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タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

アジアの歴史

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ヘロドトス以前の古代オリエント史(紀元前10世紀頃〜紀元前5世紀頃)については、碑文の解読による考古学的成果に頼るほか、実際は旧約聖書に記述に依存しているケースが大きい。
 
これまでカマール・サリービー著の『聖書アラビア起源説』を見てきたが、確かにアラビア半島にもユダヤ教が信仰された跡が多く残されている。考古学的に証明できるのは、西暦4世紀のものと思われるユダヤ人の碑文とアラビア半島の各地で発見されたシナゴーグが最古のものとなっている。
 
更に、4世紀半アラビア半島西部に栄えたヒムヤル王国最後の王は、確実にユダヤ教徒であったことが分かっており、一説では彼の前任者もユダヤ教であったとされている。
 
第二次世界大戦後に行われたイエメン・ユダヤ人をイスラエルに移住させると言う「マジックカーペット作戦」を見ても分かるように、古代より(一説ではソロモン時代より)この地域にはユダヤ人が暮らしていたとされている。少なくとも一神教の伝統がアラビア半島南西部に古くから存在していたのは間違いない。一方、同じような文化をもつ紅海を挟んだ対岸のアスクム王国(エチオピア)は、キリスト教に改宗した後、ヒムヤル王国を滅ぼすことになる。
 
一方、紀元前4世紀頃からエチオピアに存在していたとされるアスクム王国もキリスト教に改宗する以前はユダヤ教であったと言われている。アクスム王国の前身であるダモト王国は、紀元前8世紀頃アラビア半島南西部(イエメン)に興ったサバ王国と密接な関係があった。
 
イエメン・ユダヤ人と同様に、エチオピアにも『ベタ・イスラエル』と呼ばれるエチオピア・ユダヤ人が大勢いた。この事実を世界的に有名にしたのは、イスラエル政府が1984年に行ったモーゼ作戦と1991年に行ったソロモン作戦だ。これは、内戦や飢餓で苦しむベタ・イスラエルを救出することが名目だが、迫害に苦しむイエメン・ユダヤ人をイスラエルに移住させるために行った「マジック・カーペット作戦」の復活と言ってもいいだろう。
 
 
この紅海を挟んだ地域間の歴史は必見だ。
 
紀元前10世紀から5世紀頃までのアラビア半島南西部とアフリカ東岸地域では、海上交易だけでなく、僕達が考える以上に人的交流なども盛んだったに違いない。ギリシア神話世界がアナトリア半島西部も包括しているように、ひょっとしたら、イスラエル人やミツラムの隣人とされたクシびとの文化圏もアフリカに限定するものではなく、紅海をはさみアラビア半島南西部をも包括した概念であったかもしれない・・・。
 
 

2つのエチオピア

興味深いことにヘロドトス(紀元前5世紀頃)は彼の著書『歴史』で、ペルシア王クセルクスのギリシア遠征に参加したエチオピア人について次のように書いている。
 
「エジプト上方のエチオピア人とアラビア人を指揮したのはアルサメスであったがー遠征に参加したエチオピア人には二種あって、当方のエチオピア人はインド人部隊に配置されており、言語と頭髪の二点以外は他方のエチオピア人と外貌は何等異なるところがなかった。東エチオピア人の方は頭髪が真直ぐであるが、リビアのエチオピア人は世界の民族中もっとも縮れた髪をもっているからである。さてこのアジアのエチオピア人の装備は、大体はインド部隊と同様であったが、頭には馬の首の皮を耳とたてがみのついたまま添いだのを被っていた。・・・」
 
「歴史」の注釈には次の様に書いてある。
「エチオピア人を東と西に分類することはすでにホメロスに見える。本土エチオピア人というのはゲドロシア(ベルチスタン)附近に居住していたものらしい。」
 
ベルチスタン(つまり”バルチスタン”)は、今のパキスタンで、インダス文明の栄えた場所だ。インド人との混成部隊にいたのでそう考えられたのかもしれないが、多分インド方面と交易のあったアラビア半島南部のイエメンあたりをさしていた可能性もある。
 
ただし、エチオピア、イエメン、インドへの古代インド洋交易圏を考えると、エチオピアとインドを結び付ける考えも軽視できない。南アラビア文字から派生したアフリカ東岸に渡りゲエズ文字(エチオピア文字)は、言語学上子音の符号だけを書く「アブギダ」であり、このアブギダは、インド語派で用いられるブラーフミー系文字のさまざまな文字体系をはじめとして用いられるものである。そしてそれは同時期に発展している。
 
フェニキア文字の場合でもそうなのだが、文字の拡散に貢献したのは商人だろう。
 
 
また、ホメーロスは次のように述べている。
このアイティオペス(エチオピア人)というのは、人間界のいちばんはてに住まっていた。二手(ふたて)にわかれ、一手は太陽の沈む西のはてに、もう一手は日の昇る東のはてにである
 
 
ふむ。
 
 
ホメーロスもヘロドトスも
 
なぜ 2つのエチオピア人が存在したと言うのだろうか?
 
 
そもそも、エチオピアという呼称は、ギリシア語で『日に焼けた顔』という意味のアエオティプスに由来するとされ、サハラ砂漠以南すべてのアフリカ大陸を包括するものだとも言われている。
 
しかしながら、ローマの博物学者にして政治家の大プリニウス(西暦23年〜79年)は、ギリシア神話に登場する鍛冶神(火山)ヘーパイストスの息子アィティオピスがその由来であるとした。15世紀頃に書かれたとされる『アスクムの書』には、ハムの息子クシの子であるアイティオピス(Ityopp'is)に由来し、彼がアスクム王国の建国者であるとしている。
 
 
ヘーパイストスの逸話は、トロイア戦争に関する叙事詩サイクル(一群)とも関連がある。物語の時系列では『イーリアス』の直後の話だが、書かれたのは紀元前6世紀頃だとも言われている。ウィキペディアによれば、作者はミレトスのアルクティノスで、全部で5巻から成るが、わずかに断片が残っているだけである。
 
それは、「ヘーパイストスの作った鎧をつけたメムノーンが、エチオピア軍を率いてトロイアの加勢にやって来る。」という内容である。実際この「エチオピア」がどこなのかについては様々な説がある。現在のエチオピアとする説と、メムノーンがスサ出身のペルシア将軍であったという説もあり、シリア説やバクトリア説などもある。またウィキペディアには現在のイスラエル、ヨルダン、エジプトの一部を含み、ヤッファを都としたフェニキアの王国とする説がある・・・と書いてある。
 
 
ホメーロスや叙事詩サイクルの時代にエチオピアの名は確固たる存在としてあったのだろう。有名なギリシア神話とエチオピアの関係も興味深い。
 
 

エチオピアの王妃カッシオペイアと王女アンドロメダ

映画『タイタンの戦い』や『タイタンの逆襲』にも登場するアンドロメダは、考えてみれば「日に焼けた顔」をもつエチオピア人だ。彼女の父ケーペウスは、エジプト王ベーロスの子。アンドロメダの母カッシオペイアは、有名なカシオペア座の影響で女神だと思いこんでいたが、エチオピアの王妃であり・・・それ以上の人物ではない。
 
         タイタンの逆襲のアンドロメダ  タイタンの戦いのアンドロメダ
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カッシオペイアとアンドロメダの物語は、そもそも「カッシオペイアが自分の美しさを鼻にかけた」、あるいは「娘の美しさを鼻にかけた」のが原因で、いろいろと展開するのだが・・・
 
 
とにかく・・・美しかったのだろう。。。
 
 
思わずソロモン雅歌の
 
 
「私は黒いけれども美しい」
 
 
・・・を思い出してしまう。
 
 
シバの女王にせよ、アンドロメダにせよ・・・、そして現実の世界にせよ
 
 
エチオピアの女性はとにかく美人が多い。
 
 
あるいは、
 
エチオピアは本当にアフリカのエチオピア(クシュあたり)を指していたのだろうか?
 
 
さて、エチオピアとイエメンの関連ということで
今までのところを以前の記事も含めて整理すると・・・
 
 
ヘロドトスは東と西に住むエチオピア人がいると考えていた
 
 
ホメーロスもエチオピア人が世界に二手(東西)に分かれて住んでいたと考えていた
 
 
シバ女王の国にはエチオピア説とイエメン説がある
 
 
乳香や没薬といった宗教的儀式に欠かせないものがエチオピアとイエメン紅海沿岸にある
 
 
エチオピア語と南アラビア語は同じ南方セム語でとても近い関係がある
 
 
Y染色体ハプログループJ1の特徴がエチオピアでも南アラビアでも見られる
 
 
人類の移動もシナイ半島ではなくエチオピアからイエメンへ渡った有力な説がある
 
 
紀元前からユダヤ人がエチオピアにもイエメンにもいた。
 
 
ついでに、コーヒーの起源もエチオピア説とイエメン説がある
エチオピアもイエメンも美人が多い(笑
 
 
さて、次回からはちょっとマニアックな話題だがアフリカ東岸やアラビア半島南西部の古代史について調べてみよう。
 
 
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前回の記事で聖書アラビア起源説から以下の箇所を引用した。
ギリシャ語の70人訳聖書では、このヘブライ語のkwsがギリシャ文字に翻訳されている場合がときとしてあり、その他の場合では、より自由に解釈されてAithiopiaとかAithiopesなどと表記されている。現代の聖書学者たちがそれをエチオピアであるとするのは、これに力を得たからである。
 
実際、聖書には「クシ」と書いてある箇所もあれば、「クシ」を「エチオピア」として書いてある箇所がある。したがって、クシの位置を確認するには聖書の「エチオピア」についての言及にも注意を払わなければならない。
 
 
ペルシア王クセルクス(アハシュエロス)が統治した領土の範囲
エステル記第1章1節
アハシュエロスすなわちインドからエチオピヤまで百二十七州を治めたアハシュエロスの世、
これはおそらく我々の知るエチオピアでいいだろう。 エステル記は聖書の中でも最も成立が新しく紀元前167年のマカバイ戦争あたりだ。
 
トパーズの産地
ヨブ記 第28章19節
エチオピヤのトパズもこれに並ぶことができない。純金をもってしても、その価を量ることはできない。
 
古代ローマの博物学者プリニウス(AC22年〜AC79年)によれば、トパーズの名の紅海の島であるトパーゾス(おそらくセント・ヨハネス島)に由来するという。しかしながら、この島でトパーズが採石されたことはなく、おそらく長い間(17〜18世紀頃まで)トパーズとよく勘違いされていたカンラン石(ペリドット)であろうと思われる。ちなみに「ペリドット」という名前はアラビア語で宝石を意味する「faridat」に由来するそうだ。
 
以下 ホームページより抜粋
エジプト南部、スーダン国境に近い紅海に浮かぶ小島、ザバルガート島では紀元前1500年の昔から美しいペリドットを産することで知られていました。 スミソニアン博物館蔵の世界最大のルースを始めとして、世界の博物館や王室の宝飾品を飾る巨大なペリドットの大半はこの島から採れたものです。

ナイル川中流に首府テーベを構えていた古代エジプト中王国から新王国時代に島での宝石採取が始まったといわれます。
以後ギリシア系のプトレマイオス朝の時代にはこの島は"Topazos"島と呼ばれ、採集された緑の宝石は18世紀までトパシオンと呼ばれていました。十字軍の時代この島に立ち寄った巡礼者によりSt.John's島と呼ばれ、採取された緑の宝石は、ケルンの大聖堂やヴァチカンの聖遺物として、欧州各地に残されています。
 
ふむ。。。
 
ちなみにトパーゾス(セント・ヨハネス島)位置は以下の通りだ。結構小さいね。。。
 
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詩篇68篇31節
青銅をエジプトから持ちきたらせ、エチオピヤには急いでその手を神に伸べさせてください
 
詩篇87篇4節
わたしはラハブバビロンをわたしを知る者のうちに挙げる。ペリシテツロ、またエチオピヤを見よ。「この者はかしこに生れた」と言われる。
 
・・・いや一応・・・87篇全体も読んでみたのだが、力不足で詩篇の内容がそもそもよく分からない。ネットのあちらこちらに解釈があるのだが、それを鵜呑みにするのもどうかと・・・。詩篇87篇4節のラハブは、エリコ攻略時に斥候を助けた遊女なのだが、それをエジプトに置き換えて解釈すると言うようなものもあり、やはりご都合主義のようにしか思えない。それをもってすべて異国について述べていると言うのだ。聖書の解釈ってみんな無茶苦茶なことしてないかな・・・と思ってしまう。それに青銅とエジプトの組合せもあまりしっくりくるものではない。
 
深入りする前に先へ進もう・・・。イザヤ書には「クシ」という翻訳で登場せず、一貫して「エチオピヤ」と翻訳されている。
 
イザヤ書11章11節
その日、主は再び手を伸べて、その民の残れる者をアッスリヤ、エジプト、パテロス、エチオピヤ、エラム、シナル、ハマテおよび海沿いの国々からあがなわれる。
「パテロス」はミツライム(エジプト)の子であり、シナルはというのはクシ(エチオピア)の子であるニムロデが支配した土地の一つに数えられ、バベルの塔との関連でも登場する。ハマテはカナンの末っ子で今日のハマーという都市がそれにあたるとされている。エラムはセムの子で通常はエラム王国と同一視されている。アッスリヤに関してはおそらく説明の必要はないだろう。
 
ちょっと系図を見てみよう・・・。
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イザヤ書18章1節〜2節
ああ、エチオピヤの川々のかなたなるぶんぶんと羽音のする国、この国は葦の船を水にうかべ、ナイル川によって使者をつかわす。とく走る使者よ、行け。川々の分れる国の、たけ高く、膚のなめらかな民、遠近に恐れられる民、力強く、戦いに勝つ民へ行け。
 
「ナイル川」とあるが、おそらく原文には「川」としか書いていないだろう。そもそもクシを流れる川はエデンの園から流れるギホンの川とそのまま考えるべきであろう。羽音のする国とは何であろうか?これは以前の記事でヘロドトスの『有翼の蛇』について検証したが、おそらく時々紅海沿岸に大量発生するバッタのことであろう。乳香などが生息する地域が考えられ、イエメン地方だけでなく、現在のエチオピアも対象となり得る。
 
 
イザヤ書20章3節〜5節
主は言われた、「わがしもべイザヤは三年の間、裸、はだしで歩き、エジプトとエチオピヤに対するしるしとなり、前ぶれとなったが、このようにエジプトびとのとりことエチオピヤびとの捕われ人とは、アッスリヤの王に引き行かれて、その若い者も老いた者もみな裸、はだしで、しりをあらわし、エジプトの恥を示す。彼らはその頼みとしたエチオピヤのゆえに、その誇としたエジプトのゆえに恐れ、かつ恥じる。
 
イザヤ書43章3節
わたしはあなたの神、主である、イスラエルの聖者、あなたの救主である。わたしはエジプトを与えてあなたのあがないしろとし、エチオピヤセバとをあなたの代りとする
 
イザヤ書45章14節
主はこう言われる、「エジプトの富と、エチオピヤの商品と、たけの高いセバびととはあなたに来て、あなたのものとなり、あなたに従い、彼らは鎖につながれて来て、あなたの前にひれ伏し、あなたに願って言う、『神はただあなたと共にいまし、このほかに神はなく、ひとりもない』」。
 
イザヤ書ではクシ(エチオピア)とエジプトが夫婦のように述べられているが、ここで問題は『たけの高いセバびと』という民族である。セバというのはひょっとしたらシバのことかもしれないが、やはり違う民族のようだ。クシはハムの子であり、セバはクシの子であり、シバはクシの子であるラアマの子である。以前ブログの記事で同じように書いてしまったが、詩篇に次のように書いてある。
 
詩篇72篇10節
タルシシおよび島々の王たちはみつぎを納め、シバとセバの王たちは贈り物を携えて来るように。
 
それにしても、イザヤの予言の中で『クシ(エチオピア)』についてこれほど言及されているのも面白い。イスラエルにとって地理的にも政治的にもそれほど重要な国とは思えないのだが・・・。それとも、イザヤ書が書かれたのが紀元前8世紀後半、もしくバビロンの捕囚(紀元前597年頃)であったとされているので、エジプトのエチオピア王朝時代(紀元前747年〜紀元前656年)の記憶が大きく、アッシリアの傀儡政権が樹立される前はエジプト=クシ王朝であったためなのだろうか・・・。
 
                     ヌビア人ファラオ
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さて、エレミヤ書にはクシ人の肌について言及がある。
 
エチオピヤびとの肌の色
エレミヤ書13章23節
エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うことができる。
 
ふむ。やっぱりネイティブ・アフリカンを指しているように思える。エジプトではヌビア人として壁画などにも描かれているあのひと達だ。
 
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ユダ王国王宮に仕えるエチオピアびとの宦官
エレミヤ書38章7節〜10節
王の家の宦官エチオピヤびとエベデメレクは、彼らがエレミヤを穴に投げ入れたことを聞いた。その時、王はベニヤミンの門に座していたので、エベデメレクは王の家から出て行って王に言った

「王なるわが君よ、この人々が預言者エレミヤにしたことはみな良いことではありません。彼を穴に投げ入れました。町に食物がなくなりましたから、彼はそこで餓死するでしょう」。

王はエチオピヤびとエベデメレクに命じて言った、「ここから三人のひとを連れて行って、預言者エレミヤを、死なないうちに穴から引き上げなさい」。
 
エベデメレクの名の由来は「王の奴隷」と考えられている。予言者エレミヤは、バビロニアによるエルサレムの滅亡を予言したために穴に投げ落とされたが、エベデメレクはユダ王のゼデキヤに彼を救うよう懇願したのだった。
 
一般的に、宦官はアッシリアやアケメネス朝ペルシア帝国時代にオリエント世界に広まったと考えられているが、旧約聖書には結構いろいろな宦官が登場する。ユダヤ社会においてはモーセが律法でこれをきっぱりと批判している。まぁ、奴隷に対する処置としては一般的であったのかもしれない。
 
さて、エゼキエル書やダニエル書でもエチオピアについての言及はあるが、だいたいがエジプトや他の地域と一緒に述べられている程度である。
 
結局、クシという地域を聖書の記述だけで特定しようとするのは難しい。サリービーは次のように言っている。
 
 
「クシ」という語は、すでに述べたように、聖書原文中では、msrymという語と関係がある。そして確かにこの語は、聖書のいくつかの章句内ではエジプトを指している。

聖書の他の箇所では、このmyrymはアラビア半島西部のいくつかの場所を指している。そのうちのひとつミスラーマ(msrm)という村は、アシール高地のアブハーとハミース・ムシャイトのあいだに位置している。またもうひとつは、マスル(msr)という村で、アシール内陸部のワーデ・ビーシャにある。その一帯にkws(つまり「クシ」を探してみると、ハミース・ムシャイトの近くにクーサ(kwt)という地名が難なく見つかる。これはアブハーから、つまりミスラーマから少し東へ行ったところにあるオアシスである。またこれは、ワーディ・ビーシャの水源地に位置しており、したがってマスルがこのあたりにあることになる。

(中略)

要するに、「クシ人」とは「エチオピア人」ではなく、クーサ周辺(たとえばハミース・ムシャイト高地)の部族のことである。その地点から、下流へ少し行ったところである。
 
 
ふむ。
 
 

アブハとハミースムシャイト

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ミツライム(エジプト)とクシ(エチオピア)の位置関係を整理すとこんな感じだろうか?
 
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・・・
 
クシについてはあくまで“適当”です。ハミース・ムシャイトの近くの適当の位置です。ミツライムについては、アブハとハミース・ムシャイトの間ぐらいにしておいた。。。
 
 
クシとミツライムの間は距離にして約25キロほどだ。近すぎ?
 
 
エチオピアとエジプトと言いなおすとにわかに信じられないかもしれないが、単なる部族の名称ととらえたら、こんなもんだろうか・・・。
 
 
ちなみにこれが現在のアブハの風景だ。
 
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以下にはもっと写真がいっぱいあります。
 
 
このあたりが聖書のエジプトでもいいか・・・
 
 
そんな気がしてきませんか?
 
 
 
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旧約聖書におけるクシュ(エチオピア)の存在というのはとても面白い。一般的には、古代エジプト時代にヌビアと呼ばれた地域であり、今日のスーダンあたりを指す。。。ただし、聖書の記述をちゃんと見るとそれがどうも実際どこにあるのか分からなくなる。
 
旧約聖書で「クシ(クシュ、エチオピア)」に言及されている箇所をピックアップして調べてみた。
 

クシはエデンの園に近いのか?

創世記第2章13節
第二の川の名はギホンといい、クシの全地をめぐるもの
エデンから流れ出る4つの支流のうち1つが『ギホン』という名で、クシと呼ばれる地域全体をめぐっているという。七十人訳聖書はクシュをエチオピアとし、ヨセフスはそれに従いギホン川をナイル川と結び付けた。他方で、エデンの園から流れ出る他の支流(ユーフラテス川、チクリス川、ピジョン川)と結び付けるため、7世紀頃までGihunと呼ばれていたアラス川と解釈する学者もいる。以前のブログの記事ではそのように紹介したのだが、良く考えると、他の聖書で言及されている箇所との整合性が全く欠いてしまうので、おそらくアラス川ではないだろう。
 

ハムの子孫として

創世記10章6節〜7節
ハムの子孫はクシ、ミツライム、プテ、カナンであった。クシの子孫はセバ、ハビラ、サブタ、ラアマ、サブテカであり、ラアマの子孫はシバとデダンであった
詳細は以前のブログ記事をご参照
 
ちなみに2番目に言及されている「ハビラ」というのは、エデンの園を特定する上でも重要な位置情報だ。エデンの園から流れ出る4つの支流の内の一番目のピソン川は、ハビラ全域を流れており、この地域は良質の金,ブドラク(ブデリウム樹脂)、しまめのうが産出されたという。ブデリウム樹脂は没薬のような香りのでる樹脂であったという。
 
 

モーセのクシ出身の妻とその後の家族内の諍い

民数記12章一節
モーセはクシの女をめとっていたが、そのクシの女をめとったゆえをもって、ミリアムとアロンはモーセを非難した。
 
よくここで問題になるのは、ミリアムとアロンが避難した理由についてだ。おそらく、この女の肌が黒であったからだ・・・というのが一般的な見解だが、旧約聖書でははっきりと書いていない。クシの女をめとったとあるのだが、・・・良く考えてみると出エジプトの最中の出来事であるのでエジプトから連れてきたのはイスラエルの民だけでなく、奴隷や召使いも連れて来たのであろうか?黒人と聞いただけで「奴隷」と考えるのは先入観に縛られているからかもしれない。
 
 

やっぱりマラソンが早いクシびと

イメージ 1ダビデの三男であるアブロサムが反乱を起こした時、イスラエルとユダヤの民はアブサロムを支持し、ダビデの下にとどまったのごくわずかであった。しかし、その後体制を立て直したダビデはアブロサムと戦いし勝利する。アブサロムは逃れようとするが、途中、彼の髪が低い枝にひっかかり、木の間に宙吊りになって死んでしまう。ダビデはアブサロムを生きて捕えるよう命令していたため、発見した部下は手を出さずにヨアブ将軍に連絡した。ヨアブ将軍は、兵士たちの前でアブサロムの心臓に棒を突き刺し、止めを刺した。
 
サムエル記下18章21節〜(要約)
ヨアブはクシびとに言った、「行って、あなたの見た事を王に告げなさい」。クシびとはヨアブに礼をして走って行った。(中略)その時クシびとがきた。そしてそのクシびとは言った、「わが君、王が良いおとずれをお受けくださるよう。主はきょう、すべてあなたに敵して立った者どもの手から、あなたを救い出されたのです」。
王はクシびとに言った、「若者アブサロムは平安ですか」。クシびとは答えた、「王、わが君の敵、およびすべてあなたに敵して立ち、害をしようとする者は、あの若者のようになりますように」。
 
やっぱり伝令にはマラソンも速いエチオピア人が適しているかもしれないが、きっと馬に乗っていったのだろう。実はこの時もう一人、アヒマアズという人物が伝令となって、クシびと達を追い越し最初にダビデの下にいっている。しかしながら、真実を伝えることを躊躇してしまい、ダビデに真実を伝える役割をクシ人に譲ってしまう。
 
 

クシ(エチオピア)・ユダ同盟軍 vs. 最強アッシリア帝国

当時の近隣諸国を制圧し、勢力の拡大を図るアッシリア帝国が、ついにヒゼキヤ王の統治するユダ王国に対し降伏勧告をする。しかし、そこへエチオピア(クシ)の王テルハカがアッシリア帝国に対抗するために援軍に駆けつけるという知らせがきた。
 
列王記下19章9節(イザヤ書37章9節)
この時アッスリヤの王はエチオピヤの王テルハカについて、「彼はあなたと戦うために出てきた」と人々がいうのを聞いたので、再び使者をヒゼキヤにつかわして言った、
 
                  ヌビア朝のファラオ タハルカ
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エジプト第25王朝がヌビア人の王朝であったことから、テハルカをヌビア人ファラオの「タハルカ」と同一視する見方もあるが、実際、彼は紀元前671年のアッシリアと戦いに敗北し、メンフィスはおろかテーベまでも占領されたという。ウィキペディアによれば、アッシリア王エサルハドンはこの勝利を高らかに謳った碑文を残しているという。
…大いなる神々に呪われたエジプトおよびエチオピアの王タハルカに対して、イシュフブリから彼の居城メンフィスまで、15日の行程を、余は毎日休止することなく殺戮を行った。・・・
 
ふむ。。。
 
一応 図に書いてみた↓
 
イメージ 2
 
やっぱり 時代が合わないね。。。
 

エジプトの王シシャクに従うエチオピアびと

歴代志下12章2節〜3節
彼らがこのように主に向かって罪を犯したので、レハベアム王の五年にエジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上ってきた。その戦車は一千二百、騎兵は六万、また彼に従ってエジプトから来た民、すなわちリビアびと、スキびと、エチオピヤびとは無数であった。
 
前回の記事で書いたシシャクの遠征だ。「スキびと」というのはハッキリ言って良く分からないが、エジプトに従うリビアびと(シシャク自身リビア系ではあるが)、エチオピアびとなるとやっぱりアフリカか・・・と思いたくもなる。
 
 

エチオピヤびとゼラの来襲

歴代志下14章9節
エチオピヤびとゼラが、百万の軍隊と三百の戦車を率いて、マレシャまで攻めてきた。アサは出て、これを迎え、マレシャのゼパタの谷に戦いの備えをした。時にアサはその神、主に向かって呼ばわって言った

「主よ、力のある者を助けることも、力のない者を助けることも、あなたにおいては異なることはありません。われわれの神、主よ、われわれをお助けください。われわれはあなたに寄り頼み、あなたの名によってこの大軍に当ります。主よ、あなたはわれわれの神です。どうぞ人をあなたに勝たせないでください」

そこで主はアサの前とユダの前でエチオピヤびとを撃ち敗られたので、エチオピヤびとは逃げ去った。

アサと彼に従う民は彼らをゲラルまで追撃したので、エチオピヤびとは倒れて、生き残った者はひとりもなかった。主と主の軍勢の前に撃ち破られたからである。ユダの人々の得たぶんどり物は非常に多かった。彼らはまた、ゲラルの周囲の町々をことごとく撃ち破った。主の恐れが彼らの上に臨んだからである。そして彼らはそのすべての町をかすめ奪った。その内に多くの物があったからである。また家畜をもっている者の天幕を襲い、多くの羊とらくだを奪い取って、エルサレムに帰った。
 
さて、ここらへんでサリービーを少し引用してみよう。 
 
この「クシ人(h-kwsym)」というのは、古来から「エチオピア人」を表すものとし解釈されてきた。というのもその主な理由として、聖書の本文中ではこのクシつまりkwsが、常に「エジプト」を意味するとされてきたmsrymと関連づけられる場合が多かったからである(エチオピアがエジプトの南に位置していたため)。

ギリシャ語の70人訳聖書では、このヘブライ語のkwsがギリシャ文字に翻訳されている場合がときとしてあり、その他の場合では、より自由に解釈されてAithiopiaとかAithiopesなどと表記されている。現代の聖書学者たちがそれをエチオピアであるとするのは、これに力を得たからである。

「クシ人」がエチオピア人だったとすれば、当然浮かんでくる疑問は、この人々が遠隔地であるパレスチナの領土をなぜ支配できたのかということである。このエチオピア人たちは第25王朝、つまり「エチオピア」王朝時代(紀元前716〜656年)のエジプト人だったとでもいうのだろうか。
 
しかし、それは考えられないことである。というのもこの人びとは、その王朝時代よりおよそ一世紀半もさかのぼる昔にユダの国王として統治していたアサに対して、戦争を仕掛けているからである。そこで再びクリングが登場するが、彼はこの問題の解決がこれまでいかに困難であったかについてこう述べている。

歴代志の記述とは・・・・・・アサの時代に経験した、クシ人すなわちエチオピア人のゼラによる振興についての知識であると主張されている。・・・・・・そこにはあらわれるクシ人の王がファラオ(エジプトの王)であるはずがない。というのもエチオピア人がエジプトを支配するほどの勢力になったのは、次の世紀に入ってからのことである。
 
しかし、そのクシ人の王が、「エジプトの川」からその来てゲラルにいたるエジプト人の植民地における長官のことを指していたということは考えられる。また、その他の文献にも「ハムの子ら」(すなわちクシ人)が、南の国の民、シメオン人と隣り合って住んでいた(歴代志上4章39節〜)という記述がある。
   
歴代志上4章39節〜40節 (シメオン人の住む場所 ↓)
彼らは群れのために牧場を求めてゲドルの入口に行き、谷の東の方まで進み、ついに豊かな良い牧場を見いだした。その地は広く穏やかで、安らかであった。その地の前の住民はハムびとであったからである。これらの名をしるした者どもはユダの王ヒゼキヤの世に行って、彼らの天幕と、そこにいたメウニびとを撃ち破り、彼らをことごとく滅ぼして今日に至っている。そこには、群れのための牧場があったので、彼らはそこに住んだ。
 
シメオン人とはヤコブとレアの第2子であるシメオンの直系で、イスラエル12支族の一つである。しかしながら、シメオン族は1つの場所に固定されていないで、一部のメンバーが南方へ移住し、ゲドルにおいてよい牧草地を見つけたとされる。ウィキによれば、ベエル・シェバを含めるシメオン族の領地は、ユダ族によって保持されており、シメオン族はかなり早い段階でユダ族に吸収されていたものと考えられている。
 
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ふむ。
 
 
それにしても旧約聖書には『ゼラ』 という名を持った人物はけっこう登場する。
 
 
歴代志上2章4節
ユダの嫁タマルはユダによってペレヅとゼラを産んだ
 
歴代志上1章37節
リウエルの子らはナハテ、ゼラ、シャンマ、ミッザ。
 
歴代志上4章24節
シメオンの子らはネムエル、ヤミン、ヤリブ、ゼラ、シャウル。
 
歴代志上6章20節〜21節
ゲルションの子はリブニ、その子はヤハテ、その子はジンマ、その子はヨア、その子はイド、その子はゼラ、その子はヤテライ。
 
 
 
・・・
 
エチオピアびとのゼラ・・・
 
 
言い方を変えると
 
 
ハムの子クシの子孫ゼラ・・・
 
 
 
え? いや ベツニイミハナイケド
 
 
まぁ、ゼラという名前自体はユダヤ社会にもありふれた名前だったということだ。
 
 
ふむ。次回もう一度クシをとりあげよう。
 
 
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旧約聖書の物語において、エジプトは重要な位置を占める。
 
しかし・・・
 
アブラハムがエジプトに寄留した話が、どうも後世のつくり話のようであり、ヨセフが奴隷として連れて行かれ、後に兄弟達を移住させ、そしてモーセの時代に脱出したという舞台がエジプトであるというのも、確証をもって述べることは難しいことが分かった。旧約聖書成立以前に「ミツライム=エジプト」、「パロ=ファラオ」であったとはどうも怪しいのである。アラブ語でエジプトをミツライムと呼ぶのは『旧約聖書をそのように解釈した』からであって、もともとそう呼ばれていた訳ではない。
 
旧約聖書でヨセフやモーセが活躍した舞台がピラミッドのあるエジプトではなく、サリービーの主張するようにミツライムがアラビア半島西南部にあるミスラーマであったとするならば、世界の歴史観は大きく変わってしまうだろう。
 
 
では、エジプトであったとしよう。
 
 
ソロモンの時代、あたかもイスラエル王国と親密な関係にあったとも考えられるエジプトは、いったいどんな政治経済情勢だったのだろうか?
 
ダビデとソロモンの時代はエジプト第21王朝の時代(紀元前1069年〜紀元前945年)。第20王朝のラムセス3世以降、紀元前1185年から紀元前1070年の間の約100年間に11人のファラオがめまぐるしく交代し、エジプトのオリエント世界における権威は失墜した。当時ほとんどのファラオが「ラムセス」を名乗り、かつての栄光と権威にすがろうと考えたのだが、国を衰退から救うことはできなかった。
 
エジプト第21王朝は、第三中間期と呼ばれる混乱期の最初の王朝だ。上エジプトのテーベにあるアメン神殿の大司祭と神官達が権力と富を集中させるようになり、事実上の独立勢力となっていた。第21王朝として下エジプトにはスメンデス1世というファラオが統治し、しばらくは均衡した状態が続いていた。
 
最近の研究によれば、この第21王朝ぐらいから、下エジプトの王朝だけでなく、上エジプト・テーベの神官、軍の将軍などの要職はリビア系と思われる人々によって占められるようになっていた(これまでは22王朝頃からと言われていた)。この。第21王朝の初代ファラオであるスメンデス1世の素性は知られておらず、第20王朝最後のファラオであるラムセス11世の娘Henuttaui Qを迎える事で王権を正当化したのかもしれない。
 
リビア系王朝は、これまで何千年と受け継がれてきたエジプト文化に適応することがなかったようで、研究者によっては異邦支配者と呼ばれた。スメンデス1世は治世のはじめはメンフィスを拠点にしていたが、その後ナイルデルタの北東の街タニスに遷都する。映画『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』でアークがインディージョーンズによって発掘された場所だ。
 
 
ソロモンが交易した相手エジプトとは・・・当時そんな状況にあった。
 
 
そう言えば、ソロモン王もエジプトのファラオの娘をめとって側女としている。
 
列王記上第3章1節
ソロモン王はエジプトの王パロと縁を結び、パロの娘をめとってダビデの町に連れてきて、自分の家と、主の宮と、エルサレムの周囲の城壁を建て終るまでそこにおらせた。
 
彼女もリビア系だったのだろうか?
 
 
一般的に彼女は第21王朝のファラオだったシアメン(サアメン)の娘であったこととなっている。西村さんは次のように書いている。
ソロモン王に娘を嫁がせたファラオの名前は列王記上(3章1節他)と歴代志下(8章、11章)には書かれていないが、第21王朝6代目のファラオ、サアメン(978〜959年頃)だったのではないかと言われている。
http://www.geocities.jp/kmt_yoko/Exodus.html 
 
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                         シアメン 
 
 
それとも・・・
 
 
やっぱり、エジプトはアブハ近郊のミスラーマなのだろうか?
 
 
そしてパロについても、やはり紀元前10世紀頃はまだ称号として定着していなかったエジプトのファラオではなく、やはりこの地方の王の呼び名、称号の一つであったのではないだろうか。このあたりはパロを土着の神や部即由来のものとするサリ−ビーの説よりは、別な王の称号とした方がすっきりする。
 
実際にアブラハムの旅の関連でも述べられるゲラルのアビメレクとミスラーマのパロというのは、それぞれ土地の名と王の称号であったに違いない。
 
ゲラル(土地の名) アビメレク(族長の称号)
 
ミスラーマ(土地の名) パロ(族長の称号)
 
 
アビメレクについて、サリービーは次のようなことを言っている。
この「王」26章では「ペリシテ人」の王であったと説明されている。ここから2つの見解が引き出せる。まず第一に、ハミース・ムシャイトの北西の分水嶺にまたがる地域 ・・・そこにはカラーラのあるワーディ・ビーシャの一部も含まれる・・・は、そこに住む部族の名をとってバニー・マーリク(mlk)と呼ばれている。

またこの地方には、同じ名の村落もある。このことからわかるのは、創世記20章と26章「アビメレク」(文字通りの意味では「マーリクの父」)とは、必ずしも人名ではなく、おそらくは称号であったということである。つまり、その地方のマーリク部族の首長権を相続するもの・・・すなわちカラーラの「王」でもある−につけられる称号である。

ワーディ・ビーシャの低地にあるカラーラの北には、今でもファルサ(plst)と呼ばれる村があり、そこに住む人びとはヘブライ語でplstymと呼ばれていた。このファルサが、かつてある一時期カラーラ領だったということは十分考えられる。したがって創世記中の「アビメレク」が、ゲラルの「王」とも「ペリシテ人」の王とも称されたのは、ここに根拠があるといえるのである。
 
 
ふむ。
 
 
ソロモンの時代が終わると、内紛が起こりイスラエルは分裂するのだが、その機をエジプトとエチオピアが攻めてきたという。ソロモンの後継者レハブアムの時代にはエジプトの王がユダ王国と北イスラエル王国を攻め、その2代後にはエチオピアのゼラが攻めてきたという。
 
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リビア系のエジプト王であるシシャクは、一般にはそれほど知られていないが、彼がその治世で行ったとされるパレスチナ方面への軍事遠征記録は、その征服した諸都市と、旧約聖書のシリア遠征のそれほど古代エジプトの記録と旧約聖書の記述がはじめて一致した彼のシリア遠征は聖書考古学者をおおいに喜ばせた。
 
 
面白いのだが・・・
 
ここでシシャクはパロ(ファラオ)とは呼ばれていない。
 
エジプト王だ。
 
本ブログのエジプト関連記事では何度か引用した西村洋子氏は次のように書いている。
 
ちなみに、聖書で初めて言及されるファラオの名前は歴代志下12章のシシャクで、第22王朝のリビア人のファラオのシェションク1世(945〜924年頃)と同定されている。このファラオによるユダ王国とイスラエル王国に対する戦争の勝利は、カルナック神殿第一中庭のブバスティスの門で記念されている。
  
ここで初めて聖書の記述がエジプト側の史料と一致したのである。しかし、どうしてこの時までファラオの名前が聖書で言及されなかったのか、出エジプトのような重大な出来事でさえ当時のファラオの名前がしるされていないのかについては、まったく不思議としか言い様がない。
 
まったくその通りである。
 
 
その謎を解く一つの提案としてサリービーはどのようにかいているのだろうか?
 
 
ところで私は、ユダへの遠征に際して、シシャクはパレスチナへは行かなかったと断言できる。シシャクはその遠征を始めるにあたって、まず紅海のエジプト側沿岸の港を出発し、ヒジャーズ沿岸の明らかにリースの近くのどこかに到着した。

またその遠征の意図は、どうやら自らの軍事力の誇示にあったようである。つまり、ユダやその他のアラビア半島西部の各地の支配者たちに対して、エジプトの力が彼らの領土におよんでいることを示そうとしたのである。

リースの内陸地方に足場を得ると、このエジプトの王は、次に南へ向かい、ユダの中心部へと進んでいった。その進路は海岸沿いの道か、あるいはそのさらに内陸側の主要道路である山道のいずれかであっただろう。彼はその途上でときどき駐留しては、山間部の集落へ攻め入り、略奪を行った。そしてあるとき、サラートの断崖を越えた先のアール・シャリーム・・・すでに述べたように私が本来のヘブライゴ聖書の「エルサレム」だと考える地である・・・にまで侵攻して行った。

その地での勝利に勢いを得て、彼はさらに南のジザーン地方へと軍を進めていった。しかし、山岳部族のしぶとい抵抗のためか、彼の軍事攻勢はそこではふるわなかったようである。そこでシシャクはそこを離れ、そのままますぐリースあたりへと引き返したが、その地方では、彼は断崖地帯の海岸沿いの多くの場所を始め、ターイフ地方の多くの地点をも征服し、ついには砂漠地帯に達するぎりぎりの内陸までも征服したのである。

(中略)

事実、聖書中には、シシャク(swsqすなわち「シシャク」)のユダへの遠征について、地理的に詳しく説明した箇所は見当たらない。その遠征についてふれた2つの箇所のうち、比較的長い方・・・つまり歴代志下12章2〜9節・・・ではたんに、エジプトの王が大軍を率いてやって来て、「ユダの要害の町々を取り、エルサレムに迫って来た」が、実際にそれを攻めとることはしかった、とだけ述べている。
 
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ソロモンの息子でありユダの王であるレハベアムは、侵略者に「主の宮(すなわち神殿)の宝物と、王の家の宝物」を与えて難を逃れたと記されている。シシャクの地名表から解読された名のうち「エルサレム」が見当たらないのはそのためだろう。もちろん、その町の名が記載された部分が欠落してしまったとか、まだ判読されていない断片の中にあるといった可能性も考えられる。

(中略)

P230
カルナク神殿のシシャクの地名表の序文には、シシャク自ら「ミタンニ軍」を制圧したとあるが、このミタンニとは、現在のマサーニー(mtny)という村か、あるいはすでに述べたように彼が数多くの村を奪取したターイフ地方にあるワーディ・マサーン(mtn)周辺が有力なものとして考えられる。
もちろんこのミタンニは、北メソポタミアにあった王国のことではない。もしもそうだとするなら、はなはだしい時代錯誤に陥ってしまうだろう。

注12
このエジプトの支配者がミタンニを征服したといっているのはその種の自慢話にすぎないとされてきたが、それは明らかに誤りである。なぜならミタンニとはアラビア半島にある場所だからである
 
 
 
よく考えると、これまでサリービーはエジプトがアラビア半島西南部のミスラーマであると主張していたにもかかわらず、シシャクのところでは、あっさりと「エジプトの王」であったとしている。
 
 
なぜか ?
 
 
おそらく ここではこれまでのパロという称号は用いずに、ファラオが名前が呼ばれたからであろう。
 
 
ふむ。。 
 
 
さて・・・、このシシャクの侵略からしばらくたった後、今後は何とエチオピアのゼラがユダ王国に攻めてくる。
 
 
エジプトを飛び越してか?
 
 
ミスラーマ(エジプト)とよく関連して言及があるクシュ(エチオピア)だが、この時はどうだったのだろうか?
 
 
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ヘブライ語聖書にナイル川と書かれてある箇所はない。
 
という単語にすぎない。
 
それがエジプト(ミツライム)との関連で述べられる時、躊躇せずに「ナイル川」がイメージさせ、現代の聖書訳ではそのように書かれてきた。
 
では、もし・・・
 
旧約聖書のミツライムがエジプトでない とするならば・・・
 
 
もはや、ナイル川であることの理由は消え去ってしまう。
 
エジプトの正式名称はアラビア語Miṣr(ミスル)、エジプト方言でmɑsˤɾ(マスル)と呼ばれる。アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称であるそうなのだが、本源的にはアッシリア語の書式であるMiṣir/Muṣurと似通っている。アラビア語と同じくセム語族であるヘブライ語では、双数形のミスライム(מצרים(ミツライム))と呼ばれている。(日独ウィキ参照)
 
双数形とは、あまり聞きなれないが「2つの〜」を意味する。日本語で言う「両方」とか「両手」とかもともと対になっているものに対応するのではなく、「2つの町」、「2人の労働者」とか、単純に数を表す場合、それがたまたま2つの場合に用いられるのだ。映画「ロード・オブ・ザ・リング」の「2つの塔」とかいう場合もそうだろう。
 
 
では、
 
 
どうして ミツライム が エジプト なのだろうか?
 
ミスルは単純に『国(都)』『土地』を意味するものであるが、歴史的には下エジプト(ナイル川下流域)を指していたとされ、その後統一エジプト王朝(上エジプトと下エジプト)を指す語句として伝承されてきた。エジプトが2つの土地としてミツライムという双数形で表現されているのはおそらくそうした事情があったからだと推測されている。
 
この上下エジプトの事情については以下を参照してください。
 
ちなみに、他の言語でもエジプトはMusuruMusruMisir、あるいは Masriと表記されており、ヘブライ語のミツライムは単純に音声から派生したものと考えられている。このミスルのエジプト訛りである「マスル」は「エジプトの」ということになり、頻繁に添え名として登場する「al-Masri」は「エジプト人」という意味であるそうだ。
 
次の異なる3つの箇所では、エジプトを表す言葉としてMasorが使用されている。
 
イザヤ書第19章6節
またその運河は臭いにおいを放ち、エジプトのナイルの支流はややに減ってかわき、葦とよしとは枯れはてる。
 列王記下第19章24節 (内容的にはイザヤ書第37章25節と同じ)
わたしは井戸を掘って外国の水を飲んだ。わたしは足の裏で、エジプトのすべての川を踏みからした。
ミカ書第7章12節
その日にはアッスリヤからエジプトまで、エジプトからユフラテ川まで、海から海まで、山から山まで、人々はあなたに来る。
 
名詞「Masor」は「包囲」、「塹壕」をも意味し、「束ねる」や「包囲する」という動詞のsurから派生した。これと同じ動詞から派生した名詞には「砦」、「要塞(城壁にかもまれた都市)」がある。したがってミスルの双数形ミツライムは、二重の要塞という意味にもなる。
 
 
では・・・公式エジプト名はアラビア語でミスル(ミツライム)と言うのに、どうしてエジプトなのか?
 
それに関しては以下のホームページに解説がある
エジプトが第十九王朝時代にMisrと呼ばれていなかったことについては、積み重なる証左がある。上下エジプトが「Misr」もしくは似た発音の名前で呼ばれていたことを示唆するエジプトの記録は、一つもない。実際、第十九王朝に限らず、記録のあるすべての時代で、Misrという名前がエジプトを特定するのに用いられていたという証拠はまったくない。

一方、エジプト古代史において用いられているのは、オシリスとイシスで語られているように、KoptosまたはCoptoaだ。これがしだいにGebt(قبط)、そしてEl-Gibt(ال قبط)に変化し、最終的に西洋で発音されるようなE-gyptになった。古代西洋文明においては、すべての神話文学と地図が、この地をただEgyptまたはEgiptの名で呼んでいる。

ギリシャのダナオスの娘たちの神話が好例だが、「Egypt」の名は非常に古く、いかなる変更にも抗ってきた、ということだ。古代東洋の国々では、エジプトをGebtという同じ名前で呼んできた。

ただ初期ムスリムたちだけが例外で、何らかの理由で、この名前を使うのをやめることにしたのだ。ここから、いつムスリムたちがEl-GibtをMisrと呼ぶようになったか、そしてなぜ変更したのか、探求する必要がある。アラブの歴史によれば、預言者ムハンマド(pbuh) (570-632 A.D)の時代、アラビアの人々の間では、エジプトはAl-Giptの名で知られていた。このことは、預言者がエジプトの支配者アル=ムカウカスにイスラームへいざなうために送った書簡からも明らかだ。
 (中略:書間については上記ホームページを参照ください。)  
「ミスルMisr」はアラビアのみで用いられ、聖書に起源を持つ。

一方、「ギプトGipt」は、エジプト人と、エジプトをミスルMisrとは認識していないその他すべての世界との間で使われた。

「アル=ギプトAl-Gipt」を音韻的に分析すれば、それが「エジプト」に等しいことは明らかだ。換言すれば、アラビアの人々は、イスラームの黎明に至るまで、その他すべての世界と同じ名前を使ってきたのだ。

アラブ人ムスリムのギプトへの侵攻後のある時点で、この国際的に知られた名前が、しだいにミスルMisrに取って代わられ、今に至っているのである。

ゆえに、ミスルはエジプトの元々の名前ではなく、ファラオがその時代の民に、彼がミスルの主であると言っている場面に適用するにも、十分に古くない。
(中略)  
この問いに対する答えは、七十人訳聖書(ヘブライ語聖書のギリシャ語への翻訳)において、誤訳が生じたことです。ここから生じ広まった誤認が、ムスリムたちのクルアーン解釈にもつながっている、というわけです。聖書でもクルアーンでも、神様は最初からمصرとしか言っていないのですが、人間たちがエジプトをمصرだと思いこんでしまったのです。
 
ふむ。 
 
『聖書アラビア起源説』のサリービーは以下のように説明している
 
以下、『聖書アラビア起源説』より引用
Msrymという地名に関していうと、通常それはエジプトを指すと考えられているが、それがエジプトを意味する語としてヘブライ語聖書にあらわれるのはごく限られた場合だけだということを、ここで強調しておかねばならない。その語がアブハーの近くのミスラーマを指すのでなければ、ワーディ・ビーシャ流域のマスル、またはガーミド高地のマドルーム(msrm)を指すことになる。

また・・・聖書中の「パロ」(pr`h)というのも、エジプトの支配者を指すのではなく、アラビア半島西部のミスラーマやマスルといった土地にまつわる神をさらに聖書中のmṣrとは、アラビア半島西部の一部族、アラビア名でムダル(mḏr=「酸味のあるミルク」の意)と呼ばれる部族のことであったとも考えられる。たしかに、ワーディ・ビーシャ流域にファルアー(pr`)と呼ばれる「パロ」の一部族が住んでいるが、その名ももちろん古代の神もしくはその地方の族長の名に由来している。
 
 
アブハってどこだろうか
 
サリービーの説に基づくと次のような位置関係になる。
 
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僕はアラビア語が出来るわけでもないので、このアブハー(アブハ)の近くのミスラーマという場所は特定できなかったが、アブハーは、今日のアスィール州の州都である。標高2200mの高地にあって、現在20万人が居住していると言う。ウィキペディアによれば、「夏の暑さは穏やかで、サウジの代表的な避暑地であり、サウジのみならず中東各地から避暑客が訪れる。降雨にも恵まれ、農業が盛んである。」そうだ。
 
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以前の記事で、ソロモン野時代に「エジプトから馬を輸入する」という記述が奇妙だと書いた。では、アラビア半島のアブハー周辺であればこの問題は解決すのであろうか?
 
 
我々は「馬」というと「草原」を思い浮かべやすいが、砂漠地帯を起源とする馬もいる。アラブ種は遊牧民ベドウィンが手を加えて改良発展させた世界最古の馬であると言われ、紀元前2500年頃と思われる岩絵や碑文にも登場する。そう言えば競走馬でいうところのサラブレット三大始祖はアラブ種を掛け合わせてつくったものだという。この「サラブレット」という言葉自体、アラビア語の「純血」に由来するとも言われている。
 
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定説ではアラブ種の祖は現在のトルコやシリアから肥沃な三日月地帯をと通ってアラビア半島に来たとしているが、別な説によると氷河期の時代から、アラビア半島南西部、現在のイエメンの一家にある3つのワジ(涸れ谷)から、以前ここが馬の生息に適した牧草地であることが分かっていることから、アラビア種はもともとアラビア半島南西部に由来するとしている。
 
 
実は、この説を裏付けるような発見が昨年されている。
 
ウマの家畜化9000年前か、サウジアラビアで遺跡発見
20110829 18:40 発信地:ジッダ/サウジアラビア
【8月29日 AFP】およそ9000年前に人類がウマを家畜化していたことを示す痕跡が、サウジアラビアで発見された。

定説を4000年さかのぼる新発見は24日夜、サウジアラビアの博物館・古文化局のアリ・ガッバン(Ali al-Ghabban)副局長が会見で発表した。「これまでの研究では、人類がウマを家畜化したのは5000年前の中央アジアだとされてきたが、今回の発見は、9000年以上前にアラビア半島(Arabian Peninsula)で最初に家畜化されていたことを示している」

家畜化の証拠が見つかったのは、同国南西部アシール(Asir)州の州都アブハ(Abha)近くの遺跡。この地方は、古文科学では「幸福のアラビア(Arabia Felix)」として知られる古代文明が栄えていた。ガッバン副局長によると、この文明では「これまで知られている手法とは全く異なる死体防腐処理方法」が用いられていたという。

かつてアラビア半島が湿潤で肥よくだった頃に河床だった谷間で発見された遺跡からは、ヤギやイヌ、タカなどの像に加え、高さ1メートルのウマの半身像があった。「これほどの寸法の動物像は、この時代としては世界のどこでも発見されていない」とガッバン副局長。矢じりや石器、織物道具、穀類をすり潰すためのすり鉢なども見つかっており、文明の発達ぶりが示唆されている。
 
何とアブハだ。
 
 
ソロモンがエジプトから高値で買った馬というのは、アシール南部で飼育されていたアラブ種の祖、アブハの馬に違いない。
 
 
そして、
 
 
僕たちが聖書においてエジプトと信じて疑わない国というのは・・・
 
 
このアブハの近くの都市だったのだ。
 
 
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