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海外出張でだいぶ間隔あいてしまった・・・。
前回はこちら ↓
クシュ王国メロエ王朝メロエ王朝の誕生時期については、いろいろと議論が分かれている。政治的機能はすでにアスペルタの治世(紀元前6世紀初頭)からメロエに遷都されたようだが、宗教的機能は引き続きナイル川下流のナパタに残り、王もナパタに埋葬された。
一般的にメロエ王朝の初代王として知られているのはエルガメネス(Ergamenes:紀元前280年頃)だ。彼については、ギリシア人歴史家ディオドロス(紀元前100年頃)によって言及があるなど、当時他の古典文献に登場する数少ない王の一人である。ディオドロスによればメロエ王朝のエルガメネスはギリシア哲学者によって教育を受け、ヌビアの司祭を拒んだという。更に彼によれば、かつては慣習によって司祭が“王がいつ死ぬべきか”が決定していたが、王はこの命令を拒み、神殿に軍隊を送りこんで司祭を殺したという。
司祭が王の死ぬべき時を決定していたと言う話は興味深い。ジェームズ・フレイザー著の『金枝篇』を想起させ、再生を繰り返すアドニスのような植物信仰が根底にあるような気もする。ウィキの「王殺し」の記事を拝借すると
ヨーロッパでは、古代においては宗教的意味をもって王を殺害する習慣があったとする説がある。これは、王が本来人間の身でありながら、宇宙の秩序を司る存在として君臨していたことに由来し、そのための能力を失った王は殺害して新たな王を擁立して秩序を回復させる必要があると考える。 この逸話の信憑性については定かではないが、彼によって新しいヌビアの時代が幕を開けたのは確かである。メロエはそれ以前にもクシュ王国の首都であったことはあるが、エルガメネスはメロエにピラミッドを築き、そこに自身を埋葬させた最初の支配者であった。それまでは、前回の記事にも書いたが、それまで宗教的な中心地はナパタであり王の戴冠式や埋葬はすべてナパタでされていたのだった。
その後の王については、ほとんど知られておらず、ピラミッドからの碑文から名前を読み解くのが精一杯だ。おそらく紀元前220年頃の王であっただろうアルネハマニ(Arnekhamani)は、大きな神殿をハルツームから北東190kmほどいったal-Musawwarat as-sufraに築いている。それを見る限りは、エジプトの文化の影響は大きく後退したことが見てとれるようで、他方ギリシア文化の影響も受けながら独自のメロエ文化や芸術が花咲いていたことが分かる。そして、ここは新たな宗教センターになっていたことが、巡礼者が残したと思われる碑文などによって考えられる。
Mussawarat en Sufra
カンビュセス率いるペルシア軍の侵攻を防いだヌビアだが、考古学的証拠から、メロエ朝時代のクシュ王国がプトレマイオス朝エジプトに対して軍事侵攻を企て、下ヌビア地域あたりを占領したとも考えられている。アディハラマニ王(BC207–186)とアルカマニ王(BC200頃)にはアスワンの近くに神殿も建設しており、少なくともその周辺は当時ヌビアの占領下にあったことが伺える。また、そこにはアディハラマニ王の碑文も残っているのだが、それがヌビアの王についてヒエログリフで記された最後の文書である。
世界史における時代の中心はギリシアやローマに移行しつつあり、歴史の教科書ではほとんど言及されることはないのだが、エジプト南部においては、エジプトとヌビア勢力の攻防がいたるところで展開していたと考えられる。
記録されているメロエ朝王の記録の中でも、シャナダヘト(Shanakdakheto:BC170-BC125)は最初の女王である。メロエのピラミッド群の中でもひときわ大きなピラミッドが彼女のために建設され、チェペルにある2つの小部屋は芸術性の高いリリーフで装飾されていたと考えられ、南部への軍事遠征によって数多くの牛と奴隷を得たことが描かれている。自らを「ラーの息子」、「2つの国の支配者」という称号を持ち、ナショナル・ジオグラフィックスによれば、史上最も重要な女王50の中に入る要チェックの人物だ。ナカで発見された彼女の名前が書かれた碑文は、現存するものではメロエ文字で書かれた最古のものである。
女王シャナダヘトのピラミッド
彼女の治世の後、アマニレナス(Amanirenas:BC40 -BC10)やアマニスハヘト(Amanishakheto:BC10 -BC1)などメロエ王朝では度々女王が支配者となった(7人ぐらいだろうか?)。聖書の使徒行伝や地理学者ストラボが述べているエチオピアの女王カンダケは、どうもアマニトレ(Amanitore:BC1–AC20)であると考えられている。
メロエの都市と神々メロエの都市は3つの構成要素があった。王宮や行政などの重要な建物を城壁で囲むようにつくられたロイヤルシティ、アメン神の複合神殿、そして一般市民が住む居住区だ。ロイヤルシティの王宮には所謂“ローマ風呂(公衆浴場)”があり、装飾などから古典ローマの影響がみられるとされる(温泉自体はもっと古くから普及していたと考えられる)。メロエのピラミッドと居住区の中間には太陽神殿がある。
メロエではナパタ時代、あるいはもっと以前から信仰されてきたアメン神がそのまま最高神として信仰されていた。角がある羊の姿で描かれたアメン神はケルマ時代の太陽神として機能をもっていたことが確認できている。野生羊姿のアメン神は、エジプトの軍事遠征によってヌビアを征服した時にエジプトにもたらされたと考えられている。いわばヌビア・オリジナルだ。メロエ語では「アマニ」と呼ばれ、アマニを名前に冠する王も多数出た(Tanwetamani、Senkamanisken、Anlamani、Arkamani、Amanitore、Amanishakheto、そしてNatakamanなど)。
さらに、アメン神は時代と場所によってその姿や添え名は変化したらしい、カワでは「南の獅子」という添え名がつき、かつてライオンの姿の神であったことも示していおり、メロエ朝時代には羊の他にもライオンの姿でも描かれている。またメロエ朝時代にはアメン神が太陽を司るのではなく、稀にだが「月の神」であったことを示す碑文も発見されている。また、第25王朝のピイを見ても分かるようにテーベのアメン神が彼の妻ムートや息子コンスなどと一緒に崇められていたこともある。
メロエ朝時代にはアメン神の他にも次のような神が信仰されていた。
アペデマク(Apedemak) 獅子神この神も頭がライオンで身体が人間という姿で、弓と矢筒と一緒に描かれている。戦争と豊嬢の神であり破壊と創造の力をもつとされている。ナカにあるライオン神殿の裏の壁には、3つの頭と4つの人間の手をもつアペデマクが描かれており、インドの影響もみられというが・・・どうだろうか。また彼は頭がライオン、上半身が人間、下半身が大蛇という姿でも描かれているとなると、ゾロアスター教やミトラス教のズルワーン、グノーシス主義のアイオーンと重なる。
アメセミ(Amesemi)女神獅子神アペデマクの妻だが、人間の姿で描かれている。ライオン神殿の側面にイシス、ムト、ハトホル、サティスとともに描かれている。この4人の女神たちに思いつきで並んでいる訳でも、美人コンテストをしているわけでもない。この女神達にすべて共通して『ラーの目』と関係がある。これらエジプトの4女神に比べてヌビアの女性らしくぽっちゃりと描かれているアメセミも、おそらく太陽神ラーと関係があったに違いない。タブンね・・・。
アレンスヌフィス(Arensnuphis) プトレマイオス朝彼の名アレンスヌフィスはギリシア語に由来するが、古エジプト語では「良き伴侶」を意味する「Iri-hemes-nefer」である。これは特にプトレマイオス時代の下ヌビアの神殿などでエジプトの神シューの添え名としても見受けられ、雌ライオンの顔をもつテフヌトの兄弟、もしくは夫として、伝説によればヌビアからエジプトに来たと考えられている。アレンスヌフィス自身は人間の姿で描かれているのだが、ごく稀に吠えるライオンとして描かれていることがある。
アスワン近郊にあるフィラエ神殿では、彼には「美しい狩人、プントの主人」という添え名がつけられている。さらに「大風」、「北風とした来た者」、「ヌビアから来た者」、「天の創造者」、「ラーの後継」などがある。ギリシア神話にてこのアレンスヌフィスに対応するのはアルテミスと言われている。
ふむ。。。
エジプトの伝説にある「ヌビアに逃亡する雌ライオンの顔をした女神」の由来の手掛かりを得ようとしたのだが、今回は残念ながらえられなかった。少し気になるのは、メロエ朝の時代でも上下統一を象徴する王冠があちらこちらで登場する。ひょっとしたら僕たちはこの王冠をとんでもなく間違えて解釈してしまっているのではないだろうか・・・。
ところで、メロエ王朝の時代で注目されるのが彼らの交易についてだ。
海上交易への道メロエ王国の時代には、発掘される遺物などからもギリシア商人との盛んな交易がされていたと考えられており、それがナイル川を経由するルートではなく、アフリカ東岸の紅海から輸出し、そしてギリシア人植民都市と交易していたと考えられている。更にはアラビア半島南部を経由して、インドとも接触しおり、ヒンドゥー文化もこの時期流入してきている。
前回、前々回とメロエの鉄産業について少し紹介したが、実際メロエが「アフリカのバーミンガム」と呼ばれるほど鉄鋼産業が盛んであったかは今後の調査を待たなければならないだろう。しかし、鉄以外にも金や宝石をはじめ、メロエ産のコットン繊維なども海上交易の商品として広範囲に取引されていたと考えられている。
交易をする際に重要なのは相手側とのコミュニケーションだが、所謂メロエ文字と言われる文字は、フェニキア文字の発展と同様に商業的展開の必要性から生まれたものだろう。
そして・・・、この文字だが、
その交易の特性を示すようにインドからの影響もあるようだ。
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この記事は、「聖書アラビア起源説」と関係しているのですよね?
2012/10/23(火) 午後 10:08
もちろん♪
サリービーの内容とは関係ないので別シリーズになっていますが、僕なりにはおさえるべきところだと思っています。
2012/10/24(水) 午後 6:34 [ 9回裏二死満塁 ]
2012/10/24(水) 午後 7:59