オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

紅海沿岸の古代史

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さて、クシュの歴史を紀元前2世紀ぐらいまで概観してきたが、一旦時間の流れを紀元前8世紀あたりまで逆戻ししよう。まだ、クシュ王国がメロエに遷都する以前、王国の勢力圏からは外になるのか、それとも衛星都市的に発展していたのかは定かではないが、ダモト王国がエチオピア北部、現在のエリトリアに興隆した。
 
後のアクスム王国の基礎となるべき国なのだが、その歴史についてはあまりにも闇に包まれている。この王国の発展には紅海の対岸にあるサバ王国も少なからず絡んでいるといわれている。
 
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                 地図は紀元前4世紀ごろのもの(Wiki)
 
 
まずは、ここで紅海を越え、アラビア半島の歴史について調べてみることにしよう。
 
東アフリカとアラビア半島の間に横たわる紅海は長さ2250km、幅最大355km 平均的な水深は538メートルある。
 
一番狭い海峡であるバブ・エル・マンデブ海峡では、2つの陸地の間はわずか27キロであり、琵琶湖の最大幅が23キロであることを考えると、筏で渡ろうと思えば渡れる距離であろう。人類の移動ルートとしては、ナイル渓谷からシナイ半島を通ったという北東ルート説よりも、このバブ・エル・マンデブ海峡を渡ったという南東ルート説の方が有力である。
 
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こちらのサイトより拝借 ↓
 
 
これはアラブ主著国連邦などで発掘された石器なども、この説を裏付けている。
 
人類の出アフリカは定説より早かった?
January 28, 2011  
初期現生人類の出アフリカ時期が定説より2万年早まるかもしれない。アラビア半島の太古の石器を発掘した研究者が発表した。

約13万年前、氷期の地球で温暖化が進行し、海水面が下がった。アラビア半島には航行可能な湖や河川も出現して、人類の水上移動が容易になったという。かつては乾いた砂漠だったアフリカ北部地域に中東への新たな移動ルートが生まれ、約20万年前に出現した初期人類に出アフリカのチャンスが訪れたと見られる。

アラブ首長国連邦の砂漠遺跡で発見された約12万年前の石器類も、新説の有力な証拠となる。

初期人類は約6万年前、ナイル渓谷や現在のエチオピア経由でアフリカを出たと考えられてきた。しかし太古の石器の発見により、現在のソマリアあたり、いわゆる“アフリカの角”から直接半島へ渡った可能性が出てきた。しかも、道具はアフリカ独特のデザインが施されているという。(中略)

気候データについては、洞窟の石筍(せきじゅん)から太古の湖や河川の気候記録を調査し、紅海の水位変動も調べたという。比較的温暖だった約13万年前は、アラビア半島で降水量が増加。人類は、出現した河川を船や筏(いかだ)で下っていた可能性がある。

イギリス、オックスフォード・ブルックス大学の自然地理学者エイドリアン・パーカー氏によると、この時期は紅海南部の水位が落ち込んでいたという。約4キロの航程でアラビア半島にたどり着けるため、人類にとっては海を渡る絶好の機会だったようだ。
 
 
ふむ。
 
 
かなり早い時期に人類はアラビア半島に定住していたと考えられる。
 
 
人類で最初の宗教は多神教だったのだろうか?
 
 
 
それとも・・・
 
 
一神教であたったのだろうか?
 
 
古代エジプトやメソポタミアでの信仰においても、
 
 
なぜ、アフリカ東岸やアラビア半島南部にしか生息しない没薬や乳香が聖なるものとして見られ、オリエント世界の宗教で重宝されたのか?
 
 
『聖書アラビア起源説』では、はっきりとアラビア半島のアッシール地方が『旧約聖書の舞台である』としているが、それが政治的なプロパガンタにせよ、方法論的な欠陥があるにせよ、このアラビア半島には『一神教の故郷』、あるいは『一神教の伝統』が育まれてきた何かがあると思われる。世界宗教たるイスラム教が辺境の地メッカで起こったのはそれなりの歴史的背景があるに違いないし、聖典であるクルアーン(コーラン)を単なる聖書の焼き直しとするのは明らかに間違えであろう。単純に考えると、現在ヘブライ語にもっとも近い言語はアラビア語であるから、ヘブライ語からアラビア語に翻訳する方が、より忠実に翻訳できると素人には考えられるのだが・・・。
 
 

アラビア半島南西部の歴史

アラブ系の伝統ではセム族出身のカターン(Qahtan、旧約聖書ではヨクタン)と、その息子達がアラビア半島南部の人々の祖になったと伝えられている。その内、1つのグループはヒムヤル、他のグループはカーラン(Kahlanと呼ばれイエメン北部で遊牧を行っていた。
 
カーランの遊牧グループは、紀元前2500年頃にNajraと呼ばれるイエメンとサウジアラビアの境にある砂漠地帯に土手ダムをつくり、マアリブ地域に灌漑が整備したとされている。このカーラン族が後にサバ王国を建国したと考えられている。
 
 
このサバ王国が、旧約聖書に置いてソロモンを訪ねた伝説の王国シバであるとも言われている。
 
紅海沿岸の古代史を見る時に、おそらくアラビア半島に最初に登場するのはこのサバ王国で、おそらくその2〜3百年早く紅海の対岸で興隆していたとされるダモト王国と何らかの関係はあったに違いない。また、サバ王国は、“王国”というよりは当初緩やかな部族連合に近い形で存在していて、旧約聖書で言われるところの「士師」達によって統制されていた社会であったかもしれない。
 
その後、まさに没薬や乳香の産地にカタバーン王国、アウサーン王国、ハドラマウト王国、そしてマーイン王国が誕生した。これらが紀元前8世紀頃に興隆したと言われている。ギリシアの天文・地理学者エラトステネス(紀元前276年〜194年)は、セム族系の古代イエメン4部族としてマーイン人、シバ人、ハドラマウト人、カタバーン人を挙げている。
 
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サバ王国の興隆については、実は以前述べている ↓
 
 
 
サバ王国についての最古の記録は、ユーフラテス沿岸の町ハディーサで発見されたメモ書きのような碑文で、紀元前8世紀頃にシュフとマリの行政官がアブ・ケルマール付近でサバとタイマーから来たキャラバン隊を襲ったというものだ。
 
調べている内に以下のページにも同じ記録についてもっと詳細な事を紹介していたので以下に引用する。
 
 
「ユーフラテス川(駐留のスフ(Suhu)およびマリ(Mari)の知事によって駱駝の隊商が捕らえられた」と記述されている。

タイマーと古代シバから来た100名の人達を従えたこの隊商は200頭の駱駝から成り、羊毛、鉄、雪花石膏および青ムラサキ色に染めた羊毛を運んでいた。ところがこの隊商は通行料を支払わなかったので捕らえられた。雪花石膏を除けば、これらはアラビア半島南部の典型的な産物では無かった。

ホネガイの殻で染めた紫の羊毛はフェニキア人が扱う産物である。鉄はアラビア半島南部の輸出品としては知られていない。しかしながら、アナトリアおよびレヴァントに鉄の産地がある事は知られている。

「乳香の道の重要な中継地である古代シバ国およびタイマーの交易業者は彼等の香料をレヴァントでフェニキアの織物、鉄等と交換し、それからアッシリアで産するこれらの品の幾つかと交換する為に、東へ向かって旅をした」と言われている。
 
ルート的にはこんな感じだろうか?
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また、以前の記事では遠隔交易を営む商人達に加え、国家間どうしの取引として、新アッシリアとサバ王国の間に朝貢関係が存在していたと書いた。
 
 
古代の記録として2人のシバ王国の王がアッシリア帝国(新アッシリア時代)に貢物をしていたとされるが、サバ王国側の王名表と照合すると、おそらく次の2人の王になる。
 
紀元前715年頃:
イタマール・ワタール1世(サバ王国側資料)イタムラ王(アッシリア側資料)
 
紀元前685年頃:
カリビル・ワタール1世(サバ王国側資料)カリビル王(アッシリア側)
 
 
 
どんな人物だったのか?
 
イタマール・ワタール1世
イタマール・ワタール1世については、イエメンのシルワー(Sirwahにある月の神Almaqahから発掘された碑文に言及がある。これは彼の後継者であるカリビル・ワタール1世の碑文なのだが、イタマール・ワタール1世の治世に戦争によって様々な土地を獲得したことが書かれている。
 
彼は、まずカタバーン王国の王ヴァラド・アム(Walad 'Amm「月の神アムの息子」)を倒し、その勢いでカタバーン王国南西部地帯から、都市TimnaRadman, Ru'ayn 、そしてYahiriなどの地方、そしてアウサーン王国の中心地であったWusrを征服したとある。、更にサバ王国の北方にある都市国家カミナフ(Kaminahu)の支配下にあったナシャン(Naschan)とマンヒヤト(Manhiyat)を開放(?)し、カミナフそのものも支配下においたと記録している。
 
 
カリビル・ワタール1世
カリビル・ワタール1世は、古代南アラビア半島史におけるサバ王国で、最も重要な王になる。彼の活動は特に前述のシルワー(Sirwah)にある月の神Almaqah神殿の碑文から読み取ることが出来る。比較的長いこの碑文は2つあり、考古学上の資料としては一方をRES 3945、そして他方をRES 3946と呼んでいる。RES 3945では灌漑施設などの建設と軍事遠征についての報告であり、RES 394もやはり建設事業と征服した土地などについての報告で、当時の南アラビア半島における政治情勢について分かる数少ない資料の内の一つである。
 
 
一方で、アッシリア側の資料がある。
 
ティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744年〜紀元前727年)
タイマーからの朝貢を受け取ったとの記録がある。
 
サルゴン2世(紀元前721年から705年)
サルゴン2世が行った軍遠征のうち、紀元前716年にエジプト東部のシナイ半島にある都市アリシュに行軍し、軍事要塞を築いた時に、様々な貢物をシバ王国が贈ったという。つまりは『粉塵の様な形の黄金、宝石、象牙、黒檀の種、全ての種類の芳香物質、馬および駱駝をシバのイタマール・ワタール1世から受け取った』というものだ。
 
センナケリブ(在位:紀元前705年〜紀元前681年)
このセンナケリブと言う呼び名は旧約聖書のヘブライ語記述をさらにギリシア語訳したものに由来する慣用表記で、実際はアッカド語における表記シン・アヘ・エリバ(Sin ahhe eriba)で、意味は「月の神シンが兄弟の代わりに我を与えた」というものである。アッシュールに神殿を建てたのを記念した基礎の碑文にセンナケリブは『シバの王カリビルから贈られた宝石と素晴らしい香辛料を神殿の基礎の上にばらまいた』と書き記している。
 
 
紀元前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスによると、エジプトに対して軍事遠征を行ったセンナケリブに対して「アラビアとアッシリアの王」と述べている。また、バーレーンで発掘された最古の入植跡から、センナケリブがアラビア北東部を攻略し、バーレーンの島々を手中に収めたことを示唆しているそうだ(ウィキ)
 
 
アッシリアへの朝貢は円滑な交易を保証する為の交易税又は賄賂であったと考えられるが・・・
 
 
当時、アラビア半島西南部の地域は戦国時代・・・。
 
 
おそらく軍事同盟を背景としたものであったに違いない。
 
 
何があったのか? 
 
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クシュ王国の中心が時代とともにケルマから南方のナガタに移り、そしてナガタからさらに南方のメロエに移るにつれ、文化的にエジプトから独立したクシュ王国は、独自の文化を開花させていった。その変化は、クシュ王国独自のメロエ文字誕生にもみることができるが、それは独立した発展をたどったのではなく、おそらく交易を通じてこれまで関係の薄かった他の文化圏との接触も大きな要因だったのではないだろうか。
 
前回、マーラーさんから「聖書アラビア起源説」との関連を聞かれたが、僕がヌビア地域にこだわるのは、まさに今日の記事で取り上げる「言語」と「文字」の問題やY染色体の分布図をみるとアラビア半島南西部とアフリカ東岸(ヌビアはもっと奥地だが)にはどうしても何らかの関係あるよう思えるからだ。
 
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そして、インドとも・・・
 

ヌビア人が話したメロエ語

メロエ語とは、およそ紀元前1000年から紀元前750年の間にヌビア(現在のスーダン)で成立したクシュ人の王国で話されていた言語である。この「メロエ語」という名前はクシュ王国の中心地がメロエに遷都されはじめた紀元前6世紀頃を考えると、誤解を招きやすいのだが、すでに紀元前1000年頃にはヌビアでは日常会話として話されていた言語とされている。つまり、ヌビア語と呼んだ方が適切なのかもしれない。
 
記録としてはエジプトの文字ヒエログリフで編集され、紀元前800年頃の古代ヌビアの碑文はほぼ全てヒエログリフを用いて書かれているそうだ。しかしながら、ヌビアの人名研究などが進み、メロエ的な特徴をもつ名前や地名、そしてフレーズなどはエジプト新王朝時代から存在していたとも考えられている。
 
その一方で、「メロエ文字」の発展は遅れて興った。もともとクシュ人の王国の中心地はナパタであったが、紀元前300年頃に、現在のハルツームの北のメロエに中心地が公式に移された。当時エジプトに対する文化的な依存度が低下したが、同じ頃に独自の文字、メロエ文字による表記法が発展し、メロエ語が公的な記録に使用されだしたことからも、そのことが伺える。
 
 

奇妙なメロエ文字

メロエ文字は、クシュ王国メロエ王朝において少なくとも紀元前200年頃までメロエ語を書き記すのに使用されていた。またおそらく、後継者である諸ヌビア王国で古ヌビア語を記すのに使用された。メロエ文字は所謂「アブギダ」、「アブジャド」、「アルファベット」という文字体系の中で、セム系の文字である「アブジャド」とインド系(ブラーフミー)文字である「アブギダ」の性質を併せ持つような不思議な文字だ。
 
ちょっと訳が分からなくなると困るので整理しておこう。
 
音素文字は原則として1字が1音素(発音の最小単位)を表す文字で、最初に僕らが知っているアルファベットの体系を想像してもらってかまわないだろう。ただし、「a」や「e」のような母音や「h」や「s」のように子音をどのように体系に取り組んでいるかで3つのグループに分けることができる。
 
 
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「アブジャド」はセム文字系であり、ヒエログリフを簡略化することによってつくりだされた原シナイ文字 (紀元前1500年頃) の一派であったと言われている。しかし、原シナイ文字がアルファベット体系の中で最も古い文字かと言えばそうでもない。上エジプトで比較的ヌビアの影響も濃いテーベ周辺で原シナイ文字と近似のワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年頃)も発見されている。
 
楔形文字(シュメール文字)は紀元前2500年頃には1000文字あったとされるが、その後500年間の内に400文字に簡略された。その後も簡略化の努力は続けられた。こうしたプロセスの中で母音を捨てられ、フェニキア文字の誕生で覚えるべき字形が22までに減った。フェニキア文字は、まさに広く使用されるようになった最初のアブジャドであり、広範囲に海洋貿易を営む民によって生み出された言語といっていいだろう。
 
このプロセスはギリシア語のアルファベットを誕生させ、また広域で利用されたアブジャドのアラム語は、中東を経てインドまで到達し、そこで今度はブラーフミー文字を発展させた。ブラーフミー文字はアブギダである。このブラーフミー文字は子音の音価と暗黙に続く母音の音価を保持することで音節を表現する。この辺の分け方は正直良く分からないが、アブギダが紀元前6世紀頃インドで誕生したことはチェックしておきたい。
 
ひるがえって、ヌビア地域ではアブジェドでありながら、アブギダとしての性格をもつメロエ文字が誕生したわけだが、おそらくインドで生まれたアブギダが、インド洋の海洋交易路を経てアフリカ東岸に達し、エジプトとの国交がほぼ断絶していたヌビア地域の文字形成に影響を与えたのかもしれない。
 
                      文字の変遷
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 文字の広がり
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また、同じようにアラビア半島南西部のサバ王国や、後のヒムヤル王国からアブジャドである南アラビア文字がエチオピアの紅海沿岸にもたらされ、ゲエズ文字となった。このゲエズ文字も当初はアブジャドであったにもかかわらず、西暦300年頃になるとインドのブラーフミー文字や隣のメロエ文字などの影響を受けてアブギダに変化し、これまで右から左に書かれた文章も、左から右へと書式を変更している。
 
ウィキペディアには次のように書いてある。
アブギダとそれ以外の音素文字体系との間の明瞭な線引きは難しい。歴史上中間的な文字はいくつも生まれている。たとえば古代ヌビアのメロエ文字は、随伴する a を示さない (ひとつの記号が m と ma の両方を表すなど) ため、ブラーフミー系文字のアブギダに似ている。しかし、他の母音は完全な字で示し、ダイアクリティカルマークや変形では示さない。したがってこの文字体系は、本質的にはアルファベットに近いがある母音を表記しないものであったと言えよう。
 

文字の分類はそもそも正しいのか?

世界最古の音素文字をめぐってはヒエログリフから派生したと考えられる「原シナイ文字(紀元前1500年)」であるとか、「ワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年)」であると言われている。それがフェニキア語の祖である原カナン語に発展したとあるのだが、若干の違和感を覚えずにいられない。
 
カナン人がフェニキア人の祖であったことは、おそらく間違いないと思われるのだが、この原カナン文字は、フェニキア文字と似ているようにはとても思えない。どうだろうか。ヒエログリフが原カナン文字の由来というのはその類似性から容易に想像できるのだが、そこからフェニキア文字への発展段階には、もう何段階かの発展過程がないと説明しにくいような気もする。
 
フェニキア文字は22字の文字を持つ純粋なアブジャド(母音を表す記号がない)である。つまり、子音を表現する文字のみから構成される文字体系で、実際にどう読んだかは分からない。このフェニキア文字からは最初に分岐したと考えられるのが、古ヘブライ文字で、おそらく「紀元前10世紀頃に話されていたと考えられるヘブライ語」を表現するのに使用されたと言われている。
 
一般的・・・といっても聖書を史実と受け止める場合、古ヘブライ語はイスラエルの滅亡やバビロンの捕囚などでフェニキア文字から派生したと思われるアラム文字に取って代わられ、その後、再びアラム文字をベースとして現在のヘブライ語が出来たというのが・・・どうも怪しい。
 
 
疑惑の一つ目は; フェニキア文字と古ヘブライ語ってそっくり!
・・・
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驚くほどに・・・と言うか、ほとんど違いがない・・・
 
 
・・・って言うか同じでしょ? これは・・・。
 
 
つまり、紀元前10世紀以前、モーセも苦手であったヘブライ語はすでに存在していなければならないわけで、当然十戒の石板もヘブライ文字ではなく、フェニキア文字と同じ「古ヘブライ語」でなければならない。これは聖書に都合の良い箇所は「古ヘブライ文字」であり、それ以外は「フェニキア文字」と呼んでいるような気がしてならない。
 
 
疑惑の2つ目は; アラム文字とヘブライ文字ってそっくり!
 
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・・まぁ、イエスもアラム語を話したと言われているが無理もないが、バビロンの捕囚後、密かにヘブライ語を伝承してきたユダヤ人たちが再び「ヘブライ語」を復活させたというストーリーはどうも怪しい。
 
ウィキペディアには次のように書いてある。
帝国アラム文字の影響
紀元前7世紀頃から新アッシリア帝国で行政言語としてメソポタミア全土で使用されるようになったアラム語・アラム文字(帝国アラム文字)は、続く新バビロニア帝国、ペルシア帝国においても行政言語・共通語の役割を担い、周辺の諸言語にも多大な影響を残しているが、ヘブライ文字にもその直接の影響を与えている。アッシリアの北イスラエル王国の征服と新バビロニアによるユダ王国の征服、バビロニア捕囚、キュロス王による帰還政策とそれに続くペルシア帝国時代に、帝国治世下のセム系諸民族は軒並み帝国アラム文字の使用に移行したようである。バビロニア捕囚の後もイスラエル王国系の北南の地域では、一部それまでの古ヘブライ文字が使用されていたようだが、この時期からアラム文字によってヘブライ語を筆記するようになり、ヘブライ語自体も徐々に文語化し日常の口語はアラム語へと移行したのではないかと考えられている。

このアラム文字に遷移した後のヘブライ文字を方形ヘブライ文字 (Square Hebrew script) または単に「方形文字」と称する。

方形ヘブライ文字の展開
ハスモン朝が成立する紀元前2世紀から紀元前1世紀に制作がはじまったと考えられるクムラン出土の死海文書では、単語末に形状を変化させる k の(ך)カフ・ソフィート、 m の(ם)メム・ソフィート、 n の(ן)ヌン・ソフィート、p の(ף)ペー・ソフィート、ṣ の(ץ)ツァディ・ソフィートが出現している。しかし、これは同じ時期のパルミラ文字などの他のアラム語資料でもまったく同様の形態変化を起こしているので、方形ヘブライ文字だけではなくこの時期の西部のアラム文字系全体の変化と連動した、同一の現象と考えるべきだろう。

死海文書などを見る限り、紀元前後のユダヤ人の文字は聖典、俗文書を問わずほぼアラム文字系である方形ヘブライ文字に移行したようであるが、死海文書中では神名である「YHWH」など若干の単語を古ヘブライ文字で書き分けている例が随所で見られる。また後代のラビたちもこれらの文字を「ヘブライ字(ketāb 'ibrī)」と称しているため、バビロニア捕囚後も一部古ヘブライ文字は生き続け、この時期には現行の「方形ヘブライ文字」と「古ヘブライ文字」との峻別・併用・使用上の差異が存在したとみて間違いないだろう。

蛇足ではあるが、北イスラエル王国領であったサマリア地域でも同様に古ヘブライ文字が生き続け、紀元前3世紀頃には古ヘブライ文字に装飾的な要素を加えた独自のサマリア文字の祖形が出来上がったようである。中世のサマリア文字は死海文書中の古ヘブライ文字と近似している。

 
・・・
古ヘブライ語と近似している・・・と言うのは要するにフェニキア文字と近似している・・・と同義だ。サマリアは聖書にも登場する北イスラエルの首都であったので、無理やり古ヘブライ語としているようだが、フェニキア文字と呼んではいけないのだろうか?
 
 
ふむ。。。
 
 
だいぶ話がそれてしまったが、言語を中心としてぼんやりとしたエチオピアとインドの関係についてスポットをあてようと試みたのだが・・・・結局ぼんやりとしたままだ。
 
次回はアラビア半島の古代史にいこう。
 
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海外出張でだいぶ間隔あいてしまった・・・。
 
前回はこちら ↓
 

クシュ王国メロエ王朝

メロエ王朝の誕生時期については、いろいろと議論が分かれている。政治的機能はすでにアスペルタの治世(紀元前6世紀初頭)からメロエに遷都されたようだが、宗教的機能は引き続きナイル川下流のナパタに残り、王もナパタに埋葬された。
 
一般的にメロエ王朝の初代王として知られているのはエルガメネスErgamenes:紀元前280年頃)だ。彼については、ギリシア人歴史家ディオドロス(紀元前100年頃)によって言及があるなど、当時他の古典文献に登場する数少ない王の一人である。ディオドロスによればメロエ王朝のエルガメネスはギリシア哲学者によって教育を受け、ヌビアの司祭を拒んだという。更に彼によれば、かつては慣習によって司祭が“王がいつ死ぬべきか”が決定していたが、王はこの命令を拒み、神殿に軍隊を送りこんで司祭を殺したという。
 
 
司祭が王の死ぬべき時を決定していたと言う話は興味深い。ジェームズ・フレイザー著の『金枝篇』を想起させ、再生を繰り返すアドニスのような植物信仰が根底にあるような気もする。ウィキの「王殺し」の記事を拝借すると
ヨーロッパでは、古代においては宗教的意味をもって王を殺害する習慣があったとする説がある。これは、王が本来人間の身でありながら、宇宙の秩序を司る存在として君臨していたことに由来し、そのための能力を失った王は殺害して新たな王を擁立して秩序を回復させる必要があると考える。
 
 
この逸話の信憑性については定かではないが、彼によって新しいヌビアの時代が幕を開けたのは確かである。メロエはそれ以前にもクシュ王国の首都であったことはあるが、エルガメネスはメロエにピラミッドを築き、そこに自身を埋葬させた最初の支配者であった。それまでは、前回の記事にも書いたが、それまで宗教的な中心地はナパタであり王の戴冠式や埋葬はすべてナパタでされていたのだった。
 
その後の王については、ほとんど知られておらず、ピラミッドからの碑文から名前を読み解くのが精一杯だ。おそらく紀元前220年頃の王であっただろうアルネハマニArnekhamani)は、大きな神殿をハルツームから北東190kmほどいったal-Musawwarat as-sufraに築いている。それを見る限りは、エジプトの文化の影響は大きく後退したことが見てとれるようで、他方ギリシア文化の影響も受けながら独自のメロエ文化や芸術が花咲いていたことが分かる。そして、ここは新たな宗教センターになっていたことが、巡礼者が残したと思われる碑文などによって考えられる。
 
                    Mussawarat en Sufra 
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カンビュセス率いるペルシア軍の侵攻を防いだヌビアだが、考古学的証拠から、メロエ朝時代のクシュ王国がプトレマイオス朝エジプトに対して軍事侵攻を企て、下ヌビア地域あたりを占領したとも考えられている。アディハラマニ王BC207186)とアルカマニ王BC200頃)にはアスワンの近くに神殿も建設しており、少なくともその周辺は当時ヌビアの占領下にあったことが伺える。また、そこにはアディハラマニ王の碑文も残っているのだが、それがヌビアの王についてヒエログリフで記された最後の文書である。
 
世界史における時代の中心はギリシアやローマに移行しつつあり、歴史の教科書ではほとんど言及されることはないのだが、エジプト南部においては、エジプトとヌビア勢力の攻防がいたるところで展開していたと考えられる。
 
 
記録されているメロエ朝王の記録の中でも、シャナダヘト(ShanakdakhetoBC170-BC125最初の女王である。メロエのピラミッド群の中でもひときわ大きなピラミッドが彼女のために建設され、チェペルにある2つの小部屋は芸術性の高いリリーフで装飾されていたと考えられ、南部への軍事遠征によって数多くの牛と奴隷を得たことが描かれている。自らを「ラーの息子」、「2つの国の支配者」という称号を持ち、ナショナル・ジオグラフィックスによれば、史上最も重要な女王50の中に入る要チェックの人物だ。ナカで発見された彼女の名前が書かれた碑文は、現存するものではメロエ文字で書かれた最古のものである。
 
                 女王シャナダヘトのピラミッド
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彼女の治世の後、アマニレナスAmanirenasBC40 -BC10)やアマニスハヘトAmanishakhetoBC10 -BC1)などメロエ王朝では度々女王が支配者となった(7人ぐらいだろうか?)。聖書の使徒行伝や地理学者ストラボが述べているエチオピアの女王カンダケは、どうもアマニトレ(AmanitoreBC1AC20)であると考えられている。
 
 

メロエの都市と神々

メロエの都市は3つの構成要素があった。王宮や行政などの重要な建物を城壁で囲むようにつくられたロイヤルシティアメン神の複合神殿、そして一般市民が住む居住区だ。ロイヤルシティの王宮には所謂“ローマ風呂(公衆浴場)”があり、装飾などから古典ローマの影響がみられるとされる(温泉自体はもっと古くから普及していたと考えられる)。メロエのピラミッドと居住区の中間には太陽神殿がある。
 
メロエではナパタ時代、あるいはもっと以前から信仰されてきたアメン神がそのまま最高神として信仰されていた。角がある羊の姿で描かれたアメン神はケルマ時代の太陽神として機能をもっていたことが確認できている。野生羊姿のアメン神は、エジプトの軍事遠征によってヌビアを征服した時にエジプトにもたらされたと考えられている。いわばヌビア・オリジナルだ。メロエ語では「アマニ」と呼ばれ、アマニを名前に冠する王も多数出たTanwetamaniSenkamaniskenAnlamaniArkamaniAmanitoreAmanishakheto、そしてNatakamanなど)。
 
さらに、アメン神は時代と場所によってその姿や添え名は変化したらしい、カワでは「南の獅子」という添え名がつき、かつてライオンの姿の神であったことも示していおり、メロエ朝時代には羊の他にもライオンの姿でも描かれている。またメロエ朝時代にはアメン神が太陽を司るのではなく、稀にだが「月の神」であったことを示す碑文も発見されている。また、第25王朝のピイを見ても分かるようにテーベのアメン神が彼の妻ムートや息子コンスなどと一緒に崇められていたこともある。
 
メロエ朝時代にはアメン神の他にも次のような神が信仰されていた。
 
アペデマク(Apedemak) 獅子神
この神も頭がライオンで身体が人間という姿で、弓と矢筒と一緒に描かれている。戦争と豊嬢の神であり破壊と創造の力をもつとされている。ナカにあるライオン神殿の裏の壁には、3つの頭と4つの人間の手をもつアペデマクが描かれており、インドの影響もみられというが・・・どうだろうか。
 
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また彼は頭がライオン、上半身が人間、下半身が大蛇という姿でも描かれているとなると、ゾロアスター教やミトラス教のズルワーン、グノーシス主義のアイオーンと重なる。
 
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アメセミ(Amesemi)女神
獅子神アペデマクの妻だが、人間の姿で描かれている。ライオン神殿の側面にイシス、ムト、ハトホル、サティスとともに描かれている。この4人の女神たちに思いつきで並んでいる訳でも、美人コンテストをしているわけでもない。この女神達にすべて共通して『ラーの目』と関係がある。これらエジプトの4女神に比べてヌビアの女性らしくぽっちゃりと描かれているアメセミも、おそらく太陽神ラーと関係があったに違いない。タブンね・・・。
 
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アレンスヌフィス(Arensnuphis) プトレマイオス朝
彼の名アレンスヌフィスはギリシア語に由来するが、古エジプト語では「良き伴侶」を意味する「Iri-hemes-nefer」である。これは特にプトレマイオス時代の下ヌビアの神殿などでエジプトの神シューの添え名としても見受けられ、雌ライオンの顔をもつテフヌトの兄弟、もしくは夫として、伝説によればヌビアからエジプトに来たと考えられている。アレンスヌフィス自身は人間の姿で描かれているのだが、ごく稀に吠えるライオンとして描かれていることがある。
 
アスワン近郊にあるフィラエ神殿では、彼には「美しい狩人、プントの主人」という添え名がつけられている。さらに「大風」、「北風とした来た者」、「ヌビアから来た者」、「天の創造者」、「ラーの後継」などがある。ギリシア神話にてこのアレンスヌフィスに対応するのはアルテミスと言われている。
 
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ふむ。。。
 
 
エジプトの伝説にある「ヌビアに逃亡する雌ライオンの顔をした女神」の由来の手掛かりを得ようとしたのだが、今回は残念ながらえられなかった。少し気になるのは、メロエ朝の時代でも上下統一を象徴する王冠があちらこちらで登場する。ひょっとしたら僕たちはこの王冠をとんでもなく間違えて解釈してしまっているのではないだろうか・・・。
 
 
ところで、メロエ王朝の時代で注目されるのが彼らの交易についてだ。
 
 
海上交易への道
メロエ王国の時代には、発掘される遺物などからもギリシア商人との盛んな交易がされていたと考えられており、それがナイル川を経由するルートではなく、アフリカ東岸の紅海から輸出し、そしてギリシア人植民都市と交易していたと考えられている。更にはアラビア半島南部を経由して、インドとも接触しおり、ヒンドゥー文化もこの時期流入してきている。
 
前回、前々回とメロエの鉄産業について少し紹介したが、実際メロエが「アフリカのバーミンガム」と呼ばれるほど鉄鋼産業が盛んであったかは今後の調査を待たなければならないだろう。しかし、鉄以外にも金や宝石をはじめ、メロエ産のコットン繊維なども海上交易の商品として広範囲に取引されていたと考えられている。
 
交易をする際に重要なのは相手側とのコミュニケーションだが、所謂メロエ文字と言われる文字は、フェニキア文字の発展と同様に商業的展開の必要性から生まれたものだろう。
 
 
そして・・・、この文字だが、
 
その交易の特性を示すようにインドからの影響もあるようだ。
 
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クシュ王国メロエ王朝について書く前に、前回あっさりとスルーしてしまったアケメネス朝ペルシアのカンピュセス王のクシュ王国侵攻(BC525年頃)について述べておこう。この時代の出来事を伝承する文献としては、その真贋はさておきヘロドトスの『歴史』が重要だ。
 

カンビュセス、クシュへスパイを送る

エジプト攻略後、カンビュセスは3つの遠征を計画した。目指す相手はカルタゴ人、アンモン人およびリビアの南の海に面する地域に住むエチオピアの「長命族(マクロピオイ)である。計画をめぐらしてやがて決定した方針は、カルタゴには海軍を、アンモンには陸上部隊から選抜した部隊を派遣すること、エチオピアへは先ずスパイをおくり、その王に贈物をするという口実の下に、エチオピアにあると伝えられる「太陽の食膳」なるものが真実あるかどうかを見届けさせ、そのほかにもいろいろと探らせることでああった。
 
                 エジプトを攻略したカンビュセス
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『太陽の食膳』とは次のようなものであるという。町はずれに草原があって、ここにあらゆる種類の四足獣の肉を煮たのが一面に置いてある。実は町のその時々の係りの者が、夜の内にこの肉を草原に丹念に並べておくのであるが、昼間は誰でも勝手に行ってそれを平らげる。土地の住民は、大地がいつも自然にこの食物を産み出してくれるのだといっているそうである。いわゆる『太陽の食膳』とはこのようなものだといわれている

カンビュセスはスパイを派遣する決意を固めるとすぐに、エチオピア語を解するイクテュオパゴイ人エレパンティネの町から呼び寄せることにした。(中略)
 
このイクテュオパゴイ人「魚を食う人」という意味でヘロドトス、パウサニアス、アッリアノス、プリニウス、ストラボン、そしてプトレマイオス(ローマ天文学者)など古代の歴史家や地理学者などの著書に登場する。彼らが住んでいる地域は、ペルシア湾や紅海沿岸地域など報告する者によって様々であるが、プリニウスによれば端から端まで船で30日やアッリアノスによれば1万スタディオン(1800キロ)であったとされている。おそらく海上交易を生業とした民族であり、基本的にはアラビア語を話したとされている。
 
 
イクテュオパゴイ人がエレパンティネに到着すると、カンビュセスはエチオピアで述べるべき口上を彼らにいい含め、紫の衣裳、黄金の頸飾りや腕輪、雪花石膏の香油壺、椰子酒一甕などの贈物をもたせて、エチオピアへ遣わした。

カンヴュセスが使節を送った当のエチオピア人というのは、世界中で最も背が高くかつ最も美しい人種であるといわれている。その風習は多くの点で他の民族と異なっているが、ことに王制に関して次のような慣習がある。全国民の中で最も背丈が高く、かつその背丈に応じた膂力をもつと判定される者を、王位に就く資格があるとするものである。

さてイクテュパゴイ人の一行はこの国へ着くとその国の王に贈物を献上し次のように述べた。

「ペルシア王カンビュセスは、貴王と親交を結ぶことを念願され、貴王に拝謁いたすようにと我らを遣わされました。これなる王からの献上品は、王自身も殊に愛用しておる品々でございます。」


しかしエチオピア王は彼らがスパイとして来訪したものであることを看抜いて、次のようにいった。


「ペルシア王は何も予と親交を結ぶことを大切と考えて、そなたらに進物を届けさせたのではない。またそなたらは真実を申しておらぬし−そなたらが来た目的はわが国の実情を探るためであるからな-、あの男も正義の人物とはいえぬ。ペルシア王が正義の士であるならば、自国の領土以外に他国領土を望むことはなかったであろうし、何の害も加えてこぬ民族を隷属させるようなことはしなかったであろうからな。

そこでこの弓をあの男に手渡し、次のようにいってやれ。エチオピア王はペルシア王に忠告する。ペルシア人がこれほどの大弓を、このように易々と引けるようになったら、その時こそわれらに優る大軍を率いてこのエチオピア長命族を攻めるがよい。しかしそれまではエチオピアの子らの心に自国領以外の国土を獲得する願望を起さしめ給わぬ神々に感謝するがよい、とな。」

エチオピア王はこういうと弓をゆるめ、これを来訪者たちにわたした。王はそれから紫の衣裳を手にとって、それは何か、またどうして作るのかと訊ねた。イクテュオパゴイ人が紫や染色についてありのままを答えると王は、ペルシア人は人間もいかさまだが、その身につけるものもいかさまだといった。
 
確かにヌビア人は弓の名手として古来より知られているが、弓を引かせるというストーリーは同じくヘロドトスが紹介してリウスキタイ起源説ヘラクレス編にも登場する。・・・なんか創作臭いな・・・。
 
 
紫の染め物については以下を参照ください↓
 
   
王は次に頸輪と腕輪などの金製品について問うたので、イクテュオパゴイ人がそれらの装飾品について説明すると、王は笑い、それを枷と思っていたので、自分の国にはこんなものより頑丈な枷があるといった。
 
金より頑丈なものとは何か?金はもともと柔らかい金属なので、それよりも頑丈なものとして青銅や鉄の可能も考えられる。前回の記事ではメロエが、鉄の一大生産地であったことについて否定的な見解を紹介したのだが、やはり鉄の生産地であった可能性も捨てきれない。例えばこんな記述もある
 
 
ナパタ時代の後期,紀元前1千年紀中頃には鉄器生産が始まっていた可能性があるが,王宮においてさえ鍛も日常の道具もほとんどは石器であった(Kendall 1996) 。それに対して,メロエにおける鉄器生産は出土したスラグの量からみて,鉄原料ならば5000 トン,鉄製品ならば2500 トンにのぼると推定されているのである。これが約500年間の集積であるとしても,年間5 トン以上の鉄製品が作られていたことになる(Rehren 2001) 。これだけの鉄を生産するには,燃料となる木炭が大量に必要となる。
http://www.janestudies.org/drupal-jp/sites/default/files/JANES_NL_J_no17(2008)_7.tsujimura.pdf 
 
 
3番目に王は香油について質問したが、使者がその製法やそれを体に塗りつけることなどを話すと、王は衣裳についていったのと同じ言葉を繰り返した。

さて、話が酒のことに及びその製法を聞いた王は、大層気に入り、王は何を常食としているのか、またペルシア人は最大限どれほど生き延びるのかと訊ねた。使者は王がパンを常食としている旨を答えて、小麦がどのようなものかを説明し、ペルシアでは80年が最高寿命であるといった。
 
するとエチオピア王がいうには、糞便を常食していては寿命の短いのも驚くに当たらない。実際ペルシア人はこの飲物で元気をつけることがなかったら、それだけの寿命も保てまい、イクテュオパゴイ人にその酒を指し示しながらいった。さすがのエチオピア人も、酒の点でだけはペルシア人に兜を脱ぐというのである。

今度はイクテュオパゴイ人が王に向かって、エチオピア人の寿命や食事について質問すると、エチオピア人の多くはその寿命が120歳に達し、これを越えるものもあること、肉を煮て常食とし、飲物は乳であると王は答えた。スパイたちが寿命の話に驚いていると、王は一同をある泉に案内したが、この泉で水浴すると、さながら油の泉につかったように、肌が艶やかになった。

この泉は菫のような芳香を発していたという。スパイたちが語った話によれば、この泉の水は実に軽いので、水面にうけ部ことができるものは何一つなく、木も木より軽いものも浮かぶことができず、みな水底に沈むという。実際その話にあるような水がエチオピアに実在するとすれば、この水を常用しているエチオピア人が長命なのは、そこに起因しているかもしれない。
 
・・・“油の泉につかったように”って、水より軽いんだからやっぱり油か?スーダン地方は石油の産地でもある。いずれにせよ、メロエ王朝はローマから大衆浴場の文化を取り入れたようなことが書かれたあるが、水浴的な習慣はヌビアにすでにあったということなのだろう。
 
 
泉を離れると今度は牢獄へ案内されたが、ここでは囚人がみな黄金の枷を掛けられていた。このエチオピア人の国では、青銅が最も珍しく貴重なものなのである。牢獄見学の後、スパイたちはいわゆる「太陽の食膳」も見物した。

「太陽の食膳」を見学した後、最後に彼らが見たのはエチオピア人の棺で、これはヒュアロスという透明な石材を用いて、次のようにして製造されるという。エジプト式あるいはその他の方法で死骸を乾燥させた上、全身に石膏を塗り、その上からできるだけ本人の面影に似せて、その姿を描くのである。それから中をえぐったヒュアロス製の柱の中へ遺体をおさめる(ヒュアロスは細工し易い石材でこの国では多量に採掘される)。

遺体は石柱の中に収まっていても透きとおって見え、何らの悪臭も放たず、その他不快の種となるようなことを示すことも決してない。そしてその遺骸は、五体こごとく加工を施す前のままの姿で現わしている。この石柱は、使者に最も近い縁者が一年間自分の屋敷に置き、さまざまな動物を供え生贄をささげる。一年たつと家から運び出して、町の周囲に立てるのである。
 

カンビュセス 進撃と「カンビュセスの籤」

以上の視察を終えて、スパイたちは引き返していった。彼らから以上の報告をきいたカンビュセスは、大いに怒ってただちにエチオピアに向って兵を進めたのであるが、あらかじめ糧食の準備を命令することもせず、また自分が地の果てに兵を進めようとしていることを考えてもみなかった。カンビュセスはもともと気違いじみた性格で、冷静さを欠く人物であったので、イクテュオパゴイ人の報告をきくや否や、麾下のギリシア人部隊にはその場所で待機させ、全陸上部隊を率いて遠征の途に上ったのであった。

軍を進めてテバイに着くと、カンビュセスは遠征軍の中から5万を選抜し、アンモン人を征服してゼウスの託宣所を焼き払うことをこの部隊に指令し、自分は残りの部隊を率いてエチオピアへ向った。

しかし彼の軍隊が行程の5分の1も踏破せぬうちに、携帯の食糧はことごとく尽き、糧食についでは軍需品輸送用の動物も食い尽してしまった。この情況を知ったカンビュセスが、もしこの時自分の誤算に気付き、軍を返していたならば、最初の過失はともかくとして、彼は賢明であったといえるであろうが、彼はこの惨状を全く意に介さず、ひたすら先へ先へと進んだのであった。

兵士たちは地上に草の生えている限りは、これを食って生き延びたが、いよいよ砂漠地帯に入ると、彼らの内で戦慄すべき行為に出るものが現われた。すなわち十人一組で籤をひき、籤に当った者を一人ずつ食ったのである。カンビュセスもこのことを知ると、全軍が同胞相食む惨状に陥ることを恐れ、エチオピア遠征を中止して退却したが、テバイに着いたときには麾下の兵士多数を失っていた。
 
 
このヘロドトスが語るカンビュセスのクシュ遠征の顛末は、「ドラえもん」の藤子・F・不二夫が書いた異色の短編漫画「カンビュセスの籤(くじ)」にも登場する。藤子・F・不二夫の短編漫画を見ると、あらためて昔のマンガ家は凄いと思う。Wikiにはストーリーが掲載されているが、「食のタブー」もどこ吹く風、絶対読みたくなることうけあいだ。
 
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ただ、前回の記事でも触れたが、実際の歴史ではペルシア軍とクシュ軍の戦闘はあったようだ。これほど悲惨の結末という訳ではないのだが、ペルシア軍は撤退を余儀なくされた。
 
次回こそのその後のクシュ王国 メロエ王朝だ。
 
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前回の続き ↓
 
アッシュールバニパルにテーベを奪取されて、エジプトへの支配力を失ったクシュ王国だが、アッシリア軍がヌビアまで進軍することはなく、タヌトアメンはナパタの地でクシュ王国の支配者として統治を続けた。そして彼の死をもって第25王朝が終焉となるわけだが、それはあくまでエジプト側の視点であって、クシュ王国はその後も連綿と続く。
 
クシュ王国とアッシリア帝国の戦いもまだ続いた。タハルカがヌビア地方に戻った後、下エジプトではリビア系と見られるサイス朝のネコ1がアッシリアの傀儡政権となった。しかし、間もなくネコ1世は下エジプトの諸侯と同盟を組み、アッシリアへ反旗をひるがえした。しかし結局敗れ、ネコ1世はニネベに連行され、再度アッシリアへの忠誠を誓わされた。
 
その後、タハルカの後継者タヌトアメンが下エジプトに攻め込んだ時、サイス朝のネコ1世は、紀元前664年にクシュ軍との戦いの際に殺害されたと伝えられている。ネコ1世の子であるプサメティコス1世はシリアに亡命し再起をはかることにしたが、その後、アッシュールバニパルによってクシュ軍がまたしても追い払われると、プサメティコス1世はエジプトの支配者としての地位を手に入れることになる。
     
 
その後、『アフリカ周航』や『ナイル川から紅海までの運河建設』、そして旧約聖書の『メキドの戦い』など、何かと有名なネコ2が後を継ぎ、その後プサメティク2世と続く。このプサメティク2世は6年という短命政権にもかかわらず、ヘリオポリスには21、79見事な一対のオベリスクが作られたエジプト中にその足跡を残している。
 
                        ネコ2世
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紀元前592年プサメティク2世は、クシュ王国に対して軍事遠征を行う。遠征の動機は、クシュ王のアスペルタがエジプトに進軍する準備をしていたためであったと考えられるが、定かではない。当時のヌビアへの軍事遠征は第三瀑布まで達したと言われ、その軍隊の大部分は将軍ポタシムト(Potasimto)が指揮するギリシア傭兵であったとされている。エジプト軍は後のファラオになるアマシス(Amasis)が率いた。
 
                       アスペルタ
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このヌビアへの攻撃は第一次攻撃で、ヌビアが二度とエジプトまで攻め入ることがないように国力を弱めることが目的であり、実際その目的はクシュ王国の諸都市を破壊することで成し遂げられた。
 
ナパタには当時エジプト軍が破壊したと思われるクシュ王の像が保管されている場所があり、そこにある最も新しいクシュ王がアスペルタであったことから、アスペルタの時代にプサメティク2世との戦争があったとされているが、近年では疑問も投げかけられている。プサメティク2世は、破壊行為の際に第25王朝(ヌビア王朝)のファラオの名を碑文から消し、歴史から抹殺しようとした。
 
その時に破壊されたクシュ王達の銅像は現在復元され、ケルマ美術館に保管されている。
                復元されたクシュ王たちの像
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奇妙なのは、プサメティク2世が自分の父親であるネコ2世の名前も消し去ったと言うのだ。したがって、考古学的に確認される当時の破壊行為が、プサメティク2世によるものではなく、クシュ王国内で起きた王朝の争いによって生じたのではとの疑問も投げかけられている。それに、彼がその後エジプトの南の国境として定めた場所が、新王朝時代のようにナパタ(ゲベル・バルカル)ではなく、アスワン近くの第一瀑布であったというのも、彼の軍事遠征が力を誇示するものであるが、ヌビア地域を実効支配するものではなかったということが分かる。
 
 

ヌビアのピラミッド

ピイの下ナイルへ向けた軍事遠征で目のあたりにしたエジプトのピラミッドの文化的衝撃は創造を絶するものであったに違いない。上エジプトにおけるピラミッドの存在は、すでに王権とは分離され、貴族の墓としても建てられるようになっていた。ヌビア地方にも紀元前9世紀頃に建設されたピラミッドが確認されているが、ヌビアにおいて再び王権と強く結びつくようになる。
 
エル=クル遺跡には、カシュタとピイ、シャバカ、シャバタカ、タンウェタマニの陵墓が残されている(タハルカはヌリ遺跡に埋葬された)。ウィキによればエル=クル遺跡にある14基のピラミッドは王妃のもので、そのいくつかは著名な"warrior queens" (武人王妃)のものである。
 
武人王妃何て聞くとヒクソスを追い払い第18王朝の基礎を築いたイアフヘテプ皇后を思い出す。彼女の墓にも王妃のものとしては珍しく斧などの武具が一緒に副葬品として埋葬されていた。その斧にはグリフォンのリリーフがついている斧があり、その様式がミノアのグリフォンと酷似していることから、ミノア文明との関係が議論されてきた。
 
 
少しファンタジー的なシナリオを考えると・・・、彼女はもともとヌビアの王族であったかもしれない。娘のイアフメス・ネフェルタリの肌の色が黒で描かれているもそのためだ。メロエ王朝の時代になると、ヌビア地方の人々がギリシア植民地と交易を行っていたものを示唆する遺物が見つかるのだが、何か関係があるのだろうか?
 
 
以前のブログ記事でも紹介したが、紀元前5世紀頃から「ヌビアのピラミッド」が数多く建設されるようになる。ナパタ王国からメロエ王国まで数百年の間に建てられた「ヌビアのピラミッド」は220基。120基を有する本家エジプトの倍近い。もちろん、エジプトのピラミッドと比べると”ミニ”であり、傾斜角度約70゜で高さは最大のもので30メートルほど、底辺の幅も8メートルをほとんど越えることがない。(エジプトのピラミッドの場合、基礎の大きさは少なくとも5倍以上、傾斜角は4050゜)ウィキ。
 
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クシュ王国の王に関して、第25王朝後のアトラネルザからアスペルタまでの4人の王(アトラネルザ、センカマニスケン、アンラマニ、アスペルタ)の存在については、時系列も含めて確実なものをみなされている。
 
彼らの名前が確認できる記念物も比較的多く見つかっており、彼らが近い親類関係にあったことも判明している。紀元前593年から568年にクシュ王国を統治したアスペルタからの時代に関しては、長い碑文なども見つかっており歴史的な出来事なども確認できる。彼の時代にはおそらくエジプトとの戦争も起こっていたと考えられる。
 
 
クシュ王国の王宮ではまだエジプト文化が主流であり、クシュ王もすでに支配力を失っているにもかかわらずエジプトの王であるかのように振る舞った。
 
ナパタからメロエへの遷都の日付は不確かだが、ある歴史家達はヌビア南部へのエジプトの侵攻に対応して、アスペルタの統治期間中には、中心地は徐々にメロエに移転し、ナパタは宗教的な意味合いが強かったと考えられる。
 
他の学説によると、クシュはナパタを本拠とする国とメロエを本拠とする国に分かれていたが、その発展は関連していた。
 
メロエは徐々に北のナパタを凌駕した。王室の立派な邸宅はメロエ北部で見つけられていない、そしてナパタは宗教的指導者でしかなかったということはありえる。しかしナパタで数世紀の間王達がメロエに住んでいるときでさえも、戴冠式が行われ、王達が埋葬されていたので確かに重要な中心地だった。
 
 

クシュは鉄の仲介者だったのか?

クシュ王国の活動がメロエに移ったのは、鉄の鉱山の存在を挙げる学者が多くいる。これまでクシュ王国は、交易で象牙、金、そして奴隷などを輸出していたことが知られており、メロエ朝時代からの墳墓からは金が豊富に発見されている。しかしながら、それらの金がいったいどこに由来するものなのかはこれまで分かっていない。
 
タハルカの治世より「鉄」を使用していた痕跡が発見されている。彼の墓から発見された先が黄金で装飾された槍は、棒の部分が鉄から出来ていた。メロエ朝時代の遺跡からはスラグの山がいくつも発見され、一時期はメロエが古代アフリカの一大鉄産業地帯であったと解釈され、ヌビアがアフリカに鉄器を広めた仲介者であったとも言われた。
 
しかしながら、大量にスラグが発見される一方で、鉄を使用したオブジェの数はそれほど多く発見されていない。また、1976年ヘルマン・アンボーン(Hermann Amborn)のスタディでは、ヌビア地域に精錬所があった形跡が全くないということが結論づけられている。スラグの山は決して精錬プロセスから生じたものではなく、非鉄金属、金、あるいはマジョリカ焼きのような陶器造りの生産プロセスで形成されたものだと言うのだ。メロエ朝時代には、キリンやダチョウなどの野生動物、人や家畜などを描いた陶器が造られていたことが分かっている。
 
 
ふむ・・・
 
 
さて・・・
 
プサメティク2世の侵略から70年ほど後、今度は新たな脅威がアジアからやってくる。
 
 
アケメネス朝ペルシア だ。
 
 
紀元前525年頃、アケメネス朝ペルシアのカンピュセス王の侵攻を受けた。
 
ここでよくベルリン博物館にあるナパタ碑文が引き合いに出され、「ヌビアの王ナスタセンがケンバスデン(すなわちカンビュセス2世)の軍を打ち破り、その軍船すべてを奪取した」とされているが、ナスタセン王は在位紀元前335年〜315年のヌビアの王であるので、カンピュセス2世の時代とは異なる。
 
結局、ヌビア北部地域が侵略されるも、激しく抵抗した結果、ペルシア軍を追い返すことに成功する。
 
 
それにしても、ペルシアはなぜヌビアを攻めたのだろうか?
 
 
わざわざ・・・
 
 

クシュ王国 紅海へ

35年間クシュ王国を統治したHarsijotef(およそBC404年〜BC369年と推定)が残した碑文には、彼がそれまでの王と同様に王国への侵入を図ろうとする遊牧民族と戦わなければならなかったこと、そして戴冠式からはヌビア中の重要な神殿をまわり、地方の神々に合意を取り付けなければならなかったと記されている。当時の碑文の文字にエジプトのヒエログリフが使用されていたが、時代とともに文字としての仕様が失われていったことが見てとれるという。
 
紀元前3世紀初頭のものと推定されるアリヤマニ(Aryamani)の碑文はほとんど判読不可能だそうだ。おそらく、ヒエログリフを使っていたヌビア人達は、メロエに遷都してからは独自の文字を発展させたという。
 
ただし、アリヤマニの碑文の年代特定は困難を極めている。それにこの碑文が見つかったのはケルマ地方に近いカーバ(Kawa)である、ナパタやメロエ地方ではなく、クシュ帝国の原点とも言うべきで発見された。アリヤマニのファラオとしてつけられる称号が、ラムセスを名乗ったファラオ達の時代(BC1292年〜BC1070年)を模倣していることから、新王朝時代の末期頃であったとも言われ、更にはアララ(ピイの父)であった可能性も示唆されている。
 
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いずれにせよ、メロエに活動の拠点が移るにつれ、
 
 
ヒエログリフの記憶も薄れていった。
 
 
それに代わって登場したのがメロエ文字だが・・・
 
 
これがどうも・・・
 
 
紅海を超えてアラビア半島南部
 
 
更には同じ時期にインドで発達したアブギダ(abugida)・アルファベットと似ているそうだ。
 
 
クシュ王国の交易相手はもはやエジプトではなかった。
 
 
 
紅海からインド洋にむかっていった
 
 
 
・・・かもしれない。
 
 
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