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ヘロドトス以前の古代オリエント史(紀元前10世紀頃〜紀元前5世紀頃)については、碑文の解読による考古学的成果に頼るほか、実際は旧約聖書に記述に依存しているケースが大きい。
これまでカマール・サリービー著の『聖書アラビア起源説』を見てきたが、確かにアラビア半島にもユダヤ教が信仰された跡が多く残されている。考古学的に証明できるのは、西暦4世紀のものと思われるユダヤ人の碑文とアラビア半島の各地で発見されたシナゴーグが最古のものとなっている。
更に、4世紀半アラビア半島西部に栄えたヒムヤル王国最後の王は、確実にユダヤ教徒であったことが分かっており、一説では彼の前任者もユダヤ教であったとされている。
第二次世界大戦後に行われたイエメン・ユダヤ人をイスラエルに移住させると言う「マジックカーペット作戦」を見ても分かるように、古代より(一説ではソロモン時代より)この地域にはユダヤ人が暮らしていたとされている。少なくとも一神教の伝統がアラビア半島南西部に古くから存在していたのは間違いない。一方、同じような文化をもつ紅海を挟んだ対岸のアスクム王国(エチオピア)は、キリスト教に改宗した後、ヒムヤル王国を滅ぼすことになる。
一方、紀元前4世紀頃からエチオピアに存在していたとされるアスクム王国もキリスト教に改宗する以前はユダヤ教であったと言われている。アクスム王国の前身であるダモト王国は、紀元前8世紀頃アラビア半島南西部(イエメン)に興ったサバ王国と密接な関係があった。
イエメン・ユダヤ人と同様に、エチオピアにも『ベタ・イスラエル』と呼ばれるエチオピア・ユダヤ人が大勢いた。この事実を世界的に有名にしたのは、イスラエル政府が1984年に行ったモーゼ作戦と1991年に行ったソロモン作戦だ。これは、内戦や飢餓で苦しむベタ・イスラエルを救出することが名目だが、迫害に苦しむイエメン・ユダヤ人をイスラエルに移住させるために行った「マジック・カーペット作戦」の復活と言ってもいいだろう。
この紅海を挟んだ地域間の歴史は必見だ。
紀元前10世紀から5世紀頃までのアラビア半島南西部とアフリカ東岸地域では、海上交易だけでなく、僕達が考える以上に人的交流なども盛んだったに違いない。ギリシア神話世界がアナトリア半島西部も包括しているように、ひょっとしたら、イスラエル人やミツラムの隣人とされたクシびとの文化圏もアフリカに限定するものではなく、紅海をはさみアラビア半島南西部をも包括した概念であったかもしれない・・・。
2つのエチオピア興味深いことにヘロドトス(紀元前5世紀頃)は彼の著書『歴史』で、ペルシア王クセルクスのギリシア遠征に参加したエチオピア人について次のように書いている。
「エジプト上方のエチオピア人とアラビア人を指揮したのはアルサメスであったがー遠征に参加したエチオピア人には二種あって、当方のエチオピア人はインド人部隊に配置されており、言語と頭髪の二点以外は他方のエチオピア人と外貌は何等異なるところがなかった。東エチオピア人の方は頭髪が真直ぐであるが、リビアのエチオピア人は世界の民族中もっとも縮れた髪をもっているからである。さてこのアジアのエチオピア人の装備は、大体はインド部隊と同様であったが、頭には馬の首の皮を耳とたてがみのついたまま添いだのを被っていた。・・・」 「歴史」の注釈には次の様に書いてある。
「エチオピア人を東と西に分類することはすでにホメロスに見える。本土エチオピア人というのはゲドロシア(ベルチスタン)附近に居住していたものらしい。」 ベルチスタン(つまり”バルチスタン”)は、今のパキスタンで、インダス文明の栄えた場所だ。インド人との混成部隊にいたのでそう考えられたのかもしれないが、多分インド方面と交易のあったアラビア半島南部のイエメンあたりをさしていた可能性もある。
ただし、エチオピア、イエメン、インドへの古代インド洋交易圏を考えると、エチオピアとインドを結び付ける考えも軽視できない。南アラビア文字から派生したアフリカ東岸に渡りゲエズ文字(エチオピア文字)は、言語学上子音の符号だけを書く「アブギダ」であり、このアブギダは、インド語派で用いられるブラーフミー系文字のさまざまな文字体系をはじめとして用いられるものである。そしてそれは同時期に発展している。
フェニキア文字の場合でもそうなのだが、文字の拡散に貢献したのは商人だろう。
また、ホメーロスは次のように述べている。
このアイティオペス(エチオピア人)というのは、人間界のいちばんはてに住まっていた。二手(ふたて)にわかれ、一手は太陽の沈む西のはてに、もう一手は日の昇る東のはてにである。 ふむ。
ホメーロスもヘロドトスも
なぜ 2つのエチオピア人が存在したと言うのだろうか?
そもそも、エチオピアという呼称は、ギリシア語で『日に焼けた顔』という意味のアエオティプスに由来するとされ、サハラ砂漠以南すべてのアフリカ大陸を包括するものだとも言われている。
しかしながら、ローマの博物学者にして政治家の大プリニウス(西暦23年〜79年)は、ギリシア神話に登場する鍛冶神(火山)ヘーパイストスの息子アィティオピスがその由来であるとした。15世紀頃に書かれたとされる『アスクムの書』には、ハムの息子クシの子であるアイティオピス(Ityopp'is)に由来し、彼がアスクム王国の建国者であるとしている。
ヘーパイストスの逸話は、トロイア戦争に関する叙事詩サイクル(一群)とも関連がある。物語の時系列では『イーリアス』の直後の話だが、書かれたのは紀元前6世紀頃だとも言われている。ウィキペディアによれば、作者はミレトスのアルクティノスで、全部で5巻から成るが、わずかに断片が残っているだけである。
それは、「ヘーパイストスの作った鎧をつけたメムノーンが、エチオピア軍を率いてトロイアの加勢にやって来る。」という内容である。実際この「エチオピア」がどこなのかについては様々な説がある。現在のエチオピアとする説と、メムノーンがスサ出身のペルシア将軍であったという説もあり、シリア説やバクトリア説などもある。またウィキペディアには現在のイスラエル、ヨルダン、エジプトの一部を含み、ヤッファを都としたフェニキアの王国とする説がある・・・と書いてある。
ホメーロスや叙事詩サイクルの時代にエチオピアの名は確固たる存在としてあったのだろう。有名なギリシア神話とエチオピアの関係も興味深い。
エチオピアの王妃カッシオペイアと王女アンドロメダ映画『タイタンの戦い』や『タイタンの逆襲』にも登場するアンドロメダは、考えてみれば「日に焼けた顔」をもつエチオピア人だ。彼女の父ケーペウスは、エジプト王ベーロスの子。アンドロメダの母カッシオペイアは、有名なカシオペア座の影響で女神だと思いこんでいたが、エチオピアの王妃であり・・・それ以上の人物ではない。
タイタンの逆襲のアンドロメダ タイタンの戦いのアンドロメダ
カッシオペイアとアンドロメダの物語は、そもそも「カッシオペイアが自分の美しさを鼻にかけた」、あるいは「娘の美しさを鼻にかけた」のが原因で、いろいろと展開するのだが・・・
とにかく・・・美しかったのだろう。。。
思わずソロモン雅歌の
「私は黒いけれども美しい」
・・・を思い出してしまう。
シバの女王にせよ、アンドロメダにせよ・・・、そして現実の世界にせよ
エチオピアの女性はとにかく美人が多い。
あるいは、
エチオピアは本当にアフリカのエチオピア(クシュあたり)を指していたのだろうか?
さて、エチオピアとイエメンの関連ということで
今までのところを以前の記事も含めて整理すると・・・
ヘロドトスは東と西に住むエチオピア人がいると考えていた
ホメーロスもエチオピア人が世界に二手(東西)に分かれて住んでいたと考えていた
シバ女王の国にはエチオピア説とイエメン説がある
乳香や没薬といった宗教的儀式に欠かせないものがエチオピアとイエメン紅海沿岸にある
エチオピア語と南アラビア語は同じ南方セム語でとても近い関係がある
Y染色体ハプログループJ1の特徴がエチオピアでも南アラビアでも見られる
人類の移動もシナイ半島ではなくエチオピアからイエメンへ渡った有力な説がある
紀元前からユダヤ人がエチオピアにもイエメンにもいた。
ついでに、コーヒーの起源もエチオピア説とイエメン説がある
エチオピアもイエメンも美人が多い(笑
さて、次回からはちょっとマニアックな話題だがアフリカ東岸やアラビア半島南西部の古代史について調べてみよう。
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