オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

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クシュ王国メロエ王朝について書く前に、前回あっさりとスルーしてしまったアケメネス朝ペルシアのカンピュセス王のクシュ王国侵攻(BC525年頃)について述べておこう。この時代の出来事を伝承する文献としては、その真贋はさておきヘロドトスの『歴史』が重要だ。
 

カンビュセス、クシュへスパイを送る

エジプト攻略後、カンビュセスは3つの遠征を計画した。目指す相手はカルタゴ人、アンモン人およびリビアの南の海に面する地域に住むエチオピアの「長命族(マクロピオイ)である。計画をめぐらしてやがて決定した方針は、カルタゴには海軍を、アンモンには陸上部隊から選抜した部隊を派遣すること、エチオピアへは先ずスパイをおくり、その王に贈物をするという口実の下に、エチオピアにあると伝えられる「太陽の食膳」なるものが真実あるかどうかを見届けさせ、そのほかにもいろいろと探らせることでああった。
 
                 エジプトを攻略したカンビュセス
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『太陽の食膳』とは次のようなものであるという。町はずれに草原があって、ここにあらゆる種類の四足獣の肉を煮たのが一面に置いてある。実は町のその時々の係りの者が、夜の内にこの肉を草原に丹念に並べておくのであるが、昼間は誰でも勝手に行ってそれを平らげる。土地の住民は、大地がいつも自然にこの食物を産み出してくれるのだといっているそうである。いわゆる『太陽の食膳』とはこのようなものだといわれている

カンビュセスはスパイを派遣する決意を固めるとすぐに、エチオピア語を解するイクテュオパゴイ人エレパンティネの町から呼び寄せることにした。(中略)
 
このイクテュオパゴイ人「魚を食う人」という意味でヘロドトス、パウサニアス、アッリアノス、プリニウス、ストラボン、そしてプトレマイオス(ローマ天文学者)など古代の歴史家や地理学者などの著書に登場する。彼らが住んでいる地域は、ペルシア湾や紅海沿岸地域など報告する者によって様々であるが、プリニウスによれば端から端まで船で30日やアッリアノスによれば1万スタディオン(1800キロ)であったとされている。おそらく海上交易を生業とした民族であり、基本的にはアラビア語を話したとされている。
 
 
イクテュオパゴイ人がエレパンティネに到着すると、カンビュセスはエチオピアで述べるべき口上を彼らにいい含め、紫の衣裳、黄金の頸飾りや腕輪、雪花石膏の香油壺、椰子酒一甕などの贈物をもたせて、エチオピアへ遣わした。

カンヴュセスが使節を送った当のエチオピア人というのは、世界中で最も背が高くかつ最も美しい人種であるといわれている。その風習は多くの点で他の民族と異なっているが、ことに王制に関して次のような慣習がある。全国民の中で最も背丈が高く、かつその背丈に応じた膂力をもつと判定される者を、王位に就く資格があるとするものである。

さてイクテュパゴイ人の一行はこの国へ着くとその国の王に贈物を献上し次のように述べた。

「ペルシア王カンビュセスは、貴王と親交を結ぶことを念願され、貴王に拝謁いたすようにと我らを遣わされました。これなる王からの献上品は、王自身も殊に愛用しておる品々でございます。」


しかしエチオピア王は彼らがスパイとして来訪したものであることを看抜いて、次のようにいった。


「ペルシア王は何も予と親交を結ぶことを大切と考えて、そなたらに進物を届けさせたのではない。またそなたらは真実を申しておらぬし−そなたらが来た目的はわが国の実情を探るためであるからな-、あの男も正義の人物とはいえぬ。ペルシア王が正義の士であるならば、自国の領土以外に他国領土を望むことはなかったであろうし、何の害も加えてこぬ民族を隷属させるようなことはしなかったであろうからな。

そこでこの弓をあの男に手渡し、次のようにいってやれ。エチオピア王はペルシア王に忠告する。ペルシア人がこれほどの大弓を、このように易々と引けるようになったら、その時こそわれらに優る大軍を率いてこのエチオピア長命族を攻めるがよい。しかしそれまではエチオピアの子らの心に自国領以外の国土を獲得する願望を起さしめ給わぬ神々に感謝するがよい、とな。」

エチオピア王はこういうと弓をゆるめ、これを来訪者たちにわたした。王はそれから紫の衣裳を手にとって、それは何か、またどうして作るのかと訊ねた。イクテュオパゴイ人が紫や染色についてありのままを答えると王は、ペルシア人は人間もいかさまだが、その身につけるものもいかさまだといった。
 
確かにヌビア人は弓の名手として古来より知られているが、弓を引かせるというストーリーは同じくヘロドトスが紹介してリウスキタイ起源説ヘラクレス編にも登場する。・・・なんか創作臭いな・・・。
 
 
紫の染め物については以下を参照ください↓
 
   
王は次に頸輪と腕輪などの金製品について問うたので、イクテュオパゴイ人がそれらの装飾品について説明すると、王は笑い、それを枷と思っていたので、自分の国にはこんなものより頑丈な枷があるといった。
 
金より頑丈なものとは何か?金はもともと柔らかい金属なので、それよりも頑丈なものとして青銅や鉄の可能も考えられる。前回の記事ではメロエが、鉄の一大生産地であったことについて否定的な見解を紹介したのだが、やはり鉄の生産地であった可能性も捨てきれない。例えばこんな記述もある
 
 
ナパタ時代の後期,紀元前1千年紀中頃には鉄器生産が始まっていた可能性があるが,王宮においてさえ鍛も日常の道具もほとんどは石器であった(Kendall 1996) 。それに対して,メロエにおける鉄器生産は出土したスラグの量からみて,鉄原料ならば5000 トン,鉄製品ならば2500 トンにのぼると推定されているのである。これが約500年間の集積であるとしても,年間5 トン以上の鉄製品が作られていたことになる(Rehren 2001) 。これだけの鉄を生産するには,燃料となる木炭が大量に必要となる。
http://www.janestudies.org/drupal-jp/sites/default/files/JANES_NL_J_no17(2008)_7.tsujimura.pdf 
 
 
3番目に王は香油について質問したが、使者がその製法やそれを体に塗りつけることなどを話すと、王は衣裳についていったのと同じ言葉を繰り返した。

さて、話が酒のことに及びその製法を聞いた王は、大層気に入り、王は何を常食としているのか、またペルシア人は最大限どれほど生き延びるのかと訊ねた。使者は王がパンを常食としている旨を答えて、小麦がどのようなものかを説明し、ペルシアでは80年が最高寿命であるといった。
 
するとエチオピア王がいうには、糞便を常食していては寿命の短いのも驚くに当たらない。実際ペルシア人はこの飲物で元気をつけることがなかったら、それだけの寿命も保てまい、イクテュオパゴイ人にその酒を指し示しながらいった。さすがのエチオピア人も、酒の点でだけはペルシア人に兜を脱ぐというのである。

今度はイクテュオパゴイ人が王に向かって、エチオピア人の寿命や食事について質問すると、エチオピア人の多くはその寿命が120歳に達し、これを越えるものもあること、肉を煮て常食とし、飲物は乳であると王は答えた。スパイたちが寿命の話に驚いていると、王は一同をある泉に案内したが、この泉で水浴すると、さながら油の泉につかったように、肌が艶やかになった。

この泉は菫のような芳香を発していたという。スパイたちが語った話によれば、この泉の水は実に軽いので、水面にうけ部ことができるものは何一つなく、木も木より軽いものも浮かぶことができず、みな水底に沈むという。実際その話にあるような水がエチオピアに実在するとすれば、この水を常用しているエチオピア人が長命なのは、そこに起因しているかもしれない。
 
・・・“油の泉につかったように”って、水より軽いんだからやっぱり油か?スーダン地方は石油の産地でもある。いずれにせよ、メロエ王朝はローマから大衆浴場の文化を取り入れたようなことが書かれたあるが、水浴的な習慣はヌビアにすでにあったということなのだろう。
 
 
泉を離れると今度は牢獄へ案内されたが、ここでは囚人がみな黄金の枷を掛けられていた。このエチオピア人の国では、青銅が最も珍しく貴重なものなのである。牢獄見学の後、スパイたちはいわゆる「太陽の食膳」も見物した。

「太陽の食膳」を見学した後、最後に彼らが見たのはエチオピア人の棺で、これはヒュアロスという透明な石材を用いて、次のようにして製造されるという。エジプト式あるいはその他の方法で死骸を乾燥させた上、全身に石膏を塗り、その上からできるだけ本人の面影に似せて、その姿を描くのである。それから中をえぐったヒュアロス製の柱の中へ遺体をおさめる(ヒュアロスは細工し易い石材でこの国では多量に採掘される)。

遺体は石柱の中に収まっていても透きとおって見え、何らの悪臭も放たず、その他不快の種となるようなことを示すことも決してない。そしてその遺骸は、五体こごとく加工を施す前のままの姿で現わしている。この石柱は、使者に最も近い縁者が一年間自分の屋敷に置き、さまざまな動物を供え生贄をささげる。一年たつと家から運び出して、町の周囲に立てるのである。
 

カンビュセス 進撃と「カンビュセスの籤」

以上の視察を終えて、スパイたちは引き返していった。彼らから以上の報告をきいたカンビュセスは、大いに怒ってただちにエチオピアに向って兵を進めたのであるが、あらかじめ糧食の準備を命令することもせず、また自分が地の果てに兵を進めようとしていることを考えてもみなかった。カンビュセスはもともと気違いじみた性格で、冷静さを欠く人物であったので、イクテュオパゴイ人の報告をきくや否や、麾下のギリシア人部隊にはその場所で待機させ、全陸上部隊を率いて遠征の途に上ったのであった。

軍を進めてテバイに着くと、カンビュセスは遠征軍の中から5万を選抜し、アンモン人を征服してゼウスの託宣所を焼き払うことをこの部隊に指令し、自分は残りの部隊を率いてエチオピアへ向った。

しかし彼の軍隊が行程の5分の1も踏破せぬうちに、携帯の食糧はことごとく尽き、糧食についでは軍需品輸送用の動物も食い尽してしまった。この情況を知ったカンビュセスが、もしこの時自分の誤算に気付き、軍を返していたならば、最初の過失はともかくとして、彼は賢明であったといえるであろうが、彼はこの惨状を全く意に介さず、ひたすら先へ先へと進んだのであった。

兵士たちは地上に草の生えている限りは、これを食って生き延びたが、いよいよ砂漠地帯に入ると、彼らの内で戦慄すべき行為に出るものが現われた。すなわち十人一組で籤をひき、籤に当った者を一人ずつ食ったのである。カンビュセスもこのことを知ると、全軍が同胞相食む惨状に陥ることを恐れ、エチオピア遠征を中止して退却したが、テバイに着いたときには麾下の兵士多数を失っていた。
 
 
このヘロドトスが語るカンビュセスのクシュ遠征の顛末は、「ドラえもん」の藤子・F・不二夫が書いた異色の短編漫画「カンビュセスの籤(くじ)」にも登場する。藤子・F・不二夫の短編漫画を見ると、あらためて昔のマンガ家は凄いと思う。Wikiにはストーリーが掲載されているが、「食のタブー」もどこ吹く風、絶対読みたくなることうけあいだ。
 
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ただ、前回の記事でも触れたが、実際の歴史ではペルシア軍とクシュ軍の戦闘はあったようだ。これほど悲惨の結末という訳ではないのだが、ペルシア軍は撤退を余儀なくされた。
 
次回こそのその後のクシュ王国 メロエ王朝だ。
 
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