オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

紋章のあれこれ

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]

 
以前、「束ねられた矢」シリーズということで、ずいぶんと世界中に散在する「束ねられた矢」の話を集めた。つまり毛利元就の「三本の矢」と同じような教訓をもった話だ。

こちらをどうぞ

その時は一通り終わったと思っていたのだが、また新たな話を2つほど見つけた。一つは「中国の歴史 疾駆する草原の征服者」の中で、杉山正明氏の紹介している李克用の話だ。そしてもう一つは、ハンガリー・・・つまりフン族にまつわる話だ。
 
 
以前、4世紀から8世紀頃にかけて中国西部に一大勢力を築き上げた遊牧騎馬民族である吐谷渾と、それにまつわる19本の束ねられた矢について書いた。吐谷渾は、すでにチベット新興勢力である吐蕃王朝に滅ぼされ、そしてその吐蕃もまた唐によって滅ぼされた。

杉山正明氏の紹介する李克用が活躍したのは唐の末期で、彼は突厥沙陀部出身で遊牧騎馬民族の末裔である。沙陀族というのは、8世紀から10世紀にかけて唐の北に位置し、広大な領土を支配したテュルク系遊牧民族の突厥の一部族である。下の地図は、内紛によって東西に分裂してしまった時の勢力図だが、当時世界帝国とまで言われた唐でさえ霞んで見えてしまう。

 


最近では、ユーラシアにおける遊牧民族の歴史を生き生きと描き出す杉山正明氏のファンになってしまった。ついつい知っていると思っている歴史にも随分と違った視点を与えてくれ、日本や世界について改めて考えさせてくれる。

さて、束ねられた矢について、厳密に言えば内容は若干異なるが、「中国の歴史 疾駆する草原の征服者」には、唐の末期に活躍した沙陀軍閥の指導者である李克用と矢にまつわる話が書かれている。


以下は講談社出版の「中国の歴史 疾駆する草原の征服者」から引用した。

『五代史闕文(ごだいしけつぶん)』には、次のような逸話が伝えられている。李克用(りこくよう)は死に臨んで、むすこの存勗に三本の矢を渡し、こう述べた。−「一本の矢で劉仁恭を討て。汝は、まず幽州をくだすことなく河南を図ってはならぬ。

一本の矢で、キタイを撃て。そもそも阿保機(あぼき)は吾と腕をとりあって盟し、結んで兄弟となり、唐家の社稷(しゃしょく)を復さんと誓った。しかるに今、約に背いた賊に附した。汝は必ずやつを打て。一本の矢で朱温を滅ぼせ。汝が能く吾が志を成すならば、死すとも憾むことは無い。」と。

存勗は、三本の矢を克用の墓廟の庭に納めた。


三本の矢の遺言である。まことによくできた話といわざるをえない。李克用は、劉仁恭を許してはいなかった。いったん彼と連合を許したのは、あくまで窮地を脱するため、そしてライヴァルの朱全忠の制覇を阻止するため、であったといわんばかりである。


ついで阿保機については、言葉数がもっとも多く、もっとも怨みが深いことを示す。その口調は李克用の一本気で肩肘を張った律儀さと、その反面の独善的で偏狭な人柄、そして思い込みの強さ、さらには駆け引きや政略には、はなはだ不向きな性格がよくあらわれている。朱全忠に対しては、意外なほどに言葉が少ない。

結果として、李存勗は5年後の913年に幽州軍閥を制圧して、むすこの劉守光に幽閉されていた劉仁恭を見つけだし、翌914年の正月に普陽へと連行して、父の克用の陵前で心臓を刺して文字通り血祭りにあげた。

ふたたび『五代史闕文』によれば、燕への出軍のさい、李存勗は廟にそなえものをして敵への出征を告し、くだんの三本の矢のうち一本をとりだして錦の袋に入れ、親将にもたせて前駆とした。凱旋すると、俘虜としてものの首とともに、矢を廟に納めた。キタイとの戦いや朱氏政権を滅ぼすときも、そうであったという。


彼はこの記述の後イソップ物語と毛利元就の「三本の矢」にも触れ、その関連性についても述べられているが、
 
 
実際に『束ねられた矢』というのは統一国家というよりも緩やかな連合体を形成していた遊牧民族発祥の逸話なのかもしれない。
 

 
そんな中、古いフン族の歴史について書かれている本に出会った。妻が友人よりもらったものだが、あるページには血の誓いをしている馬上の男たちの一人が束ねた矢を握っている挿絵があったのだ。残念ながらハンガリー語の本なので何とかいてあるのかは分からないが、こう言ってみた。

「賭けてもいいがそこにはこんな話が書いてあるのだろう。」

・・・と毛利の三本の矢の話を聞かせた。

「良く分かったわね。」

と、妻。。。

でも、このフン族にまつわる話について紹介するのはまだまだ先になりそうだ。
 
 

開く コメント(0)

ギリシアの独立と自由を求める戦いはヘレニズム文化の再現を目指す戦いでもあったわけだが、決してきれいごとではすまされなかった。

オスマン帝国の衰退によってバルカン半島で400年くすぶっていた民族対立の火種は徐々に大きくなり、『世界の火薬庫』とまで言われ、そしてついに第一次世界大戦を勃発させ、全世界を悲劇に巻き込んでいったのだ。


さて、


このギリシアの話で『束ねられた矢』シリーズはとりあえずおしまいにしよう。


『束ねられた矢』を知らべてみたらいくつかの面白い共通項があった。

世界中にみられる寓話


1. 父親が死ぬ間際に息子たちに言って聞かせる。

2. 矢 もしくは 棒 を持ってこさせ まずは一本折ってみるように言う。

3. 一本だと簡単に折れる。

4. 次は束ねたまま折るように言う

5. ○本だと折れない。

6. つまり、団結が大事という教え


おそらく西アジアの寓話がイソップ物語を通じて地中海世界に広まったルートと、チベットを渡り中国の方に広まっていったルートが考えられる。ジンギスカンの祖先にも登場するし、ロスチャイルドの逸話にも登場する(実際に紋章として使用)。


そもそも弓矢とはいつからあるのだろうか?

実は人類の歴史の中でもかなり古く、すでに1万年以上も前に矢の先を燧石(ひうちいし)で作ったもの、あるいは矢じりであったのではないかと想定される燧石がフランスのソリュートレ遺跡で出土していて、『弓』としてはすでに後期旧石器時代と予想されるものがドイツのマンハイムにある街からも出土している。

エジプト
イメージ 1


スキタイ(紀元前8世紀ごろ)
イメージ 2

とにかく弓自体の歴史もかなり古いことが分かる。。。


植民地独立のシンボルとして


民族の独立と団結の印である。特に欧米諸国では、植民地や支配されている民族が結束し、独立を目指した戦いに挑む際に用いられた。

スペインの植民地時代のオランダ(16世紀)

イギリスの植民地のアメリカ(18世紀)

トルコの支配時代のギリシア(19世紀)

ポルトガルの植民地時代のモザンビーク(20世紀)


ファシストのシンボルとして


もともとファシストの語源はローマ時代に用いられたファスケス(束ねられた棒と斧)の紋章。2つほどの例で持って、ファシストのシンボルというのは言い過ぎかもしれないが、ラテン系の世界ではファランヘの影響力がいまだに存在し、束ねられた矢というのは団結というよりも、ファシストを連想させる場合もある。

イタリアのムッソリーニ政権(この場合はファスケス)

スペインのフランコ政権・ファランヘ

以下はまとめとしてインデックス作成。題名と番号は実際と違うが、順次訂正していくつもりだ。


束ねられた矢 インデックス


束ねられた矢  その1 アメリカ国章、イソップと毛利元就
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/19061099.html

束ねられた矢  その2 アラン・ゴア、吐谷渾、東アフリカ、スキタイ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/19205501.html

束ねられた矢  その3  ルーベンスとロスチャイルドの語ったスキタイ王の寓話
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/19911494.html

束ねられた矢 その4 ロスチャイルド家の紋章
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20041993.html

束ねられた矢 その5 オランダとアメリカの共通点
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20436260.html

束ねられた矢 その6 スペイン編 Part 1 イサベル・カラー
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/20752953.html

束ねられた矢 その6 スペイン編 Part 2 カトリック両王の紋章
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/21081683.html

束ねられた矢 その6 スペイン編 Part 3  ファスケスの紋章
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22012680.html

束ねられた矢 その7 ファスケスとファシスト
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22089550.html


ムッソリーニの経済政策(1) −束ねられた矢 番外編
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22146231.html

ムッソリーニの経済政策(2) −束ねられた矢 番外編
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22233719.html

ムッソリーニの経済政策(3) −束ねられた矢 番外編
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22265166.html


束ねられた矢 その8 スペイン編 Part 4 ファランヘ党
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22379519.html

束ねられた矢 その8 スペイン編 Part 5 サラマンチ と フランコ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22421538.html

束ねられた矢 その8 スペイン編 Part 6 フランコ政権の誕生
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22438274.html


モスクワの金−束ねられた矢 スペイン番外編
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22494342.html

モスクワの金(2)−束ねられた矢 スペイン番外編
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22528138.html

モスクワの金(3)−束ねられた矢 スペイン番外編
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22545332.html 



束ねられた矢 その8 スペイン編 Part7 スタンプ・マネー
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22658001.html

束ねられた矢 その8 スペイン編 Part8 スペインの奇跡とオプス・デイ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22731405.html

束ねられた矢 その8 スペイン編 Part9 オプス・デイ とセアト
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22748218.html

束ねられた矢 その9 ポルトガル編 Part 1 地球は人類誕生以来常に球体だった
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/22802975.html

束ねられた矢 その9 ポルトガル編 Part 2 植民地の紋章と聖セバスティアヌス
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/23726139.html

束ねられた矢 その10 ギリシア編 Part 1 ギリシア人のアイデンティティー
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/23826278.html

束ねられた矢 その10 ギリシア編 Part 2 歴史とアイデンティティー
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/23841938.html

束ねられた矢 その10 ギリシア編 Part 3 ギリシアのフリーメイソンネットワーク
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/23858771.html

束ねられた矢 その10 ギリシア編 Part 4 オデッサ と ポチョムキンの階段
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/23874509.html

束ねられた矢 その10 ギリシア編 Part 5 フィリキ・エテリア結成
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/23948187.html


フィリキ・エテリアのメンバー(1) −束ねられた矢 ギリシア番外編
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/24017570.html 

フィリキ・エテリアのメンバー(2) スペードの女王 −束ねられた矢 ギリシア番外編
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/24080881.html 

フィリキ・エテリアのメンバー(3) 史上最高の外交官 −束ねられた矢 ギリシア番外編
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/24093754.html 

フィリキ・エテリアのメンバー(4) 計画の遂行者 −束ねられた矢 ギリシア番外編
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/24107692.html 



開く コメント(0)

フィリキ・エテリアがカルボナリやフリーメイソンの組織を参考にしていたと言うことは、その位階制や入会儀式の導入などをみても分かる。指導部は自らを『Invisible Authority』と称して徹底的な秘密主義をとっていたそうだが、これはドイツにおけるフリーメイソンとイルミナティの関連にも見ることができて、何となく『よく使われていた手』であるように思える。

フィリキ・エテリアの入会儀式
イメージ 1

フィリキ・エテリアは、ロシアのアレクサンドル1世が支持しているというような噂も会員達の間ではあったそうだが、実際その通りだった。

フィリキ・エテリアのメンバーについてはあまり語られることがないが、なかなかそうそうたる顔ぶれだ。

何となく面白そうなので何人かをおってみた。

女性船長ラスカリーナ・ブブリーナLaskarina Bouboulina

イドラ島の出身だが、彼女の母がコンスタンティノープルの刑務所にいる死に際の夫を訪れた時、そこで生まれた。父は1769年に起こった『オルロフの反乱』で、オスマン帝国軍に捕まり監獄でいれられたのだ。4年後母親がディミトリス・ラサロウ・オルロフ船長と再婚したことで、彼女の運命は急展開する。

ラスカリーナ・ブブリーナLaskarina Bouboulina
イメージ 2

彼女は17歳の時にDimitrios Giannouzasと結婚し、そして30歳の時にDimitrios Bouboulisと再婚する。この二人の夫はともに船長だったが、彼らの船をおそった海賊相手に戦う中で死んでしまった。

1811年彼女は、40歳にして再び未亡人となった彼女には合計7人の子供たちがいたが、幸い2人の夫からの遺産によって、貧困には陥ることがなかった。

1816年にはオスマン帝国はこのブブリーナの財産を没収してしまおうとした。事実、彼女の二番目の夫は露土戦争においてロシアの海軍を支援し、ロシアからロシア海軍の船長として名誉市民の称号が与えられていた。

彼女の財産を守るために彼女は、自身の船"Koriezos"でコンスタンティノープルにあるロシア大使館に助けを求めにいく。そして、ロシア側は、彼女にウクライナにあるアレクサンドル1世の保護下にある土地を与え、そこにかくまうことにする。

1818年にブブリーナの財産を巡る騒動が一段落し、彼女が所用でコンスタンティノープルを訪れた時、フィリキ・エテリアに当時紅一点の会員として入会する。

その後1821年にギリシア独立戦争が勃発すると、彼女はその財産で3隻の船を建造する。その内の一つが、当時ギリシアで最大級にして催促を誇る船「アガメムノン」だった。そして、何と彼女自身、18の大砲を備えたアガメムノンに女性船長として乗船し一躍時の人となった。(ちなみにアガメムノンはトロイア戦争におけるギリシア軍の総大将で、あの映画「トロイ」で悪役となって登場している。)

戦艦アガメムノン
イメージ 3

女船長として指揮をとるブブリーナ
イメージ 4


イギリスの詩人 バイロン


「さらばアドリア海の自由と放埓の日々よ」

「そりゃバイロンかい?」

「いや 俺だよ」

映画『紅の豚』のワンシーンだがここで登場するバイロンとは、イギリスの詩人で本名をジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, sixth Baron)と言う。彼の名言で有名なのは



『君のためにたとえ世界を失うことがあろうとも 世界のために 君を失いたくない』

ジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron, sixth Baron)
イメージ 5

ただ、『なぜ、バイロンなのか?』

彼と地中海には妙な縁がある。

バイロンは若い頃1808年から1811年までポルトガル、スペイン、ギリシアなどを放浪し、その後『チャイルド・ハロルドの巡礼』を出版して一躍有名になった。有名になった後でも彼は様々な女性遍歴をもち、社交界においても変わり者であったようだ。そして1815年に彼はアナベラ・ミルバンクと結婚。彼女との間に生まれた子どもが、世界最初のプログラマーであるとも言われているエイダ・ラブレスだ。

しかし、結婚生活はうまくいかず、ヨーロッパ各地を転々としながら退廃した生活を送る。

フィリキ・エテリアに入会したきっかけは、彼と交友のあったイタリアの貴族グィッチョーリ伯爵夫人(Teresa Guiccioli)だ。彼女はイタリアの革命的秘密結社カルボナリのメンバーであり、フィリキ・エテリアとは繋がりがあった。


そして、後熱狂的なフェル・ヘレニズム(親ギリシア)であったバイロンは、1821年ギリシアで反乱がおこると、義勇軍としてギリシア独立戦争に参加することになる。


「さらばアドリア海の自由と放埓の日々よ」


まんざらバイロンととられても不思議ではないということだ。


1824年彼はギリシア南部のミソロンギに到着後、大志を果たさぬままに熱病にかかって死んでしまった。

バイロンが残したギリシアの独立を呼びかける詩

ギリシャの島々 ギリシャの島よ!
情熱のサフォーが愛し歌ったところ
戦争と平和の術が栄えたところ
デロスが立ち フェーボスが跳ねたところ
永遠の夏が輝きをもたらし
太陽のほか沈むもののないところ

キオスとテオスのミューズたち
英雄のハープと恋人のリュートが
目にした栄光も今はない
彼らが生まれた地は沈黙し
その声が至福の島をこえて
はるか西にまで響き渡ることはない

山々がマラトンを見下ろし
マラトンは海を見下ろす
わたしはそこにひとり立ち
ギリシャが自由になる日を夢見る
ペルシャ人たちに支配されたまま
いつまでも奴隷ではいられない

かつてギリシャの王が岩山に座し
サラミスの島を眺めやったとき
海には何千という船がもやい
国々から集められた男たちがいた
日が昇ると王はそれらを数えたものだ
だが日が沈んだ後 彼らはどこへ?

あのギリシャの栄光はどこへいった?
この静まり返った汀に
英雄の歌はもう聞こえない
英雄の胸はもうときめかない
崇高な音を響かす竪琴が
清らかな手で奏でられることもない

民族の誇りが失われ
くびきにつながれたままで
祖国の恥を受け止めるのはつらい
涙にくれた顔で
詩人は何を歌えばよいのだ?
赤面の歌か それとも涙の歌か?

栄光の日々を惜しみ赤面するだけなのか?
父祖たちは血を流したというのに
大地よ!汝の胸のうちから
スパルタの死者たちを蘇らせよ!
三百の勇者のうち三人だけでよい
彼らをして新たなテルモピレーを創建せしめよ!

それでも黙すのか 黙し続けるのか?
いや 死者たちの声が
はるかな瀑音のようにとどろき
そして答える「生けるものよ!
一人でも立ち上がれ、われらも続く」と
黙していたのは生者なのだ

無駄だ 無駄だと 別の声がいう
杯にサモズの酒をなみなみと注げ!
戦いはトルコ人たちにまかせ
キオスの葡萄の血を流せ!
聞け この卑劣な呼びかけに
バッカスの徒がなんと答えたかを!

お前たちはまだピュロスの踊りを覚えている
あのピュロスの軍勢はどこへ消えた?
ピュロスが残した教訓のうち
尊く男らしいものを忘れたのか?
お前たちはカドモスから文字を授かった
それは奴隷が使うべき文字ではないのだ

杯にサモスの酒をなみなみと注げ!
こんなことを考えるのはやめよう!
サモスの酒はアナクレオンの歌を崇高にし
アナクレオンは僭主ポリクラテスに仕えた
だが我らの主人たちは
みなギリシャの人々だった

ケルソネスの僭主は
自由を愛する勇敢な戦士
その名をミルティアデスといった
おお 我らの時代にも
かかる僭主の出現せんことを!
その鎖でギリシャを一つに束ねて欲しい

杯にサモスの酒をなみなみと注げ!
スーリの岩山 パルガの浜辺に
ドーリアの母たちが産んだ
血筋の痕跡は残っている
そこにはヘラクレスの落胤たる
種もまたまかれているのだ

西方のフランク人に自由をゆだねるな
彼らの王は取引を業とする
希望はただ一つ
自国の剣と軍隊に存する
トルコの力とラテンの狡猾に
汝の楯を破らせるな

杯にサモスの酒をなみなみと注げ!
我が娘たちは木陰に踊る
その眼を黒く輝かせながら
だが彼女らの瞳を見るとき
その胸が養うものが奴隷だと思うと
わたしの目は涙で掻き曇るのだ

スニオンの大理石の崖の上に立つと
そこには波とわたし以外に
ギリシャのため息を聞くものはいない
ここで白鳥のように歌いながら死のう
奴隷の国はわたしのいるところではない
サモスの酒を汲んだ杯もろとも身を投げよう

開く コメント(0)

ギリシア人の国をつくるとはいっても何百年ぶりだろうか・・・?

そもそも彼らが思い描く『ギリシア人の国』をどのようなものであったのだろうか?

それは おそらくビザンチン帝国(東ローマ)よりももっと前・・・

古のギリシア人の国。。。


ヘレニズムという概念に収斂する。


『ヘレニズム』とは、オリエント文化とギリシア文化の融合という捕らえ方をしているように思われるが、大航海時代と同じく、実際はヨーロッパ中心主義といわれる考え方だ。

武力を用いて他国を侵略したアレキサンダー大王の軍事行動を美化し、『ギリシア化』ということを一種の『文明化』のような捉え方をしていた。だからどちらかと言えば『オリエント世界のギリシア化』というような響きがある。

民族のアイデンティティーを再発見するという動きは、旧体制が崩壊する中、ヨーロッパ世界の中で急速に求められていたのだ。

オデッサの3人組


この曇るこがないというオデッサは、商業が活発で、活気に溢れる街だった。

そんな中を人目をしのぐようにして集まった3人がいた。

ニコラオス・スクファス (Nikolaos Skoufas)
彼は1779年ギリシア北西部にあるアルタ地方の村に生まれで、後にフィリキ・エテリアのリーダーとなる人物だ。彼は薬局や帽子を作る職人として働らき、その後ロシア帝国に移住した。この時、彼がこの秘密結社をつくるにあたっては、イタリアの『カルボナリ』運動の影響も大きかったと言われている。

イメージ 1



エマニュエル・クサントス (Emmanuil Xantho)
エーゲ海のパトモス島の生まれ、クサントスはレフカダ島のフリーメーソン・ロッジのメンバーであった。イタリアに移民するとSociety of Free Builders of St. Mavraというフリーメイソン・ロッジの指導的な立場として活動していたと言われている。その後、ロシア帝国のオデッサに移住した。

イメージ 2


アタナシス・ツァカロフ(Athanasios Tsakalov)
ギリシアの片田舎ヨアニアに生まれたが、若い頃父親と一緒にロシアに移り住んだ。彼はパリの大学で物理学を勉強するが、その間にヘリノグロッソン・クセノドキオ(Ellinoglosso Xenodocheio)という反トルコの秘密結社を設立した。もちろんギリシアの独立を目指した組織だ。

イメージ 3



この3人が設立したフィリキ・エテリアの紋章にはフェニックスロッジにならって不死鳥(フェニックス)が使われたそうだが、下の図で使われているのが紋章だったという説もある。今回ははっきりさせることが出来なかったが・・・まぁいいだろう。


フィリキ・エテリアにおける僧侶(イェレフス)位の宣誓状
イメージ 4



イギリス統治下のイオニア諸島


オデッサで結社の誓いがなされている頃、

イメージ 5


イオニア諸島は揺れていた。

イギリスの艦隊が1809年にフランスを打ち破ると、すぎにケファロニア、ザキントス島を、翌年にはレフカダ島を、そして1814年にはケルキラ島を占領したのだ。

そしてフィリキ・エテリアが結成されて一年後・・・


第二次パリ条約によってイオニア諸島合衆国(:United States of the Ionian Islands)が誕生したのだ。


そして、あのライオンが聖書と束ねた矢をもっている紋章が再び姿を見せるのだが、イギリスの保護下であるために、イギリスの国旗と一緒であった。

イオニア諸島合衆国の国旗
イメージ 6


イオニア諸島合衆国の成立によって、イオニア諸島において憲法の制定が認められ、住民の政治への参加も可能になった。イオニア人にとってフランス支配下に比べると幾分か状況は良くなった。こうしたイギリスの対イオニア諸島の政策の効果もあって、島民にとってはつかの間の平和が訪れた。


司法制度や教育の面だけでなく、生活の隅から隅までイギリス式が実践された。もはや、ギリシア独立の大義名分さえも忘れたかのように、人々は午後の紅茶とクリケットを楽しんでいたという。


しかし、海外のギリシア人を中心に『ギリシア独立』の考えは根付いていき、


イオニア諸島の人々の間にも密かに広まってたのだという。



以下はウィキペディアより抜粋
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%86%E3%83%AA%E3%82%A2
フィリキ・エテリアは瞬く間に組織を拡大することになり、1814年から1816年にかける期間には入会者が20名に至っており、1817年には構成員はオスマン帝国領内のギリシャ人らにとどまらず、ロシア、モルドヴァ、ワラキア各地に在住するギリシャ人から構成されるようになった。

まぁ、結成当初から順風満帆だったわけではない。


イギリスの懐柔政策によってこれまで400年以上他の民族に統治されていた国民にとっては、やっと手に入った自治権利だ。捨て難いものがあったのだろう。


スクファスはモスクワに戻って『ギリシア独立』というアイデアを広めようとした時、当のギリシア人達の反応は冷ややかだった。


それでも、徐々に数年立つとやはりイギリス統治下の本質というものが見えてしまったのか、フィリキ・エテリアを支持するギリシア人は増え、会員数も増加していった。

組織は更に拡大を続け、1820年にはイオニア諸島を含むギリシャのほぼ全ての地域とギリシャ人が多く住む西欧、中欧の外国の都市に広がっていた。1821年の始めにはメンバーの数は資料で確認できる数字は1,000人、実際には2,000人から3,000人までに至り[2]、貿易商、役人、ファナリオティスなどからなった。

秘密結社としては中堅レベルに成長したというところだろうか。


ちなみに


薔薇騎士団の会員が5,856人


イルミナティが確実なところで1,400人


ドイツに433あった『レーザ・ゲゼルシャフト(読書会)』が12,600人


フリーメイソンは、ドイツ(ギリシアの話をしているのにドイツでごめんね)だけでも27,000人


それにしても、イルミナティのヴァイスハウプトもそうだったが、


秘密結社の組織作りにはやはりフリーメイソンが参考にされる。


開く コメント(0)

オデッサという都市がこのブログに登場するのは2度目だ。一度目は「モスクワの金」の話の時に、スペインからロシアに金塊が輸送される時の到着地としてだ。

それまではと言えば、

『機動戦士ガンダム』で出てくるオデッサ作戦の舞台として知っているぐらいだ。
(実際物語で仮定している場所は少し違うらしいのだが・・・)

オデッサ・ファイルなんてのもあったけど、アレは土地の名前を直接指している訳じゃない。


ちょっと調べてみた。


オデッサ と ポチョムキンの階段



そこ街の空は曇ることがない。


永遠に濃く青い空がどこまで続く。。。


昔の人々が信じたと言われる



オデッサの伝説だ。


現在のウクライナにあるオデッサは黒海に面し、ギリシアにも地理的に非常に近い場所に位置している。
イメージ 1


1792年エカチェリーナ2世によってこのオデッサはロシア帝国の領土となり、港の建設などがはじまると、その後徐々に貿易都市として発達することになる。19世紀になるとユダヤ人が大挙して押し寄せ、1887年頃には人口の3分の1がユダヤ人と言われるまでになり、ロシア革命の英雄トロツキーが少年時代をすごした地域でもある。

オデッサの名前の由来は、エカチェリーナ2世の意向でトラキアに存在した古代ギリシアの植民地オデッサスからとったとされている。このあたりは彼女がギリシア独立を支援していたことを考えると、この時期にこの名前を選択するこということは、当時のギリシア人に対して心強いメッセージだったに違いない。

ところで、オデッサには日本ではあまり知られていないかもしれないが、街のシンボルともいえる壮大な階段がある。

ポチョムキンの階段(Potemkin Stairs)
イメージ 2

ポチョムキンの階段 湾岸の方から
イメージ 3


完成したのは1841年なので、ここでの話には直接は関係ないが、少しご紹介。港から街の中心部まで続くこの階段の全長は142メートル視覚効果を意識した建設がほどこされていて、階段の一番下の幅は21.7メートル、そして一番最上段の幅は13.7メートルになっている。つまり、遠近法を利用したもので、下から上を見上げるとものすごく大きく感じるようになっている。

国際的には『戦艦ポチョムキン』という映画で知られるようになる。

イメージ 4


実は・・・


「映画史上最も有名な6分間」


と言われるシーンがこのポチョムキンの階段で展開されるわけだが・・・。


知ってました?


セルゲイ・エイゼンシュテイン監督のサイレント映画の傑作中の傑作。

このポチョムキンの階段で繰り広げられる残虐シーンは、かなり衝撃的だ。実際の歴史の中でこのような虐殺シーンがポチョムキン階段で行われたということはないらしい。

この映画の中で撃たれた母親の乳母車が階段を落ちていくシーンは、

どこかで見覚えのあるシーンだ。



そう、映画『アンタッチャブル』のあのシーンだ。


オデッサの素顔


オデッサは曇ることがない街と言われていたが、実際の町中の様子はかなり混沌としていた。

以下はリンク↓からの抜粋
http://www.age.ne.jp/x/kanya/bbl-ode.htm#gang

オデッサでは上流階級や新興ブルジョアジーの住居や別荘は、海に面した北東域に集中していた。現在、観光地として有名なのはこの地域だが、その南西部に広がっている旧スラム街まで足をのばす旅行者はそう多くはない。 

この旧スラム街こそ、かつて「モルダヴァンカ」と呼ばれ、革命前まではロシア中にその名の鳴り響いていた暗黒街だった場所だ。主にユダヤ人難民がひしめき、極度の貧困に喘いでいたこの地区は、たとえばジャン・ギャバン主演の映画『望郷』の舞台アルジェの暗黒街カスバと同様、警察にとっては立ち入ることさえ危険な無法地帯で、まして北東域の人々はけっしてモルダヴァンカには足を踏み入れなかったらしい。 

モルダヴァンカのユダヤ人
http://www.age.ne.jp/x/kanya/babel-40.jpg
(画像ソース:http://www.age.ne.jp/x/kanya/bbl-ode.htm)


この地域を根城にしたミーシャ・ヤポンチク(ベーニャ・クリクのモデルと言われる)を首領とするユダヤ・ギャングは、街の地下に広がるカタコンベの跡なども巧みに用いて、夜ごと警戒線の裏をかき、北東域に出没しては強奪をくり返していたという。オデッサの現実は、けっして『オデッサ物語』に描かれているような、陽気で祝祭的なものだけではなかったはずだ。後にトロツキイと名乗ることになるユダヤ人少年が、社会の矛盾に目覚め、変革を志すようになったのは、他ならぬ19世紀末のこの街でのことだった。

オデッサという街は、はっきりと3つの地区に分かれていた。美しい街並を誇る北東域。外国からの人や物資の集結地であると同時に、工場が立ち並び、難民や流浪者を日雇い労働者としてたえず吸収していた港湾地区。ゴーリキイが沖仲仕として働いていたのはこの地区だ。そして公権力から逃れてきた盗賊たちの根城であり、革命家たちの潜伏先でもあった無法地帯モルダヴァンカ。 

19世紀末から革命前夜のオデッサは、おそらく戦前の中国における上海のような位置を、ロシアにおいて担っていたのだと思う。多様な民族や階級が行き交う国境の街。さまざまな言葉や物資が流通するエキゾチシズム溢れる街、陰謀と欲望が渦巻くアウト・ロウの街。光と影が交錯する街。ゴーリキイやクプリーンを惹きつけ、後にネップ期に活躍することになる作家たちを育み、彼らが愛惜してやまなかったのは、オデッサのこのような風土であった。


そんな街に集まった3人のギリシア人。

その3人はおそらくモスクワのフェニックス・ロッジの分派であったと考えられるが、いずれにしても組織の青写真は会合時にはできていたと考えられる。

すでにイオニア諸島の情勢も風雲急を告げていた。

組織の名前は フィリキ・エテリア(Philiki Etaireia)


意味は “Friendly Society”
まったく人をくったような名前だ。


目的はギリシア人の国をつくること。。。


開く コメント(2)

全6ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事