オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

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さて、クシュの歴史を紀元前2世紀ぐらいまで概観してきたが、一旦時間の流れを紀元前8世紀あたりまで逆戻ししよう。まだ、クシュ王国がメロエに遷都する以前、王国の勢力圏からは外になるのか、それとも衛星都市的に発展していたのかは定かではないが、ダモト王国がエチオピア北部、現在のエリトリアに興隆した。
 
後のアクスム王国の基礎となるべき国なのだが、その歴史についてはあまりにも闇に包まれている。この王国の発展には紅海の対岸にあるサバ王国も少なからず絡んでいるといわれている。
 
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                 地図は紀元前4世紀ごろのもの(Wiki)
 
 
まずは、ここで紅海を越え、アラビア半島の歴史について調べてみることにしよう。
 
東アフリカとアラビア半島の間に横たわる紅海は長さ2250km、幅最大355km 平均的な水深は538メートルある。
 
一番狭い海峡であるバブ・エル・マンデブ海峡では、2つの陸地の間はわずか27キロであり、琵琶湖の最大幅が23キロであることを考えると、筏で渡ろうと思えば渡れる距離であろう。人類の移動ルートとしては、ナイル渓谷からシナイ半島を通ったという北東ルート説よりも、このバブ・エル・マンデブ海峡を渡ったという南東ルート説の方が有力である。
 
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こちらのサイトより拝借 ↓
 
 
これはアラブ主著国連邦などで発掘された石器なども、この説を裏付けている。
 
人類の出アフリカは定説より早かった?
January 28, 2011  
初期現生人類の出アフリカ時期が定説より2万年早まるかもしれない。アラビア半島の太古の石器を発掘した研究者が発表した。

約13万年前、氷期の地球で温暖化が進行し、海水面が下がった。アラビア半島には航行可能な湖や河川も出現して、人類の水上移動が容易になったという。かつては乾いた砂漠だったアフリカ北部地域に中東への新たな移動ルートが生まれ、約20万年前に出現した初期人類に出アフリカのチャンスが訪れたと見られる。

アラブ首長国連邦の砂漠遺跡で発見された約12万年前の石器類も、新説の有力な証拠となる。

初期人類は約6万年前、ナイル渓谷や現在のエチオピア経由でアフリカを出たと考えられてきた。しかし太古の石器の発見により、現在のソマリアあたり、いわゆる“アフリカの角”から直接半島へ渡った可能性が出てきた。しかも、道具はアフリカ独特のデザインが施されているという。(中略)

気候データについては、洞窟の石筍(せきじゅん)から太古の湖や河川の気候記録を調査し、紅海の水位変動も調べたという。比較的温暖だった約13万年前は、アラビア半島で降水量が増加。人類は、出現した河川を船や筏(いかだ)で下っていた可能性がある。

イギリス、オックスフォード・ブルックス大学の自然地理学者エイドリアン・パーカー氏によると、この時期は紅海南部の水位が落ち込んでいたという。約4キロの航程でアラビア半島にたどり着けるため、人類にとっては海を渡る絶好の機会だったようだ。
 
 
ふむ。
 
 
かなり早い時期に人類はアラビア半島に定住していたと考えられる。
 
 
人類で最初の宗教は多神教だったのだろうか?
 
 
 
それとも・・・
 
 
一神教であたったのだろうか?
 
 
古代エジプトやメソポタミアでの信仰においても、
 
 
なぜ、アフリカ東岸やアラビア半島南部にしか生息しない没薬や乳香が聖なるものとして見られ、オリエント世界の宗教で重宝されたのか?
 
 
『聖書アラビア起源説』では、はっきりとアラビア半島のアッシール地方が『旧約聖書の舞台である』としているが、それが政治的なプロパガンタにせよ、方法論的な欠陥があるにせよ、このアラビア半島には『一神教の故郷』、あるいは『一神教の伝統』が育まれてきた何かがあると思われる。世界宗教たるイスラム教が辺境の地メッカで起こったのはそれなりの歴史的背景があるに違いないし、聖典であるクルアーン(コーラン)を単なる聖書の焼き直しとするのは明らかに間違えであろう。単純に考えると、現在ヘブライ語にもっとも近い言語はアラビア語であるから、ヘブライ語からアラビア語に翻訳する方が、より忠実に翻訳できると素人には考えられるのだが・・・。
 
 

アラビア半島南西部の歴史

アラブ系の伝統ではセム族出身のカターン(Qahtan、旧約聖書ではヨクタン)と、その息子達がアラビア半島南部の人々の祖になったと伝えられている。その内、1つのグループはヒムヤル、他のグループはカーラン(Kahlanと呼ばれイエメン北部で遊牧を行っていた。
 
カーランの遊牧グループは、紀元前2500年頃にNajraと呼ばれるイエメンとサウジアラビアの境にある砂漠地帯に土手ダムをつくり、マアリブ地域に灌漑が整備したとされている。このカーラン族が後にサバ王国を建国したと考えられている。
 
 
このサバ王国が、旧約聖書に置いてソロモンを訪ねた伝説の王国シバであるとも言われている。
 
紅海沿岸の古代史を見る時に、おそらくアラビア半島に最初に登場するのはこのサバ王国で、おそらくその2〜3百年早く紅海の対岸で興隆していたとされるダモト王国と何らかの関係はあったに違いない。また、サバ王国は、“王国”というよりは当初緩やかな部族連合に近い形で存在していて、旧約聖書で言われるところの「士師」達によって統制されていた社会であったかもしれない。
 
その後、まさに没薬や乳香の産地にカタバーン王国、アウサーン王国、ハドラマウト王国、そしてマーイン王国が誕生した。これらが紀元前8世紀頃に興隆したと言われている。ギリシアの天文・地理学者エラトステネス(紀元前276年〜194年)は、セム族系の古代イエメン4部族としてマーイン人、シバ人、ハドラマウト人、カタバーン人を挙げている。
 
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サバ王国の興隆については、実は以前述べている ↓
 
 
 
サバ王国についての最古の記録は、ユーフラテス沿岸の町ハディーサで発見されたメモ書きのような碑文で、紀元前8世紀頃にシュフとマリの行政官がアブ・ケルマール付近でサバとタイマーから来たキャラバン隊を襲ったというものだ。
 
調べている内に以下のページにも同じ記録についてもっと詳細な事を紹介していたので以下に引用する。
 
 
「ユーフラテス川(駐留のスフ(Suhu)およびマリ(Mari)の知事によって駱駝の隊商が捕らえられた」と記述されている。

タイマーと古代シバから来た100名の人達を従えたこの隊商は200頭の駱駝から成り、羊毛、鉄、雪花石膏および青ムラサキ色に染めた羊毛を運んでいた。ところがこの隊商は通行料を支払わなかったので捕らえられた。雪花石膏を除けば、これらはアラビア半島南部の典型的な産物では無かった。

ホネガイの殻で染めた紫の羊毛はフェニキア人が扱う産物である。鉄はアラビア半島南部の輸出品としては知られていない。しかしながら、アナトリアおよびレヴァントに鉄の産地がある事は知られている。

「乳香の道の重要な中継地である古代シバ国およびタイマーの交易業者は彼等の香料をレヴァントでフェニキアの織物、鉄等と交換し、それからアッシリアで産するこれらの品の幾つかと交換する為に、東へ向かって旅をした」と言われている。
 
ルート的にはこんな感じだろうか?
イメージ 4
 
 
また、以前の記事では遠隔交易を営む商人達に加え、国家間どうしの取引として、新アッシリアとサバ王国の間に朝貢関係が存在していたと書いた。
 
 
古代の記録として2人のシバ王国の王がアッシリア帝国(新アッシリア時代)に貢物をしていたとされるが、サバ王国側の王名表と照合すると、おそらく次の2人の王になる。
 
紀元前715年頃:
イタマール・ワタール1世(サバ王国側資料)イタムラ王(アッシリア側資料)
 
紀元前685年頃:
カリビル・ワタール1世(サバ王国側資料)カリビル王(アッシリア側)
 
 
 
どんな人物だったのか?
 
イタマール・ワタール1世
イタマール・ワタール1世については、イエメンのシルワー(Sirwahにある月の神Almaqahから発掘された碑文に言及がある。これは彼の後継者であるカリビル・ワタール1世の碑文なのだが、イタマール・ワタール1世の治世に戦争によって様々な土地を獲得したことが書かれている。
 
彼は、まずカタバーン王国の王ヴァラド・アム(Walad 'Amm「月の神アムの息子」)を倒し、その勢いでカタバーン王国南西部地帯から、都市TimnaRadman, Ru'ayn 、そしてYahiriなどの地方、そしてアウサーン王国の中心地であったWusrを征服したとある。、更にサバ王国の北方にある都市国家カミナフ(Kaminahu)の支配下にあったナシャン(Naschan)とマンヒヤト(Manhiyat)を開放(?)し、カミナフそのものも支配下においたと記録している。
 
 
カリビル・ワタール1世
カリビル・ワタール1世は、古代南アラビア半島史におけるサバ王国で、最も重要な王になる。彼の活動は特に前述のシルワー(Sirwah)にある月の神Almaqah神殿の碑文から読み取ることが出来る。比較的長いこの碑文は2つあり、考古学上の資料としては一方をRES 3945、そして他方をRES 3946と呼んでいる。RES 3945では灌漑施設などの建設と軍事遠征についての報告であり、RES 394もやはり建設事業と征服した土地などについての報告で、当時の南アラビア半島における政治情勢について分かる数少ない資料の内の一つである。
 
 
一方で、アッシリア側の資料がある。
 
ティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744年〜紀元前727年)
タイマーからの朝貢を受け取ったとの記録がある。
 
サルゴン2世(紀元前721年から705年)
サルゴン2世が行った軍遠征のうち、紀元前716年にエジプト東部のシナイ半島にある都市アリシュに行軍し、軍事要塞を築いた時に、様々な貢物をシバ王国が贈ったという。つまりは『粉塵の様な形の黄金、宝石、象牙、黒檀の種、全ての種類の芳香物質、馬および駱駝をシバのイタマール・ワタール1世から受け取った』というものだ。
 
センナケリブ(在位:紀元前705年〜紀元前681年)
このセンナケリブと言う呼び名は旧約聖書のヘブライ語記述をさらにギリシア語訳したものに由来する慣用表記で、実際はアッカド語における表記シン・アヘ・エリバ(Sin ahhe eriba)で、意味は「月の神シンが兄弟の代わりに我を与えた」というものである。アッシュールに神殿を建てたのを記念した基礎の碑文にセンナケリブは『シバの王カリビルから贈られた宝石と素晴らしい香辛料を神殿の基礎の上にばらまいた』と書き記している。
 
 
紀元前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスによると、エジプトに対して軍事遠征を行ったセンナケリブに対して「アラビアとアッシリアの王」と述べている。また、バーレーンで発掘された最古の入植跡から、センナケリブがアラビア北東部を攻略し、バーレーンの島々を手中に収めたことを示唆しているそうだ(ウィキ)
 
 
アッシリアへの朝貢は円滑な交易を保証する為の交易税又は賄賂であったと考えられるが・・・
 
 
当時、アラビア半島西南部の地域は戦国時代・・・。
 
 
おそらく軍事同盟を背景としたものであったに違いない。
 
 
何があったのか? 
 
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