|
前回の続き ↓
古代エジプトにおいて有数の宗教センターでもあったヘルモポリスの街は、クシュ軍との5カ月にわたる籠城戦によって惨憺たるものであったに違いない。ヌビアを支配するクシュ王にしてエジプト第25王朝のファラオであるピイは、今や中部エジプトを完全に掌握しつつあった。ヘルモポリスの鉄壁の守りを誇った門が開かれ、ピイとクシュ軍は街の中に入った。ピイは平伏すナムルト王や王族達には全く興味を示さず、馬小屋に入っていくと、長い包囲戦によって痩せこけた馬を見て、ナムルトを叱責したという。
「ラー神の恵みにより私の呼吸に生命が与え続けられる限り、誓って言うが、汝(ニムロト)が自らの欲望の追求のために行ったどんな悪事よりも、馬達が飢えに苦しんでいることの方がずっと嘆かわしい…私はこのことで汝を非難せざるを得ない。」(ウィキ参照) さて、中部エジプトを手中に収めたピイは、今回の戦争の主犯であるサイス王朝のテフナクトを追いつめるべく、ナイル川をさらに下り、膠着状態にあったヘラクレオポリスに向かった。途中ヘルモポリスへ向かうはずだった第23王朝の軍勢と相対することになったが、これを打ち負かした。ヘラクレオポリスを包囲していたテフナクトの軍勢はメンフィスまで後退した。ヘラクレオポリスの支配者であったペフチャウアバステトは包囲からの解放者としてピイの来訪を大歓迎したと言う。
エジプト伝統の都市メンフィスではテフナクト側につく約8000人の兵士が強固な防衛線をはって抵抗したとされている。そこでピイは、メンフィスの港に会った敵の舟をことごとく奪取し、川から街へ攻め入った。メンフィスの街に入ったピイの軍勢は、“洪水のように攻め”、数多くの兵士を殺し、あるいは捕虜にした・・・とあるが、この“洪水のように”に対してはいろんな解釈がある。ひょっとしたら文字通り「水攻め」を行ったのかもしれない。
さて、メンフィスでの戦いに敗れた下エジプトの諸公達は、ピイに服従したが、テフナクトはサイスまで逃げ、その後ピイに使者を派遣し、命乞いをするともに忠誠を誓った。
テフナクとは言った。
「どうかご慈悲を!屈辱にまみれた私は、尊顔を拝めません」
(ナショナルジオグラフィック)
そして、下エジプトで勝利を収めたピイは黄金や馬などの戦利品を船に積みこむと、踵を返すように故郷ヌビアに戻っていった。その後、彼が再びエジプトに姿を見せたという記録はないと言われている。
紀元前725年頃の出来事であった。
一般にはトトメス3世の時に、エジプトは最大に拡張したと伝えられるが、良く考えると面積的にはヌビア王朝と呼ばれる第25王朝だ。
紀元前715年にピイが死去し、35年に及ぶ統治に幕を閉じると、臣下の者たちは遺志に従って、エジプト式のピラミッドに埋葬し、寵愛していた4頭の馬を遺体のそばに埋めた。エジプトで500年以上も前にすたれたピラミッド埋葬の慣行を、ピイは復活させたかったのだ。
・・・ピイの物語については、クリスチャン・ジャック著の『ブラックファラオ』がお薦めだ。
さて、この先は・・・ちょっと面倒くさいのでウィキから要約しながら抜粋しよう(ピアンキはピイに訂正)。舞台はピイがエジプトへの遠征に勝利をおさめたところから始まる。
勝利が確定するとピイは降伏した王、及び州侯達から莫大な献上品を受け取り、勝ち誇って本拠地ナパタへと帰還した。そしてナパタのゲベル・バルカルの聖域で新たな大規模な建築活動を執り行い、新王国時代にエジプトによって建てられた神殿を改修・拡張してその威光を示した。そして、弟であるシェバカに王位を継承すると、ピイは紀元前716年に没した。
一方、ピイがヌビアに戻ってからというもの、下エジプトではまた不穏な動きが出てきた。そして、第24王朝のテフナクトはヌビア軍が引き上げた後すぐに忠誠の誓いを破棄し反乱を起こした。再び起きたテフナクトの反乱に対して、ピイが何らかのアクションを起こしたという記録はない。おそらく、その必要もなかったのかもしれない。テフナクト1世は、まだピイが存命中の紀元前720年頃死去し、第24王朝の王位は息子のバクエンレネフ(ボッコリス)に受け継がれる。
ひるがえってヌビアでは、弟のシャバカがピイの後を継承した。シャバカは、テフナクトの後継者であるバクエンレネフが拡張的な政策をとりはじめたところ、治世2年目に早くも軍事遠征を行いバクエンレネフと対峙した。マネトによればシャバカ(サバコン)はバクエンレネフ(ボッコリス)を捕らえて生きたまま焼き殺したという。
シェバカは兄ピイのようにヌビア地方に戻らず、古都メンフィスを居城とし、エジプト全土を支配するための基盤を整備した。そして、エジプトの古い伝統の継承するために、第6王朝のペピ2世の名を襲名し、国内に王権の正統性をアピールした。また、散発的に起こった反乱に対しては、殺さず、労働力としてナイル川の氾濫から守るための堤防を築いたと言われる。
ウィキには次のように書いてある。
具体的な経緯を記した記録が無いが、シャバカ王の記念物がエジプト全域から発見されることから、彼は実際にバクエンレネフを殺し、第24王朝を滅ぼしてエジプトを再統一したらしい。彼の治世に関することはあまりわかっていないが、少なくともメンフィス、デンデラ、エスナ、エドフ、そして何よりもテーベで壮大な建築活動を行っており、高い指導力を発揮したと考えられる。シャバカの14年の治世の後、ピイの息子であるシャバタカが王位を継いだ。 まだ、古代オリエント史をよく知らなかった頃、アッシリアの有名な王達と戦ったエジプト王朝は、古代より連綿と続いてきたファラオだと思っていたが、良く考えるとアッシリアの王と戦ったのはクシュ王朝だった。
シャバタカ vs センナケリブシャバタカの治世に入るとサルゴン2世率いるアッシリアの勢力が拡大してきた。サルゴン2世の後継者センナケリブは、バビロニアを再び支配下におき、今やシリア全土の反乱を平定すべく軍をすすめていた。この事態に対しユダ王ヒゼキヤはシャバタカの下へ支援を要請してきたのであった。シャバタカはこの要請に答え、パレスチナへの軍事遠征に踏み切った。遠征軍司令官には王弟タハルカが任命された。
シャバタカの治世第2年(紀元前701年)、エジプト軍はアルタクの救援に向かい、アルタク平野でアッシリア軍と激突した。しかしながら、エジプト軍はこの戦いに敗れてパレスチナから後退することになる。センナケリブは、、「我が軍が敵を木っ端みじんに打ち砕いた」と言ったらしいが、タハルカは何とか生き残った。
紀元前690年にシャバタカ王が死去するとタハルカが王位を継承した。タハルカの即位当初はアッシリアの脅威が遠のいた。それはアッシリアで紀元前681年にセンナケリブが暗殺され、王位を巡って内戦が勃発したためである。
この一時的な平和の間にタハルカは熱心に内政に取り組み、大規模な建築を数多く残している。対外的には、紀元前673年にパレスチナのアシュケロンの対アッシリア反乱を支援してこれを成功させた。
タハルカ
しかしタハルカの成功はアッシリアの内政安定とともに失われた。アッシリアの王位継承の内戦を、母ナキアの支援の下で勝利したエサルハドンは、紀元前671年に大軍を率いてエジプトへと向かってきた。
あの奇妙な占いをおこなっていたナキアだ
タハルカ vs エサルハドンタハルカはこのアッシリア軍の侵攻を食い止めることができず、遂にアッシリア軍はエジプト本国へと侵入した。タハルカは下エジプトで行われた戦いで敗れ、メンフィスはついに陥落した。その際にはタハルカ王の親族の大半がアッシリアに捕らえられ、タハルカ自身は負傷してテーベへと逃走した。アッシリア王エサルハドンはこの勝利を高らかに謳った碑文を残している。
更に彼は「上下エジプト、及びエチオピアの王」を称しており、ヌビアに至る全エジプトを征服したと誇っている。しかしこれに関しては明白に誇張であり、テーベに逃走したタハルカはその地でなお支配を維持していたことが、彼が行った儀式などに関する碑文から確認できる。
タハルカはなおアッシリアに対する抗戦を続けており、エサルハドンはこれを鎮定するために紀元前669年に再度エジプトに遠征した。しかしその途中で急死し、アッシリア王位はアッシュールバニパルが継承した。アッシュールバニパルは一旦軍を引き上げさせたため、タハルカはこれに乗じてメンフィスを奪回し、下エジプトでもこれに連動して反アッシリアの反乱が発生した。
タハルカ vs アッシュールバニパルタハルカの北進と下エジプトの反乱を受けて、アッシュールバニパルは再びエジプトへと侵攻した。紀元前667年、アッシリア軍の攻勢を受けてタハルカは再び敗北し、テーベからも逃走してナパタまで撤退した。当時のテーベの長官メンチュエムハトはアッシリアに降り、全エジプトがアッシリアの支配下に置かれた。
この時、アッシリアに従順であったサイスのネコ1世だけは、「サイスの王」としての地位を保障され、またネコ1世の息子、プサメティコス1世(プサムテク1世)は「アトリビスの王」として、父とともにエジプトの管理をアッシリアから任された。これをきっかけにサイスの王家はエジプトにおける地位を確固たるものとしていき、やがて第26王朝を建てることになる。
一方ナパタまで逃れたタハルカは、従兄弟、もしくは甥であるタヌトアメンを共同統治者、及び後継者であると定め、その翌年(紀元前664年)に没した。
タハルカは、父のピイと同様、ピラミッド埋葬を望んだ。ただし、歴代のクシュの王たちが眠るエル=クッルの王家の墓地ではなく、ナイル川の対岸にあるヌリに埋葬するよう命じた。なぜこの場所を選んだのか。考古学者ティモシー・ケンドールは、死者の再生を信じるエジプトの太陽信仰にもとづき、タハルカは永遠の命を得ようとしたのだと推測する(ナショナルジジオ)。 後継者タヌトアメンは、タハルカの意思を継いでエジプトの支配権回復を目指して活発に活動した。かつてのピイの『勝利の碑文』とともに発見されたタヌトアメンの『夢の碑文』には、タヌトアメンが見たという夢についての記録が残っている。それによれば、彼は二匹の蛇が出てくる夢を見た。この夢は「南の国はあなたのものです。あなたは北の国をも取りなさい。」と言う意味に解され、彼はそれに従ってエジプトの再征服に向けて軍事行動を起こしたという。
彼は快調に進撃し、テーベとメンフィスを奪回したが、アッシュールバニパルが再度自ら軍を率いてエジプトへと進軍するとこれに敗れてメンフィスを失い、テーベへと逃れた。更にアッシリア軍の追撃を受けて、彼はキプキピを経てナパタへと逃げ帰った。アッシュールバニパルはテーベを略奪したが、ヌビアへまでは進軍しなかったため、タヌトアメンはナパタの地で引き続き王位を維持することができた。
タヌトアメンは紀元前656年に死去し、ヌビアの地に葬られた。
タヌトアメンはエジプトを支配した最後のヌビア王であり、彼の死をもって第25王朝の終焉と見なすのが一般的である。ナパタを中心としたヌビア人の王国は存続し、やがてその中心をより南方のメロエへと移し、メロエ王国へと続いていく。
アッシリアも強いが・・・クシュ王国もすごい。
よくこんなアッシリアの勢力図を見るが・・・
当時の流れをみると、こんなふうだろう ↓
ここまで読んだ方 ↓クリックお願いします。
|
全体表示
[ リスト ]





