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減価する地域通貨が愛知県で導入されたらしい。
反ロスチャイルド同盟をはじめとする陰謀論者やシルビオ・ゲゼルの経済理論に興味のあるものにとっては何とも嬉しいニュースかもしれない。今頃祝杯をあげているかもしれない。
「減価する貨幣」については19世紀フランス哲学者であるピエール・プルードンも着想しているのだが、シルビオ・ゲゼルが理論的な先駆となり一般的に広がっていった。なお、彼の最終ゴールは景気変動にあまり影響を受けない安定的な経済社会を実現することにあり、地域通貨に関しては、彼自身反対の立場とっていた。
ちなみに彼は菜食主義者である。 エッ どうでも良いですか・・・?
彼の提案した貨幣は『自由貨幣』とか『流通確実貨幣』とか呼ばれた。19世紀から20世紀にかけて、富と資本の集中がどんどんすすむ経済システムを何とかして解決したかったのだ。
今度 週一回ぐらいのペースでシルビオ・ゲゼルについて調べてみようかな・・・。
世界初!愛知県豊田市で誕生したコメ兌換通貨の凄味〜「腐るおカネ化」で流通の加速を目指す
ダイヤモンド・オンライン5月14日(金) 8時30分配信 / 経済 - 経済総合
愛知県豊田市でコメと交換できる地域通貨が誕生し、今年の5月1日から一部の地域で流通が始まった。その名も“おむすび通貨”だ。 |
貨幣の不思議
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その昔・・・まだバブル崩壊と不良債権の問題がどれほど深く日本経済を傷つけたのか、誰も分からず、日本経済が押し寄せる不況の足音に戦々恐々としていた時代の話だ。 マネーサプライの管理をめぐって・・・ 『日本銀行は信用できるか』の著者でもある岩田規久男氏と、日銀エコノミストの翁邦雄氏との間で激しい論争が起きた。 『日本銀行は信用できるか』と言うと、何んだか『日銀はロスチャイルドに支配されている』というような陰謀論者を想起させるが、岩田氏は日本が誇るエコノミストの1人である。 ただ、その題名からも分かるとおり、岩田氏はもともと日銀の金融政策には懐疑的だ。こうした中央銀行に対する不信感というのは、歴史上常に存在していて、マネタリストの大御所ミルトン・フリードマンも、FRBの密室の意志決定や金融政策に関しては懐疑的な見方をしていて、それゆえに「インフレターゲティング」といった透明性を確保につとめようとしたぐらいだ。 岩田氏と翁氏が繰り広げた激論は「マネーサプライ論争(翁−岩田論争)」として後世に語り継がれることになる。しかしながら、よく考えるとおかしな議論だ。岩田氏の主張は経済学の教科書に書かれている内容で、目新しい理論を展開したわけではない。奇妙なのは翁氏の主張だった。 日銀エコノミストの第一人者である翁氏の主張は
物価安定を最大の目標に掲げる日銀のエコノミストが、マネーサプライを管理できないというのだから、それはすなわち物価を管理できないと言っているの同じなのである。 企業金融等の分野において、早くから名の知られた岩田であるが、彼の名を一躍、経済論壇のスターダムに押し上げたのは、彼が上智大学教授時代に、日本銀行の翁邦雄らとの間に起こした「マネーサプライ論争(翁−岩田論争)」である。従来からマネタリーベース(ハイパワードマネー)の能動的な意味での操作性を否定し(「積み進捗率」の幾分の調整については可能とした)、なかんずくマネーサプライの管理を否定し続ける日本銀行の理論(日銀理論)に対し、岩田はその操作が可能であることを主張し、80年代末のバブル膨張ならびにバブル崩壊の責を逃れようとする日本銀行側を批判した。『週刊東洋経済』(東洋経済新報社)誌上での激しい押し問答は、植田和男による仲裁という形をもって一応の終焉となったが、結局のところ、一般大衆にとっては結論がうやむやのままという印象が残った。 マネーサプライ論争における岩田の主張は、池尾和人も指摘しているように、金融論の教科書に登場しているような標準的な学説に基づくものであり、特に目新しいものでも奇異なものでもない[1]。ハイパワードマネー×信用乗数(貨幣乗数)=マネーサプライという恒等式において、左辺のハイパワードマネーから右辺のマネーサプライへの因果関係があり、かつ信用乗数は比較的安定しているから、日本銀行がハイパワードマネーを増やせばマネーサプライは増えると唱えたものであった。 一方、実務家である翁の主張は、日本銀行が所要準備の後積みを行っているという観察事実に基づくものであり、いって見れば現象論であった。翁は、岩田が用いたハイパワードマネー×信用乗数(貨幣乗数)=マネーサプライという恒等式において信用乗数には乗数の意味はなく、マネーサプライとハイパワードマネーとの事後的な比率に過ぎないとした。その上で、市中銀行の貸出し態度によってマネーサプライの大きさが決まり、それに見合うように日本銀行はハイパワードマネーを受動的に供給するしかなく、マネーをコントロールすることはできないと主張した。 日銀がコントロールできるハイパワードマネー(ベースマネー)とコントロールするべきマネーサプライの関係というのはいろいろと難しい数式を省くと 次にように表す。
M(マネーサプライ)、H(ハイパワードマネー)、m=通貨乗数 この議論だが、岩田氏の前提条件としては通貨乗数mがある程度安定しているというものであったが、事後的にはバブルの崩壊以降13(1992年)から、徐々に下がり、2000年からは10を切り、そして2009年現在ではかろうじて6のあたりをさまよっている。 以下は『政府紙幣発行で日本経済が蘇る』 小野盛司著 より抜粋 日銀は2001年3月19日から2006年3月9日まで量的緩和政策と呼ばれる金融政策を行っていた。これは、銀行に十分は資金を提供することによって、銀行貸出が増え景気が上向きになるだろうとの期待による政策だった。しかし、結果はそうならなかった。日銀は買いオペを積極的に進め、ベースマネーは十分に増えたが、マネーサプライは思い通りには増えなかった。 インタゲ派が期待したのは、日銀の買いオペによりベースマネーが増え、たとえ貨幣乗数が低下しても、信用創造メカニズムにより銀行貸出が増加し、貨幣数量説通りに景気が上向くだろうとの期待だった。しかし実際は、銀行側の資金が足りなかったのではなく、企業側の借入意欲が足りなかったわけだ。 このあたりはリチャード・クーのバランスシート不況と同じコンセプトだ。 さて、日本と米国の通貨乗数を比べて見た。 日本のハイパワードマネー、マネーサプライ、通貨乗数(M2+CD) 米国のハイパワードマネー、マネーサプライ、通貨乗数(M2) 日本と米国の通貨乗数比較 米国のハイパワードマネーと通貨乗数(M2)長期推移 それにしても凄いね。オイル・ショック、ニクソン・ショック、S&L危機・・・いろいろあったけど、今の状況は、やはり異常事態と見る方が自然だろうね。
いずれにせよ、どうも翁氏の主張が正しかったようだ。 でも 彼が正しいということは、新たな問題が生まれる。
日銀が1兆円を供給 追加金融緩和でデフレ克服 12月2日10時23分配信 産経新聞 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091202-00000513-san-bus_all 日銀は2日午前、短期金融市場に即日で1兆円の資金を供給すると発表した。日銀は1日に、国債などを担保に固定金利0.1%で融資する新たな資金供給手段を導入する追加金融緩和を決めた。供給規模は10兆円。決定翌日から1兆円規模の供給を行うことで、政府と一体となり、デフレ克服に当たる姿勢を鮮明にした。
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ドル崩壊の夏が・・・秋が・・・もうすぐ冬が・・・ クリスマスや誕生日を待ち望むようにドル崩壊を待望していた人も多いようだが、結局 田中宇が言うようなドルの崩壊は夏にはこなかった。 何だか最近では 『ドル崩壊ネタ』 の書籍を見ると 昔の 『飛ばしの東スポ』 を思い出す。。。今も飛ばしてるのかな・・・? ドル崩壊論を裏付けるような説得力ある統計や数値は多少なりとも出てくる。 それにしても ドル崩壊ネタがあまりにも多い。 ミスター・ドル崩壊とも言うべき田中氏は ずいぶん前から 『ドルは崩壊する』 という主張をしている。 その後 2009年1月に 『世界がドルを棄てた日』 を出版してからはドル崩壊論を加速させ、ブログの配信記事にも関連記事がこれでもかと連なる。 『ドル崩壊とBRIC』 2009年6月11日 田中宇プラス 『ドル崩壊の夏(2)』 2009年7月24日 田中宇プラス 『ドル崩壊の夏(3)』 2009年8月22日 田中宇プラス 『ドル自滅の量的緩和策をやめられない米国』 2009年9月9日 田中宇プラス 『ドルは崩壊過程に入った』 2009年10月8日 田中宇プラス ということで実はもう夏には崩壊が始まったことにしてしまえばいいよね。 ・・・ すごいね・・・ 気分は ドル崩壊の乱れ打ちだぜ 〜〜〜 まぁ、この一年恐慌本の中でも『ドル崩壊』を扱う本が増えてきたこと。 『ドル崩壊!』 三橋 貴明 渡邉 哲也 2008/8/22 『「アメリカ覇権」という信仰 ドル暴落と日本の選択』 共著 2009/7 『世界がドルを棄てた日』 田中宇 2009/1/23 『ドル消滅の仕組み』 中丸 薫、ベンジャミン フルフォード2009/5 『世界はいつまでドルを支え続けるか』 (扶桑社新書) 田村 秀男 2009/5/29 『ドル亡き後の世界』 副島 隆彦 2009/10/30 まぁ、この他にももっとたくさんあるだろう。 今週の日経ビジネスには 『ドル最終章 「1ドル=50円」の恐怖 』 しかし、ドル崩壊なんていう議論は大学時代の時からあった。アメリカの双子の赤字が議論されていた時で、通貨ドルのサスティナビリティや基軸通貨についても議論された。
なんか どうでもいいね。。。
・・・とまぁ 吉本隆明氏の『共同幻想論』を読みもしないうちに議論を始めるのも何ですが・・・ ひょっとしたら
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「ヤマネコ(山猫)銀行」の名前の由来は、山猫しか住んでいないような僻地に店を構えて、兌換に来るのを困難にさせていたからだといわれています。 銀行経営者の悪夢は、ある日突然預金を引き出そうと客が大勢詰め寄る事です。一般的に現代の銀行では入ってくるお金と出て行くお金の割合は似たようなものなので、銀行としてはお金を寝かしておくよりも、なるべく利益を生むよう貸し付けるようにしているので、手元にある現金というのは預金額に比べるとごくわずかです。だから、突然大勢の人が銀行にやってきて、預金の引き出しを要求すると、現金が瞬く間に底をつき、破綻してしまう。 『突然大勢の人が詰め掛ける』というのはBank Runと呼ばれ恐慌などには付きものの現象でが、要は『信用』の問題なのです。 1837年というのは、その一年前に第二合衆国銀行が廃止され、歴史的な大恐慌と信用不安にアメリカ経済が襲われた時のことだ。そんな中ほぼ同時に、フリーバンキング制度は、アメリカ各州において独自に実践されることとなった。ミシガン州はニューヨーク州でフリーバンキング導入の法案審議がもたついているところ、内容を模倣して1837年3月にアメリカで一番早くこの制度を導入したそうだ。 1837 パニック しかし、狡猾さと言うか、急いだ制度の導入が不運の始まりと言っていいでしょう。制度導入3ヶ月後の6月に、いきなり大恐慌が襲ったからだ。 1837年の時点ではミシガン州にあった銀行の数は9つであった。フリーバンキング制度の導入に伴い1837年12月には18行に増え、1838年の2月には40行に増大した。そして、恐慌のあおりを受け、1839年9月までに残っていた銀行は9行まで激減した。単純にいうと4分の3の銀行が倒産したのだ。ただし、ミシガン州が情報公開をしなかったそうなので、これは確実な統計に基づく数字ではなく、あくまで推測値だ。) このミシンガン州の後に導入されたフリーバンキング制度では、銀行券の引き当て資産は最低限、発行した紙幣の価値を裏付けるものであったが、ミシガンの場合は不動産やモーゲージ証券、あるいは同州に居住する不動産保有者発行の債券に依存していたため、バブル崩壊過程でお馴染みの運命をたどった。そして銀行券の兌換停止命令が出されたが、各銀行は銀行券を濫発する事態となり、同州の自由銀行法は1838年には停止されたそうです。 その後の調べで分かった事だが、これらの銀行券は法的必要条件を満たさないまま市中に出回った。つまり、紙幣に銀行委員会のサインも入っていなければ、必要とされる引き当て資産も条件としておらず、単純に違法で、偽札でなかったにしても詐欺行為に他ならなかった。 インディアナ州ではフリーバンキング制度が導入されてから最初の3年間で68の銀行が設立されたが、38の銀行しか制度が終焉される時まで生き残れなかった。イリノイ州では87%の銀行が南北戦争が勃発すると破綻することとなった。ウィスコンシン州では1861年には108を数えた銀行も、次の2年間で36行が破綻し、15行が業務停止に追い込まれました。 だから、一般市民の銀行に対する信用がそれほど確立されていない時代で、これほど銀行がばったばったと倒れているような状況では、銀行を信用しろと言う方が難しいかもしれません。逆に、銀行もそのことを十分理解していたので、ヤマネコ銀行と揶揄されるようにBank Runによる破綻を出来るだけ回避するために、『信用』という神秘的で崩れやすいベールをまとうより、物理的にBank Runを難しくするような立地を選んだということでしょう。 電子マネーの世界ではまずムリでしょうね。参照:http://www.imes.boj.or.jp/japanese/kinyu/2004/kk23-h-1.pdf Wildcat Banking, Banking Panics, and Free Banking in the United States/Gerald P. Dwyer Jr. この『信用なき時代(誇張しすぎかもしれませんが)』に『信用』が売りの銀行家達は多分いろいろ悩んだのでしょう。今日ヤマネコ銀行について言われている伝説は、そんな時代に飛び交った噂や銀行同士のレッテルが少し誇張された形で残っただけかもしれません。 例えば。。。 ヤマネコ銀行の経営者は、帳簿のつけ方は確かにいい加減だったかもしれないが、預金の一部を金貨か銀貨、あるいは債権などを担保として保有することを義務付けられていた。そして、現実問題として、その義務をいつでも果たせるように準備しておく必要があった。『信用』のポイントもそこだったのかもしれない。 ただ、都会の銀行のように大理石の柱などで荘厳な雰囲気をかもし出すなんてまず無理で、『見かけの信用』という点ではどうにもならない。そこで、客を安心させるために、ヤマネコ銀行は営業時間中にはいくつかの金貨の樽が見えるように金庫の扉をあけておく習慣があったという。 また、銀行に監査官が訪問する時なんかは、銀行の準備金を調べる州の監査官が到着する数分前に、監査が済んだ銀行の金庫から運び出された金が到着する、というようなこともあったそうだ。(「マネーを生み出す怪物」/エドワード・グリフィン)
ヤマネコ銀行が金貨をわざとらしく店舗のあちこちに置いたりするのは、エドワード・グリフィンによると『現代の金融機関が資産何十億ドルと広告するのに、負債額には触れないのと同じやり方だ。』という。日本に目を向ければ、昭和恐慌で取り付け騒ぎが頻繁に起きた時、高橋是清が片面印刷の200円札を大量に刷り、これみよがしに銀行の店頭に積ませたエピソードと似ている・・・。 昭和金融恐慌 1927年、衆議院予算委員会で大蔵大臣・片岡直温が「東京渡辺銀行がとうとう破綻を致しました。」と間違った情報を発言したため、全国各地で「銀行が危ない」という噂が広がり、取り付け騒ぎが起こり、このことが引き金となり金融恐慌が発生した。影響という面では日本金融史上、最大の取り付け騒ぎである。 豊川信用金庫事件 1973年、高校生同士の会話での「信用金庫なんて(強盗とか)危ないわよ」という冗談から「(豊川)信用金庫(の経営)が危ない」という経営不安の噂となり、豊川信用金庫が取り付け騒ぎに陥る。実際には経営は健全であった。調査により原因から噂が広がる途中経過まで明らかになった稀有な例。 コスモ信用組合 1995年、預金者が預金払戻を求めて殺到した。東京都知事より業務停止命令を受け最終的には破綻。 木津信用組合 1995年、預金者が預金払戻を求めて殺到したことが「取り付け騒ぎ」の語を用いずに報道される。最終的には破綻。 紀陽銀行 1997年11月経営不安の風評被害により一部支店にて取り付け騒ぎが発生し、数日で3000億円の預金が流出した。 山一證券 1997年12月、自主廃業。各地の支店には証券口座を解約する顧客が列を作った。 佐賀銀行倒産メール事件 2003年12月、20代の女が知人に「佐賀銀行が26日に倒産する」という事実無根のメールを出し、それがチェーンメール化。噂が広がって取り付け騒ぎとなる。
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アメリカのフリーバンキング時代にまつわる資料をみると、 必ず出てくるトピックに『ヤマネコ銀行』があります。。。 『ヤマネコ銀行』と聞くと思わず宮沢賢治の童話『注文の多い料理店』の出てくるような怖〜いヤマネコが店番するような銀行を想像してしまうますが(僕だけでしょうか・・・?)、このアメリカ銀行史でいうところの『ヤマネコ銀行』に登場するヤマネコは“お客さん”である。 なぜそんなネーミング登場したのだろうか? それを書く前に、少しだけフリーバンク時代が到来するまでのアメリカの金融事情を振り返る。 アメリカにおける銀行の歴史というのは、苦難の連続だった。特に、誕生して間もないこの国では、『中央銀行の設立』は、まさに大英帝国の出先機関、もしくは君主制復活という悪夢のような受け止められ方をされ、ジェファーソンやマディソンをはじめとする共和派(リパブリカン)から激しい抵抗を受けた。 ちなみに共和派というネーミングはしっくりこないかもしれないが、実質的には現在の民主党の先駆けとなる。その反対の立場をとるグループとして、第一合衆国銀行設立を推し進める財務省長官アレクサンダー・ハミルトンのグループは連邦派(フェデラリスト)と呼ばれ、両者の対立は今の時代に例えると2ちゃんねるの世界に近い匿名掲示板での誹謗中傷合戦の嵐が繰り広げられた。 もちろんネットなんてのは無いのでそれぞれおかかえのメディア(新聞)を使い、相手を非難する論文を次々に公表した。お互いを誹謗中傷するにあたっては、ローマ時代などの著名な人物からとったハンドルネームをそれぞれ利用していた。ハミルトンのお気に入りのハンドルネームは『パブリアス』や『パシフィカス』で、マディソンは『ヘルヴィディス』だった(と言ってもマディソンが書く場合はジェファーソンに頼まれ渋々書いている)。 いずれにしても、アメリカでは第一合衆国銀行(1791-1811)、第二合衆国銀行(1817-1836)が20年間という短命ではあるものの中央銀行として存在していた。(厳密には、それ以前、ハミルトンの先輩であるロバート・モリスによって、北アメリカ銀行という中央銀行としての性質を帯びた銀行も設立されている。) 第一合衆国銀行が議会で否認されると、米英戦争の結果、政府は大きな負債を抱え経済が混乱した。政府はそれらを収束させるために国債を乱発し、物価が急上昇した。その際、地方銀行は金銀貨への兌換義務を免れ、ほとんど好き勝手に銀行を設立できるようになった。グラフを参照。 出典:アメリカ銀行規制の歴史的展開一大恐慌期の金融制度改革を中心に一 須藤 功 https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/1838/1/seikeironso_71_5-6_189.pdf ネコも杓子も・・・ではなく、ヤマネコでも・・・銀行を建てるようになった。どんな辺鄙な土地でも教会と居酒屋さえあれば銀行が設立されたそうだ。ちょっと言い過ぎかもしれないが、そんないい加減そうな銀行でも、それなりに「銀行券」を発行したのだ。 しかも、それを見た銀行以外の商店や居酒屋までが擬似マネーとして「商品券」のようなモノを発行しはじめたからたまらない。 ひょ・・・ひょっとしたら・・・地域通貨の誕生。。。やったよ エンデ! ・・・というわけにはいかない。全国でチェーン展開しているスーパーマーケットがあるならいざ知らず、おやつの時間には必ず決闘がはじまるような街でもらった商品券なんか、他の町で使えるわけもなかった。また、発行された銀行券(らしきペーパー)や商品券(らしきペーパー)には何らかの価値に裏付けがあるわけえはなく、当然こうした辺境地域の商店や居酒屋の資産なんかあてにならなかった。 ただ、第二合衆国銀行ができると、それなりに『金融秩序』というべきものが地方の銀行家達にも少しずつめばえはじめる。この第二合衆国銀行が中央銀行として機能していた時期は、地方にある銀行にもかなり節度ある経営をさせていたそうだ。それは、『要求どおり正貨と兌換すると定評がある銀行の手形以外は受け入れない』という暗黙の了解があり、市民もその銀行の態度にならった。そして『合衆国銀行が受け取らないような手形を市民が受け取れるはずが無い』というのは、すべての銀行に対する間接的な規制となったそうだ。
しかし、アメリカ第7代大統領アンドリュー・ジャクソンが銀行戦争に勝利を収め、第二合衆国銀行の特許更新が拒否されると、時代は所謂フリーバンキングの時代となる。 フリーバンキングの定義と言うのは、銀行の業務形態の自由、銀行券を発行する自由、現金を当座預金口座への預金として受け取り、支払い、お客に小切手を請求する自由、そしてお金を貸し借りする自由などが挙げられる。 アメリカのフリーバンキングの時代、連邦政府が銀行に関するあらゆる規制から手を引き、それらの権限が各州の手に委ねられた。だから、規制元が違っただけで、すべてのことからフリーな銀行という訳ではない。ただ、フリーだからといって誰でも銀行業で成功できるわけはない。
続く・・・ |







