オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

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クシュ王国の中心が時代とともにケルマから南方のナガタに移り、そしてナガタからさらに南方のメロエに移るにつれ、文化的にエジプトから独立したクシュ王国は、独自の文化を開花させていった。その変化は、クシュ王国独自のメロエ文字誕生にもみることができるが、それは独立した発展をたどったのではなく、おそらく交易を通じてこれまで関係の薄かった他の文化圏との接触も大きな要因だったのではないだろうか。
 
前回、マーラーさんから「聖書アラビア起源説」との関連を聞かれたが、僕がヌビア地域にこだわるのは、まさに今日の記事で取り上げる「言語」と「文字」の問題やY染色体の分布図をみるとアラビア半島南西部とアフリカ東岸(ヌビアはもっと奥地だが)にはどうしても何らかの関係あるよう思えるからだ。
 
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そして、インドとも・・・
 

ヌビア人が話したメロエ語

メロエ語とは、およそ紀元前1000年から紀元前750年の間にヌビア(現在のスーダン)で成立したクシュ人の王国で話されていた言語である。この「メロエ語」という名前はクシュ王国の中心地がメロエに遷都されはじめた紀元前6世紀頃を考えると、誤解を招きやすいのだが、すでに紀元前1000年頃にはヌビアでは日常会話として話されていた言語とされている。つまり、ヌビア語と呼んだ方が適切なのかもしれない。
 
記録としてはエジプトの文字ヒエログリフで編集され、紀元前800年頃の古代ヌビアの碑文はほぼ全てヒエログリフを用いて書かれているそうだ。しかしながら、ヌビアの人名研究などが進み、メロエ的な特徴をもつ名前や地名、そしてフレーズなどはエジプト新王朝時代から存在していたとも考えられている。
 
その一方で、「メロエ文字」の発展は遅れて興った。もともとクシュ人の王国の中心地はナパタであったが、紀元前300年頃に、現在のハルツームの北のメロエに中心地が公式に移された。当時エジプトに対する文化的な依存度が低下したが、同じ頃に独自の文字、メロエ文字による表記法が発展し、メロエ語が公的な記録に使用されだしたことからも、そのことが伺える。
 
 

奇妙なメロエ文字

メロエ文字は、クシュ王国メロエ王朝において少なくとも紀元前200年頃までメロエ語を書き記すのに使用されていた。またおそらく、後継者である諸ヌビア王国で古ヌビア語を記すのに使用された。メロエ文字は所謂「アブギダ」、「アブジャド」、「アルファベット」という文字体系の中で、セム系の文字である「アブジャド」とインド系(ブラーフミー)文字である「アブギダ」の性質を併せ持つような不思議な文字だ。
 
ちょっと訳が分からなくなると困るので整理しておこう。
 
音素文字は原則として1字が1音素(発音の最小単位)を表す文字で、最初に僕らが知っているアルファベットの体系を想像してもらってかまわないだろう。ただし、「a」や「e」のような母音や「h」や「s」のように子音をどのように体系に取り組んでいるかで3つのグループに分けることができる。
 
 
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「アブジャド」はセム文字系であり、ヒエログリフを簡略化することによってつくりだされた原シナイ文字 (紀元前1500年頃) の一派であったと言われている。しかし、原シナイ文字がアルファベット体系の中で最も古い文字かと言えばそうでもない。上エジプトで比較的ヌビアの影響も濃いテーベ周辺で原シナイ文字と近似のワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年頃)も発見されている。
 
楔形文字(シュメール文字)は紀元前2500年頃には1000文字あったとされるが、その後500年間の内に400文字に簡略された。その後も簡略化の努力は続けられた。こうしたプロセスの中で母音を捨てられ、フェニキア文字の誕生で覚えるべき字形が22までに減った。フェニキア文字は、まさに広く使用されるようになった最初のアブジャドであり、広範囲に海洋貿易を営む民によって生み出された言語といっていいだろう。
 
このプロセスはギリシア語のアルファベットを誕生させ、また広域で利用されたアブジャドのアラム語は、中東を経てインドまで到達し、そこで今度はブラーフミー文字を発展させた。ブラーフミー文字はアブギダである。このブラーフミー文字は子音の音価と暗黙に続く母音の音価を保持することで音節を表現する。この辺の分け方は正直良く分からないが、アブギダが紀元前6世紀頃インドで誕生したことはチェックしておきたい。
 
ひるがえって、ヌビア地域ではアブジェドでありながら、アブギダとしての性格をもつメロエ文字が誕生したわけだが、おそらくインドで生まれたアブギダが、インド洋の海洋交易路を経てアフリカ東岸に達し、エジプトとの国交がほぼ断絶していたヌビア地域の文字形成に影響を与えたのかもしれない。
 
                      文字の変遷
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 文字の広がり
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また、同じようにアラビア半島南西部のサバ王国や、後のヒムヤル王国からアブジャドである南アラビア文字がエチオピアの紅海沿岸にもたらされ、ゲエズ文字となった。このゲエズ文字も当初はアブジャドであったにもかかわらず、西暦300年頃になるとインドのブラーフミー文字や隣のメロエ文字などの影響を受けてアブギダに変化し、これまで右から左に書かれた文章も、左から右へと書式を変更している。
 
ウィキペディアには次のように書いてある。
アブギダとそれ以外の音素文字体系との間の明瞭な線引きは難しい。歴史上中間的な文字はいくつも生まれている。たとえば古代ヌビアのメロエ文字は、随伴する a を示さない (ひとつの記号が m と ma の両方を表すなど) ため、ブラーフミー系文字のアブギダに似ている。しかし、他の母音は完全な字で示し、ダイアクリティカルマークや変形では示さない。したがってこの文字体系は、本質的にはアルファベットに近いがある母音を表記しないものであったと言えよう。
 

文字の分類はそもそも正しいのか?

世界最古の音素文字をめぐってはヒエログリフから派生したと考えられる「原シナイ文字(紀元前1500年)」であるとか、「ワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年)」であると言われている。それがフェニキア語の祖である原カナン語に発展したとあるのだが、若干の違和感を覚えずにいられない。
 
カナン人がフェニキア人の祖であったことは、おそらく間違いないと思われるのだが、この原カナン文字は、フェニキア文字と似ているようにはとても思えない。どうだろうか。ヒエログリフが原カナン文字の由来というのはその類似性から容易に想像できるのだが、そこからフェニキア文字への発展段階には、もう何段階かの発展過程がないと説明しにくいような気もする。
 
フェニキア文字は22字の文字を持つ純粋なアブジャド(母音を表す記号がない)である。つまり、子音を表現する文字のみから構成される文字体系で、実際にどう読んだかは分からない。このフェニキア文字からは最初に分岐したと考えられるのが、古ヘブライ文字で、おそらく「紀元前10世紀頃に話されていたと考えられるヘブライ語」を表現するのに使用されたと言われている。
 
一般的・・・といっても聖書を史実と受け止める場合、古ヘブライ語はイスラエルの滅亡やバビロンの捕囚などでフェニキア文字から派生したと思われるアラム文字に取って代わられ、その後、再びアラム文字をベースとして現在のヘブライ語が出来たというのが・・・どうも怪しい。
 
 
疑惑の一つ目は; フェニキア文字と古ヘブライ語ってそっくり!
・・・
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驚くほどに・・・と言うか、ほとんど違いがない・・・
 
 
・・・って言うか同じでしょ? これは・・・。
 
 
つまり、紀元前10世紀以前、モーセも苦手であったヘブライ語はすでに存在していなければならないわけで、当然十戒の石板もヘブライ文字ではなく、フェニキア文字と同じ「古ヘブライ語」でなければならない。これは聖書に都合の良い箇所は「古ヘブライ文字」であり、それ以外は「フェニキア文字」と呼んでいるような気がしてならない。
 
 
疑惑の2つ目は; アラム文字とヘブライ文字ってそっくり!
 
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・・まぁ、イエスもアラム語を話したと言われているが無理もないが、バビロンの捕囚後、密かにヘブライ語を伝承してきたユダヤ人たちが再び「ヘブライ語」を復活させたというストーリーはどうも怪しい。
 
ウィキペディアには次のように書いてある。
帝国アラム文字の影響
紀元前7世紀頃から新アッシリア帝国で行政言語としてメソポタミア全土で使用されるようになったアラム語・アラム文字(帝国アラム文字)は、続く新バビロニア帝国、ペルシア帝国においても行政言語・共通語の役割を担い、周辺の諸言語にも多大な影響を残しているが、ヘブライ文字にもその直接の影響を与えている。アッシリアの北イスラエル王国の征服と新バビロニアによるユダ王国の征服、バビロニア捕囚、キュロス王による帰還政策とそれに続くペルシア帝国時代に、帝国治世下のセム系諸民族は軒並み帝国アラム文字の使用に移行したようである。バビロニア捕囚の後もイスラエル王国系の北南の地域では、一部それまでの古ヘブライ文字が使用されていたようだが、この時期からアラム文字によってヘブライ語を筆記するようになり、ヘブライ語自体も徐々に文語化し日常の口語はアラム語へと移行したのではないかと考えられている。

このアラム文字に遷移した後のヘブライ文字を方形ヘブライ文字 (Square Hebrew script) または単に「方形文字」と称する。

方形ヘブライ文字の展開
ハスモン朝が成立する紀元前2世紀から紀元前1世紀に制作がはじまったと考えられるクムラン出土の死海文書では、単語末に形状を変化させる k の(ך)カフ・ソフィート、 m の(ם)メム・ソフィート、 n の(ן)ヌン・ソフィート、p の(ף)ペー・ソフィート、ṣ の(ץ)ツァディ・ソフィートが出現している。しかし、これは同じ時期のパルミラ文字などの他のアラム語資料でもまったく同様の形態変化を起こしているので、方形ヘブライ文字だけではなくこの時期の西部のアラム文字系全体の変化と連動した、同一の現象と考えるべきだろう。

死海文書などを見る限り、紀元前後のユダヤ人の文字は聖典、俗文書を問わずほぼアラム文字系である方形ヘブライ文字に移行したようであるが、死海文書中では神名である「YHWH」など若干の単語を古ヘブライ文字で書き分けている例が随所で見られる。また後代のラビたちもこれらの文字を「ヘブライ字(ketāb 'ibrī)」と称しているため、バビロニア捕囚後も一部古ヘブライ文字は生き続け、この時期には現行の「方形ヘブライ文字」と「古ヘブライ文字」との峻別・併用・使用上の差異が存在したとみて間違いないだろう。

蛇足ではあるが、北イスラエル王国領であったサマリア地域でも同様に古ヘブライ文字が生き続け、紀元前3世紀頃には古ヘブライ文字に装飾的な要素を加えた独自のサマリア文字の祖形が出来上がったようである。中世のサマリア文字は死海文書中の古ヘブライ文字と近似している。

 
・・・
古ヘブライ語と近似している・・・と言うのは要するにフェニキア文字と近似している・・・と同義だ。サマリアは聖書にも登場する北イスラエルの首都であったので、無理やり古ヘブライ語としているようだが、フェニキア文字と呼んではいけないのだろうか?
 
 
ふむ。。。
 
 
だいぶ話がそれてしまったが、言語を中心としてぼんやりとしたエチオピアとインドの関係についてスポットをあてようと試みたのだが・・・・結局ぼんやりとしたままだ。
 
次回はアラビア半島の古代史にいこう。
 
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「聖書アラビア起源説」への疑問

記事に書きました。(失礼ながら)

2012/11/2(金) 午後 6:39 マーラーー

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読みました。あちらにコメントできなかったので、こちらにしますが、疑問や反論としては正直ちょっと弱いかな・・・。政治的プロパガンタという反論には、ヨセフスの『ユダヤ古代誌』とハスモン家の関係などを考えるとこれも政治的プロパガンタそのもの。
ただ、『聖書アラビア起源説』については僕なりの疑問もあります。

2012/11/6(火) 午前 10:02 [ 9回裏二死満塁 ]

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簡単ですよ。

ぺリシテ人=クレータ・ギリシャ系で地中海東南の沿岸に居住。

ユダヤ人の領土は、そのぺリシテ人の領土と接していた。

だからユダヤ人も地中海沿岸にいたことになる。

2012/11/6(火) 午前 11:42 マーラーー

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これほど明解な論理のどこが弱いのでしょうか?(笑い)

2012/11/6(火) 午前 11:45 マーラーー

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ぺリシテ人=クレータ・ギリシャ系で地中海東南の沿岸に居住。
-> ホントですか?
マーラーーさんは宗教関連詳しいけど、聖書に描かれたペリシテ人の信仰にギリシア信仰体系の痕跡を見出すことができるだろうか?何となくゴリアテの服装が昔のギリシア系らしいとしても、そもそも創世記はいつごろ編纂されたものなのだろうか?そしてその服装自体ダビデの時代に存在しただろうか?
「エジプト新王国期の記録」と言ってもラムセス3世の碑文に海の民の一つのグループとしてPelesetとあるだけでそれ以外はアッシリア/バビロニアの碑文からPalastuとそれらしきもの?が登場するだけだ。


ユダヤ人の領土は、そのぺリシテ人の領土と接していた。
→ メルエンプタハの碑文にイスラエルは登場するが、聖書以外にユダヤの領土がペリシテ領土と接していたことを裏付ける資料があるだろうか?

2012/11/6(火) 午後 1:30 [ 9回裏二死満塁 ]

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そして、そもそもサリービーはペリシテ人自体を地中海沿岸の民としていないので、議論を戦わせるための前提条件が違う。それに隣り合って住んでいたとも書いていない。

エデンから流れる支流がクシを通っていたのはなぜですか?この記述のためにエデンの園をビクトリア湖あたりだと主張しても何もはじまらないですよね。

2012/11/6(火) 午後 1:36 [ 9回裏二死満塁 ]

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これは本当ですよ。

ぺリシテ人は赤い肌で有名でしたが、クレタ人も赤い肌でした。

記事に書きました。

2012/11/6(火) 午後 7:31 マーラーー

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>そして、そもそもサリービーはペリシテ人自体を地中海沿岸の民としていないので、議論を戦わせるための前提条件が違う。それに隣り合って住んでいたとも書いていない。<

まさしく、それが彼の誤謬を示しているのですよ。わかりますよね?満塁殿ならば♪

2012/11/10(土) 午前 0:53 マーラーー

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まあ、普通の聖書学者ならば、「アラビア起源説」に対しては一顧だにしないでしょうね。

2012/11/10(土) 午前 1:11 マーラーー

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>ぺリシテ人は赤い肌で有名でしたが、クレタ人も赤い肌でした。記事に書きました。

すいません・・・見つかりませんでしたorz・・・。ペリシテやクレタ人の肌について書かれてある碑文だとかって存在しているんですか?

2012/11/12(月) 午後 1:34 [ 9回裏二死満塁 ]

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>普通の聖書学者ならば、「アラビア起源説」に対しては一顧だにしないでしょうね。
もちろんです。信じるのであればその人は聖書学者を辞めるべきでしょう。

2012/11/12(月) 午後 1:36 [ 9回裏二死満塁 ]

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ピュラー(古代ギリシア語:ΠύρραまたはΠύῤῥα、Pyrrha、ピュッラー)は、ギリシア神話に登場する女性である。エピメーテウスとパンドーラーの娘で、デウカリオーンの妻である。彼女は、デウカリオーンと共に、「青銅の時代」を終焉させた大洪水を生き伸びた人間として知られる[1]。ピュラーとはギリシア語で、「赤い髪の女」の意味である。

ネオプトレモスは、ピュロス(Pyrrhos)つまり「赤い頭の男」の名を持った。彼の髪が実際に赤髪であったため、または顔が紅潮することが多かったためともされる.

2012/11/12(月) 午後 7:18 マーラーー

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このように、ピュリステア人の「ピュ」は、身体上の「赤い」特徴を示唆しています。

クレタ人の赤い肌は、非常に有名です。

2012/11/12(月) 午後 7:26 マーラーー

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クレータ系のぺリシテ人は、確実に地中海東南岸に住んでいました。100%。

2012/11/12(月) 午後 7:31 マーラーー

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ユダヤ人は、ぺリシテ人の隣人でした。100%。

2012/11/12(月) 午後 7:34 マーラーー

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