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ゲーテの不朽の名作「ファウスト」が、18世紀初めのフランスで起きたジョン・ローのミシシッピー計画からインスピレーションをうけたのは間違いないだろう。「紙幣」の創造に象徴される「錬金術」こそが、ファウストのテーマであったのだ。
しかし・・・、
ゲーテ は どうして
ジョン・ローの紙幣をつかったマネー創造に
興味を持ったのであろうか?
大文豪として知られるゲーテの経歴と言うのは、実は少し風変わりなところがある。
文豪として知られる以前のゲーテの経歴について見てみよう。
国家公務員としてのゲーテの経歴ウィキを参考にゲーテの経歴を要約した。
ゲーテは1749年8月28日、フランクフルトの裕福な家庭に生まれる。教育に熱心だった父親は、彼が幼児期から読み書きや算数を教え、更に家庭教師を雇って、語学、図画、乗馬、ダンス、カリグラフィー、ピアノ、ダンスなどを習得させた 1775年11月、ゲーテはカール・アウグスト公からの招請を受け、その後永住することになるヴァイマルに移った。当時のヴァイマル公国は面積1900平方キロメートル、人口6000人程度の小国であり、農民と職人に支えられた貧しい国であった。 1776年の夏には貴族達の反対を押し切り、ゲーテは枢密公使参事官(Geheimer Legationsrat)として、公爵の外交顧問として三人評議会(dreiköpfige Beratergremium)のメンバーの一人となった。まぁ、言ってみればワイマールの諜報活動を担ったことになる。
更に翌年、彼は新しく設立された鉱山委員会の長となり、1779年に戦争委員会と道路建設委員会となった。
問題は陰謀論愛好家が喜びそうなテーマなのだが・・・
ゲーテの就いた役職である枢密公使参事官は、外交問題を取り扱う部門であり、現代風に言えば諜報機関のようなものだ。すでに文豪としての地位を確立しつつあったゲーテは、知識人達の集まりに潜入するにはまたとない人物であったに違いない。ゲーテ自身も“諜報”としての役割もさることながら、当時の知識人達の秘密結社には強い関心を抱いていたようだ。
1780年1月7日にゲーテとカール・アウグストは二回目のスイス外遊から戻り、その時にはフリーメイソンの一員になることを決めていた。そして、1780年6月23日にドイツにおいて最も古いロッジの一つであるワイマールの“アマリア・ロッジ”で、イルミナティにも通じているヨハン・クリストフ・ボーデの指導下、めでたく入会を果たす。
ワイマールから200キロ離れた町インゴールシュタットのヴァイスハウプトが1776年に結成したイルミナティに入会したのは、この時にボーデの勧誘によるものだろう。そこでの彼は、アバリスというスキタイ人占い師(マギ)に由来する秘密の名を使用していた。
ゲーテがフリーメイソンやイルミナティに加入した動機はいろいろと詮索されるが様々だが、当時の知識人達があいついで秘密結社に入会した時代の流れだったのか、あるいは諜報活動としてなのかはまだ議論されている。
参考 ↓
さらに1782年には財務大臣となる。ゲーテも財務大臣としてジョン・ローと同じような視点から一国の経済を見る機会があったということだ。財務大臣としての彼の使命は、歳出を削減し、債務を抱えた国家財政を立て直すことにあった。ロー似たような問題に取り組んでいたというわけだ。
ただし、ゲーテは通貨発行の魔力に捕らわれることなく、彼が行った政策は兵士などの軍事費を半分にしたり、いくつかの経済支援政策を打ち切りにするなど仕訳をおこなったのだ。もちろん反発も多かったのだが、一連の施策が実際に財政立て直しに寄与した面は大きかった。
彼の財政運営は部分的に成功したかもしれないが、イルメナウにある銅山や銀山の再構築は失敗に終わり、数年化後には再び閉鎖に追い込まれた。
ワイマール時代のゲーテの政治的功績は、ウィキペディアによればイェーナ大学の人事を担当してシラー、フィヒテ、シェリングらの知識人を多数招聘するとともに、ヴァイマル劇場の総監督としてシェイクスピアやカルデロンらの戯曲を上演し、文教政策にも力を注いだことだ。 複式簿記の導入や当時まだ小国家とはいえワイマールの国家財政を束ねる立場にいた彼は、当然60年ぐらい前にフランスでおきたミシシッピ計画の顛末についても知識を持っていたに違いない。あるいは彼自身何度か兌換されない紙幣の魅力にとりつかれそうになったのかもしれない。
さて、彼の晩年の大作「ファウスト第二部」の最後はどのようなものだったのだろうか。
ファウストのエンディングとバブルの終焉第二部4幕の展開はウィキペディアから要約する。
ファウスト博士と悪魔メフィストは、共に「世界の生成について」の議論するが、その中でファウストの理想の国家像が言及され、やがてファウストは名声を挙げて支配権、所有権を得たい、偉大な事業を成し遂げたいと述べる。 ここで竹森俊平著の「資本主義は嫌いですか」から引用してみよう。
やがて、ファウストは王国の財政を立て直し、さらに戦争において抜群の功績を挙げた報償として、「広大な沼地」を領地として授かる。それを干し上げて、豊かな土地に転換する大事業に、彼は心身を捧げる。 ファウストは死の直前にメフィストの盲目にさせられた。彼はメフィストが手下を使ってファウストの墓穴を掘らせる音を労働者達が土地の開拓をしている音だと勘違いをする。
自分自身の墓穴が掘られている音が、至福の音に聞こえるという皮肉。。。
おそらく・・・マネーの虜になったバブル絶頂の人間も、盲目と同じような状態なのだろう。
ゲーテはマネーの本質を見抜いていたのだろうか?
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政府紙幣の歴史(ヨーロッパ)
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秋はサラリーマン業が忙しく、すっかりと更新が滞ってしったorz。
何はともあれ、今日はジョン・ローの続きだ。
前回↓
ジョン・ローのミシシッピ・スキームによってパリの経済は未曽有の好況となった。モノをつくれば売れ、1929年にエンパイア・ステートビルを建てたジョン・J・ラスコブの言葉をかりれば『誰もが金持ちであって当然なのだ』・・・という時代だったのだ。パリ市民にとって、歴史上もっとも幸福な年であったかもしれない。。。
しかし、風向きが変わるのにそう時間はかからなかった。
フランスの紙幣流通量は半年で2倍になる一方で、それまで上昇の一途を辿っていたミシシッピ会社の株価に若干の変調が見られるようになった。2008年にちょうどサブプライム問題が顕在化しはじめ、ベア・スターンズが破綻に追い込まれた時期の市場の空気・・・と言うような感じだろうか?
それでも、ここで1929年のアーヴィング・フィッシャー教授だったら強気にもこう言うだろう。
「株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した」・・・と。
ローもパリ市民の動揺を抑えるためにあれこれ策を講じた。
しかし、ミシシッピ株価を安定させるのが目的とはいえ、500リーブルを超える貨幣を所持することを違法としたのは明らかにやりすぎだっただろう。
考えてもみればすごいことだ・・・。
しかし、あまり経済に馴染みのない人は、どうしてローがそんな措置をとったのかを理解するのは難しいかもしれない。ローが貨幣を所持することを法律的に禁止したのは、現代の経済学的観点からすればそれなりに根拠のあったことだった。
彼の強硬な措置の裏側にあるロジックは・・・
流動性の罠だ。
これは・・・
債券価格の上昇(利子率の下落)が極端であると、人々は債券の値下がりを予想して、貨幣で資産を保有するようになり、貨幣供給が増しても、貨幣保有が増すだけで、資金は債券購入に回らず、市場利子率はそれ以上低下しようとはしなくなる。貨幣を保有するコストはゼロに等しくなる。
本来、ミシシッピ株の値上がりを予想する人は、現金を手放して株を購入しようとする。反対に値下がりを予想する人は、ミシシッピ株を売却して現金を保有しようとするだろう。ミシシッピ株のように20倍近く上昇してしまうと、株価にも天井が見え始めると弱気の人が徐々に増え始める。
経済学者アーヴィング・フィッシャーは、前述の『株価は、恒久的に高い高原のようなものに到達した』という名言を吐いて、投資家を安心させようとするが、結局一度弱気になった人々をなだめることはできなかったのだ。
いよいよミシシッピ株の値下がりを予想しはじめる人々が増え始めると、貨幣で資産を保有しようとして、ローがどれだけ紙幣を刷ったとしても、人々はそれを保有するだけで、株の購入には繋がらない。
値下がりが確実な株を誰が買うだろうか・・・。
そして、ローは貨幣で資産を保有することを禁じて、紙幣がミシシッピ株の購入に回るようにしたかったのだ。
さらにローは銀行券と金や銀の交換率を何度も変動させる。
ここからはニーアル・ファーガソン著の『マネーの進化史』より引用
S201 所謂、バンクラン(bank run)が起きたのだ。電子化が進む現代社会ではもうほとんど見られることがないが・・・
その後ローは5月29日に解雇され、自宅軟禁の状態におかれる。
しかし、このあたりがリスク管理の怖さだ。
このフランス経済の危機的状態をつくったのはローだが、
・・・解決できる者も結局ローしかいなかった。
しかし、ローを再度起用するも9月頃にミシシッピー株は2000リーブルとなり、12月にはさらに1000リーブルとなった。。。
バブルははじけた。
その後、オーストリア継承戦争(1740年〜1748年)、フレンチ・インディアン戦争(1755年〜1763年)、七年戦争(1756〜1763年)、アメリカ独立戦争(1775〜1783年)などの相次ぐ戦争によって、フランスの財政状況はますます泥沼化していく。
冨田俊基著の『国債の歴史』によれば、1715年から70年の間に、フランス王室は、5回もデフォルトを実施したという。http://mltr.ganriki.net/faq11fr.html
国家を相手に金を貸す。。。
昨今のギリシャを見るまでもないが、それほど安全な投資でもない。。。
そして、
ローのミシシッピ事件から約70年後の1789年、フランス革命が起きた。。。
フランス革命前夜に、パリ市民はもう今一度紙幣がもつ魔力の虜になるが、それはまた別の機会に取り上げるとしよう。。。
ところで、ジョン・ローの物語を取り上げた「ファウスト」はどのようなエンディングを迎えたのであろうか?
続く → にほんブログ村歴史ブログへ(文字をクリック)
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前回↓
新世界のフランス領ルイジアナにはラテンアメリカのセロ・リコ銀山(ポドシ銀山)ように金や銀がザックザク・・・というようなありもしない宝の山を信じているうちは、人々はミシシッピ会社の株を買っていた。ローも実際には見たこともないルイジアナの沼地を将来の展望にあふれた土地に見せかけようとした。
しかし、送り込んだ入植者達の生活は過酷を極めた。フランスの入植者達は1718年からニューオリンズを拠点(当時はモービルが首都)として北へ展開しはじめるが、アメリカの東岸から西部へ開拓したいイギリスとの衝突は避けられなかった。フランス王は敵対的勢力との紛争の際には軍隊を派遣し、1717年ミシシッピの植民地には人口550名の中に300名の兵士がいた。(ウィキペディア参照)
フランスは現地のインディアンの部族と同盟を結び有利な展開を模索しながら、イギリスやスペインの勢力を退けていた。しかし、入植活動とは過酷なもので、黒人も奴隷貿易により次々に入植させられるが、メキシコ湾からのハリケーンの他、飢えや黄熱病などの熱帯性の疾患で彼らの八割が亡くなったという。考えてもみればフランス人にとってハリケーンは未知の自然脅威だったに違いない。
18世紀中に約7千人近くがルイジアナに入植したと考えられているが、これは大西洋岸のイギリス植民地人の数の100分の1に過ぎなかった。
植民地人はフランスの港やパリで志願者を集めた、多くは若い男性であったが、植民地の人口を増やすために若いフランス女性も植民地に送られた。売春婦、路上生活者、法を犯した者、あるいは家族のいない女性が「国王の親書」を持ってルイジアナに行くことを強制された。
フランスのルイジアナ植民地計画はかろうじてパターソンのダリエン計画の二の舞は避けられたようなところだが、ローの喧伝した世界とはあまりにもかけ離れていた。
パリではそんなことはまだ知らない。ルイジアナの財宝を前提として、王立銀行は信用を供与し、約8人の男達が24時間紙幣を刷り続けた。以前、生地、香辛料、茶などの取引を行っていたまっとうな商人達は、今では一つのことにしか関心がなくなった。
ミシシッピ社の株だ。
初期には550リーブルで発行されたミシシッピ株は、半年ほどで10000リーブルを超えた。
半年そこらで今までの資産が20倍近くなるのだ・・・。
経済学者ジョン・K・ガルブレイスは、著書『不確実性の時代』で次に様に言っている
何の価値もない紙きれがぐるぐるまわっていたのです。その結果、関係した人間の全部が金持ちになりましたが、それは紙の上だけのことでした。この年のおかげで、われわれは「百万長者=ミリオネア」という便利なフランス語が使えるようになったわけです。 パリジャンの人々が、この時ほど幸福だった時は後にも先にもないかもしれない
・・・多くの裕福なパリジャンがローの誘惑に屈した。自ら築き上げた財産に有頂天になっていたローは、多くの未払いの年金の清算や前払いまで引き受けたが、これは特権階級の信用を得る上でかなり有効な方法だった。1719年9月までに、何百人もの人々が、サン・マルタン通りとサンドニ通りの間の狭い道、VOCの株式を発行する事務所があるカンカンポア通りに群れをなして集まった。あるイギリス大使館員は、その様子を次のように描写している。 砂上の楼閣を守るためにローは必死になったわけだが、崩壊はもう目の前まで来ていた。
バブルが破裂するきっかけはささいなことだ。。。
要するに
人々が幻想を捨てて正しい認識をするようになればいい・・・
例えば・・・、
ルイジアナに金はない・・・・ とか。
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ジョンローの続きだ 前回↓
パリではみんな、気が狂ってしまったのですか?
あれほどスコットランド人のアイデアを称賛したフランス哲学者ヴォルテールはそう書簡に書いている。
バブル経済・・・
80年代後半のバブル経済を若くして体験した人々は今や40代になった。
アレは何だったのか?
ヴォルテールが当時の東京を見たらこう書いただろうか?
東京ではみんな、気が狂ってしまったのですか?
悪魔の誘惑・・・
人間は・・・どうしてソレに勝てないのか・・・?
人間は歴史から学ぶことが出来るだろうか?
もちろんできる。
しかし、悪魔の巧妙な囁きに
やはり人間は再び屈し、
バブルはまた発生するだろう。
ところで・・・
誰もが知っているゲーテの最高傑作
『ファウスト』
それは他でもないジョン・ローの物語だ。
無から富をつくりだすマネーの物語だ。
資本主義は嫌いですか 竹森俊平
(竹森俊平著の「資本主義は嫌いですか」より) ゲーテの「ファウスト」がジョン・ローを描いたものであることは、以前竹森俊平著の「資本主義は嫌いですか」を読んで初めて知ったのだが、そう考えるとローが当時の知識人に与えたインパクというものは相当なものだったのだろう。
ゲーテのファウスト第二部が発表されたのは彼の死後1833年で・・・
ジョン・ローの死からは100年以上が経過している。
次回はミシシッピー 計画の顛末を見てみよう。。。
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このブログで問題となっている、何度も問いかけているのだが、
「貨幣」、「債券」、「株式」 ・・・マネーってなんだ?
竹森俊平著の『資本主義は嫌いですか?』では、ジョン・ローの物語にふれ、次の様に書いている。
今日ではもちろん、金や銀との兌換が保証されない「ただの紙切れ」は、どこの国でも通貨として用いられている。しかるに、「紙幣」とは経済原理からしても、また法律の規定からしても、「国債」と同じように政府の「債務」である。 しかし、パターソンのスコットランド銀行にしろ、ローのフランス王立中央銀行にしろ、そしてハミルトンの第一合衆国銀行にしろ20年という時限つきで設立されたからには、それらが発行した紙幣についても暗黙のうちに「満期」があったのかもしれない。第一合衆国銀行ついて言えば1811年に満期を迎え、ヨーロッパの外国人株主に配当約700万ドルを支払う必要が生じた。
ダリエン計画による危機がスコットランドを襲った時、ローがスコットランド議会に提案したのは利子付き紙幣の導入だったが、1812年の英米戦争時に発行された財務省紙幣は、実際5.4%の利子がつけられていて、満期は一年に設定されていた。この財務省紙幣は、額面が100ドルと比較的大きいため、通常の支払手段としてはあまり用いられなかった。その後、3ドルなど比較的小額の財務省紙幣が発行されるが、それには利率7%がつけられていた(戦争の終了とともにすぐに回収)。
結局マネーとは何なのか?
ローの物語を続けよう。
さらに1718年末から、フランス政府は西方会社の株の魅力を高めるため、特権を与えた。西方会社は8月にはたばこ税を徴収する権限を与えられ、12月にはセネガル会社の特権も享受した。ローの地位をさらに強固にするため、バンク・ジェネラールは国王の認証を受けることになり、1718年12月、フランス初の中央銀行である王立銀行(バンク・ロワイヤル)が誕生した。 フランス王室の税務署がローの紙幣を受け入れるということで、紙幣に対する需要が増加するとともにローの銀行から借金をする人間が増え始めた。国も借金返済のために紙幣を大量に発行した。この新しいマネーはすでに公的な支払い手段としてフランス中で認知され始めたのだ。
これまで停滞していていたフランス経済は瞬く間に様変わりした。手工業者への注文は増え、工場はより多くの従業員を雇い、人々は再び十分な食事をとることができるようになった。
この後に好景気だとか言われる現象を当時のフランス人達は世界に先駆けて経験するのだ。
ジョン・ローが言うように、富を築くにあたり金は必要なかったのだ。
その間にも、西方会社は発展を続けていた。1719年5月には、東インドや中国の会社を接収して、インド会社に改組したが、一般的にはミシシッピ会社として知られている。ローは7月には、王立造幣局から上がる利益を9年間にわたって獲得する権利を得た。8月になると、間接税を徴収するタックス・ファームという業者のリース権を前年に獲得していたライバル会社から、その権利を奪い取った。9月、ミシシッピ会社は王室の全債務の支払いにあてるため、王室に12億リーブルを貸し付けることに同意した。一ヵ月後、ローは直接税の徴収を一気に引き受けることになった。 ・・・つまり 詐欺の代名詞 無限連鎖講・・・だ。
1719年6月17日、ミシシッピ会社は5万株を一株につき550リーブルで発行した(だがこの株式の額面は、西方会社の以前の株と同額の500リーブルだった)。さらに発行の成功を保証するため、ローは個人的にこの株の引き受け手として署名した。いかにも彼らしいギャンブルだったが、さすがのローも眠れない夜を過ごしたらしい。 母とか娘とか孫とか・・・ネズミ講そのものだ。
この株式の額面の引き上げ、つまり「置き換え」は、明らかにルイジアナから将来的に見込まれる利益を当てにしたものだった。だからこそローは、この植民地を、バラ色の展望にあふれた土地に見せかけようとして最大限の努力をした。彼が美化したルイジアナは、フランスに輸出するさまざまな産物を詰め込んだ豊穣の角原住民が差し出す「エデンの園」のような夢の土地だった。そのような理想図に沿った貿易を実現するため、ミシシッピ川の河口に壮麗な新しい都市が作られた。 まぁ、ここまで来てしまえば・・・
日本人にとっては痛いほどお馴染のストーリーなのだが・・・。
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