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株式暴落に端を発する金融危機が起きると、決まってポピュリスト政治家たちは銀行や証券会社に非難の矛先を向ける。
1929年のニューヨーク株大暴落後のそれは「ベア−・ハント(空売り狩り)」と呼ばれた。
そして2010年、100年に一度とも言われた金融危機に直面しながらも巧みに舵取りをしているFRBや世界各国の対応を見ると、「歴史から学ぶ」という事を、あながち人類はないがしろにしていると言うわけでもなく、それどころか比較的うまく実践しているようにも思える。
1930年代に行われた「ベアー・ハント」では、標的はJ・P・モルガンだったが、
今回はゴールドマン・サックスのようだ。
まぁ30年代当時に比べれば、ゴールドマンが受けている制裁である罰金45万ドルなど取るに足らない額かもしれない。。。
空売り取引をめぐり米ゴールドマンに罰金=米SECとNYSE5月5日9時4分配信ウォール・ストリート・ジャーナル
米証券取引委員会(SEC)とニューヨーク証券取引所(NYSE)などを運営するNYSEユーロネクストの規制部門は4日、米金融大手ゴールドマン・サックス・グループの一部門ゴールドマン・サックス・アンド・カンパニーの証券部門に対して株式の空売り規則に違反したとして罰金を科した。 ベアー・ハントの中心的役割を果たしたのは、金融界のミスター・アンタッチャブル、フェルディナント・ペコラだ。以下は「ウォールストリートの歴史(チャールズ・R・ガイスト)」と「モルガン家(ロン・チャーナウ)」からの引用がほとんど。
ペコラ委員会1932年4月11日 聴聞会がスタートした。ウォールストリートは1932年一丸となって上院銀行通貨委員会の聴聞会に反対した。銀行通貨委員会の聴聞会は2年間にわたって断続的に行われ、その間に証人として、モルガンやウィギン、ミッチェル、オットー・カーン(クーン・ローブ社)などの証券会社や銀行のトップから著名なトレーダーにまで多岐に及んだ。 フェルディナント・ペコラ
それでも最初の数回は方向性に欠け、聴聞会に呼ばれたウォールストリートからの証人にはうまくあしらわれた。 聴聞会では、ブローカー達の多くが公にしたくないと思っていた統計数値も明るみになっている。なかでも目を引いたのは、1928年から1933年にかけて不況だったはずの時期に、仲介業者たちが捻り出していた手数料収入の莫大さである。この機関に取引所の会員達は16億ドルの手数料を得ていて、年平均に直すと3億ドルにもなった。 ペコーラの発表資料によると、モルガン商会パートナーたちが、資産合計200億ドルに達する89の会社の126の取締役のポストを兼任しており、「これほど絶大な権力が個人銀行の手中にあるのは、わが国の史上に例がない」とのちにペコーラが述べたほどだ。 ポピュリストや扇動政治家の戦いが続く中、ある銀行勢力がモルガン財閥に反旗をひるがえした。
ロックフェラー勢力だった。
ロックフェラーとグラス・スティーガル法ジョン・D・ロックフェラー2世の義理の弟であるウィンスラプ・W・オールドリッチが、銀行のイメージ一新を望んでいた。このために、商業銀行業務と投資銀行業務とを分離する動きに同調して、1933年3月、同銀行の証券子会社を分離し独立させた。ナショナル・シティ・バンクのミッチェル会長の後任になったジェームス・パーキンズも、分離賛成の立場をとった。 ペコーラ聴聞会がどう法律案への国民の支持を促した面は確かにあったが、その運命を決めたのは預金保険制度の採用を求めた国民の陳情が議会に殺到したことで、同制度は法律案に盛り込まれた。最後に、預金利率の上限を定める条項が入れられて、グラス・スティーガル法は1933年6月16日、大統領の署名を得て制定された。 このグラス・スティーガル法は1999年11月12日に廃止された。
実は今回のサブプライム問題の背景をめぐってこのグラス・スティーガル法の廃止を原因の一つとする議論もある。
ウィキペディアによると
2009年12月中旬に、アリゾナ州のジョン・マケイン上院議員とワシントン州のマリア・カントウェル上院議員は共同でグラス・スティーガル法の再制定を提案した。その内容は、1933年の制定時から1999年の最初の廃止時まで効力を持っていた、商業銀行業務および投資銀行業務の分離を再び課すことである。 オバマの金融改革はどこまで効果のあるものになるのだろうか・・・・。
いや、むしろ
どこまで意味を持ったものになるのだろうか・・・
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1929
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<米ゴールドマン公聴会>証言10時間半、議論かみ合わず
4月29日23時9分配信毎日新聞
【ワシントン斉藤信宏】「値下がりすると分かっている商品を販売したのではないか」−−。米金融大手ゴールドマン・サックス(GS)のブランクファイン会長兼最高経営責任者(CEO)ら幹部7人が出席して27日開かれた米上院常設調査小委員会の公聴会は、冒頭から議員の厳しい追及が続いた。証言は計10時間半と異例の長時間に及び、議員はしばしば声を荒らげて金融危機に至るまでのGSの責任をただした。ただ、議員側の勉強不足もあり議論の大半はかみ合わず、金融規制改革法の成立に向け弾みをつけたかった与党・民主党の思惑は大きく外れる形となった。 サブプライムにはじまった世界金融危機はバブルとその結末という「いつか来た道」・・・と感じた人はたくさんいたと思うが、ゴールドマンの公聴会をみるかぎり、やはり「いつか来た道」という感じを強めてしまう。
1929年にはじまった大恐慌の時、ターゲットはモルガン財閥だった。
以下はほとんど「ウォールストリートの歴史(チャールズ・R・ガイスト)」か「モルガン家(ロン・チャーナウ)」からの引用だ。1930年代に行われた銀行家に対する公聴会は、後にペコラ委員会と呼ばれる組織によって仕切られ、銀行家達が行った数々の悪事を暴露した。
今回の金融危機を反省とする銀行業務への規制は、まだ動き始めたばかりだが、ここで少しペコラ委員会の時代に思いをはせてみることにしよう。
フ−バーの陰謀論1929年の株価大暴落は金融機関や株式市場、政治家への信頼感を大きく失墜させることになった。アメリカ合衆国の威信は地に落ち、国民からリーダーシップ待望論が沸きあがった。 そんな中で、
「アメリカには政党は一つしかありません。銀行家党です」 と、フーバー以外にも銀行を敵と見る勢力がでてきた。
例えばラジオ宣教師として著名なチャールズ・カフリン(Charles Edward Coughlin)牧師である。 ラジオ宣教師カフリン
このチャールズ・カフリンとは、反共主義と反ユダヤ主義・・・何てことはない、要するにファシストのような人間だったわけだが、彼らが展開した銀行家批判は反ロスチャイルド同盟の主張をそのまま地でいっている。まぁ、見方によっては彼も陰謀論の草分け的存在なのかもしれないが・・・。
ラジオを聴くフーバー大統領
「第一次世界大戦も大恐慌も、同じウォール街の銀行家たちのけしかけた策謀だ」とする、ひとつの強力な扇動的主戦が生んだ戦時債務と賠償の問題が<世界大恐慌>を招いた。 それ故に、モルガン財閥や世界の銀行家たちは、アメリカ大戦参加と大恐慌の責任を取るべきであるというのが、そば、ウォール街に対する国民の不満を利用して英国との関係緊密化に反論できたし、孤立主義感情の力を借りて銀行規制の強化を迫ることができた。 (引用:「モルガン家・下」 ロン・チャーナウ) ちなみにこのラジオ宣教師カフリンなる人物だが、彼がラジオの聴衆に向かって郵便による寄付を求めたようなのであるが、彼は受け取ったお金の一部を銀の先物投機に流用していたことがのちに暴露されたそうだ。。。
そんな時代だったのである。
銀行家 vs. フーバーフーバーは1931年 株式市場におけるから売り勢力に対しての戦いを開始した。商品先物取引所や証券取引所にベア(売り方)勢力を何とかするように働きかけた。中小企業経営者も空売りを根絶して欲しいとフーバーに訴えた。フーバーはニューヨーク証券取引所に「適正な手段が取られない場合は取引所を規制する」という脅しをかけたが実効ある改革には結びつかなかった。フーバーは空売り勢力の動きを、民主党が共和党政権の信用を落とそうとする陰謀だと考え始めた。 民主党が、農産物物価の下落に乗じてフーバー政権の評判を落とそうと企てていると言うのである。事実、投機家達は当時、農産物価格が下がると予測し、それが的中して空売りで大いに儲けていた。空売り勢力の一人だった「売り師」のベン・スミスは「暴落のあと、空売りを続けたのは、フーバー政権の印象を悪くするためだった」と告白している。 チャーナウのモルガン家にもこの時のフーバーの様子と次のように書いている。
フーバー大統領はいまや、ウォール街をプロの相場師が不正手段を弄して操り、一攫千金をほしいままにする巨大なカジノだとみるアメリカ人一般の見方に与した。そして、空売り ―つまり、株屋や証券金融会社から借りた株を売って、それが値下がりしたところで買い戻して値ザヤをかせぐこと−によって株価を無理に下げる民主党側の陰謀がある、と信じ始めたのである。 ここから再び「ウォールストリートの歴史」の描写にもどる。
もっとも、当時のフーバー政権の評判は地に落ちていて、失業率は上昇し続け、住む家をなくなった人達が「フーバーヒル」と呼ばれていた貧民街に逃げ込み始めた。最大規模の貧民街となったフーバービルは、マンハッタン西側のハドソン川沿いにあった。 ヨーロッパ資本家の陰謀という当時比較的まだ根強くのこっていた。
どちらかといえば建国以来のアメリカ政治における伝統の一部でポピュリストたちの決まり文句のようなものでもあった。
外国人投資家達がアメリカ市場を支配しているという亡霊のような話がよみがえったようで、その話にはユダヤ人との関係まで付け加えられていました。バルークは以前にも似たような誹謗中傷を受けたことが会った。 この後、銀行の大倒産時代を迎える中でフーバーは敗れ、ルーズベルトが大統領になる。フーバーと対立していたウォール街の銀行家はおおむね最初はルーズベルト大統領に対して好意的であったが、彼はフーバー時代から始まっていた上院銀行・通貨委員会の調査が、もっと広範囲な権限を行使して「悪質な金融取引のもたらす結果すべてについて」について調査するよう要請したのだった。
モルガン財閥をはじめとするウォール街の勢力は、公聴会もすべて政治的パフォーマンスに過ぎず、いずれこれといった成果も得られずにすぐに終わるだろうと見ていた。
この時のペコラ委員会などは地平線の彼方に見える小さな点にすぎず・・・
その後、巨大なハリケーンとなるとは誰も予想していなかった。
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ようやく仕事が一段楽し始め、また日常にもどりはじめた。ブログがほとんど1ヶ月近く手付かずだったが、またボチボチはじめていこう。今まで書き途中のテーマをまとめると 紋章 束ねられた矢 前回 → http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/21081683.html 反陰謀論 真実のイルミナティ 前回 → http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/21019706.html 1929 ウォールストリートの群像 前回 → http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/21019706.html 紙幣の父 ジョン・ロー 前回 → http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20931994.html 結構ありますね。とりあえず1929 ウォールストリートの群像のサンシャイン・チャーリー編からはじめよう。 ナショナル・シティというのは言うまでもないが、シティ・バンクの前身にあたる。はてさてこの銀行、金融界のゴルゴンとして19世紀のアメリカ金融に圧倒的な支配力を誇っていたJPモルガンに対して、いつの間に力をつけたのだろうか。 一昔前(?)の陰謀論の仮定としてロックフェラー対ロスチャイルドという構図がとりざたされていたことがあった。 詳細はこちらのサイトへ→ http://hexagon.inri.client.jp/floorA6F_he/a6fhe600.html この構図ではシティ・バンクはチェース・マンハッタン(現JPモルガン・チェース)と並んで所謂ロックフェラー陣営となっていた。 チェース・マンハッタンに限って言えば、チェース・ナショナルバンク時代、すでにジョン・ロックフェラーJrが同銀行の最大のステーキホルダーになっていて、1955年にマンハッタン・カンパニーと合併してチェース・マンハッタンが誕生しからも影響を持ち続け、1970年から1980年までデービット・ロックフェラーがチェース・マンハッタンの頭取を勤めるなどをしている。この場合、チェース・マンハッタンがロックフェラー系と言われても仕方がないだろうね。 ちなみにこのロックフェラー対ロスチャイルドという対立構図も、もともと反ロスチャイルド系の陰謀論によるとJPモルガンはロスチャイルドの『代理人』であるという前提があるのだが、相次ぐ銀行の合併で歯切れの悪いものになってしまったようだ。まぁ、前提に無理があるだからしょうがないだろう。 チェース・マンハッタンの歴史も実はもっと面白いが、今度は少しシティ・バンクの歴史を振り返ってみよう。 シティ・バンクと言えば、今でこそ100カ国以上に約1400もの支店をもつアメリカ合衆国最大の銀行だ。しかし、そのグループの起源をたどれば主に1812年設立のシティバンク・オブ・ニューヨーク(City Bank of New York)と1863年設立のファースト・ナショナル・バンク・オブ・ザ・シティ・オブ・ニューヨークが母体となっている(1955年両社は合併)。 シティバンク・オブ・ニューヨークは、200万ドルの資本金を元にニューヨーク州から免許を受け、1812年6月16日に設立された。サミュエル・オスグッド(Samuel Osgood)が初代社長に就任し、9月14日に営業を開始した。オズグッドは、1747年マサチューセッツ州で生まれ、その後ハーバード大学で神学を学び、アメリカ独立戦争では地元の民兵隊を統率してレキシントンの戦いやボストン包囲戦で活躍した。その後、マサチューセッツ州代表として大陸会議に参加し、合衆国憲法下で最初の郵政長官に任命されている。 サミュエル・オスグッド(Samuel Osgood) その始まりは、ハミルトンが設立したバンク・オブ・ニューヨーク(現バンク・オブ・ニューヨーク・メロン)や彼のライバルであるアーロン・バーが水道業者を装って設立したマンハッタン・カンパニーに比べれば地味なスタートだったのかもしれない。 リンカーン大統領の下で1865年に国法銀行制度が成立されると、商号をナショナル・シティバンク・オブ・ニューヨークと変更した。時代はその後金融王モルガンの時代となっていくが、そのモルガンに対抗するハリマン、シフ勢力と共同戦線を張ったのが、ロックフェラー一族だった。 ジョン・ロックフェラー ロックフェラーに関しては今更言うまでもないが、一族の総帥たるジョン・ロックフェラーは、1881年のスタンダード・オイル・トラスト創設の際、ウォール街からまったく借りずに、巨額の内部留保で資金を補った。それ以降、スタンダード石油が生み出す莫大な大金の預け先にザ・ナショナル・シティ・バンクが選ばれたのだ。 スタンダードオイル オハイオ州 ロックフェラーのメイン・バンクとなった同行は、1893年には一気にニューヨーク最大の銀行にのし上がり、1895年に全米で最大の銀行となった。マネートラストというという言葉が聞かれた時代、つまり銀行が産業に対する支配力を強めていった時代に、その莫大な資金力を背景に企業が銀行の支配権を握ってしまったのだ。 続く・・・ |
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狂乱の時代と言われた1920年代のある日、ナショナル・シティ・バンクの会長であるチャールズ・ミッチェル(Charles E. Mitchell)は、全国に散らばるセールスマンたちを連れて、ニューヨークの摩天楼へ食事に行ったそうだ。 摩天楼の覇者を巡る争いが大詰めを迎え、クライスラービル、マンハッタン銀行ビル建設などいよいよ真打登場というような時期だ。ミッチェルは、ブル(強気)市場への限りの無い熱狂振りからサンシャイン・チャーリーとみんなから呼ばれた。 ウェスタン・エレクトリック社のセールスマンだった彼は、キャリアを積み重ね、1921年にナショナル・シティバンクと子会社のナショナル・シティ・カンパニーの社長になると、1929年にはナショナル・シティ・バンクの会長になった。 上記のセリフは、そこでマンハッタンを展望しながら、ミッチェルはセールスマンたちに言った言葉だ。 つまり、「証券を売らなければ、クビだ」ということである。 ・・・っていうか 「売らなければ飛び降りろっ!」 とも聞こえるネ。コワッ 株券や債券などの有価証券を取り扱う当時のウォール街には、2つの世界があった。1つは伝統的な投資銀行がだが、もう1つは小口顧客専門に足で売る込むもので、ナショナル・シティ・バンクの証券子会社のナショナル・シティ社がその典型であった。親会社のチャールズ・ミッチェル会長は、有価証券の販売にお祭り騒ぎの調子を加えた張本人で、2000人ほどの部下たちに販売を競わせたり、はっぱをかけたりして、売上げ向上を懸命に図った。この連中の間ではラテン・アメリカの各国の外債を好んで取り扱うのが1つの流行であって、小口投資家にその安全性を保証してしきりに売り込んだ。 (モルガン家 / ロン・チャーナウ) モルガンがアメリカの金融界を支配した時代、小口投資家を相手に証券を売るなどと言うのはユダヤ系金融機関の業務と相場は決まっていたそうだ。しかし、この狂乱の20年代における金余りの時代に、様相は一変し、第一次世界大戦前の証券業者数は250社程度であったが、1929年には6500社に跳ね上がっていた。 この1つの原因は、第一次世界大戦にアメリカが発行した自由公債(Liberty Bonds)だったとされている。1917年、第一回の自由公債発行が合衆国議会によって承認されると、愛国心を掻き立てるような宣伝とともに1919年まで210億ドルの公債が売られた。 自由公債のポスター その1 自由公債のポスター その2 当時のウィルソン政権は、アル・ジョルソン、ダグラス・フェアバンクスやチャップリンといった有名人を使って販売を促進し、気がつけばこの戦争債の販売では、購買申込数が発行数を上回っていた。歴史の浅い独立した連銀を市場における財務省の代理人として使ったことで、この連邦機関の立場は鮮明になった。 自由公債を宣伝するダグラス・フェアバンクス 投資銀行の多くは戦争債の販売には当初それほど興味を持った様子も無かったが、プジョー委員会で銀行家達の悪評がのぼった後だったので、結局はほとんどの投資銀行がこの販売に参加することになった。 また、この戦争債には所得税がかからなかったので、今まで利札付き債券を持つことの意味を知らなかった小口投資家たちが、今後、新しい債券購入者になろうとしていた。こうして、1917年、銀行家たちは債券市場が35万人の個人からなっていると見ていたが、2年後の1919年には1100万人が戦争債を買っていたのである。 無知だが巨大な投資家軍団が登場した。 そしてこの個人への証券販売の先頭を走っていたのはチャールズ・ミッチェル率いるナショナル・シティバンクだった。当時、商業銀行は州境を越えて支店を開くことは出来なかったが、子会社なら州境を越えられるというので、当時の商業銀行はせっせと子会社をつくった。 ナショナル・シティ・バンクは、これまで多くの証券会社が手をつけてこなかった中産階級という顧客を開拓していった。ナショナル・シティー・カンパニーは単一の金融デパートをつくりあげ、その後の銀行経営の手本となった。 ナショナル・シティーは多数の支店や子会社を利用して、全国の50以上の都市に販売窓口を設けている。これらの販売窓口の多くが、法的に許されている場合には、銀行、証券、信託の業務が組み合わさったものとなった。狙いは顧客のあらゆるニーズに応え、債券を売り、預金を預かり、遺言状をつくったり、不動産を管理したりすることにあった。 チャールズ・ミッチェルは銀行の研修講座で、ナショナル・シティがストアやレストランが大衆に奉仕するかのように、自社も奉仕していると述べた。 (ウォールストリートの歴史/チャールズガイスト) 1929年の株価暴落を迎える前後になると、大手の預金銀行は、有価証券業務の面で古くからある投資銀行の多くを次々と打ち負かし、その新規発行取扱高は、全体の45%も占めるに至った。たとえば、ナショナル・シティ・バンクの取扱高は、J・P・モルガンとクーン・ローブが束になってもその足元にも及ばなかった。 (モルガン家/ロン・チャーナウ) ところで・・・ナショナル・シティ・バンク とは?
19世紀は金融王モルガンの時代であったが・・・ナショナル・シティはいつからそんな力をつけたのだろうか? その影には当時石油王として成り上がったロックフェラーの存在があった。 |
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ラスコフが帽子と叫んだのは、飛行船を繋ぎ止めるマストのことだった。エンパイアステート・ビルの建設計画が発表され、世界経済が未曾有の大恐慌に差し掛かった1929年、全長236メートルにもなるツェッペリン号が世界一周を成功させた。ラスコブは、クライスラー・ビルに決定的な差をつけてエンパイアステート・ビルがニューヨークの摩天楼を制するためには、200フィートの単なる尖塔ではなく、話題性とビジネストしての視点も重要視しなければならないと考えていた。 昭和4年(1929年)に21日7時間33分で世界一周した全長236.6mのグラーフ・ツェッペリン号は、3万2790キロメートルを総飛行時間288時間11分で翔破し、世界中で歓呼をもって迎えられた。乗客20名乗員40〜45名を乗せ、その名のとおり空飛ぶ客船の発想で作られたので、客室は全て個室、食堂・展望室はもちろんのこと、シャワーやトイレも完備され、まさに豪華客船そのものだった。その世界一周中、ゆったりとした船内から美しいオーロラやシベリアの大自然、そして眼下に広がるニューヨークの摩天楼を楽しむことができた。(ちなみに、エンパイア・ステートビルの頂上は飛行船の係留マストとしての使い道を考えて建造されたものだった。)巡航時の高度は地上では200メートル、海上では600メートルだったので、乗客は次々と変わっていく街並みや大自然のパノラマを存分に満喫できた。ツェッペリン伯号は平均速力75ノット(約140キロ/時)で1万1千キロの航続距離があり、太平洋は79時間(3日と7時間)で横断した。現代でもクルーズ客船で約10日間かかる航程である。 引用元: http://www.nac-airship.com/corporate/president2.html ラスコブはこの計画に夢中になった。 そして、後に高さだけを追い求めた「ただの棒」と批判されないためにも、オリジナルの85階建から17階ほど増やして102階建てのビルとした。そして102階のフロアを飛行船用のタラップのついた発着用ターミナルとしてデザインされていたという。特に86階から102階へのエレベーターは乗客を86階の搭乗ゲートでチェックインした後の移動手段として考えられていた。 しかしながら、ナチスドイツとアメリカの関係やヒンデンブルク号の爆発事件などの影響で、飛行船の計画そのものが頓挫し、ラスコブの夢が実現される事は無かった。その後、飛行船の代わりにB25がエンパイアステート・ビルに衝突するという事件が起きた。 1945年7月28日朝、アメリカ空軍のB25爆撃機が、ニューヨークのニューアーク空港に向かっていた。ニューヨークは霧が濃かったが、着陸のため高度を下げて着陸しようとしていた。時速400kmで飛行していたB25爆撃機は、9時49分、エンパイアステートビルの79階の北側に衝突して、建物に突入した。79階、80階で火災が発生した。爆撃機のエンジンがエレベータシャフトを落下し、地階でも火災となった。この事故で14名の死者を出した。建物の被害は100万ドル(約1億円)で構造躯体への被害は少なく、事故後2日で営業を開始している。 http://shippai.jst.go.jp/fkd/Detail?fn=0&id=CA0000633 B25衝突後の火災で炎上するエンパイアスイテ−ト・ビル 結局、ラスコブのアイデアはいくつかの実験の後、建物の大きさ自体が引き起こす凄まじい上昇気流や構造上の理由で、極めて危険であることが証明された。今日の電波塔に変更されたのは1953年であるという。。。(参考:Wikipedia) 1930年3月17日にはじまった工事は 急ピッチに建設がすすんでいく。着工から竣工までかかった日数は、何とたった1年と45日。1週間に4,5階を建設するという驚くべきペースで建設されていった。 石職人は最高の大理石を求めてフランスやイタリアと飛び回り、30万平方フィート(1平方フィートは約929平方センチメートル)の大理石をドンドン発注した。大都会ニューヨークで建設するにあたり作業場が限られたものだったので、すべての契約書には正確な大きさに切断し研磨済みの大理石を現場に供給する事が明記されていた。 ピッツバークの鉄工所を中心に、ボルトの1つにいたるまで詳細に計算された鉄鋼の発注量は6万トンにもなり、それはニューヨークからマイアミまで鉄道を敷けるほどであった。製造されたそれぞれの鉄鋼部材には、引き渡し期日が分るような製品番号が刻印されていた。溶解した鉄鋼が特殊なフォームに鋳造されてから80時間内に15アベニューの建築現場まで運ばれボルトで固定しなければならなかった。 1929年の終わりごろから1930年の6月中旬まで何となく株価も下げ止まり、ひょっとしたら経済が立ち直るかもしれないという淡い期待を市場に抱かせはじめたころ、株価が再びずるずると下がり始めた。 建設がはじまって3ヶ月もたたないうちアメリカ経済は本格的な大恐慌に突入し、建物の建設費はその影響で2471万ドルに削られた。コスト面ではとにかく驚くほど単純な建物の設計に助けられた面もある。ラムのこの単純な設計は、短期間工事と経費の節減を実現させ、大不況にもかかわらずビルの建設を最後まで遂行する事ができた。 ガラス工場では昼と夜のシフト制を引いて、6500にもなる窓ガラスが生産されていた。 さらに、1千万個以上のレンガが建物の内部装飾用に搬入された。 ブルックリン・ブリッジを計画し建設したジョン・A・ロッブリングは、腕の太さほどもある1000マイル以上のケーブルを73台のエレベーターを合計7マイルにもなるエレベーター・シャフトの中をはりめぐらした。 Bell Telephon Companyは数十ものニューヨーク在住の従業員を送り込み、3000にもなるオフィスの1万5千以上の電話を結ぶために1500万フィートの電話ケーブルを設置しなければならなかった。また建物内部の電気を供給するために250万フィートの電気ケーブルが100マイル以上の管を通じて張り巡らされた。 この突貫工事では、最終的にビルが完成するまでにたくさんの死傷者を出したというが、その工事をすすめるに携わっているトビ職人は華麗すんでいった。 そしてついに1931年にクライスラー・ビルの高さを62メートル凌ぐ、高さ391メートル、102階建てのビル(アンテナを含むと448メートル)のエンパイアステート・ビルが完成した。圧倒的な存在感と高さをもってクライスラー・ビルをおさえ、文字通り摩天楼の覇者となった。 1931年5月1日、当時のフーバー大統領がワシントンでビルの照明の点灯ボタンを押し、華々しくオープンした。 しかし、当時は不況の真っ最中で、25%しか企業が入居せず“Empty State Building”といわれた。彼らは、空室がなくなるまで、空室の灯火を点灯したといわれている。もちろん今は昔の話・・・
その後、ラスコブは1946年までデュポンの財務の仕事に携わりながら政治的な活動も相変わらず精力的に行った。考えてもみれば奇妙な人生だった。GMでは創業者であるデュラントをサポ−トしながらも、時には反目し、ウォール街では空売り勢力として『ブル(買い手)』と呼ばれたデュラントのむこうをはった。そして、摩天楼の覇権争いではクライスラーと激しく戦った。 デュラントと並んで、 ラスコブは間違いなく自動車と金融の発展というアメリカ経済発展を体視したような人物であったと言えるだろう。
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