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前回は第18王朝時代の話だったが、ここで時代をくだろう。
ナパタ王国(クシュ王国)誕生紀元前11世紀頃にエジプトが第三中間期といわれる混迷期にさしかかると、ヌビア人達はトトメス3世(BC1486-BC1425)が築いた都市ナパタを本拠地として独立を果たす。第3瀑布と第4瀑布の中間にあるこのナパタには、ゲベル・バルカルと呼ばれる高さ98メートルの岩山があり、トトメス3世はエジプトの南の国境として定めた。
ゲベル・バルカル
この時エジプトの支配領域は史上最大のものとなったわけで、ラムセス2世(BC1303-BC1213)の治世においても、ナパタまでエジプトが支配力を誇っていたことが知られている。
よく見るとすごい遠いね・・・。
エジプトの第三中間期は紀元前1069年頃から始まったと言われるが、その頃からナパタに対するエジプトの実効支配力が無くなったと考えられ、ヌビア人達の活動拠点となったわけだ。
それから・・・300年の月日が流れる。
この間の出来事はあまり記録されておらず、すでにヌビア地域に「王国」と呼べるような社会形態ができていたのか、あるいはゆるやかな部族連合のようなものが存在していたのかはっきりと分かっていない。ただ、紀元前850年頃にはヌビアで最初のピラミッドがナパタ近くのアルクル(El-Kurru)で建設されているように、王権の存在はあったようにも思える。
エジプトでは新王朝時代からはファラオは王家の谷に葬られるようになったが、ピラミッドは規模こそ小さいが一部の裕福な民間人が墓として建設されていた。つまり、民間レベルで建てられる墓のフォームの一つであって、王権とは結び付かなくなっていた。
さて、
紀元前750年頃、有力なヌビアの族長とみられるアララという人物が、このナパタを中心としたナパタ王国を建国する。この王国は、エジプトのヌビア地域に対する呼び名である『クシュ』をとって「クシュ王国」とも呼ばれるようになった。文化的には、宗教などもふくめて大部分がエジプト化していて、本家のエジプトでは忘れられていたピラミッドなども建設されるようになった。
アララの後継者であるカシュタ(紀元前750年〜746年)は、勢力をアスワンまで拡大し、ヌビア人としてはじめて「上下エジプトの王」の称号を名乗った。エジプトの伝統の継承者はリビア人王朝などではなく、ヌビアのクシュ王朝であると・・・。紀元前750年頃にテーベを占拠したことによって、彼の宗主権がエジプト全体に公式的に認められた。この時期、エジプトではいくつかの王朝が乱立する中、カシュタの時代にヌビア王朝の勢力は中部エジプトにまでおよんだと考えられる。ひょっとしたら「クシュ」と言う呼び名はこのカシュタ王に由来しているのかもしれない。
混乱のエジプト一方エジプトはどうだったかというと、第21王朝の時代(紀元前1069年〜紀元前945年)になると軍隊の将軍や政府の高官、そしてファラオまでもリビア系の名前が目立つようになる。以前は第22王朝よりリビア系王朝が開始されたと考えられていたが、最近の研究ではどうもこの頃から古代エジプトからの文化断絶が確認されている。リビア系のファラオや高官は、彼ら独自の文化と風習をエジプトに持ち込み、古来連綿と続いていたエジプト文化を受容しない傾向があった。第20王朝最後のファラオであるラムセス11世の頃にはエジプトは上下に分裂し、上エジプトをアメン大司祭国家、下エジプトでは首都をペル・ラムセスからタニスに遷都したスメンデス1世が支配していた。この政治的な混乱期に便乗する形で、紀元前945年にシェションク1世(旧約聖書ではシシャク)が王位を獲得する。彼は、第21王朝時代のファラオ、プスセンネス2世に仕えていたリビア人将軍であり、イスラエルの首都エルサレムに攻撃を仕掛けようとしたことでも有名である。
シェションク1世によって第22王朝からはじまる9人の下エジプト・ブバスティス出身ファラオの記録があるためブバスティス朝とも呼ばれている。この王朝は上エジプトのアメン大司祭国家を支配下におき、一時は上下エジプトを統一するが、デルタ地域以外の支配基盤は相変わらず脆弱であった。
ブバティス王朝は200年間存続するが、シェションク2世の治世に分裂が起こり、前王と側室の間に生まれたペドゥバストがナイル川中流に独立した王朝、第23王朝を設立する。エジプトにおける当時の分裂状態はいろいろと研究されているが、非常に分かりにくい。図に表すとおそらく次のようになるだろうか・・・。
当時、第22王朝の支配力は弱体化し、少なくてもレオントポリスに拠点を置く第23王朝、及びヘラクレオポリス(ネンネス)、ヘルモポリス(ウヌー)にそれぞれ地方の支配者がいた。
クシュ王カシュタが上下エジプトの支配者としてファラオを名乗り第25王朝が開始されるが、下エジプトまでは支配力が及ばず混沌として状態が続いていた。
リビア系の諸侯であったテフナクト1世は、サイスを拠点として自らの王朝(第24王朝)を建てた。(24王朝と呼ばれるが時系列的には25王朝の後だ)。その後、テフナクト1世は下エジプト地域の実効支配を強めながら、第22王朝(タニス)のオソルコン4世や第23王朝のイウプト2世、そしてヘラクレオポリスのペフチャウアバステト、そしてヘルモポリスのナムルトらと同盟を結んで、ヌビア人が北へ(下エジプトへ)勢力を拡大するのを防ごうとした。
一方、テーベをはじめとする上エジプト一帯はヌビア王朝(クシュ王国)が支配しており、エジプト中部は北のテフナクトをはじめとする勢力と南のヌビアに対して流動的だった。カシュタの後継者となったピイは、即位してからヌビアを出ることはなく、20年以上ヌビアの奥地で沈黙を保ったままだった。おそらくこうした状況が下エジプトの不穏な動きを助長させていたのかもしれない。このピイは古い資料だと「ピアンキ」と書かれている場合があるが、どうも誤りだったようで、最近では「ピイ」に訂正されている。
さて、北のリビア系王朝が力をつけてくると、中部エジプトの支配者達は南のヌビアか、北のリビア系王朝のどちらにつくか選択しなければなかった。クシュ王朝が北部に遠征することを決意したのは、ヌビアに忠実であった支配者達がテフナクトの攻撃を受けてピイに救援をもとめてきたからだ。
ピイの信仰ピイが王権を受け継いだ時代、クシュ王国ではエジプトから移入したアメン信仰が盛んであったと考えられている。ゲベル・バルカルには、もともとトトメス3世が基礎を建設し、セト1世、ラムセス2世の時代を経て少しずつ拡張されてきた。ピイはこれを三段階に分けて拡張するが、「ビフォー・アフター」の匠も喜ぶような方法で行う。つまり、トトメス3世時代からの部分を壁と柱で補強する。第二のステップとして50の柱を使って大広間を完成させる。そして、第三ステップとして、大きな中庭をつくり、全長150メートルにもなる神殿コンプレックスを完成させた。このヌビアのアメン大神殿では、神官団がテーベの神官団と同様に強い政治的影響力をもっていたと考えられる。
また、ピイはテーベにおいて女王ハトシェプスト(トトメス2世)以来伝統と成っていたオペト祭を復活させた。オペト祭というのは、アメン神が妻ムトと結ばれるためにナイル川の増水1か月前にカルナック神殿からこのルクソール神殿を訪問するという祭りで、言ってみれば聖婚儀礼だ。日本のお神輿とも似ていて、アメン神とムト神、そして子供のコンス神の像をカルナック神殿から舟で運び、その像を2、3週間ルクソール神殿に安置し、奧の聖堂では王権付与などの儀式が行われるのだ。
ムトが(「9つの弓(すべての外国の敵)」の女主人)であり、セクメトとバステトの融合した女神であることを考えると、この儀式にも「獅子の顔をした女神がヌビア逃亡する」という一連の話にも関係があるようにも思える。
それはさておき・・・
そんな信仰神の深いピイであるからこそ、エジプトへの軍事遠征の大義名分が
旧宗主国の秩序とアメン神の権威を立て直す
・・・であったというのは、本心からであったと考えられる。
ピイのエジプト遠征当時の記録(ピイの勝利の碑文)は、ヘルモポリスのナムルトが同盟を裏切ったことへの言及からはじまる。しかし、実際にこのナムルトがヌビアとの同盟関係にあったのか、それとも最初から北部諸王朝と同盟関係にあったのかは議論が分かれるところらしい。それよりもナムルト(Nimlot、Namart: 紀元前754年〜紀元前725年)は、Nemrod(ニモロデ)とも表記されるのだが・・・、これは聖書に登場するニムロデと同じだ。
ニムロドは旧約聖書においてはクシュの息子であったことを考えると、関連性を探してみたくもなる。もちろん、この時代のヘルモポリスの支配者ナムルトがそうであったと言う気はない。世の中で最初の権力者となったニムロドの王権は、メソポタミアの諸都市におよんでいたということなのだが、さらに2000年以上もさかのぼった時代の話だ。
そうなると今度はエジプト王朝の創始者であるナルメルとニムロドの関係も興味深い。
ナルメルについてはこちら
名前の類似性だけでなく、旧約聖書の創世記10章8節に書かれてある。
「クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。」
まぁ、証明する資料は存在しないので、憶測で話すしかないのだが、
ただ・・・「ニムロド」が“エジプトに存在していた名前”ということは、とても興味深いように思える。
さて、先へ進もう。
ピイの治世20年目に、テフナクトはヘルモポリスのナムルトを寝返らせると、下エジプトの連合軍を率いてヘラクレオポリスを包囲した。
ヘラクレオポリスの支配者ペフチャウアバステトはテフナクトの連合軍から早い時期に離脱しヌビア側についていたのだが、テフナクト1世の軍隊に包囲されると苦境に立たされていた。ペフチャウアバステトと駐屯していたヌビア軍は対抗しながら、テーベに使者を送りピイに助けを求めた。
ピイはこの助けに素早く応じ、軍を編成すると将軍パウェレムと司令官ルメルセケニ指揮下にある上エジプト軍をヘラクレオポリスに派遣した。
テフナクトがいったん下エジプトに戻った後、ナムルトはヘラクレオポリス包囲軍の司令官として駐留した。
オペト祭が行われているテーベを訪れていたピイにとっては、まず祭り事を滞りなく行い、上エジプトの支配者たる地位を確固たるものすることが重要であった。「戦争は人まかせ・・・」ともでもいうようだが、送り込んだクシュ軍は精鋭ぞろいでナムルトの軍勢に十分に対抗するだけの戦力であると思っていたのかもしれない。
ピイが送り込んだクシュ軍はペル・ペガの戦いや2度の小競り合いで勝利を収め、重要な砦を奪取した。ナムルトはヘルモポリスに逃げ帰った。
ヘルモポリスを逃げ帰ったナムルトだが、南からやって来たピイが率いるクシュ軍本隊に包囲された。ナムルトは5ヶ月にわたって篭城したが、結局食料が尽き降伏した。
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