オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

紙幣の歴史(中国)

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元帝国の滅亡の原因を兌換されない紙幣の導入とインフレに起因する記述がネット上のあらゆるところに見られるが、事実は少し違うようだ。確かにインフレも起こり、クビライが発行した中統元宝交鈔(中統鈔)は一時暴落する。しかしながら、類まれな有識者を有する政権は、デノミトと貨幣供給量の引き締めなどで果敢に乗り切ったようだ。この時代の通貨に関する出来事は

1260年 7,3万錠
1273年 10万錠
1275年 交子50を中統鈔1の割合で通用
1276年 100万錠
1287年 1000万錠 中統鈔の幣価5分の1に切り下げ、至元鈔発行
1294年 銀確保93万両 インフレ収束
1304年金銀解禁 兌換中止

1260年から1273年に渡り、比較的安定した通貨供給量となっている。問題は、1275年に交子50を中統鈔1の割合で通用したことだろう。どの比率が正しかったかどうかは分からない。ただ、南宋を通貨併合するに当たって莫大な貨幣需要が生じたのは間違いない。

「蘇湖熟すれば天下足る」「蘇常熟すれば天下足る」と言う言葉があるように(Wikipedia)、その地域の作物さえ実ってくれれば他の地域が不作だとしても心配ないという意味だ。江南を併合した後の歳入は、併合前と比べて20倍に膨れ上がったという。GDPの差で20倍となると現在のトルコが米国を併合するようなものだろうか・・・。

それに加えて日本への遠征(1回目 1273年、1281年)やベトナムへの遠征(1285年、1288年)が財政に圧迫をかけ紙幣の増刷を余儀なくされたとみられる。おそらくその頃からインフレが始まったとされている。
http://u-air.net/social-science/theses/yokoyama.pdf

インフレ自体遅くとも1294年にはいったん収束をしたとみられている。これは戦費と紙幣の発行量も抑えるとともに、93万両といわれる銀を確保することによって、信用を回復させたことによる。また、中統鈔の幣価5分の1に切り下げ、至元鈔発行するなど

人類史上初 デノミ政策 を行う。

注:改鋳ではなくデノミです。

このハード・ランディングとも言える政策を行ったのがウイグルもしくはチベット出身の財務官僚であるサンガだと言われている。彼の前任者であるアフマド・ファナーカティーが暗殺されてしまい、その後任として、戦争による巨額の財政赤字とインフレからの脱却という非常に重い任務をサンガは負うこととなった。それにしても、重要なポストにモンゴル人や漢民族など人種にとらわれないチンギス・カンを初めとする一族のグローバルな感覚にはつくづく感心させられる。

そして、これに見事に応えたサンガは平章政事から尚書右丞相に精進した。さらに・・・以下の政策を行う。
財政危機の打開をはかるため、サンガには中央政府の早急な増収に繋がる施策が求められたが、彼はこれに対し、肥沃な江南からの収益増強策をもって応えた。江南において、サンガは南宋からひきついだ戸籍をもとにした税源の査定と徴税の徹底化を行い、塩などの官業専売制を強化した。これら江南からの収益は元朝の国家歳入の大きな部分を占め、財政を支えるに至る。さらに、これらの富を王朝の中央である河北・モンゴル高原に供給するため、中国の南北をつなぐ水上交通を整備させて江南から華北へ米を送るパイプとした。1289年には中国の南北をつなぐ運河が竣工するとともに、海上輸送が江南米の北送の正式なルートとして認められ、運河によって海とも繋がれた首都の大都に江南の富が流入するようにされた。(wikipediaより引用)

「中央政府の早急な増収に繋がる施策が求められた」というのはおそらく紙幣の増発でしょう。しかしながら、彼はそれに反対して、ニューディール政策を想起させるような政策も行う。


1260年から1273年の紙幣発行量を見てもわかるように、外部の知識者を多数有する元は、自国の通貨の流通権の拡大につとめるとともに、インフレに対しては非常に気を使っていたと見られる。それを裏付けるように、フィレンツェの商人フランシス・ベゴロッティが『ラ・プラクティカ・デラ・マルカンツラ』で、「ヨーロッパから北京まで安全に旅行でき、かつ元王朝の紙幣があらゆるところで通用する」と書いている。

堺屋太一氏は著書「大激震」の中で
いかなる物資にも裏づけられていないぺーパーマネーが世界の基軸通貨になったのは、チンギス.ハンの孫のフビライ・ハンのときからの約80年間、そして1971年の米国による金ドル交換停止以後の現在の二回です。
(略)
モンゴルの紙幣は、80年間で価値が100分の1ほどに下がりました80年間で100分の1に下がったというとすごい値下がりだと思われるかもしれませんが、20世紀の米ドルが、ちょうど80年間で100分の1になっています。1930年には石油1バレルは1ドル以下でした。それが今は100ドル。1930年にはニューヨークの高級ホテルは3ドルでしたが、今は300ドル以上します。

モンゴルの紙幣「交鈔」は、20世紀で最も安定していた通貨の米ドルぐらいの安定度を持っていたということですから、大したものです。しかし、当初の発行から80年ほど経っと、中国で叛乱が起こって通用しなくなります。同時に元王朝も急速に傾きます
(略)
もし20世紀のアメリカの財政・金融担当者が13世紀のモンゴル人ほど賢かったらアメリカのドルも80年ぐらい保つでしょう。


クビライ政権が行ったデノミと新紙幣発行後の通貨安定化政策においては、金でも銀でもない塩本位制が一役買ったようだ。
元の紙幣を語るにおいては、絶対外してならないのがチンギス・カン(1162年?- 1227年)の時代に登場したとされる謎の人物、

マフムド・ヤラワチ

歴史上確かに実在した人物のようだが、資料上あまりにも長寿であったため若干混乱もあるようだ。歴史では語りつくされている感じがあるチンギス・カンだが、今回紙幣というテーマで調べていくうちに改めて驚いたのが、チンギス・カンの西アジアとの交流をはじめとして身に着けた国際的な感覚というのだろうか。側近に外国人を起用するあたりは、すごいことだと思うんだけどな。

堺屋太一氏の『世界を創った男 チンギス・ハン』には興味深いエピソードがいくつか紹介されている(本当だとすれば)。時間があったら是非読んでみたいね。

これによると、チンギス・カン(テムジン)が13歳の時、ムスリム商人(ムスリム=イスラム)の少年と仲良くなる。彼の名はハッサン(阿三)。意気投合したテムジンとハッサンは、その後45年にわたり親交をもち続けることになる。

こいつ ただのムスリム商人ではない。


当時、通貨を取り入れる方法を模索していたチンギス・カンのところにハッサンは、まだ当時12歳の少年だったマフムド・ヤラワチを連れてくる。彼は後の財務大臣となり、その後、元では色目人(しきもくじん)、階級制度において漢民族に比べ高い地位を得ることとなる。色目人というのは、所謂“外国人”だ。そしてこのヤラワチこそが、当時にして何と銀本位の国際通貨を定め、人類史上最初の不換紙幣を発行する基礎を築く人物となったのだ。

ヤラワチは1222年、チンギス・カンからサマルカンドの行政府長官を任命された時、3つの条件を提示したそうです。たいした度胸ですね。

その条件とは。。。
(1) 小さな政府の推進 (つまりは税金をあまりとらないようにする。もしくは減税する)
(2) お金(紙幣)を発行する権限
(3) ヘラートの壊滅 (安全保障上のことでしょうか・・・)

特筆すべきは、何と言っても2です。

繰り返しますけど・・・


ヤラワチは、五十年後にはユーラシアの七割、世界人口の六割を支配するための基礎を築いた男チンギス・カンに言ったんです。

「通貨の発行権をくれ。」 って・・・。

ちょっと疑いたくなってもしょうがないですよね。


ヤラワチってひょっとしたら・・・


ロスチャイルドの言葉を想起しますね。


「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば、誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでも良い。」 
マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド(1790年の発言)


1227年、、チンギス・カンは西夏を完全に滅ぼす直前に陣中で病没したと伝えられていますが、その直前、ついにヤワラチに紙幣発行権を与えたそうです。堺屋太一氏の再現したやりとりだと・・・

チンギス・カン: 「紙のお金が長く続くのか?」

ヤワラチ: 「お金も他の商品と一緒で、需要と供給の関係で価値が決まる。需要以上に供給すると価値が下がるので、お札を増発するには需要、すなわち使い道を増やせばよい」

・・・と答えたそうです。

おいおい、これはさすがに脚色しすぎなんじゃないのか?

アダム・スミスが『国富論』で「神の見えざる手」について触れたのが1776年。それより500年も前に貨幣の価値についてここまで理解していたなんてこたぁ・・・。でもWikipediaにも同じ記述がある『通貨もまた財産の一形態であり、需要と供給の均衡関係が保たれれば価値をもつとの意見を唱えた』


すでに宋の交子や金が紙幣の乱発で滅んだの知っているからかもしれないが、需要以上に供給するとインフレが起きるというのはフリードマンの命題そのものだ。


いや〜〜〜にわかには信じがたいですね。


いずれにせよこのヤワラチが紙幣発行の権限を掌握したようで、1264年にはクビライが中統鈔を発行するが、それ以前、正確な年は判明しないがオゴディのころより交鈔を使用し始めたようだ。

そして、その紙幣を元に出来た役人と商人の共同出資組合である「オルトク」という組織が出来はじめる。今で言うところの投資ファンドにあたる。

Wikipediaによると「オルトク」への記述は
オルトク(おるとく)または斡脱(あつだつ)とは、トルコ語で「仲間」を意味する共同出資の組織。元朝支配下の中国で支配機構の一翼を担い、ムスリムの特権御用商人によって構成された。モンゴルが一時代を形成した13世紀後半から14世紀中葉にかけての特異な商業形態のひとつ。

クビライは、1271年の皇帝即位以前からウイグル人、契丹人、漢民族、女真族などからなる多種族混成の実務集団を抱えていたが、元朝成立後は、経済に明るい色目人とくにムスリム商人には財政部門を担当させ、また、文化や宗教の領域にはチベット人やネパール、カシミール、インドの人びと、科学・情報・技術関連領域にはヨーロッパ人も含んだ世界の諸地域の人びとを登用した。

ムスリム商人は共同出資の組織「オルトク」をつくり、通商、運輸、金融、徴税など種々の経済活動を営んだ。占領地の税務行政が銀の取り立てに特化したのも、国際通貨である銀を獲得して国際商業への投資に振り向けるためであった。

クビライはこれらのオルトクに利権を与えて、元朝の公的な支配機構にとりこんでいった。しかし、商業税や専売税の徴税請負など、中国の伝統的な財政観、通貨観に馴染まない政策を採り、しばしば中国人を経済的に搾取したことは彼らの怨嗟の対象となることもあった

色目人の商人たちは、オルトクと呼ばれる共同事業制度を通じてモンゴル人たちから資金を集め、国際商業に投資して莫大な利益を得た。また、商業を通じたモンゴル帰属の宮廷への出入りを通じて信任を受けた商人は、民族の出自関係よりも能力を重視したモンゴルによってしばしば財務官僚として登用された。しかし、彼らの多くは中国においても出身地の流儀を取り入れて経済政策に取り組んだことから、民衆からはモンゴルの軍事力を背景にした搾取者とみられて嫌われる者も多く、また大ハーンの信任をたてにモンゴル貴族の権益を侵すことからモンゴルからも排除されることがあった。

すごいね。紙幣発行という権限をもらい、さらには金儲けの仕組みまで考えているこのヤワラチなる人物。

何てロスチャイルド的なんだろう。


意外だが・・・

モンゴルは初めて紙幣を本格的に流通させた帝国だった。

金の制度にならい、クビライが即位した1260年には中統鈔なる法定紙幣7万3,000錠を発行したと言われている。
http://www.tabiken.com/history/doc/F/F288L100.HTM

クビライの時代、金銀との兌換、塩課をはじめとする課利や包銀税を紙幣で納入することを認めたために、中統鈔は信用を得て大いに通行した。元の時代以前の金では紙幣を濫発し、これが滅亡の原因となったとも考えられているが、元の時代も最初は同じことが起きた。年間数万錠であった発行額が南宋併合に伴い年間百万錠台に激増したため、大インフレーションと伴に金銀の兌換準備が不足し、紙幣の価値が下がったとされている。

これを終息するため1287年、中統鈔を5分の1に切り下げ、新しく「至元鈔」を出した。政府は至元鈔発行を50万錠前後に抑えるとともに,塩課・茶課・商税を増額し,民間の紙幣の回収にもつとめたので事態は一時好転したとされている。


元では銅貨を作らず、また銅貨の使用を禁止しおり、また、1268から1304年の間、金銀の市中取引を禁じている。つまりは、もう紙幣しか交換媒体がなかったということだ。

さらに、
14代モンゴル帝国皇帝である順帝(トゴン・テムル)の中期まで至元鈔は通貨としての機能を保持していたとされていて、興味深いことに、中統鈔も元末まで流通していたと言われている。2つの紙幣である。

過去に起こったインフレに対してかなり元という国が神経質な政策をとったと考えられる。

・・・今日書いたことは長いので2つに分けました。

宋の時代(1)の続きです。
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/10950096.html 


まぁ、何とかインフレを収集した宋(北宋)でしたが、それでも1070年ごろから対外積極策のもとに拡張路線をはしる財政政策がとられ1073年には両界交子を発行されました。当時「要求が多いのでさらに交子の発行定数を125万貫追加発行した」と資料にはあるそうで、これをみると当時の経済はデフレ気味だったのかとも思うがどうだったんだろうか・・・いずれにしてもその後経済社会はインフレを経験することになります。


この1073年の『両界紙幣』の発行・・・これがキーポイントです。


1070年代の宋では、国を滅亡に追い込むほどの政治闘争が実は起きています。歴史的には有名な王安石新法というもので、財政再建政策として、単なる増税ではなく新しい法律を中心とし、生産や所得を上昇させるような・・・政策ですね。彼のめざしたものは国家と中小農民・商人の連帯による中間収奪者の排除,生産の拡大と財富の合理的運用であったとされています。

実際に行った政策は:
青苗法:政府が農民に低金利で金を貸す法律
均輸法:物価の安定を名目に政府が安い時に物資を買い上げ、高い時に安く転売する。
市易法: 零細商人への低利子融資
などなど

詳細は下記サイト↓よりどうぞ
http://www.geocities.jp/shokatusei/beisong/30.html

王安石の改革は1069年から1076年に辞職するまで行われ、財政再建や富国強兵に関しては一定の成果を挙げ、彼の斬新的な改革は歴史的にも高い評価を得ていると思われます。でも、考えても見ると増税に頼らない財政再建と富国強兵が果たして両立することなんて出来るのでしょうか?当時は公債の発行なんてなかったでしょうから・・・



王安石の改革の中身の中には、1073年公布された市易法などもあるけど、同じ年に行われた両界交子の発行についてはほとんど言及されていない・・・。。。何故だ・・・?



両界交子についての記述 ↓
http://u-air.net/social-science/theses/yokoyama.pdf


ひょっとしたら、その一定の成果を上げることが出来たのは、一般に言われている王安石の改革よりも『両界紙幣』発行にあるかもしれないのに・・・。「宋史食貨志下三」という文献には『両界交子』についての記述があるらしいんだけどね。。。



ふぅ・・・



その後、王安石のライバルだった司馬光が宰相となり、王安石新法を次々に廃止する。彼の評価については、『資治通鑑』などの編集をするなど実は高いものがあり、神童伝説などもある。しかし、司馬光の在任期間は8ヶ月で、病死によって他界した。代替政策を打ち出すこともなく力尽きたんですね。。。



その後 政局がいかに混乱していたかは、交子の発行量をみれば分かる。具体性な政策と実効性に欠けた政府は結局のところ紙幣増刷に頼るしかなかった。



1023年の交子発行額が125万貫余であったのに対し、1106年には2600万貫と当初の20倍以上に膨れ上がったということです。兌換は停止され、交子の価値は一気に下落して目も当てられない姿に・・・。



でも・・・




昨年2008年10月から12月のFRBが発行したマネタリーベースの増加額をみると、それまでのマネタリーベースに比べて20倍に膨れ上がっています。




時代は繰り返すのでしょうか?



1110年 いったん交子を軍事費に使うのを中止させると、新交子を発行し、旧交子を1対4の比率で交換し、成都に50万貫の銭を蓄え本銭して兌換を開始すると、世の中の経済社会はようやく平常に戻ったそうです。このあたりの政策はもうジンバブエのレベル。


そうこうしているうちに満州より台頭してきた女真族(金)に対抗する力は宋にはなく、1126年に金軍によって北宋は亡びてしまう。


このあたりは またフィッシャーの命題が思い出されます。

「兌換されなかった紙幣は、それを用いた国家を常に呪ってきた」

(つづく)

前回(五代十国の時代)からの続き
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/10722425.html

宋の時代。この時代にはいよいよ世界初の紙幣である交子が登場します。ただ、世界初の『政府紙幣』という見方もできると思うので、じっくりと考察していきたいですね。


さて、宋の国(960年〜1279年)は、趙匡胤(ちょう ぎょういん)が五代最後である後周から禅譲(ぜんじょう)を受けて建国されました。この時代に生産力の大幅な向上、各地域における市場経済の形成とか分業化がすすみ、経済的にはめざましく発展した時代であったそうです。

貨幣経済をみると、四川地方(十国のうち『蜀』にあたる地方)を除いた地域では、銅銭によって統一がはかられたそうです。何故、四川地方で鉄銭を使わせたかというと、当時の勢力図ではタングート(チベット系民族)の(後の西夏1023-1048年)勢力圏に、四川が隣接していて、また銅銭は引き続き全国的に不足している状態だったので、政府は強制的に四川に鉄銭を使わせたという見方が有力です。具体的には、968年頃には銅銭が四川へ流入することを禁じ、976年頃には鉄銭が四川から流出する事を禁じたりしたそうですね。租税や専売品の購入時には鉄銭10につき銅銭1を納めさせたので、これがさらに銅不足を加速していったとみられています。10対1にあった交換比率は14対1にまで落ち込んだという説もあります。

・・・とは言っても、鉄銭を取引通貨として、その重量ゆえ膨大な労力とコストが運送時にかかるわけです。

そこで以前の日記にも書きましたが、四川で預かり業をしていた16の交子鋪(金融機関)が組合を作り、鉄銭を預かってその預かり証書として交子を発行しました。タングートの脅威としながらも経済的な困窮に四川地方をおいやりたくない政府は16の交子鋪を認可し、交子発行の独占権限を与えましたそうです。何も四川地域をいじめていた訳ではありません。この時点では『民間で発行していた手形が発展した紙幣』で『私交子』として位置づけられてもいますけれど、実質的に政府の認可と独占権限を考えると中央銀行のようなものとしてとらえて、この時点で世界初の紙幣誕生として考えていいのではないかと思いますね。

交子には「界」と呼ばれ、その有効期限を定めるユニークな仕組みがあり、その間に使用ないし兌換をしなければ紙切れと化すものであったそうです。上手い仕組みですね。要するにタンス預金を無くさせ、ちゃんと資金を循環させる仕組みです。

政府からのお墨付きを付与された交子は高い信用力の元に、他の土地の交子や会子を圧倒しながら中国全土に広がっていき、兌換の対象も鉄銭から銅銭へとかわっていったそうです。でも、隆盛を極めた交子でしたが、1023年に事業に失敗して銅銭の準備高が足りなくなり、不払いを起こしました。当時交子の発展を横目に羨ましく思っていたときの政府は、これを口実に官業とし、民間で公子を発行することを禁じました。

ふむ・・、リーマンショックとかシティバンク国有化のようなインパクトが当時の中国にあったのでしょうか・・・。


この紙幣発行が官業となった時点をもって、交子は手形ではなく紙幣となった・・・つまり世界初紙幣の誕生という見方もできますが、どっちかというと『世界初政府紙幣の誕生』とした方が合っているような気がします。日本銀行もFRBも厳密には民間企業であるわけだし・・・紙幣(手形)発行の独占権を与えられた交子鋪が政府公認の交子を発行した時点で「世界初の紙幣誕生」としていいのではないかと思いますね。それに、どの政府紙幣が発行された時代を見てもそうですが、主な目的は防衛費の増強に合ったのはたしかなようです。

そして、 政府が紙幣発行の実権を握ると、お決まりのプロセスが起こります。


大量発行。打ち出の小槌だぜ〜 


官業とされた1023年(1022年かも・・・)の交子発行額は125万貫余、兌換準備金36万貫、そして3年を1界(流通期間)としていたそうです。しかしながら、西夏防衛費として交子は大量発行され、市場価格が下落するはめになりました。この時起こった経済危機は1051年にまずは交子を糧草代価に当てることを止めるなどをして沈静化したそうです。


まぁ、『政府紙幣』発行が時として麻薬と表現される一つの実例みたいなものですね。

さて、これを教訓に宋の時代は何か学んだのでしょうか?

(つづく)

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