オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

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本題に入る前に旧約聖書に書かれている当時の通貨事情について書きだしておきたい。旧約聖書の当時・・・といっても微妙なもので、アブラハムの時代(紀元前1900年頃)、その後モーセの出エジプトの時代は紀元前1300年頃、ダビデの時代は紀元前1000年後半頃、そしてまぁダビデの後継者ソロモンの時代は紀元前900年頃としよう。
 
アブラハムの時代には銀がメソポタミアの主要な通貨となっていたことが知られており、大商隊を率いていたアブラハム自身もこうした貨幣経済の発展とともに大富豪となった人物であった(とされている)。しかし、繁栄を築いたソロモンの時代になると銀は価値あるものとみなされず、交易は他の金属や鉱石で代替されるか、物々交換でなされていた。
 
・・・とは言っても、断片的にはソロモンの登場する列王記や後述の申命記などは紀元前7世紀頃に成立されたと考えられていて、当時の通貨事情まで正確に反映しているとはもちろん言い難い。
 
まぁ、手始めに申命記の第14章を見てみよう。
 
申命記第14章25〜26節
あなたはその物を金に換え、そのを包んで手に取り、あなたの神、主が選ばれる場所に行き、そのをすべてあなたの好む物に換えなければならない。すなわち牛、羊、ぶどう酒、濃い酒など、すべてあなたの欲する物に換え、その所であなたの神、主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない。
   
日本聖書協会の新共同訳だと次のようになる
収穫物を携えて行くことができないならば、それをに換えて、しっかりと持ち、あなたの神、主の選ばれる場所に携え、で望みのもの、すなわち、牛、羊、ぶどう酒、濃い酒、その他何でも必要なものを買い、あなたの神、主の御前で家族と共に食べ、喜び祝いなさい。
 
新共同訳の翻訳だとすでに金(かね)は銀と翻訳されている。時代に忠実だと言えばそれまでだが、ヘブライ語の原本に即した形で訳されているのか疑問になる。ちなみに英語だとマネーだ。
 
まぁ、金や銀などの金属がお金としてすでにあらゆる取引を媒介していたのは確かそうだ。
 
 
しかしながら、ソロモンとツロのヒラムの取引はほとんどが物々交換、もしくは土地や労働力が対価となっている。その一方で、この時代、銀は石のような価値しかないという記述や実際の考古学上中期アッシリア時代には銀が通貨として使用されてはいなかったことが言われている。
 
 
何があったのか ?
 
 

ソロモンの繁栄の秘密

列王記第10章23節
このようにソロモン王は富も知恵も、地のすべての王にまさっていたので、全地の人々は神がソロモンの心に授けられた知恵を聞こうとしてソロモンに謁見を求めた。人々はおのおの贈り物を携えてきた。すなわち銀の器、金の器、衣服、没薬、香料、馬、騾馬など年々定まっていた。

ソロモンは戦車と騎兵とを集めたが、戦車一千四百両、騎兵一万二千あった。ソロモンはこれを戦車の町とエルサレムの王のもとに置いた。王はエルサレムで、銀を石のように用い、香柏を平地にあるいちじく桑のように多く用いた。
 
 
列王記第10章28節
ソロモンが馬を輸入したのはエジプトとクエからであった。すなわち王の貿易商はクエから代価を払って受け取ってきた。

エジプトから輸入される戦車一両銀六百シケル百五十シケルであった。このようにして、これらのものが王の貿易商によって、ヘテびとのすべての王たちおよびスリヤの王たちに輸出された。
 
 
つまり、エジプト(クエ)との取引には対価として銀が用いられている。
 
それにしても、戦車一つに銀600シェケル(シケル)、馬に銀150シケルとは果たして妥当な価格だろうか?創世記23章でアブラハムの妻サラが亡くなった時、彼女を埋葬するための土地をヘブロンの地にアブラハムは銀400シェケルで買った(創世記第23章)。
 
シェケルは、セム系民族が使用した重さの単位で、紀元前1930年頃のエシュヌンナ法典(ハンムラビ法典より以前)には、人々が日常で使用する商品の価格表が明記されている。エシュヌンナ法典の時代は、まぁ大雑把に言えばアブラハムが活躍していた時代に近い。
 
参考までに書くと次の通りだ。(比較のため現在の1ヶ月の給料を30万円とする)
 
1ヶ月の労働対価
エシュヌンナ法典基準値 大麦300 ℓ = 銀8,4g = 銀1シェケル = 30万円
 
1日の労働対価
刈り手 大麦20 = 銀0.54g = 2万円
選穀する人 大麦10 = 銀0.28g = 1万円
 
ただし、シュケルという単位はかない混乱して用いられている。重さの単位としては英語版ウィキによれば11,5グラムから12グラムとなるが、だいたい8〜17gの間であると言われている。これは、1500年以上という時代の長さだけでなく、フェニキア人も使用したことによって地理的にも広範囲で使用されていたから生じる差異である。
 
 
少し図に書いて整理してみよう。
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 士師の時代、怪力サムソンの妻デリラがペリシテ人に買収されたのは銀1100枚とあるが、英文翻訳では“pieces”とあるので、小さな粒かもしれない。ここでシケルという単位は用いられていない(士師記の他の箇所には登場する)
 
イスラエルを建国したサウルは、銀4分の1シケルを予言者に渡したとあるが、1ヶ月の給料の4分の1と考えた場合、これも何とか相場のような気もする。
 
しかし、ダビデの時、牛と打ち場(穀物を牛で踏みつけたり、棒でたたいたりして、実の部分を茎から取り分けるための場所)が50シケルというのは少し高いだろうか・・・。給料の4年分というのは・・・。
 
更に、ソロモンの時代・・・
 
エジプトの戦車(チャリオット)が銀600シュケルというのは、現在価値になおすと1億8000万円程度。フェラーリ・F40が4650万円であること考えるとベラボーに高いことが分かる。ちなみにアブラハムが大枚をはたいて買ったとされるサラの土地よりも1.5倍も高い。
 
 
これはどういうことか?
 
 
やはり 銀の価値は急落しているのではないだろうか?
 
 
 
それではソロモン時代から150年後、イスラエル王国が北と南に分かれ北イスラエルでは8代目のアハズヤが王となった時代に予言者エリシャが登場する。その時代の話が列王記下第6章に書かれてあるのだが・・・
 
 
第6章24節〜25節
この後スリヤの王ベネハダデはその全軍を集め、上ってきてサマリヤを攻め囲んだので、サマリヤに激しい飢饉が起った。すなわち彼らがこれを攻め囲んだので、ついに、ろばの頭一つが銀80シケルで売られ、鳩の糞一カブの四分の一が銀5シケルで売られるようになった。
 
これはもの凄いインフレが起きていることを示している。モノが不足したことによるものだが、おそらくソロモンの時代から銀も徐々に過剰供給状態になっていたと考えられる。
 
 
要するに・・・(あくまで記述が正しいとすれば・・・)
 
 
考えられないくらいのインフレが起きていたのだ。
 
 
前回のブログ記事で以下のことを書いた。
AN.NAという金属でできたスプリング、もしくは渦巻き状に巻かれたものが通貨として使用されていたのだ。この金属が何であるかははっきりと解明されていないが、おそらく亜鉛やスズであったとも考えられる。
 
きっと 改鋳が頻繁にされていたに違いない。
 
 
 
ソロモンの富の源泉とは・・・
 
 
 
ソロモンの知恵とは・・・
 
 
 
偽りのマネーを作り出すことだったのかもしれない。
 
 

ソロモンと馬

上述の馬の取引をみると、ソロモンは中継貿易で潤っていたと考えられる。エジプトとの交易はクエという国を仲介していたような感じだ。一般的にクエは現在のトルコにあるキリキア州であると考えられ、地理的にはかつて紀元前13世紀のミタンニ王国とヒッタイトの狭間にあるということを考えると、馬の輸入相手国としては理解しやすい。しかし、問題はエジプトとの貿易の間にはいっているということだ。
 
旧約聖書の記述では商品の流れは、エジプト→クエ→イスラエル→シリア・ヘテであるのだが、クエがキリキアとなると地理的に多少無理が生じるようになる。それに・・・
 
 
そもそも エジプトから馬を輸入するっておかしくないか?
 
古代エジプトにチャリオットに乗ってはじめて馬を連れてきたのはヒクソスと言われており、紀元前1700年頃のエジプト第二中間期と呼ばれる時代だ。それまで馬はエジプトにいなかったのだ。その後、ラムセス2世の壁画にもあるようにチャリオットが普及し、家畜化も進んだかもしれないが、希少な存在であることには変わりなかった。したがって、アジアからエジプトへ馬を輸出するのは分かるが、その逆なんて果たしてありえるだろうか?
 
そして戦車、つまりチャリオットに関してもエジプトはアジアに比べると後進国であり、製造するための資源、木材、青銅、鉄などについてもアジア地域からの輸入に頼っていたに違いない。まぁ、その後の技術革新によって軽量化を進めたエジプトのチャリオットはそれなりに名声を得ていたのだが・・・運送費がかかりすぎではないだろうか? だから高いのか?
 
 
実は・・・聖書で述べられているエジプト・・・
 
 
どうも 我々の知っているピラミッドのあるエジプトではないようなのだ。
 
 
実は・・・
 
 
この事を指摘しているのは『聖書アラビア起源説』のサリービーだけではない。
 
 
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前回、ダビデの妻について述べた後、新約聖書「マタイの福音書」の第一章に掲載されているアブラハムからイエスまでの系図で述べられている4人の女性にスポットあてた。ここに登場するのは、タマル、ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻であったバト・シェバで、
 
 
4人に共通する点は・・・
 
 
彼女達が「外国人」であり、また「娼婦」「寡婦」であったという点だ。
 
 
タマルについては前回すでに述べた。今回はラハブからだ。
 
ラハブ (第5節) カナン人 (娼婦)
ヨシュア記は、キリスト教信者にとっては道徳上あまり深入りしたくない旧約聖書のところだ。ヨシュア率いる軍勢がカナンの町に住む人々を、老若男女を問わず虐殺し、町を破壊していく様は目を覆いたくなる。「共生」ということは一切問題にならず、イスラエルの神はカナンの人々を根絶やしにすることをよしとするのだ。遊女ラハブはそんなヨシュア記の中に登場する。
 
モーセの後継者となったヨシュアは、約束の地を獲得する戦いを開始するわけだが、まずエリコ攻略に向けてその軍事力を量るため二人の斥候を送った。斥候たちは城壁と一体化している娼婦ラハブの家に滞在したのだが、エリコの王に密告する者があった。すぐにエリコの王は衛兵をラハブの家に送った。
 
衛兵たちはラハブのところに来て言った。
「あなたの所にきて、あなたの家にはいった人々をここへ出しなさい。彼らはこの国のすべてを探るためにきたのです」
 
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この時、ラハブはイスラエルの2名の斥候を屋上にある亜麻の束の中に入れて隠し、次にように話した。
 
「確かにその人々はわたしの所にきました。しかし、わたしはその人々がどこからきたのか知りませんでしたが、たそがれ時、門の閉じるころに、その人々は出て行きました。どこへ行ったのかわたしは知りません。急いであとを追いなさい。追いつけるでしょう」
 
 
そこでその人々は彼らのあとを追ってヨルダンの道を進み、渡し場へ向かった。あとを追う者が出て行くとすぐ門は閉ざされた。
 
 
ふたりの人がまだ寝ないうち、ラハブは屋上にのぼって彼らの所にきた。そして彼らに言った、
 
「主がこの地をあなたがたに賜わったこと、わたしたちがあなたがたをひじょうに恐れていること、そしてこの地の民がみなあなたがたの前に震えおののいていることをわたしは知っています。あなたがたがエジプトから出てこられた時、主があなたがたの前で紅海の水を干されたこと、およびあなたがたが、ヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王シホンとオグにされたこと、すなわちふたりを、全滅されたことを、わたしたちは聞いたからです。
 
わたしたちはそれを聞くと、心は消え、あなたがたのゆえに人々は全く勇気を失ってしまいました。あなたがたの神、主は上の天にも、下の地にも、神でいらせられるからです。それで、どうか、わたしがあなたがたを親切に扱ったように、あなたがたも、わたしの父の家を親切に扱われることをいま主をさして誓い、確かなしるしをください。そしてわたしの父母、兄弟、姉妹およびすべて彼らに属するものを生きながらえさせ、わたしたちの命を救って、死を免れさせてください」。
 
ふたりの人は彼女に言った。
「もしあなたがたが、われわれのこのことを他に漏らさないならば、われわれは命にかけて、あなたがたを救います。また主がわれわれにこの地を賜わる時、あなたがたを親切に扱い、真実をつくしましょう」。
 
そこでラハブは綱をもって彼らを窓からつりおろした。その家が町の城壁の上に建っていて、彼女はその城壁の上に住んでいたからである。ラハブは彼らに言った。
「追手に会わないように、あなたがたは山へ行って、三日の間そこに身を隠し、追手の帰って行くのを待って、それから去って行きなさい」
 
二人の斥候は彼女に言った。
「あなたがわれわれに誓わせたこの誓いについて、われわれは罪を犯しません。われわれがこの地に討ち入る時、わたしたちをつりおろした窓に、この赤い糸のひもを結びつけ、またあなたの父母、兄弟、およびあなたの父の家族をみなあなたの家に集めなさい。」
 
ラハブは言った。
「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」
 
こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。
 
 
その後、七日間にわたるヘブライ人たちの角笛と行進によってエリコの城壁が崩れ、住民たちが老若男女問わず虐殺された時、ラハブとその家族は斥候たちの約束通り助けられ、ヘブライ人たちの一員に加えられた。
 
ちなみに
ラハブの家は赤い紐によって見分けられた。このことから、後世の娼館では客に業種を示すため赤い看板が窓に取り付られけた。(ウィキペディア)
 
このラハブが何故イエスの系統に登場してくるのかは疑問だが、上記マタイの伝承では、ラハブはユダ族のサルモンと結婚し、ボアズの母となったとある。つまり、ダビデ王とすべてのユダ王国の王、そしてイエスの祖であるからだ。
 
「信仰によって救われた人物」 あるいは 「裏切り者」
 
ラハブの行為をどう感じるかは人それぞれだろう。
 
 
ルツ (第5節) モアブ人(寡婦 / レヴィレート婚)
旧約聖書は士師記に続く書としてルツ記がある。ヨシュア記が「戦争映画」ならルツ記は「ラブロマンス」といったところか。ただ、ルツ記はその存在が面白い。男性の名が冠せられた書が多い旧約聖書の中で、数少ない女性の名を冠した書であることに加え、彼女はモアブびとで、イスラエル人ではないのである。
 
士師達の時代、イスラエルを襲った飢饉によって、ユダのベツレヘム出身者であるエリメレクは、妻ナオミと2人の息子を連れてモアブの地に移り住んだ。この2人の子はやがてそれぞれモアブの娘達と結婚した。そのモアブ娘の1人がルツという。やがてエリメレクが亡くなり、さらに息子二人も妻オルパとルツを残したまま死んでしまう。
 
そこでナオミは夫の故郷ユダに帰ることを決意し、息子達の寡婦となった二人に対し、それぞれの故郷に帰るようすすめる。しかし、ルツだけはナオミのそばにいることを望み、こうして二人はエリメレクの故郷、ベツレヘムへと帰郷した。
 
ある日、ルツは畑で麦の落穂拾いに出かけた。その畑の所有者は、エリメレクの遠縁の親戚にあたる、ボアズという人物だった。ボアズは姑に尽くすルツに感心して、彼女のために便宜を図る。
 
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ルツが親切なボアズのことをナオミに話すと、ナオミは、その人こそが、死んだ夫の系累であり、家を絶やさぬ資格を持つ方なのだと話した。そした、ルツはある時、眠るボアズの床に忍び寄り添い、彼の衣で身を覆った。夜半、やっとルツに気がついたボアズは、一途なルツのけなげさに感じ入り、まず、エリメレクの失った土地を買い戻す権利、寡婦を娶り引き取る権利を持つ者に、長老達の前で、その権利を放棄を確認させた後、ルツを娶った。
 
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こうしてルツは子を生み、子はオベトと名付けられた。オベドの子はエッサイ、そしてその子がダビデである。
 
ボアズの妻となったルツは息子オベデを生む。オベデはダビデの祖父にあたる人物である
 
 
ウリヤの妻 (第6節) ヘテ人(寡婦)
バト・シェバはヒッタイト人ウリヤの妻であったが、後にダビデの妻となり、ダビデの跡を継いでイスラエル王国の王となったソロモンを産んだ。彼女の父親はダビデ30士の一人エリアムであり、彼の父はギロ出身のアヒトペル(アヒトフェル)だ。ギロはユダと呼ばれた土地にある町なので、彼女の家系をユダ族とする見方もあるが、約束の地にはもともと数多くの民族がくらしていたので、根拠としてはあまりにも希薄だ。
 
彼女の祖父であるアヒトペルは、ダビデの最高顧問として的確な助言を何度も行い、その英知故に神とさえ比較された人物だ。三国志で言うと諸葛亮にあたるような人物だ。ダビデの三男アブシャロムが謀反を起こした時、アヒトフェルはこれに呼応してダビデは窮地に立たされる。ダビデは祈った。「主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」
 
ダビデに対して反乱を起こしたアブショロムは、それなりの事情と経緯があるとはいえ、ゲシュルの王タルマイの娘マアカとダビデの間に生まれた子である。異国の人の血をひくアブショロムの誘いにアヒトペルが応じると言うことは、元々とカナンに住む民族の反乱に呼応したかたちではないだろうか。
 
あるいは孫娘バト・シェバにダビデがしたことを根に持っていたのだろうか。
 
ウィキから引用してみよう。  
ダビデがバト・シェバに言い寄る物語はサムエル記下第11章に描かれている。物語はダビデが王宮の屋上を散歩している時、水浴中のウリヤの妻バト・シェバに目を留めた事を伝えている。ダビデはすぐに彼女を呼び寄せ、関係を持ち妊娠させた。
 
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ダビデは自らの罪を隠そうとし、ウリヤを妻バト・シェバと性交させ、子供が自分のものだと考えることを期待して、ウリヤを戦闘中の軍から呼び戻した。ウリヤは戦闘中の兵士を律する古来よりの習わしに背く事を望まず、自宅のベッドで寝るよりも王宮の兵士たちと共に滞在する事を選んだ。

ウリヤ自身がバト・シェバを妊娠させたと信じ込ませようとする試みが不首尾に終わった後、王は彼の将軍ヨアブ にウリヤを激戦の最中に見捨て、敵陣に置き去りにするよう命令を与えた。皮肉にも、ダビデはウリヤに彼自身の死を命ずる書状を持って行かせた。ウリヤの死後、ダビデは未亡人となったバト・シェバを妻に迎えた。

サムエル記によると、主はダビデの行動に怒り、王を叱責するために預言者ナタンを遣わせた。預言者は貧しい隣人から1匹の小羊を奪った金持ちの寓話を話し、不正な行為に対する王の激しい怒りを起こさせた後、これをダビデのバト・シェバに対する行為に例えた(サムエル記・下・第12章1-6節)。王はすぐに自らの罪を懺悔して、心からの悔悟を表明した。ダビデとバト・シェバの子供は重病に罹り、出生後わずか数日で他界した。王はこれを自らに対する罰として受け入れた。

ナタンもまた、ダビデの家が姦淫と謀殺のために呪われ不安定になっている事に気付いていた。数年後ダビデが寵愛した息子の1人アブサロムが反乱を起こし、王国を内戦状態に陥れた。ナタンの預言通り、新らしい王である事を明確に示すため、アブサロムは人前で父の側室のうちの10人と性交をした。これは他の男性の妻を奪い取ったダビデの行為に対して、神が与えた10倍の罰と見なす事ができる。

ダビデの老年期、バト・シェバは生存するダビデの最年長の息子アドニヤの代わりに彼女の息子ソロモンの王位継承を確実なものとした。(列王記・上・第1章11-31節)
 
 
古今東西・・・こと後継者争いとなると女は怖い。。。
 
 
まとめると次のようになる。
 
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なぜ、マタイがこの4人の女を系図の中に入れたかはいろいろ議論されている。
 
 
外国人であることに関しては心温まる解釈も可能かもしれないが・・・
 
 
 
すんなり受け取れないのも事実。
 
 
 
マタイは何が言いたかったのだろうか?
 
 
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せっかく前回ソロモンのハーレムの話がでたので、今回と次回はちょっとだけ話題を変えよう。
 
 
旧約聖書でイスラエル王国の全盛を築いたダビデとソロモンの歴史を辿ると、ハーレムについて調べると奇妙なことに気がつく。
 
 
そう言えば・・・
 
 
彼らの奥さんにはいろいろと外国人がいたようだが・・・
 
 
イエスへの系譜を考えると、どう解釈すればいいのだろうか?
 
 
ダビデの妻となった人物は何人かいたようなきがするのだが・・・、
 
 
サウルの娘ミカル
まだ、若い時代に恋をした娘ミカルは、ダビデが仕えていた初代イスラエル王サウルの娘であった。しかし、サウルとの確執の中、二人は禁断の恋を続け、サウルがついにダビデを殺そうとした時も、窓から彼を逃して窮地を救う。その後、紆余曲折の末、ダビデはミカルを妻に迎え、めでたし・・・のはずだったが、契約の箱の前でダビデが裸で舞い踊るのを見ると幻滅し、彼と子どもをつくる気をなくしてしまう。
 
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要するに、
 
 
かつて危険な状況を一緒にくぐりぬけてやっと結ばれた2人だったが、最終的にダビデは嫌われたわけだ・・・
 
映画「スピード」のサンドラブロックのセリフを思い出す。
 
極限状態で結ばれた二人は長続きしないらしいよ・・・。
 
 
あっそ。
 
 
ダビデがヘブロンに7年6か月いた間に6人、そしてエルサレムに移ってからは13人以上の子が生まれたと伝えられている。ヘブロンにいた時に生まれたダビデの子どもと彼の妻は以下の通りだ。
 
カルメルびとナバルの妻アビガイル
アビガイルはダビデの二番目の妻とされているが、おそらくダビデにとっての次男であるキルアブを産んだ(歴代志上ではダニエルとなっている)。元々はユダの山地マオンの大土地所有者ナバルの妻であった。
 
当時ダビデはサウルから逃亡しユダ山地の辺りを彷徨っていたが、ある時ダビデはナバルに贈り物を求めた。しかし、拒絶されて怒ったダビデは400人を従えてナバルを討とうとした。それを知ったアビガイルは、ダビデに詫びて夫に秘密で贈り物を届けた。ナバルは10日後に死亡し、アビガイルはダビデの妻となった。
 
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バカな夫の尻拭いをする健気な妻・・・
 
 
エズレルの女 アヒノアム
ダビデの第三の妻だが、長男アムノンを産んだのは彼女だ。彼女に関する詳細はあまり書かれていないが、旧約聖書ではほとんどアビガイルと伴に述べられている『ダビデのふたりの妻すなわちエズレルの女アヒノアムと、カルメルびとナバルの妻であった』という具合だ。エズレルはイスラエル北部にある町の名だが、彼女が何びとであるかは語られていない。
 
ゲシュルの王タルマイの娘マアカ
第三子アブサロムを出産する。政略結婚であると思われるが、ヨシュア記ではゲシュルびとはイスラエル人が約束の地から追い払うべき部族の一つであり、明らかに外国人である。ただし、そこではマアカも部族の名として登場する。
 
第四子はハギテの子アドニヤ
 
第五子アビタルの子シパテヤ
 
第六子はダビデの妻エグラの産んだイテレアム
 
 
 
さて、エルサレムで生まれたダビデの子の内、13人は聖書に言及がある。
 
その内、4人はアミエルの娘バテ・シュア(バト=シェバ)による子であり、シメア、ショバブ、ナタン、そしてソロモンだ。残りの9人(イブハル、エリシャマ、エリフェレテ、ノガハ、ネフェグ、ヤフィア、エリシャマ、エルヤダ、エリフェレテ)は、ダビデの子であることは書かれており、更に別のそばめたちの子もあることが言及されている。
 
 
バト・シェバはヘテびと(ヒッタイト人)ウリヤの妻であったが、後にダビデの妻となり、ダビデの跡を継いでイスラエル王国の王となったソロモンを産んだ。バト・シェバがはたしてヒッタイト人であったのか、あるいは他の民族であったのかは聖書にある物語では分からない。
 
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異教徒や異邦人は他にもいるのだが、問題は彼女がソロモンの母親であり、イエスの系図に足跡を残している人物であるということである。イエスの血筋がヒッタイト人であったとなると、心中穏やかではいられなくなる。(一応ユダ族ということになっているらしい)
 
しかし、ダビデ(イエス)の系図において、異教の民が入り込んだのはこれがはじめてではない。
 
 
この事実は「マタイの福音書」第一章をよく読むと見えてくる(軽い気持ちで聖書を読もうとする人は、まずここで挫折するだろう)。そこではアブラハムからイエスまでの系図では、基本的に男性の名前が挙げられているのだが、例外的に4人の女性が登場する。
 
 
 
なぜか?
 
 
 
彼女達が 「例外」 だからである
 
 
少し見てみよう。
 
第1節: アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。

第2節: アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、

第3節: ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、

第4節: アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、

第5節: サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、

第6節: エッサイはダビデ王の父であった。ダビデはウリヤの妻によるソロモンの父であり、

第7節: ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、
 
 
・・・
 
 
この系図で述べられている女性とは、タマル、ラハブ、ルツ、そしてウリヤの妻であったバト・シェバの4人だ。この例外的に述べられている4人には共通点があり、それらを結び付けるキーワードは、面白いもので、外国人娼婦、そして寡婦である。
 
 

イエスの系図の4人の女

タマル (第3節) アドラムびともしくはカナンびと(寡婦/レヴィレート婚/娼婦)
ヤコブの四男ユダの長男エルは主の前に悪い者であったため殺されてしまう。その妻であるタマルは、若くして寡婦となる。その後ユダによって次男のオナンの妻にさせられるが、兄の財産が、自分ではなく子のモノになると思ったオナンは、子をつくることを拒んだ。その行為が主の怒りにふれ、オナンは殺されてしまい、残るは3男だけとなってしまった。
 
三男のシラは未だ子供だったので、ユダはタマルを実家に帰して、成人してから結婚できるまで寡婦のままでいるように言った。本音は「シラもまた兄弟たちのように死ぬかもしれない」と思ったからである。
 
ある日ユダの妻が亡くなると、シラが成人になっても妻として迎えられないと知ったタマルは、寡婦の衣を脱ぎ捨て道端でユダを待ち伏せした。ユダは彼女を見たとき、彼女が顔をおおっていたため、遊女だと思って、
 
さあ、あなたの所にはいらせておくれ
 
・・・と言った。何だかすごい展開になってきたが、教会で子どもたちにはどのように説明しているのだろうか・・・?
 
 
タマルは言った。
わたしの所にはいるため、何をくださいますか
 
この女・・・タダ者ではない。
 
 
ユダは言った。
群れのうちのやぎの子をあなたにあげよう
 
彼女は言った。
それをくださるまで、しるしをわたしにくださいますか
 
この女・・・やはりタダ者ではない。
 
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ユダは言った。
どんなしるしをあげようか
 
 
彼女は言った。
あなたの印と紐と、あなたの手にあるつえとを
 
そして、彼はこれらを与えて彼女の所にはいった。彼女はユダによってみごもった。
 
 
その後、ユダは彼の印を取り戻そうと、彼女にやぎの子を送ろうとするがなかなか見つからない。
 
 
万が一に備えて、ユダは彼の友と口合わせをしておくが、3カ月ほど経って、ひとりの人がユダに言った。
 
「あなたの嫁タマルは姦淫しました。そのうえ、彼女は姦淫によってみごもりました」
 
 
ユダは言った。
彼女を引き出して焼いてしまえ。コワッ
 
 
しかし、そこで彼女はユダの印を見せ、自分がユダによって身籠ったことを告げる。
 
 
ユダはそれを認め、めでたく彼女は双子を出産したのだった。
 
 
次回はラハブ、ルツ、そしてバト・シェバだ。
 
 
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オペレーション・・・その名はマジック・カーペット

1949年、シオニズム運動がイスラエル建国という一つの大きな転換期を迎えたて間もない頃、イスラエルが秘密裏に実施したある作戦がある。
 
イスラエル建国に反対するアラブ諸国では、各地でユダヤ人の迫害が起きていた。かつて「アラビアの幸福」と呼ばれたイエメンに、3000年以上もの間暮らしていたとされるイエメン・ユダヤ人も例外ではなく、財産の没収や焼き打ちなどの被害にあったとされている。
 
当時のイエメンは北方にはイエメン王国、南方にはイエメン人民民主共和国(南イエメン)というように南北に分断されていて、南イエメンはイギリスの植民地下にあった。南イエメンの主要貿易都市の1つであり、大きなユダヤ人居住区があったアデンの町では82人が無差別に殺されたと言われている(アデンの大虐殺:1947年12月3日)。
 
前回の記事の関連で言えば、ヨクタンの子孫とアブラハムと側女ハガルの子であるイシュマエルの子孫が、アブラハムと正妻サラの子である子孫たちを迫害しはじめたのだ。(誤解されないために書いておくが、このブログではそのようには考えていない)
 
そんな中、イエメンのイスラムの指導者がイエメンのユダヤ人に対して次の様に言ったという。
「全て財産を置いていくなら、イスラエルに行ってもよし。ただ紅海への海路やアラビア半島の陸路を使うのは許さない」
 
実質的に陸路と海路をふさがれた形となってしまい、行き場を失ったユダヤ人に対してイスラエルが取った行動は、その名も・・・
 
 
      マジック・カーペット作戦
 
イメージ 2
 
秘密作戦だが、公式名称はOperation On Wings of Eagles。1949年6月から1950年9月までの間に米軍とイギリス軍の飛行機を中心に延べ180機を使用し、総勢4万9千人のイエメン在住のユダヤ人をイエメン・アデン空港からイスラエルに護送した。この秘密オペレーションは、作戦終了数カ月前にはじめて公開され、世界中を驚かせたそうだ。
 
イメージ 1
 
(参考→日本語の詳細http://elalfanclub.blog58.fc2.com/blog-entry-30.html 
 
さて、話をアラブ人の祖とみられているイシュマエルではなく、それよりも古くセムから枝わかれしたヨクタンにもどそう。旧約聖書の上では、ヨクタンの父親はエベル、つまりヘブライ人の祖ということになり、この家系図を見る限りでは、アラブ人はヘブライ人から分かれた・・・ということになる。この旧約聖書の記述は、Y染色体を中心としたDNA研究からのアプローチでも支持されているそうだが・・・。
 
 
しかし、旧約聖書に書かれている家系の描写を、人と人の血縁関係として捉えるのはそもそも間違いであるというのは、前々回にも述べたペレグからアブラハムの系図で見た通りである。
 
 
さて、元祖アラブ人の祖先ともいえるヨクタンには13人の子がいた。
 
イメージ 5
 
 
ノアの家系図でも最大規模の家族となるわけだが、それには理由がある。
 
 
なぜなら・・・ それらが、すでにあったからだ。
 
 

没薬や乳香の道

・・・つまり、アラビア半島全体にわたる交易ルートの中継都市として、これら13の都市が遠隔交易を営む商人がもつリストに記載されてからに過ぎない。ヨクタンの13人の子の名前は、彼が奥さんと相談しながら一つ一つ丁寧に命名していた訳でもなく、創世記の編纂者がそのようなリストから拝借したのだろう。
 
西暦40年から70年あたりに書かれたエリュトゥラー海案内記というのがあるが、内容的には停泊した港や取引の内容などを記したものである。おそらく砂漠の隊商にも同じような取引の記録は代々残していたに違いない。
 
 
メソポタミア地域からカナン地域を通り、そしてナイル川までの肥沃な三日月地帯は、古代文明を育んだ地域として知られているが、資源などにはあまり恵まれていない地域だった。神殿などの建設事業を行うための木材や、装飾するための貴金属は外国から調達しなければならなかった。
 
古代エジプトやメソポタミアの都市国家経済が発展するにあたり、その地方が保有する資源の埋蔵量などは国力とはほとんど関係なかった。重要な事は、必要な材料を遠方からいつでも調達してくる商人の存在であり、都市国家が発展すればするほど、より遠隔地から交易を通じて調達できる商人の重要性は増していき、それを中継するための農村は発展し、交易都市として繁栄していった。
 
 
以前、本ブログで『ラピスラズリの道』シリーズを書いたのだが、古代、ラピスラズリが取れる場所はアフガニスタン奥深くにある山地でしか取ることが出来なかった。しかし、ラピラズリは紀元前3000年頃にはすでに、遠距離交易商人を通じてメソポタミアから地中海世界、そしてエジプトまで運ばれ取引されていた。金、銀、銅、錫やなどの鉱山資源同様に、やはり古代オリエント世界において希少価値の高い資源があった。
 
没薬(もつやく)     と      乳香(にゅうこう) だ。
 
イメージ 6イメージ 7
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
古代エジプトをはじめとしてオリエント世界の宗教儀式において、没薬や乳香は必要不可欠なもので、その在庫管理には最大限の注意が払われた。古代エジプトでは宗教的儀式の時だけでなく、薬や医学の分野でももちいられ、またミイラの防腐剤としても用いられていたとされる。また、イエスの誕生のときに当方から来たマギ達が贈り物として持参したのも、金に加えこの没薬や乳香であった。
 
 それほどまでに重要な没薬や乳香だったが、その元となる樹木は特定の地域にしか生息しなかった。
 
 
どこだろうか?
 
 
南アラビア半島、現在のイエメンだ。
 
 
それも図で示されるように、生息していた地域というのはかなり限られている。
 
イメージ 8
 
 
没薬や乳香が古代エジプトやメソポタミア地域で使用されてたという事実は、それは荒野をいくつも越えたアラビア半島南部からキャラバン隊などの遠距離交易ルートがすでに確立されていたということを裏付けている。
 
そして、文字を初めとする北方の文明が南アラビア半島にももたらせる、黄金の国ジパングならず乳香の香りに包まれた「アラビアの幸福(Arabia Felix)」とまで呼ばれるような都市文明がそこに栄え、桃源郷にも似た伝説が出来上がっていたのかもしれない。(実際にそう呼ばれたのはローマ時代であるが・・・)
 
                  海上の没薬の道
イメージ 3
 
古代エジプト第18王朝の女ファラオであるハトシェプスト(紀元前1479年から紀元前1458年頃)が没薬などを獲得するために組織したプント大遠征や、ソロモンが大量の金を輸入したとされるオフィル、そして、大量の金や乳香、白檀などを寄贈したシバの女王、その全てが南アラビア半島の今日のイエメンであったと言われている(シバの女王の国については諸説あり)。
 
 
現時点における南アラビア半島についての一番古い記録では、紀元前716年と紀元前685年にサバの首長がアッシリア王サルゴン二世とセンナケリブに貢納したことを伝えるアッシリア資料によって、シバ王国の存在が明らかになっている。おそらく、その歴史はもっと古くに遡ることが出来るに違いない・・・と僕は思う。
 
 
さて、ヨクタンの子孫に話をもどそう。
 

ヨクタンの子孫

これらの名前が地名や都市、あるいは民族名であることは疑う余地がなく、古くからこれらの名を地図にプロット使用とする試みがされた。しかしながら、この13人の子が活躍したような手掛かりとなるような記述は一切なく、名前から推察するしか方法がなかった。
 
それに同じ名前、似た名前の都市もいくつかあるせいか、この分野での調査研究は錯綜している。少し見てみよう。
 
アルモダデ(Almodad):
「アラビアの幸福」を築いた人物の1人。イーストン聖書辞典によるとアルモッデの意味は”計り知れないもの”であるとされるが、同様に「計られない者」、「愛される者」、「神は愛される」などの意味もある。サヌア王国を建国した部族とも言われる。
 
シャレフ(Sheleph):
アラビア南部に定住した民族
 
ハザルマウテ(Hazarmaveth):
アラビア半島南端のハドラマウト(Hadhramaut)王国。ハザルマウテの意味は『死の住まい』、あるいは『死の法廷』とされるが定かではなく、名前の由来そのものはグレコ・ローマン時代のものとも言われている。
 
エラ(Jerah):
? 場所はあまり特定できていない。
 
ハドラム(Hadoram):
イエメン共和国のサヌアの南
 
ウザル(Uzal):
イエメンの首都サヌアの旧名は「ウザル」にちなんで「アザル」
 
デクラ(Diklahan):
 
オバル(Obal):
エチオピア沿岸のAvalitaeという町という説がある。
 
アビマエル(Abimael):
当時の大商業都市メッカであるという説がある・・・。
 
シバ(Sheba):
アラビア半島・イエメン共和国付近。これがシバの女王の国なのかは定かではない。
 
オフル(Ophir):
アラビア半島内・古代の金の産出地。旧約聖書に数多くの記述がある。アフリカのエチオピア、スーダンという説もある
 
ハビラ(Havilah): 
ペルシア湾 バーレーンのHuvaila?エデンの園を流れるピジョン川流域にある金の産出地
 
ヨバブ(Jobab):
オマーン湾にある都市という説がある
 
 
ふむ。。。
 
結局・・・あまり大したことは分からない。
 
上記の推測されたロケーションとは異なるが、下は1854年に描かれたLyman Colemanという人物によって描かれた地図だ。彼らの名がところどころに見てとれる
 
イメージ 9
 
 
これを元にヨクタンの子達の名が示す地域を書いてみると次のようになるが、唯一8番目の子であるオバルが欠けていたので、下記リンクを参照してオフィルの下に位置付けた。
 
イメージ 4
 
 
おそらく・・・
 
これが一般的に言われているロケーションに近い・・・のかもしれない。
(つまりこのブログでは、そう思っていない)
 
 
しかし・・・
 
最近の研究ではもっと多くのことが判明している。
 
上の図だと、交易都市・地域とはいえ、一族の交易リストとしてはあまりにも広大すぎる。ノアの子孫の名は様々な民族の祖として考えられるのだが、エベル以降は都市の名前であり、交易ルート・・・それもアブラハムの家系図にあったように互いにそれほど離れていない場所を書いてある。。。
 
 
どこだろうか?
 
 
 
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前回の記事は、最後に下の疑問で終わった。
 
南アラビア半島の祖先となったと言われているヨクタンの一族の信仰はどうなっていたのだろうか?
 
ヘブライ人の祖とも言われるエベルには2人の子があり、長男のペレグの方はアブラハムまで続く系統なのだが、彼を含めた子孫の名は、マリからユーフラテス川を上流へ上り、ハランに至るまでの交易中継都市の名前が記されていた。
 
おそらく、弟のヨクタンの子ども達も同じようにどこかの交易都市やその中継都市の名があるかと思われる。違いは、ペレグの場合は、代々と続く子孫の名前が問題になっているのに対し、ヨクタンの場合は彼の2代目にあたる子だけだ。
 
 
何もアブラハムの祖先の名に従って古代の都市や地域を特定しようというのは今にはじまったことではなく、数多くの研究者によって何百年も前からされてきた。つまり、本ブログで言っていることはそれほど特異なことではなく、ネット上のあちこちでプレゼンされている仮定などをまとめたに過ぎない。
 
ただし、ヨクタンの子は多い。13人とノアの子孫全体をみても最大級だ。
 
しかし、
 
これだけのヨクタンの息子達について述べながら、それ以上の繋がりについて聖書は述べていない。
 
・・・知らないわけではない。
 
 
旧約聖書の中では、アブラハムとサラの間に子が生まれなかったため、エジプトから連れてきた女奴隷ハガルとの間に子をもうける。しかしながら、その後90歳になってイサクをもうけたサラとの間に確執がおこり、ハガルは、子であるイシュマエルとともに砂漠に追放される。聖書は次のように語っている。(ウィキペディアの要約より以下抜粋)
   
アブラハムの妻サラには中々子供が出来ず、サラは自分の女奴隷であったハガルによって、アブラハムが子孫を残せるよう夫に頼んだ(創世記16:2)。

アブラハムはサラの願いを聞き入れ、ハガルを自分のそばめとした(創世記16:3)。

こうしてハガルはアブラハムと関係を持ち身ごもったが、ハガルは自分の主人であるサラの事を侮るようになった(創世記16:4)。

サラが夫にその事に対して苦情を述べると、アブラハムはサラがハガルを自分の思うように扱っても構わないと許可した。それで、サラはハガルを苦しめるようになったので、ハガルは女主人の下から逃げた(創世記16:)。
 
 
しかし、シュル街道の泉の所で彼女に御使いが現れ、神はハガルの苦悩をご覧になられたので、ハガルの子孫は多くなる事を約束し、その子供にイシュマエルという名前を付けるよう命令し、サラの下へ帰って服するよう指示された(創世記16:7-12)。

ハガルは神を「エル・ロイ(わたしを顧みられる神)」という名前で呼び、私は神を見た後も生きていると語った(創世記16:13)。こうして、アブラハムが86歳の時にハガルはイシュマエルを産んだ(創世記16:16)。

それから14年後(創世記17:21、24、25)、サラはイサクを産んだ(創世記21:2、3)。

やがてイシュマエルはイサクをからかうようになり、サラはハガルとイシュマエルを追い出すように夫に懇願した(創世記21:9、10)。

アブラハムにとってそれは不快な事だったが、神がサラの懇願を聞き入れるように命じると、彼はハガルに食料を与えて去らせた(創世記21:11-14)。
 
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ハガルとその息子はベエル・シェバの荒野をさまよい、水が尽きると彼女は息子が死ぬのを見たくないと思い、低木の下に隠して自分は離れた所に座り、声を上げて泣き始めた(創世記21:14-16)。
 
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すると御使いが天から呼びかけ、神は少年の声を聞かれたので彼を大きな国民にすると約束し、ハガルを強めた(創世記21:17、18)。

神がハガルの目を開くと、彼女は井戸を見つけ生き延びる事ができた(創世記21:19)。

こうしてパランの荒野に住み、ハガルはイシュマエルのためにエジプトから妻を迎えた(創世記21:20、21)。
 
 
パランの荒野(砂漠)は、何百年か後、モーセが出エジプトで通った荒地で、今日イスラエル南部に広がるネゲヴ砂漠地帯をさす。ただし、実際の位置については聖書に出てくる他の地名同様に議論の一致をみていない。イスラム教やアラブ世界では、この荒野はアラビア半島西部にあるビジャーズ地方であるとも言われている。その北方はミデヤンの地域がある。
 
 
イスラム教社会では、アラブ人の由来を考えるにあたり、
 
イシュマエルの子孫(その息子であるアドナンの子孫)であるというアラビア半島北部グループ と、
 
それ以前にセムの系図から枝分かれしたヨクタンを祖とし、イエメンなどを中心とするアラビア半島南部のグループ がある。
 
この2つのグループが融合することによって、イスラム教前史のアラブ人という概念があっと言われている。
 
いずれにせよ、イシュマエルの物語は、イスラエルとパレスチナにおける中東戦争を理解する上で重要である。イシュマエルの母ハガルとイサクの母であるサラの確執は、そのままイシュマエルを祖とするアラブ人とイサクを祖とするユダヤ人として現在に暗い影を落としているからだ。
 
 
また、イシュマエルの子であるアドナンが、イスラム教ではクライシュ族からでた預言者ムハマンド(マホメッド)の祖先ということになっている。イスラム教の伝承では、アブラハムはエジプトに滞在した後、現在のシナイ半島を通過し、そのまま紅海沿岸にしたがってビジャーズ地方、つまりイスラム教の聖都メッカまでやって来て、カアバ神殿を再建したという。
 
以下はウィキペディアより抜粋
イスラーム教の聖典『クルアーン』によると、カアバの場所は大洪水以来その場所がわからなくなっていたが、預言者イブラーヒーム(アブラハム)は神からカアバの場所を教えられた。
 
そして、イブラーヒームは息子のイスマーイール(イシュマエル)とともにカアバを建設した、という(第2章「牝牛」125-127節)。その後、カアバはイスマーイールの子孫であるアラビア人が信仰の中心とする神殿となったが、やがてイブラーヒーム親子の真正な一神教は忘れ去られて多神教の神殿となったとされる。
 
 先へ進む前に、カアバ神殿について少し書いてこう。
 
カアバは、メッカのマスジド・ハラームの中心部にある立方体の建造物で、その南東角にはイスラームの聖宝である黒石が要石として据えられている。アブラハムと側女ハガルの子であるイシュマエルが再建したとされているカアバ神殿の歴史は古い。
 
イメージ 3
 
イスラム教の伝承では、神がアダムとイヴに命じて建設させたものであるという。しかし、ヌーフ(ノア)の時代に起きた大洪水によってこの神殿は長い年月の間失われていたとされている。つまり、アブラハムとイシュマエルは神に導かれこれを発見し、再建したというのだ。
 
 
いずれにしても、カアバ神殿そのものはムハマンドがイスラム教を広める以前からメッカに存在していた。そこでは、クライシュ族が信仰するフバル(Hubalの他、三相一体としても考えられている、女神たちも信仰されていた。
 
すなわち
アッラート(アッラーの女性形)、マナート(運命の女神)、アル・ウッザー(金星の女神)も重要な女神として信仰されていた。日本語のウィキペディアにみられるようにアッラート、あるいはドイツ語のウィキペディアではマナートを月の女神とする説もある。
 
歴史家ヘロドトスは紀元前5世紀すでに、アッラートがアラブ社会においていかに重要かを述べており、ギリシアのウラーニア(アフロディーテ)と同一視することが出来ると説明した。紀元前4世紀頃には、メッカにおける宗教文化がシリア、特にパルミラ地方にも知れ渡っていたことが分かっている。
 
 
ただ、ここで言及しておかなければならないのは、ムハマンドによってイスラム教が広まる以前から、アラブ人達は、自分達がアブラハムとその息子であるイシュマエルの子孫であると自覚していた・・・ということだ。
 
 
これは、どういうことだろうか?
 
ムハマンド自身はカアバ神殿の修理・再建工事にたずさわっていたとされるのだが、それ以前に、ノアの洪水によっていったん忘れられていたカアバ神殿がアブラハムとイシュマエルによって再建された・・・と主張しているのはなぜか?
 
 
「興亡の世界史 06 ジハードの帝国」の著差である小林氏は、多神教などとも折り合いながらも「アブラハムの宗教」と言われるような一神教の伝統も、古くからアラビア半島に確かに存在したと考えている。
 
少し引用すると、「興亡の世界史 06 ジハードの帝国」著の小林氏は次のように書いている。
 
筆者は30年ほども、ムハマンド、クルアーン(コーラン)、イスラームの成立について、さまざまな角度から探求を続けてきた。その一つの結論として言えば、アブラハム的な系譜がビジャーズ地方にも達していたと考え、その上で、一神教の系譜を継ぐ者としてムハマンドが現れたと見る方が、合理的である。
 
さらに言えば、「肥沃な三日月地帯」をこの辺りまでを含むものとして見た方が、より整合的な説明が可能となる。

歴史的な資料も近年のアラビア半島の考古学的調査を合わせて考えれば、シリアやパレスチナの地と、ビジャーズ地方イエメンを切り離して見ることは合理的ではない。言いかえれば、セム諸語がいきわたっていた範囲を全体として、「セム的一神教の故地」とすべきなのではないだろうか。
 
 
イメージ 4
   
ふむ。
 
 
いずれにせよ、イスラム教の時代となってメッカの存在が強くなり、またイシュマエルとアラブ人の関係が強固に主張されるようになると、ヨクタンの子孫というのはそれほど注目されなくなってしまった。
 
 
・・・ということで、本ブログにてヨクタンの子孫たちに再度スポットを当ててみよう。
 
 
 
ヨクタンの子が13人いるのには理由がある。
 
 
 
なぜなら・・・
 
 
 
それらがあったからだ。
 
 
 
 
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