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以前、「束ねられた矢」シリーズということで、ずいぶんと世界中に散在する「束ねられた矢」の話を集めた。つまり毛利元就の「三本の矢」と同じような教訓をもった話だ。
こちらをどうぞ
その時は一通り終わったと思っていたのだが、また新たな話を2つほど見つけた。一つは「中国の歴史 疾駆する草原の征服者」の中で、杉山正明氏の紹介している李克用の話だ。そしてもう一つは、ハンガリー・・・つまりフン族にまつわる話だ。
以前、4世紀から8世紀頃にかけて中国西部に一大勢力を築き上げた遊牧騎馬民族である吐谷渾と、それにまつわる19本の束ねられた矢について書いた。吐谷渾は、すでにチベット新興勢力である吐蕃王朝に滅ぼされ、そしてその吐蕃もまた唐によって滅ぼされた。
杉山正明氏の紹介する李克用が活躍したのは唐の末期で、彼は突厥沙陀部出身で遊牧騎馬民族の末裔である。沙陀族というのは、8世紀から10世紀にかけて唐の北に位置し、広大な領土を支配したテュルク系遊牧民族の突厥の一部族である。下の地図は、内紛によって東西に分裂してしまった時の勢力図だが、当時世界帝国とまで言われた唐でさえ霞んで見えてしまう。
最近では、ユーラシアにおける遊牧民族の歴史を生き生きと描き出す杉山正明氏のファンになってしまった。ついつい知っていると思っている歴史にも随分と違った視点を与えてくれ、日本や世界について改めて考えさせてくれる。
さて、束ねられた矢について、厳密に言えば内容は若干異なるが、「中国の歴史 疾駆する草原の征服者」には、唐の末期に活躍した沙陀軍閥の指導者である李克用と矢にまつわる話が書かれている。
以下は講談社出版の「中国の歴史 疾駆する草原の征服者」から引用した。
『五代史闕文(ごだいしけつぶん)』には、次のような逸話が伝えられている。李克用(りこくよう)は死に臨んで、むすこの存勗に三本の矢を渡し、こう述べた。−「一本の矢で劉仁恭を討て。汝は、まず幽州をくだすことなく河南を図ってはならぬ。 彼はこの記述の後イソップ物語と毛利元就の「三本の矢」にも触れ、その関連性についても述べられているが、
実際に『束ねられた矢』というのは統一国家というよりも緩やかな連合体を形成していた遊牧民族発祥の逸話なのかもしれない。
そんな中、古いフン族の歴史について書かれている本に出会った。妻が友人よりもらったものだが、あるページには血の誓いをしている馬上の男たちの一人が束ねた矢を握っている挿絵があったのだ。残念ながらハンガリー語の本なので何とかいてあるのかは分からないが、こう言ってみた。
「賭けてもいいがそこにはこんな話が書いてあるのだろう。」
・・・と毛利の三本の矢の話を聞かせた。
「良く分かったわね。」
と、妻。。。
でも、このフン族にまつわる話について紹介するのはまだまだ先になりそうだ。
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紋章のあれこれ
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ギリシアの独立と自由を求める戦いはヘレニズム文化の再現を目指す戦いでもあったわけだが、決してきれいごとではすまされなかった。 オスマン帝国の衰退によってバルカン半島で400年くすぶっていた民族対立の火種は徐々に大きくなり、『世界の火薬庫』とまで言われ、そしてついに第一次世界大戦を勃発させ、全世界を悲劇に巻き込んでいったのだ。 さて、 このギリシアの話で『束ねられた矢』シリーズはとりあえずおしまいにしよう。 『束ねられた矢』を知らべてみたらいくつかの面白い共通項があった。 1. 父親が死ぬ間際に息子たちに言って聞かせる。 2. 矢 もしくは 棒 を持ってこさせ まずは一本折ってみるように言う。 3. 一本だと簡単に折れる。 4. 次は束ねたまま折るように言う 5. ○本だと折れない。 6. つまり、団結が大事という教え おそらく西アジアの寓話がイソップ物語を通じて地中海世界に広まったルートと、チベットを渡り中国の方に広まっていったルートが考えられる。ジンギスカンの祖先にも登場するし、ロスチャイルドの逸話にも登場する(実際に紋章として使用)。 そもそも弓矢とはいつからあるのだろうか? 実は人類の歴史の中でもかなり古く、すでに1万年以上も前に矢の先を燧石(ひうちいし)で作ったもの、あるいは矢じりであったのではないかと想定される燧石がフランスのソリュートレ遺跡で出土していて、『弓』としてはすでに後期旧石器時代と予想されるものがドイツのマンハイムにある街からも出土している。 エジプト スキタイ(紀元前8世紀ごろ) とにかく弓自体の歴史もかなり古いことが分かる。。。 民族の独立と団結の印である。特に欧米諸国では、植民地や支配されている民族が結束し、独立を目指した戦いに挑む際に用いられた。 スペインの植民地時代のオランダ(16世紀) イギリスの植民地のアメリカ(18世紀) トルコの支配時代のギリシア(19世紀) ポルトガルの植民地時代のモザンビーク(20世紀) もともとファシストの語源はローマ時代に用いられたファスケス(束ねられた棒と斧)の紋章。2つほどの例で持って、ファシストのシンボルというのは言い過ぎかもしれないが、ラテン系の世界ではファランヘの影響力がいまだに存在し、束ねられた矢というのは団結というよりも、ファシストを連想させる場合もある。 イタリアのムッソリーニ政権(この場合はファスケス) スペインのフランコ政権・ファランヘ 以下はまとめとしてインデックス作成。題名と番号は実際と違うが、順次訂正していくつもりだ。 束ねられた矢 その9 ポルトガル編 Part 1 地球は人類誕生以来常に球体だった http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22802975.html 束ねられた矢 その9 ポルトガル編 Part 2 植民地の紋章と聖セバスティアヌス http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/23726139.html 束ねられた矢 その10 ギリシア編 Part 3 ギリシアのフリーメイソンネットワーク http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/23858771.html 束ねられた矢 その10 ギリシア編 Part 4 オデッサ と ポチョムキンの階段 http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/23874509.html フィリキ・エテリアのメンバー(2) スペードの女王 −束ねられた矢 ギリシア番外編 http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/24080881.html フィリキ・エテリアのメンバー(3) 史上最高の外交官 −束ねられた矢 ギリシア番外編 http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/24093754.html |
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ギリシア人の国をつくるとはいっても何百年ぶりだろうか・・・? そもそも彼らが思い描く『ギリシア人の国』をどのようなものであったのだろうか? それは おそらくビザンチン帝国(東ローマ)よりももっと前・・・ 古のギリシア人の国。。。 ヘレニズムという概念に収斂する。 『ヘレニズム』とは、オリエント文化とギリシア文化の融合という捕らえ方をしているように思われるが、大航海時代と同じく、実際はヨーロッパ中心主義といわれる考え方だ。 武力を用いて他国を侵略したアレキサンダー大王の軍事行動を美化し、『ギリシア化』ということを一種の『文明化』のような捉え方をしていた。だからどちらかと言えば『オリエント世界のギリシア化』というような響きがある。 民族のアイデンティティーを再発見するという動きは、旧体制が崩壊する中、ヨーロッパ世界の中で急速に求められていたのだ。 この曇るこがないというオデッサは、商業が活発で、活気に溢れる街だった。 そんな中を人目をしのぐようにして集まった3人がいた。
この3人が設立したフィリキ・エテリアの紋章にはフェニックスロッジにならって不死鳥(フェニックス)が使われたそうだが、下の図で使われているのが紋章だったという説もある。今回ははっきりさせることが出来なかったが・・・まぁいいだろう。 フィリキ・エテリアにおける僧侶(イェレフス)位の宣誓状 オデッサで結社の誓いがなされている頃、 イオニア諸島は揺れていた。 イギリスの艦隊が1809年にフランスを打ち破ると、すぎにケファロニア、ザキントス島を、翌年にはレフカダ島を、そして1814年にはケルキラ島を占領したのだ。 そしてフィリキ・エテリアが結成されて一年後・・・ 第二次パリ条約によってイオニア諸島合衆国(:United States of the Ionian Islands)が誕生したのだ。 そして、あのライオンが聖書と束ねた矢をもっている紋章が再び姿を見せるのだが、イギリスの保護下であるために、イギリスの国旗と一緒であった。 イオニア諸島合衆国の国旗 イオニア諸島合衆国の成立によって、イオニア諸島において憲法の制定が認められ、住民の政治への参加も可能になった。イオニア人にとってフランス支配下に比べると幾分か状況は良くなった。こうしたイギリスの対イオニア諸島の政策の効果もあって、島民にとってはつかの間の平和が訪れた。 司法制度や教育の面だけでなく、生活の隅から隅までイギリス式が実践された。もはや、ギリシア独立の大義名分さえも忘れたかのように、人々は午後の紅茶とクリケットを楽しんでいたという。 しかし、海外のギリシア人を中心に『ギリシア独立』の考えは根付いていき、 イオニア諸島の人々の間にも密かに広まってたのだという。 以下はウィキペディアより抜粋 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%A2 フィリキ・エテリアは瞬く間に組織を拡大することになり、1814年から1816年にかける期間には入会者が20名に至っており、1817年には構成員はオスマン帝国領内のギリシャ人らにとどまらず、ロシア、モルドヴァ、ワラキア各地に在住するギリシャ人から構成されるようになった。 まぁ、結成当初から順風満帆だったわけではない。 イギリスの懐柔政策によってこれまで400年以上他の民族に統治されていた国民にとっては、やっと手に入った自治権利だ。捨て難いものがあったのだろう。 スクファスはモスクワに戻って『ギリシア独立』というアイデアを広めようとした時、当のギリシア人達の反応は冷ややかだった。 それでも、徐々に数年立つとやはりイギリス統治下の本質というものが見えてしまったのか、フィリキ・エテリアを支持するギリシア人は増え、会員数も増加していった。 組織は更に拡大を続け、1820年にはイオニア諸島を含むギリシャのほぼ全ての地域とギリシャ人が多く住む西欧、中欧の外国の都市に広がっていた。1821年の始めにはメンバーの数は資料で確認できる数字は1,000人、実際には2,000人から3,000人までに至り[2]、貿易商、役人、ファナリオティスなどからなった。 秘密結社としては中堅レベルに成長したというところだろうか。 ちなみに 薔薇騎士団の会員が5,856人 イルミナティが確実なところで1,400人 ドイツに433あった『レーザ・ゲゼルシャフト(読書会)』が12,600人 フリーメイソンは、ドイツ(ギリシアの話をしているのにドイツでごめんね)だけでも27,000人 それにしても、イルミナティのヴァイスハウプトもそうだったが、 秘密結社の組織作りにはやはりフリーメイソンが参考にされる。 |
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オデッサという都市がこのブログに登場するのは2度目だ。一度目は「モスクワの金」の話の時に、スペインからロシアに金塊が輸送される時の到着地としてだ。 それまではと言えば、 『機動戦士ガンダム』で出てくるオデッサ作戦の舞台として知っているぐらいだ。 (実際物語で仮定している場所は少し違うらしいのだが・・・) オデッサ・ファイルなんてのもあったけど、アレは土地の名前を直接指している訳じゃない。 ちょっと調べてみた。
現在のウクライナにあるオデッサは黒海に面し、ギリシアにも地理的に非常に近い場所に位置している。 1792年にエカチェリーナ2世によってこのオデッサはロシア帝国の領土となり、港の建設などがはじまると、その後徐々に貿易都市として発達することになる。19世紀になるとユダヤ人が大挙して押し寄せ、1887年頃には人口の3分の1がユダヤ人と言われるまでになり、ロシア革命の英雄トロツキーが少年時代をすごした地域でもある。 オデッサの名前の由来は、エカチェリーナ2世の意向でトラキアに存在した古代ギリシアの植民地オデッサスからとったとされている。このあたりは彼女がギリシア独立を支援していたことを考えると、この時期にこの名前を選択するこということは、当時のギリシア人に対して心強いメッセージだったに違いない。 ところで、オデッサには日本ではあまり知られていないかもしれないが、街のシンボルともいえる壮大な階段がある。 ポチョムキンの階段(Potemkin Stairs) ポチョムキンの階段 湾岸の方から 完成したのは1841年なので、ここでの話には直接は関係ないが、少しご紹介。港から街の中心部まで続くこの階段の全長は142メートル。視覚効果を意識した建設がほどこされていて、階段の一番下の幅は21.7メートル、そして一番最上段の幅は13.7メートルになっている。つまり、遠近法を利用したもので、下から上を見上げるとものすごく大きく感じるようになっている。 国際的には『戦艦ポチョムキン』という映画で知られるようになる。 実は・・・
と言われるシーンがこのポチョムキンの階段で展開されるわけだが・・・。 知ってました? セルゲイ・エイゼンシュテイン監督のサイレント映画の傑作中の傑作。 このポチョムキンの階段で繰り広げられる残虐シーンは、かなり衝撃的だ。実際の歴史の中でこのような虐殺シーンがポチョムキン階段で行われたということはないらしい。 この映画の中で撃たれた母親の乳母車が階段を落ちていくシーンは、 どこかで見覚えのあるシーンだ。 そう、映画『アンタッチャブル』のあのシーンだ。 オデッサは曇ることがない街と言われていたが、実際の町中の様子はかなり混沌としていた。 オデッサでは上流階級や新興ブルジョアジーの住居や別荘は、海に面した北東域に集中していた。現在、観光地として有名なのはこの地域だが、その南西部に広がっている旧スラム街まで足をのばす旅行者はそう多くはない。 この旧スラム街こそ、かつて「モルダヴァンカ」と呼ばれ、革命前まではロシア中にその名の鳴り響いていた暗黒街だった場所だ。主にユダヤ人難民がひしめき、極度の貧困に喘いでいたこの地区は、たとえばジャン・ギャバン主演の映画『望郷』の舞台アルジェの暗黒街カスバと同様、警察にとっては立ち入ることさえ危険な無法地帯で、まして北東域の人々はけっしてモルダヴァンカには足を踏み入れなかったらしい。 モルダヴァンカのユダヤ人 http://www.age.ne.jp/x/kanya/babel-40.jpg (画像ソース:http://www.age.ne.jp/x/kanya/bbl-ode.htm) この地域を根城にしたミーシャ・ヤポンチク(ベーニャ・クリクのモデルと言われる)を首領とするユダヤ・ギャングは、街の地下に広がるカタコンベの跡なども巧みに用いて、夜ごと警戒線の裏をかき、北東域に出没しては強奪をくり返していたという。オデッサの現実は、けっして『オデッサ物語』に描かれているような、陽気で祝祭的なものだけではなかったはずだ。後にトロツキイと名乗ることになるユダヤ人少年が、社会の矛盾に目覚め、変革を志すようになったのは、他ならぬ19世紀末のこの街でのことだった。 オデッサという街は、はっきりと3つの地区に分かれていた。美しい街並を誇る北東域。外国からの人や物資の集結地であると同時に、工場が立ち並び、難民や流浪者を日雇い労働者としてたえず吸収していた港湾地区。ゴーリキイが沖仲仕として働いていたのはこの地区だ。そして公権力から逃れてきた盗賊たちの根城であり、革命家たちの潜伏先でもあった無法地帯モルダヴァンカ。 19世紀末から革命前夜のオデッサは、おそらく戦前の中国における上海のような位置を、ロシアにおいて担っていたのだと思う。多様な民族や階級が行き交う国境の街。さまざまな言葉や物資が流通するエキゾチシズム溢れる街、陰謀と欲望が渦巻くアウト・ロウの街。光と影が交錯する街。ゴーリキイやクプリーンを惹きつけ、後にネップ期に活躍することになる作家たちを育み、彼らが愛惜してやまなかったのは、オデッサのこのような風土であった。 そんな街に集まった3人のギリシア人。 その3人はおそらくモスクワのフェニックス・ロッジの分派であったと考えられるが、いずれにしても組織の青写真は会合時にはできていたと考えられる。 すでにイオニア諸島の情勢も風雲急を告げていた。
意味は “Friendly Society” まったく人をくったような名前だ。 目的はギリシア人の国をつくること。。。 |






