起源とする説があるが、このテッペ・スィヤールクのジッグラトは、その説を主張するにあたりちょうど良い古さではある。

ただし、エジプトで王朝らしきものが誕生する頃の紀元前3100年頃にはマスタバと言われ、階段ピラミッドの前身ともいえる王の墓が存在していた。そこには、すでにジッグラトと似たような凸凹外壁の建築様式を見ることが出来る。そうなると、最古のジッグラトが登場する前に、マスタバ建築においてジッグラトと同じような建築様式がもちいられていたという矛盾が生じる。

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チョガ・ザンビールのジッグラト
チョガ・ザンビールのジッグラトが紀元前1250年頃スーサの45km南方に位置する。一片の長さが105メートルほどあり、高さは25メートルほど(建設された当時は50メートルもあったと言われる)で、エラム王国の時代に築かれたジッグラトとしては最大のものだ。建設した王の名はUntash-Napirisha(読めん・・・)で、エラム王国の宗教の最高神であり、スサの主神であるインシュシナク Inshushinak とナピリシャ Napirisha を祀ったジッグラトだ。
 
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Dur-KurigalzuのジッグラトAqar Quf
紀元前14世紀頃に建造。古代バビロニアのカッシートの王Kurigalzuによって建設されたが、今日でもその高さが57メートルにもなるジッグラトだ。一辺が70メートル近くある土台の上にエンリルに捧げられた寺院が存在していたと考えられる。宮殿と寺院の複合体であるこの遺跡からは数多くの碑文や金属や陶器でつくられた像などの他、金、銀、そしてラピスラズリなどが発見されている。
 
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エ・テメン・アン・キ(Etemenanki)
エ・テメン・アン・キは、ウィキペディアによるとメソポタミア文明の中でも最古の文化を築いたと言われるシュメール人が、紀元前6世紀新バビロニア帝国時代に、バビロンのマルドゥク神殿に築かれたジッグラトのこと。エ・テメン・アン・キとは「天と地の基礎となる建物」という意味を指しているのだが・・・
 
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このジッグラト・・・
 
 
何を隠そう バベルの塔 のことである。
 
 
バベルの塔って作り話じゃなかったの?


考古学的にはどうも違うらしい。。。


バビロンのジッグラトについは、ヘロドトスも述べている。
 
バビロンの城壁はこのようにして造られたものであったが、さてバビロンの町は二つの部分に分かれている。というのは町の中央をユーフラテスという河が流れていて、街を仕切っているからである。この河はアルメニアに発する深く流れの速い大河で「紅海」に注いでいる。ところで城壁はどちらの側でも、その袖が河に達しており、そこからは{直角に曲がり}河の縁に沿って、焼いた煉瓦の塀がつづいている。

町は三階建て、四階建てがぎっしりと並んでおり、それがまっすぐな道路で仕切られていている。道路はいずれも真直ぐであるが、横に走って河に至る道も同様である。河沿いの塀には一つ一つ通りごとに小門がきってある。つまり、横の通りの数だけ小門があるのである。それらの小門も青銅造りで、この小門から河へ抜けられる。
 
この城壁はいわば鎧のようなものであるが、その内側にもう一つの壁がめぐらされている。外側の壁に比べて堅固さではさして劣らないが、幅はこの方が狭い。町の両区域ともその中央に囲いがあり、一方は壮大堅固な壁をめぐらした王宮であり、他方は「ゼウス・ベロス」の青銅の門構えの神殿である。

この神殿は私の時代にまで残っており、方形で各辺が2スタディオンある。聖域の中央に、縦横ともに1スタディオンある頑丈な塔が建てられている。この塔の上に第二の塔が立ち、さらにその上に、というふうにして8層に及んでいる。塔に登るには、塔の外側に全部の層をめぐって螺旋系の通路がつけられている。
(ヘロドトス 歴史(上) 松平千秋訳 より抜粋)
 
・・・ふむ。。。

次回はラピスラズリの道を続ける前にちょっとバベルの塔を見てみよう。

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