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タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

政府紙幣の歴史(ヨーロッパ)

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ゲーテの不朽の名作「ファウスト」が、18世紀初めのフランスで起きたジョン・ローのミシシッピー計画からインスピレーションをうけたのは間違いないだろう。「紙幣」の創造に象徴される「錬金術」こそが、ファウストのテーマであったのだ。
 
 
しかし・・・、
 
ゲーテ は どうして
 
ジョン・ローの紙幣をつかったマネー創造に
 
興味を持ったのであろうか?
 
 
大文豪として知られるゲーテの経歴と言うのは、実は少し風変わりなところがある。
 
文豪として知られる以前のゲーテの経歴について見てみよう。
 

国家公務員としてのゲーテの経歴

ウィキを参考にゲーテの経歴を要約した。
ゲーテは1749年8月28日、フランクフルトの裕福な家庭に生まれる。教育に熱心だった父親は、彼が幼児期から読み書きや算数を教え、更に家庭教師を雇って、語学、図画、乗馬、ダンス、カリグラフィー、ピアノ、ダンスなどを習得させた

1765年、ライプツィヒ大学法学部に入学するが、病気(結核)のため退学を余儀なくされ、フランクフルトに戻る。

1770年、父親の強い希望でゲーテは再び勉学へ励むためにフランス領シュトラースブルク大学に一年間通う。

1771年8月、22歳のゲーテは無事に学業を終え故郷フランクフルトに戻った。しかし父の願うような役所の仕事には就けなかったため、弁護士の資格を取り書記を一人雇って弁護士事務所を開設した。友人、知人が顧客を回してくれたため当初から仕事はそこそこあったが、しかしゲーテは次第に仕事への興味を失い文学活動に専念するようになった。
 
1775年11月、ゲーテはカール・アウグスト公からの招請を受け、その後永住することになるヴァイマルに移った。当時のヴァイマル公国は面積1900平方キロメートル、人口6000人程度の小国であり、農民と職人に支えられた貧しい国であった。

26歳のゲーテはアウグスト公から兄のように慕われ、彼と共に狩猟や乗馬、ダンスや演劇を楽しんだ。王妃からの信頼も厚く、また先輩詩人ヴィーラントを始め多くの理解者に囲まれ、次第にこの地に留まりたいという思いを強くしていったようだ。
 
1776年の夏には貴族達の反対を押し切り、ゲーテは枢密公使参事官(Geheimer Legationsratとして、公爵の外交顧問として三人評議会(dreiköpfige Beratergremium)のメンバーの一人となった。まぁ、言ってみればワイマールの諜報活動を担ったことになる。
 
更に翌年、彼は新しく設立された鉱山委員会の長となり、1779年に戦争委員会と道路建設委員会となった。
 
 
問題は陰謀論愛好家が喜びそうなテーマなのだが・・・
 
ゲーテの就いた役職である枢密公使参事官は、外交問題を取り扱う部門であり、現代風に言えば諜報機関のようなものだ。すでに文豪としての地位を確立しつつあったゲーテは、知識人達の集まりに潜入するにはまたとない人物であったに違いない。ゲーテ自身も“諜報”としての役割もさることながら、当時の知識人達の秘密結社には強い関心を抱いていたようだ。
 
   
1780年1月7日にゲーテとカール・アウグストは二回目のスイス外遊から戻り、その時にはフリーメイソンの一員になることを決めていた。そして、1780年6月23日にドイツにおいて最も古いロッジの一つであるワイマール“アマリア・ロッジ”で、イルミナティにも通じているヨハン・クリストフ・ボーデの指導下、めでたく入会を果たす。
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ワイマールから200キロ離れた町インゴールシュタットのヴァイスハウプトが1776年に結成したイルミナティに入会したのは、この時にボーデの勧誘によるものだろう。そこでの彼は、アバリスというスキタイ人占い師(マギ)に由来する秘密の名を使用していた。
 
ゲーテがフリーメイソンやイルミナティに加入した動機はいろいろと詮索されるが様々だが、当時の知識人達があいついで秘密結社に入会した時代の流れだったのか、あるいは諜報活動としてなのかはまだ議論されている。
参考 ↓
 
 
さらに1782年には財務大臣となる。ゲーテも財務大臣としてジョン・ローと同じような視点から一国の経済を見る機会があったということだ。財務大臣としての彼の使命は、歳出を削減し、債務を抱えた国家財政を立て直すことにあった。ロー似たような問題に取り組んでいたというわけだ。
 
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ただし、ゲーテは通貨発行の魔力に捕らわれることなく、彼が行った政策は兵士などの軍事費を半分にしたり、いくつかの経済支援政策を打ち切りにするなど仕訳をおこなったのだ。もちろん反発も多かったのだが、一連の施策が実際に財政立て直しに寄与した面は大きかった。
 
彼の財政運営は部分的に成功したかもしれないが、イルメナウにある銅山や銀山の再構築は失敗に終わり、数年化後には再び閉鎖に追い込まれた。
 
ワイマール時代のゲーテの政治的功績は、ウィキペディアによればイェーナ大学の人事を担当してシラー、フィヒテ、シェリングらの知識人を多数招聘するとともに、ヴァイマル劇場の総監督としてシェイクスピアやカルデロンらの戯曲を上演し、文教政策にも力を注いだことだ。

そして、18世紀末期、ドイツの作家ゲーテは複式簿記の知識の重要性を認識しており、ワイマール公国の大臣であった時に学校教育に簿記の授業を義務付けたと言われている。
(ウィキペディア参照)
 
複式簿記の導入や当時まだ小国家とはいえワイマールの国家財政を束ねる立場にいた彼は、当然60年ぐらい前にフランスでおきたミシシッピ計画の顛末についても知識を持っていたに違いない。あるいは彼自身何度か兌換されない紙幣の魅力にとりつかれそうになったのかもしれない。
 
 
さて、彼の晩年の大作「ファウスト第二部」の最後はどのようなものだったのだろうか。
 

ファウストのエンディングとバブルの終焉

第二部4幕の展開はウィキペディアから要約する。
ファウスト博士と悪魔メフィストは、共に「世界の生成について」の議論するが、その中でファウストの理想の国家像が言及され、やがてファウストは名声を挙げて支配権、所有権を得たい、偉大な事業を成し遂げたいと述べる。

彼は海の沖で大波が寄せては返し、岸を痛めつける様子を目にし、海をはるか遠くに封じ、そうした非生産的な活動を止めさせたいと欲求したのであった。

メフィストはそれに対して、折しも第二部・第1幕において舞台となった国の経済がいよいよ破綻し、正統の皇帝に対して僣主が擁立され反乱が発生している、皇帝の軍は劣勢であり、彼らが今いる山々へ最後の決戦の為に転進してきているから、ここで再び皇帝に仕え巻き返しを図れば、海岸地帯を褒美として貰えるでしょう、と伝える。

ファウストはその計画に乗り、戦争の凶暴性を象徴する「喧嘩男」、戦争の略奪を象徴する「早取男」、物欲、吝嗇(けち)を象徴する「握り男」というメフィストの3人の手下の悪魔を従えて戦争へ赴く。

メフィストの幻術も手伝って、皇帝の軍は見事勝利へと導かれる。戦勝の褒美として皇帝は侯爵達に高官としての地位を与えるが、大司教は勝利する為に皇帝が悪魔の力を借りた事を責め、ゆるしを得るために教会に膨大な税を納めることを要求する。一連のやり取りの中で皇帝がファウストに海岸地帯の土地を与えた事が明らかにされ、また国家の解体する姿が痛烈に風刺される。
 
 
ここで竹森俊平著の「資本主義は嫌いですか」から引用してみよう。
やがて、ファウストは王国の財政を立て直し、さらに戦争において抜群の功績を挙げた報償として、「広大な沼地」を領地として授かる。それを干し上げて、豊かな土地に転換する大事業に、彼は心身を捧げる。

そうそう、「広大な沼地」といわれると、筆者はどうしても、ジョン・ローのミシシッピー会社が開拓した都市、ニュー・オリーンズ周辺の光景を頭に浮かべてしまう。「波がその開拓地に入り込もうとする」という記述があるので、ハリケーン・カタリーナのことを思い出して、ますますそう思えてくるのである。

ゲーテがニュー・オリーンズの生い立ちを知っていたことは間違いないから、そう解釈してもおかしくないはずだ。ともかく筆者にとってこの箇所は、ニュー・オリーンズを考えて読むと、一段と感興が増す。読者も試してはどうか。以下は、名高いファウストの死の場面である。

山裾に沼地がひろがっていて、すでに干し上げた土地の厄介ものだった。あれをきれいに開拓するのが最後にして最高の大事業だ。多くの人々のために土地ができる。各人、豊かとはいえなくても、働けば自由に住めるはずの小天地だ。
 
畑が緑にかわり、実りを迎え、新しい土地に人と家畜が穏やかに暮らしている。大胆に干し上げ、堤がこれを守っている。その中は一つの楽園だ。そんなに波が立ち騒ぎ、無理やり入り込もうとしても、しっかり防いで入れさせない。

協同の意思こそ人智の至りつくところであって、日ごとに努める者は自由に生きる資格がある。どのように危険にとり巻かれていても、子供も大人も老人も、意味深い歳月を生きる。そんな人々の群れつどう姿を見たいのだ。自由な土地を自由な人々とともに踏みしめたい。

そのときこそ、時よ、とどまれ、お前はじつに美しい、と呼びかけてやる。この自分が地上にしるした足跡は消えうせはしないのだ。−−−身を灼くような幸せの予感のなかで、今この上ない瞬間を味わっている(ファウスト倒れる)。
 
ファウストは死の直前にメフィストの盲目にさせられた。彼はメフィストが手下を使ってファウストの墓穴を掘らせる音を労働者達が土地の開拓をしている音だと勘違いをする。
 
 
自分自身の墓穴が掘られている音が、至福の音に聞こえるという皮肉。。。
 
 
おそらく・・・マネーの虜になったバブル絶頂の人間も、盲目と同じような状態なのだろう。
 
 
ゲーテはマネーの本質を見抜いていたのだろうか? 
 
 
 
秋はサラリーマン業が忙しく、すっかりと更新が滞ってしったorz
 
何はともあれ、今日はジョン・ローの続きだ。
 
前回↓
 
ジョン・ローミシシッピ・スキームによってパリの経済は未曽有の好況となった。モノをつくれば売れ、1929年にエンパイア・ステートビルを建てたジョン・J・ラスコブの言葉をかりれば『誰もが金持ちであって当然なのだ』・・・という時代だったのだ。パリ市民にとって、歴史上もっとも幸福な年であったかもしれない。。。
 
しかし、風向きが変わるのにそう時間はかからなかった。
 
フランスの紙幣流通量は半年で2倍になる一方で、それまで上昇の一途を辿っていたミシシッピ会社の株価に若干の変調が見られるようになった。2008年にちょうどサブプライム問題が顕在化しはじめ、ベア・スターンズが破綻に追い込まれた時期の市場の空気・・・と言うような感じだろうか?
 
それでも、ここで1929年のアーヴィング・フィッシャー教授だったら強気にもこう言うだろう。
 
「株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した」・・・と。
 
 
ローもパリ市民の動揺を抑えるためにあれこれ策を講じた。
 
 
しかし、ミシシッピ株価を安定させるのが目的とはいえ、500リーブルを超える貨幣を所持することを違法としたのは明らかにやりすぎだっただろう。
 
考えてもみればすごいことだ・・・。
 
 
しかし、あまり経済に馴染みのない人は、どうしてローがそんな措置をとったのかを理解するのは難しいかもしれない。ローが貨幣を所持することを法律的に禁止したのは、現代の経済学的観点からすればそれなりに根拠のあったことだった。
 
 
彼の強硬な措置の裏側にあるロジックは・・・
 
 
流動性の罠だ。
 
これは・・・
債券価格の上昇(利子率の下落)が極端であると、人々は債券の値下がりを予想して、貨幣で資産を保有するようになり、貨幣供給が増しても、貨幣保有が増すだけで、資金は債券購入に回らず、市場利子率はそれ以上低下しようとはしなくなる。貨幣を保有するコストはゼロに等しくなる。
 
本来、ミシシッピ株の値上がりを予想する人は、現金を手放して株を購入しようとする。反対に値下がりを予想する人は、ミシシッピ株を売却して現金を保有しようとするだろう。ミシシッピ株のように20倍近く上昇してしまうと、株価にも天井が見え始めると弱気の人が徐々に増え始める。
 
経済学者アーヴィング・フィッシャーは、前述の『株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した』という名言を吐いて、投資家を安心させようとするが、結局一度弱気になった人々をなだめることはできなかったのだ。
 
いよいよミシシッピ株の値下がりを予想しはじめる人々が増え始めると、貨幣で資産を保有しようとして、ローがどれだけ紙幣を刷ったとしても、人々はそれを保有するだけで、株の購入には繋がらない。
 
値下がりが確実な株を誰が買うだろうか・・・。
 
そして、ローは貨幣で資産を保有することを禁じて、紙幣がミシシッピ株の購入に回るようにしたかったのだ。
 
さらにローは銀行券と金や銀の交換率を何度も変動させる。
 
ここからはニーアル・ファーガソン著の『マネーの進化史』より引用
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1719年9月から20年12月までの間に、金の公定価格は28回、銀は少なくとも35回改定されたが、いずれも、硬貨より紙幣を魅力的に見せようという思惑から取られた措置だった。だが互いに矛盾する法令が乱発されたために人々は混乱し、為政者たちの有利なように経済の規則を曲げるという絶対王政の特質が浮き彫りになった。

(略)
金と銀の輸出が自由化された日があるかと思えば、翌日には禁じられた。またある日は、紙幣が印刷機の能力の限界まで刷られ、翌日にローが紙幣の供給を120万リーブルに制限したりした。ミシシッピ会社の株価の底値が9000リーブルに固定されたかと思うと、次の日には取り消された。

2月22日、この底値が廃止されたために、株価は予想どおり急落し、月末には7825リーブルまで下落した。ところが3月5日、摂政から圧力を受けたローはまたもや180度の転換を見せ、9000リーブルの底値を復活させ、造幣局を再開して、この値段で株を買い取らせた。

その法令のなかで「紙幣は、価値が変動しない通貨である」と断言され、先の120万リーブルの通貨供給制限にもかかわらず、これは事実上は通貨供給の制限が再び取り払われたことを意味した。賢い投資家たちはそのころは、一株9000リーブルで換金することに満足するようになっていた。

1720年2月から5月までの間に、一般人が保有する紙幣の総量は94%も増えたが、株の保有数は発行数の三分の一まで落ち込んだ。近いうちに、ミシシッピ会社の全ての株が売られ、紙幣の乱発とインフレが進行することは明白だった。

5月21日、瓦解を防ごうと必死に努力していたローは、摂政のオルレアン公に通貨収縮の布告を進言した。ミシシッピ会社株価の公定価格を段階的に月ごとに9000リーブルから5000リーブルに引き下げ、同時に流通する紙幣を半減させるという案だ。

ローはまた、銀行券の切り下げはしないと保証した前言をひるがえし、切り下げを断行した。ここに至って、ローのシステムの基盤であった絶対王政下の財政の限界がにわかに露呈した。

布告が出されてすぐに民衆から怒りの声が盛り上がり、発令はわずか6日後に撤回されたが、システムが失った信用はもう取り戻せなかった。しばらく小康状態が続いたものの、株価は9005リーブル(5月16日)から4200リーブル(5月31日)まで急落した。

怒りに燃えた民衆が王立銀行の周囲に群れをなしたが、銀行側は彼らが要求する銀行券の需要には当然応じることはできなかった。投石によって、銀行の窓が割られた。当時これを目撃したあるイギリス人は、以下のように書いている。

「この国の民衆に最悪の損失が襲いかかり、すべての階級、さまざまな経済状態の人々が被害をこうむった。彼らの驚愕や絶望がどれほど大きかったかは、筆舌に尽くしがたい。・・・王子たちなど地位のある人々はみな、この事態に激怒している。」
 
 
所謂、バンクラン(bank runが起きたのだ。電子化が進む現代社会ではもうほとんど見られることがないが・・・
 
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その後ローは5月29日に解雇され、自宅軟禁の状態におかれる。
 
 
しかし、このあたりがリスク管理の怖さだ。
 
 
このフランス経済の危機的状態をつくったのはローだが、
 
 
・・・解決できる者も結局ローしかいなかった。
 
 
しかし、ローを再度起用するも9月頃にミシシッピー株は2000リーブルとなり、12月にはさらに1000リーブルとなった。。。
 
 
バブルははじけた。
 
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その後、オーストリア継承戦争(1740年〜1748年)、フレンチ・インディアン戦争(1755年〜1763年)、七年戦争(1756〜1763年)、アメリカ独立戦争(1775〜1783年)などの相次ぐ戦争によって、フランスの財政状況はますます泥沼化していく
 
冨田俊基著の『国債の歴史』によれば、1715年から70年の間に、フランス王室は、5回もデフォルトを実施したという。http://mltr.ganriki.net/faq11fr.html
 
 
 
国家を相手に金を貸す。。。
 
昨今のギリシャを見るまでもないが、それほど安全な投資でもない。。。
 
 
そして、
 
ローのミシシッピ事件から約70年後の1789年、フランス革命が起きた。。。
 
 
フランス革命前夜に、パリ市民はもう今一度紙幣がもつ魔力の虜になるが、それはまた別の機会に取り上げるとしよう。。。
 
ところで、ジョン・ローの物語を取り上げた「ファウスト」はどのようなエンディングを迎えたのであろうか?
 
 
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前回↓
 
 
新世界のフランス領ルイジアナにはラテンアメリカのセロ・リコ銀山(ポドシ銀山)ように金や銀がザックザク・・・というようなありもしない宝の山を信じているうちは、人々はミシシッピ会社の株を買っていた。ローも実際には見たこともないルイジアナの沼地を将来の展望にあふれた土地に見せかけようとした。
 
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しかし、送り込んだ入植者達の生活は過酷を極めた。フランスの入植者達は1718年からニューオリンズを拠点(当時はモービルが首都)として北へ展開しはじめるが、アメリカの東岸から西部へ開拓したいイギリスとの衝突は避けられなかった。フランス王は敵対的勢力との紛争の際には軍隊を派遣し、1717年ミシシッピの植民地には人口550名の中に300名の兵士がいた。(ウィキペディア参照)
 
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フランスは現地のインディアンの部族と同盟を結び有利な展開を模索しながら、イギリスやスペインの勢力を退けていた。しかし、入植活動とは過酷なもので、黒人も奴隷貿易により次々に入植させられるが、メキシコ湾からのハリケーンの他、飢えや黄熱病などの熱帯性の疾患で彼らの八割が亡くなったという。考えてもみればフランス人にとってハリケーンは未知の自然脅威だったに違いない。
 
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18世紀中に約7千人近くがルイジアナに入植したと考えられているが、これは大西洋岸のイギリス植民地人の数の100分の1に過ぎなかった。
 
植民地人はフランスの港やパリで志願者を集めた、多くは若い男性であったが、植民地の人口を増やすために若いフランス女性も植民地に送られた。売春婦、路上生活者、法を犯した者、あるいは家族のいない女性が「国王の親書」を持ってルイジアナに行くことを強制された。
 
フランスのルイジアナ植民地計画はかろうじてパターソンのダリエン計画の二の舞は避けられたようなところだが、ローの喧伝した世界とはあまりにもかけ離れていた。
 
 
パリではそんなことはまだ知らない。ルイジアナの財宝を前提として、王立銀行は信用を供与し、約8人の男達が24時間紙幣を刷り続けた。以前、生地、香辛料、茶などの取引を行っていたまっとうな商人達は、今では一つのことにしか関心がなくなった。
 
ミシシッピ社の株だ。
 
 
初期には550リーブルで発行されたミシシッピ株は、半年ほどで10000リーブルを超えた。
 
 
半年そこらで今までの資産が20倍近くなるのだ・・・。
 
経済学者ジョン・K・ガルブレイスは、著書『不確実性の時代』で次に様に言っている
何の価値もない紙きれがぐるぐるまわっていたのです。その結果、関係した人間の全部が金持ちになりましたが、それは紙の上だけのことでした。この年のおかげで、われわれは「百万長者=ミリオネア」という便利なフランス語が使えるようになったわけです。
 
パリジャンの人々が、この時ほど幸福だった時は後にも先にもないかもしれない
 
 
・・・多くの裕福なパリジャンがローの誘惑に屈した。自ら築き上げた財産に有頂天になっていたローは、多くの未払いの年金の清算や前払いまで引き受けたが、これは特権階級の信用を得る上でかなり有効な方法だった。1719年9月までに、何百人もの人々が、サン・マルタン通りとサンドニ通りの間の狭い道、VOCの株式を発行する事務所があるカンカンポア通りに群れをなして集まった。あるイギリス大使館員は、その様子を次のように描写している。


「早朝から深夜まで、王子や王女、伯爵や伯爵夫人といった貴族など・・・ひところでいえば、フランス中の重要人物が集まっていていた。彼らはミシシッピ会社の株を購入するため、不動産を売り、宝石を質に入れた」


だが、ローの自信を支えているペテンの手法は、いつまでも持続できるものではなかった。彼が財務総監に任命される前から、前述したバブル経済の五段階の兆候のうち、フェーズ4までがすでに顕在化していた。まず1719年12月に、ミシシッピ会社の株価が下落し始め、12月14日には7930リーブルになった。


ローは株価を持ち直させるために、さまざまな手を打った。最初は王立銀行にあたらしい部局を設置し、ミシシッピ会社の株価の底値が9000リーブルになるよう株を売買させた。だがこれも、窮余の策だった。事態を単純化するかのように、1720年2月22日、ミシシッピ会社は王立銀行の業務を肩代わりする、と宣言した。


またローは、1000リーブルの「オプション」を売り出したが、これは半年以内に、持ち主に一株一万リーブルで購入する資格を与えたものだった(これは実質、1万1000リーブルという価格を意味した。一月8日の最高値、一万100リーブルを900リーブル上回る額だ)。


このような措置のおかげで、一月の半ばまで株価は9000リーブルあまりを保っていた(だが底値を設定したせいで、このオプションは無価値になった。そこでローは寛大にも、10オプション一株と交換に応じた)。

だが、株式市場の外では、危険なほどインフレが加速しつつあった。1720年9月のピーク時に、パリの物価は2年前と比べて約二倍になっていたが、その大部分は過去11ヶ月間に上昇したものだった。これはローが流通紙幣を極端に増やしたためだった。

一年ちょっとのうちに、ローは紙幣の流通量を二倍に増やしていた。1720年5月までに、通貨供給量(紙幣と公的に発行された株式を合わせた量)。なぜかといえば後者は、自由に換金することが可能だったからだ)は、以前に流通していた金貨、銀貨と比較してリーブル換算で4倍になっていた。

当然ながら紙幣価値の下落を予想する人々もいて、彼らは紙幣を受け取る代わりに金や銀での支払いを望むようになった。

だが絶対主義者のローはすぐに反発して、紙幣を法定通貨に定めた。金や銀の輸出を禁じたうえ、金や銀製品の製造・販売まで禁止した。1720年2月27になると、市民が500リーブルを超える貨幣を所持することは違法になり、この施策を徹底するため、官憲が市民の家を捜索して回った。
 
(ニーアル・ファーガソン著 『マネーの進化史』)
 
 
砂上の楼閣を守るためにローは必死になったわけだが、崩壊はもう目の前まで来ていた。
 
 
バブルが破裂するきっかけはささいなことだ。。。
 
 
要するに
 
 
 
人々が幻想を捨てて正しい認識をするようになればいい・・・
 
 
 
 
例えば・・・、
 
 
 
 
ルイジアナに金はない・・・・ とか。
 
 
 
 
 
ジョンローの続きだ 前回↓
 
パリではみんな、気が狂ってしまったのですか?
 
あれほどスコットランド人のアイデアを称賛したフランス哲学者ヴォルテールはそう書簡に書いている。
 
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バブル経済・・・
 
80年代後半のバブル経済を若くして体験した人々は今や40代になった。
 
アレは何だったのか?
 
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ヴォルテールが当時の東京を見たらこう書いただろうか?
 
 
東京ではみんな、気が狂ってしまったのですか?
 
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悪魔の誘惑・・・
 
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人間は・・・どうしてソレに勝てないのか・・・?
 
 
人間は歴史から学ぶことが出来るだろうか?
 
 
もちろんできる。
 
 
 
しかし、悪魔の巧妙な囁きに
 
 
やはり人間は再び屈し、
 
 
バブルはまた発生するだろう。
 
 
ところで・・・
 
 
誰もが知っているゲーテの最高傑作
 
 
『ファウスト』
 
 
それは他でもないジョン・ローの物語だ。
 
 
無から富をつくりだすマネーの物語だ
 
 
資本主義は嫌いですか 竹森俊平
ゲーテが晩年に書いた戯曲「ファウスト」は、代表作として知られている。あらすじを簡単に説明すると、老齢に達した学者ファウストは、悪魔メフィストフェレスとの間で、魂をかけた賭けをする。
 
もし、ファウストが「時よ、とどまれ、お前はじつに美しい」という言葉を口にしたなら、ファウストはその瞬間に魂を失うという賭けである。メフィストは、さまざまな崇高な瞬間をファウストに味わわせて、ファウストの口からこの言葉を引き出そうとする。ファウストはいかに甘味な体験にも、この言葉を口にするほど陶酔は許されない。
 
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第二幕の冒頭で、二人はひとつの王国を訪れる。その王国の財政は、ルイ14世治下のフランスと同様完全に破綻している。「帝国の金庫は空っぽ」で「寝床の枕も担保に入っている」という状態である。

皇帝を囲んで宰相、大蔵卿などお歴々が国の行く末を思い悩み、嘆き悲しんでいるところに、道化に化けたメフィストがひょっこり現れて、王国の財政問題を一気に解決する妙案を持ちかける。身動き取れない状態に追い込まれていた皇帝やその臣下たちは、メフィストのような悪魔の怪しげな提案にも乗らざるを得ない。しかしさすがは悪魔。彼の力で、この国の財政問題はぴたりと解決する。
 
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それは少し後の場面である。宰相が出てきて、その「良いニュース」を告げる。(以下 池内紀訳 集英社版)
 
(宰相)この歳になって、こんな喜びを味わうとは思ってもみませんでした。ごらんください。すべての災いを福に転じた幸福の文章であります。
 
『知りたいと望むすべての者に告げる。この紙片は千クローネの価値がある。皇帝領内に埋もれた無尽蔵の宝が保証する。すぐにも掘り出して兌換にあてる用意がある。』
 
(皇帝)途方もないイカサマだ!誰が皇帝の書名を偽造した?罰しないでおくものか。
 
(大蔵卿) お忘れですか?その手で署名なされました。
 
皇帝がイカサマと思うような政策。「皇帝領内に埋もれた(?)無尽蔵(?)の宝(?)」により保証することによって、「ただの紙切れ」を貨幣として流通させるという途方もない考えが、この国の財政建て直しのためにメフィストがひねり出した妙案だった。
 
しかし、これによってこの国の財政は見事に立ち直る。しかも立ち直ったのは、財政だけではなかった。「過剰流動性」の力で、沈滞に喘いでいたこの国の経済は、みるみるうちに息を吹き返したのである。このケインズ経済学的処方の効能を、ゲーテは「大蔵卿」の口を通じてこう語らせる。
 
 
(大蔵卿)さっそく署名をいただきましたので、昨夜のうちに彫り師に刻ませ、どっさりと刷り上げたのに印を捺しました。ほかに十クローネ。五十クローネ。百クローネの紙幣にいたしました。国をあげて喜びにむせんでおります。町をごらんください。ひっそり死んであったようなのが生き返り、わき返っています。

 

(略)
ゲーテが第二幕のこの場面で、「紙幣」の創造を語ったのは、単なる思い付きではなかった。それは『ファウスト』という作品そのものの製作動機と深くかかわっている。つまり
 
「紙幣」の創造に象徴される「錬金術」こそが、
 
不滅の名作のテーマなのである。

南ドイツのフライブルクに近いシュタウフェンという町に、こんにちでも獅子亭(Zum Loewen)という宿屋が残っている。その外壁には『1539年、黒魔術師ファウスト博士、獅子亭に死す』という碑文が刻まれており、ゲーテの戯曲の主人公、「ファウスト」は、この実在の黒魔術師がモデルだといわれている。「黒魔術」とはほかでもない、「錬金術」の別名である。

「火」、「土」、「水」、「空気」の四つの要素に、「哲学者の石」という「フィフス・エレメント(第五の要素)」が加われば、「鉛」のような価値の低い金属を、「金」に変える魔法の力が生み出されるという「錬金術」の思想が誕生した古代エジプトでは、「ケム」と呼ばれる黒い土が錬金術に用いられていた。そのために、「黒魔術(ブラックマジック)」、「錬金術(アルケミー)」、「化学(ケミストリー)」といった、錬金術とのかかわりのある言葉が生まれたのである。

ファウストが実在の錬金術師をモデルにしたのだとすると、メフィストのモデルは誰なのだろうか。これについては、「ファウスト」を翻訳された池内紀氏の解説文を読んでいただくのが、手っ取り早い。

紙幣づくりのくだりは、実のところ、実際にあった事件をモデルにしている。「ジョン・ロー事件」といって、大革命以前のフランスをみまった大騒動だった。ゲーテはジョン・ローをメフィストに換えて劇にとりこんだ。

ゲーテが第二部を書いた19世紀前半までには、ドイツにおいてはまだ「紙幣」が流通した歴史的経験はなかった。だから、いくら想像力に長けた文豪といえども、実在のモデルを参考にしなければ、こう生々しく「紙幣創造」の場面を描くことは、おそらくできなかっただろう。その実在のモデルとは他でもない、ミシシッピー・バブルの主役、ジョン・ローだというわけである。

ジョン・ローの事件は、ゲーテに神の啓示のような衝撃を与えた。ゲーテはこの事件に、鉛よりも価値が低い「だただの紙切れ」を、「金」にも等しい価値を持つ貨幣に変えるという、古代エジプト以来、人類が永いこと追い求めてきた「錬金術」の実現を見たのである。

なにも、物質としての「鉛」を物質としての「金」に変える必要はない。人が想像力を働かして、「ただの紙切れ」を、「金」だと思い込むことさえできれば、「錬金術」はなるのである。「錬金術」とは、「バブル」に他ならなかった。
 
(竹森俊平著の「資本主義は嫌いですか」より)
 
 
ゲーテの「ファウスト」がジョン・ローを描いたものであることは、以前竹森俊平著の「資本主義は嫌いですか」を読んで初めて知ったのだが、そう考えるとローが当時の知識人に与えたインパクというものは相当なものだったのだろう。
 
 
ゲーテのファウスト第二部が発表されたのは彼の死後1833年で・・・
 
 
ジョン・ローの死からは100年以上が経過している。
 
 
次回はミシシッピー 計画の顛末を見てみよう。。。
 
 
このブログで問題となっている、何度も問いかけているのだが、
 
「貨幣」「債券」「株式」 ・・・マネーってなんだ?
 
竹森俊平著の『資本主義は嫌いですか?』では、ジョン・ローの物語にふれ、次の様に書いている。
 
今日ではもちろん、金や銀との兌換が保証されない「ただの紙切れ」は、どこの国でも通貨として用いられている。しかるに、「紙幣」とは経済原理からしても、また法律の規定からしても、「国債」と同じように政府の「債務」である。

もちろん国債と紙幣の間には大きな違いがある。国債に対して政府は金利を支払わなければならず、満期になれば全額を(紙幣で!)返済しなければならない。それに対して、政府が国民に支払った紙幣に対して、政府がさらに金利を支払う必要はなく、しかも債務としての紙幣には「満期」が存在しない。

(中略)
フランス経済を「管理通貨」によって運営するというロウの計画の実行にあたっても、もちろん国の「債務」である紙幣は主役を演じる。「王立中央銀行(バンク・ロワイヤル)」と「ミシシッピー会社」をいったいとしたロウの帝国をさして、当時の人々は「システム」と呼んだが、実際、それはロウという一人の天才の頭脳によって支配される巨大なシステムであった。
 
そうだとすると、「ミシシッピー株」が「システム」の発行する「負債」であるのと同じように、王立銀行の発行する「紙幣」もまた「システム」の発行した「負債」ということになる。

実のところ、ロウにとっては「紙幣」と「株式」の違いは、どうでもよい問題で、両者がともに「システム」の「負債」であるという点だけが重要だった。

なぜなら、彼は、
 
「株式」もやがて「紙幣」と同じように通貨として流通する時代が来ると信じていたからである。
 
何と時代を先取りした思想を持っていたことだろう!

「紙幣」だろうと「株式」だろうと、ともかく「システム」の「負債」を大量に発行し、すべてそれによってフランスの経済取引が媒介できるようにする。その上で、経済状況に応じて「負債」の規模を自由に調整し、「金融政策」を実行する、そういうシナリオを彼は抱いていたのである。
 
 しかし、パターソンのスコットランド銀行にしろ、ローのフランス王立中央銀行にしろ、そしてハミルトンの第一合衆国銀行にしろ20年という時限つきで設立されたからには、それらが発行した紙幣についても暗黙のうちに「満期」があったのかもしれない。第一合衆国銀行ついて言えば1811年に満期を迎え、ヨーロッパの外国人株主に配当約700万ドルを支払う必要が生じた。
 
ダリエン計画による危機がスコットランドを襲った時、ローがスコットランド議会に提案したのは利子付き紙幣の導入だったが、1812年の英米戦争時に発行された財務省紙幣は、実際5.4%の利子がつけられていて、満期は一年に設定されていた。この財務省紙幣は、額面が100ドルと比較的大きいため、通常の支払手段としてはあまり用いられなかった。その後、3ドルなど比較的小額の財務省紙幣が発行されるが、それには利率7%がつけられていた(戦争の終了とともにすぐに回収)。
 
 
結局マネーとは何なのか?
 
 
ローの物語を続けよう。
 
さらに1718年末から、フランス政府は西方会社の株の魅力を高めるため、特権を与えた。西方会社は8月にはたばこ税を徴収する権限を与えられ、12月にはセネガル会社の特権も享受した。ローの地位をさらに強固にするため、バンク・ジェネラールは国王の認証を受けることになり、1718年12月、フランス初の中央銀行である王立銀行(バンク・ロワイヤル)が誕生した。

王立銀行が発行する銀行券の魅力を高めるために、エキュ紙幣(決まった量の銀と交換できる)か、より広く流通していたリーブル・トゥルノア(金および銀と兌換可能)の双方と交換できるシステムが取られた。だが7月には、エキュ紙幣は廃止され、回収された。また1719年4月22日に発令された布告によって、紙幣は銀と連動した「(価格の)減額」を受けないことが明示された。このようにして、フランス経済における貨幣から紙幣への転換が始まった。
(ニーアル・ファーガソン著 『マネーの進化史』)
 
フランス王室の税務署がローの紙幣を受け入れるということで、紙幣に対する需要が増加するとともにローの銀行から借金をする人間が増え始めた。国も借金返済のために紙幣を大量に発行した。この新しいマネーはすでに公的な支払い手段としてフランス中で認知され始めたのだ。
 
これまで停滞していていたフランス経済は瞬く間に様変わりした。手工業者への注文は増え、工場はより多くの従業員を雇い、人々は再び十分な食事をとることができるようになった。
 
この後に好景気だとか言われる現象を当時のフランス人達は世界に先駆けて経験するのだ。
 
ジョン・ローが言うように、富を築くにあたり金は必要なかったのだ。
 
 
その間にも、西方会社は発展を続けていた。1719年5月には、東インドや中国の会社を接収して、インド会社に改組したが、一般的にはミシシッピ会社として知られている。ローは7月には、王立造幣局から上がる利益を9年間にわたって獲得する権利を得た。8月になると、間接税を徴収するタックス・ファームという業者のリース権を前年に獲得していたライバル会社から、その権利を奪い取った。9月、ミシシッピ会社は王室の全債務の支払いにあてるため、王室に12億リーブルを貸し付けることに同意した。一ヵ月後、ローは直接税の徴収を一気に引き受けることになった。

(略) 
だが、ローはどこまでこの方針を推し進めるべきかについて、はっきりとした考えを持っていなかった。それどころか、巨大に成長した企業の大株主として、彼はさらに事業を拡大する方向に熱心だった。もし彼の銀行が資産バブルを引き起こせば、だれよりも彼自身が利益を得ることができる。この状況を現在のアメリカにたとえれば、トップ企業500社と、アメリカ財務省、連邦準備制度理事会(FRB)の運営が一人の男に集中しているようなものだった。

(略)
さらに言えば、そもそもローが考案したシステムは、バブルが起きないしても破綻する運命にあった。他企業の買収やタックス・ファームの取り込みは、企業の利益から拠出するのではなく、新しい株式を発行することによってまかなわれた。
(ニーアル・ファーガソン著 『マネーの進化史』)
 
 
・・・つまり 詐欺の代名詞 無限連鎖講・・・だ。
 
 
1719年6月17日、ミシシッピ会社は5万株を一株につき550リーブルで発行した(だがこの株式の額面は、西方会社の以前の株と同額の500リーブルだった)。さらに発行の成功を保証するため、ローは個人的にこの株の引き受け手として署名した。いかにも彼らしいギャンブルだったが、さすがのローも眠れない夜を過ごしたらしい。

さらに、彼だけが得をしている、と非難されないように、彼は西方会社の株主たちに新株の独占入手権を与えた(「母」と呼ばれた初期の株式に対して、新株は「娘」と呼ばれた)。1719年7月、ローはさらに五万株の三度目の発行をおこなっている。(これは「孫」と呼ばれた)。

この新株は、彼が王立造幣局に支払わなければならない5000万リーブルを調達する必要があったため、一株あたり1000リーブルに設定された。理論上では、株主の数が増加すれば、一株あたりのかかくは下落するのが常だ。それならばなぜ、ローは額面を二倍まで引き上げることを正当化できたのだろうか。
(ニーアル・ファーガソン著 『マネーの進化史』)
   
母とか娘とか孫とか・・・ネズミ講そのものだ。
   
この株式の額面の引き上げ、つまり「置き換え」は、明らかにルイジアナから将来的に見込まれる利益を当てにしたものだった。だからこそローは、この植民地を、バラ色の展望にあふれた土地に見せかけようとして最大限の努力をした。彼が美化したルイジアナは、フランスに輸出するさまざまな産物を詰め込んだ豊穣の角原住民が差し出す「エデンの園」のような夢の土地だった。そのような理想図に沿った貿易を実現するため、ミシシッピ川の河口に壮麗な新しい都市が作られた。

(略)
この未来図はまったく絵に描いた餅ではなかったにしても、ローのバラ色のビジョンが実現するのはまだ先の話だった。ラインラント、スイス、アルザスで数千人もの貧しいドイツ人が入植者として集められたが、ルイジアナに到着した不運な移住者たちを待っていたのは、うだるように暑く、虫だらけの沼地だった。一年もしないうちに、彼らの八割が、飢えや黄熱病などの熱帯性の疾患で亡くなった。

 
イメージ 1


短期的に見て、ローが支払っている40パーセントの配当を維持するためには、新たな「置き換え」が必要だったが、これは紙幣で支払われた。1719年の夏以来、「娘」や「母」を取得しようとする投資家たちは、王立銀行から好条件の支援を受け、自らの株を担保に銀行からカネを借りて、新たな株の購入に充てた。

予想されたとおり、株価は高騰した。最初の「母」は、8月1日には一株あたり2750リーブルであったが、8月30日には4100リーブル、9月4日には5000リーブルとウナギ昇りだった。これに勇気を得たローは、新しい市場価格で新たに10万株を発行した。さらに9月28日と10月2日にもそれぞれ10万株、10月4日には24000株が発行された。(だがこれは一般には公開されなかった)。
 
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1719年の秋、株価は9000リーブルに達し、12月2日には10025リーブルという新高値を記録した。1720年3月、非公式の先物市場では、その株は12500リーブルでたちまち取引された。いまや市場のムードは急速に、多幸症から投機熱に変わっていった。
(ニーアル・ファーガソン著 『マネーの進化史』)
 
まぁ、ここまで来てしまえば・・・
 
日本人にとっては痛いほどお馴染のストーリーなのだが・・・。
 
 

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