オルタナティブを考えるブログ

タイトルも新たに、1年ぶりですが、まずは過去の記事を整理しなきゃ

ヨーロッパの歴史

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ミラノ勅令というあまりにも有名な歴史的イベントの前に、すでにその存在したことさえ語られなくなった勅令がある。
 
311年に公布されたガレリウスの寛容令だ
 
ミラノ勅令に先立つこと2年前にガレリウス帝を中心に当時ローマの領土を支配していた4人の皇帝の連名で、所謂「ガレリウスの寛容令」というようなものをソフィアで交付している。これもキリスト教を優遇するといった内容ではなかったが、信仰の自由を認めたもので、正真正銘の勅令である。
 
つまり、少し拍子抜けしてしまう話ではあるのだが、キリスト教をローマ帝国内で公認したのはコンスタンティヌス帝ではなく、その前のガレリウス帝なのであるしかし、ガレリウス帝の功績として後世に伝えられなかったのは、コンスタンティヌスの伝説もあるのだが、何よりも彼がキリスト教の迫害者としても有名だからだ。
 
彼の略歴をウィキペディアより抜粋すると、
ガレリウスは、ダキアの首都セルディカ(現ブルガリアの首都ソフィア)の近くに生まれた。彼は、元々は父の職業と同じ牧夫となり、アルメンタリウス(ラテン語で家畜の群れ armentum)という名字を名乗っていた。
 
やがて彼は軍人となり、アウレリアヌス帝やプロブス帝といった皇帝の下で名を上げている。そして、293年にテトラルキア(四分統治)が開始されるとき、コンスタンティウス・クロルスと共に副帝に任命された。このとき、ディオクレティアヌス帝の娘ヴァレリア(後にガレリア・ヴァレリアとして知られる)を妻に迎え、同時にイリュリア属州を任された。

ラクタンティウスによると、ガレリウスは自らのダキア人としての自覚を肯定し、また「彼はローマという名前を敵視すると公言した。彼は、帝国の名はローマではなくダキア帝国と呼ばれるべきだ、と述べた」。また、ガレリウスは最高位に昇るやいなや反ローマの態度をさらけ出し、2世紀前にトラヤヌス帝がダキアを征服してダキア人を冷遇したように、ガレリウスも征服者が被征服者を扱うかのようにローマ市民を手荒く冷酷に扱った、という。
 
ガレリウスをもともと敵視していたラクタンティウスの記述については、多少誇張があるかもしれないが、テトラルキア時代のローマ帝国においてキャスティングボードを握っていたのがほとんどダキア(現在のブルガリア周辺)出身の軍人であった。
 
イメージ 2
 
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イメージ 4
 
後のリキニウスやマクシミヌス・ダイアも元々はダキア出身の農民であったし、マクセンティウスも隣接するパンノニア(現在のセルビア北部周辺)、コンスタンティウス・クロルスはその南に位置するイリュリアの貧しい家庭の出身だ。
 
イメージ 1
 
ふむ 見方によってはマケドニアの子孫たちがローマを牛耳っていいたのか・・・。
 
参考↓
 
 
キリスト教の迫害
伝えられるところによれば、ディオクレティアヌス帝が統治した間キリスト教徒はおおむね平穏に生活できたという。しかしながら、303年2月24の布告によってキリスト教徒の迫害が始まった。
 
それ以前のキリスト教迫害令ともいうべきものは50年近くもたっている。デキウス帝とペルシアの戦いで捕虜になったとされるウァレリアヌス帝の時代の出来事だ。しかしながら、この時のキリスト教の迫害政策はウァレリアヌス帝が亡くなり、ローマ帝国が3つに分裂するとなし崩し的に消え去った。
 
 
後世への伝えられ方なのだろうか、キリスト教徒の間ではこの大迫害の主犯はガレリウスとされている。しかし、ディオクレティアヌス帝がキリスト教迫害令の数年前に、似たような内容でマニ教迫害令をだしているので、おそらく主犯となるべきはディオクレティアヌスで間違いないだろう。
 
 
このキリスト教の迫害令の原因として、ディオクレティアヌスが293年に導入したテトラルキアが挙げられる。
 
ローマを四分割して安定的に統治するにあたりキリスト教のような排他的な一神教に代表されるような宗教は、とてもテトラルキアのコンセプトにおいては受け入れられるものではなかった。また、伝統的なローマ帝国における政治的な見方は政治と宗教は分離できるものではなかった。
 
以下はリンクより抜粋
ただ大迫害が前者の迫害に比べ、その名の通りより徹底したものになるのは、テトラルキア体制が持つ宗教的要素、皇帝達に見られる強い宗教意識のゆえである。それは「ヨウィウス・ヘルクリウス体制」と呼ばれる、政治と一体化した理念であった。

これは第一正帝の守護神がユピテル、第二正帝のそれがヘルクレス、とされ、他の二副帝にもやはりローマの神々の加護が想定され、各帝はそれぞれの神の地上の化身として統治する、という観念であった。ユピテルからは主権と権力、ヘルクレスからは戦いと勝利が賦与され、しかもヘルクレスはユピテルの子であるから、それによって第一正帝の優位によるテトラルキアの連帯性が表明される。ここに皇帝権の考え抜かれた神学とローマの宗教的国家観の究極的な把握が提示されている
 
この迫害政策は、テトラルキアの4人の皇帝によってそれぞれ温度差はあったが、西地域は東地域に比べるとどちらかと言えば激しくはなかったとされている。
 
大迫害に臨んだディオクレティアヌスは、理念の点では厳格であったが、実施面においてはかなり穏和であった。第一勅令では特権を持つ階層と帝室に仕える者たちだけしか対象とされず、一般大衆への言及はない。キリスト教徒の大部分は、第一勅令下では単に礼拝参加を不可能にされた以外は特に信仰を試されることもなく、迫害による直接の攻撃は受けていない。

ラクタンティウスのみが記す、すべての教徒の法的行為能力が奪われるという一項も、教徒に裁判係争上の問題が生じた時にのみ機能するにすぎなかったというのが実情であったと思われる。
 
こうしたことから、ディオクレティアヌスの狙いが、キリスト教の根絶ではあっても教徒のそれではなかったこと、国家体制のための宗教統一策の一環として、外的な形での礼拝活動の禁止のみが求められ、それで充分であると考えられたことを推測することができる。その意味で第一勅令は「流血を避ける」論理の中にあった。

しかしそれはあくまで帝国政策の見地からのものであり、この基本姿勢は第二から第四勅令までずっと貫かれる原則でもあったのである。第二・第三勅令は聖職者の逮捕と、彼らの釈放を前提とする祭儀の施行を指令している。
 
神々への供犠を全住民に要求した第四勅令もまさに「流血を避ける」ことを目的とするものであった。その上彼がこれを全帝国規模で実施することを命じた形跡はない。東方ではやや厳格に実施されているがその場合でもキリスト教徒の改宗に重点が置かれており、弾圧というべきものではなかった。
 
エウセビオスの伝えるところの解釈では、これまでディオクレティアヌスの治世下で303年に4つのキリスト教迫害令が出されたとあるが、最近の研究ではそれが1つであったとされている。
 
 
ガレリウスの寛容令については、目的がディオクレティアヌスより続いたキリスト教迫害勅令を単に無効にするためのものであること、そして彼がテトラルキア時代における東の皇帝の一人にすぎないと切り捨てる事もできるようだが・・・そうではない。
 
寛容令は4人の皇帝の連名なのである。
 
そして、最近の研究によれば実際にキリスト教に対する迫害を止めさせたということに関して言えば、
 
ガレリウスの勅令の方が、所謂ミラノ勅令よりも
 
直接の影響があったと考えられるようだ。
 
 
 
エウセビオスの教会史によれば、ガレリウスは恐ろしい病気にかかっていて、死の床で公布したという。
 
どのような恐ろしい病気だったかは、エウセビオスの教会史では以下のように伝えている。
 
(前略)
まことに、御言も「躓(つまず)きを来たらせるものは呪われる」(マタイ18-7、ルカ17-1)と言っているように、これらのことは神の裁きとして当然起こるはずになっていたが、神から送られた罰が彼を追いかけまわしたのである。それはほかならぬ彼の肉体にはじまり、魂にまで進んだ。

というのも、突然、彼の陰部の中ほどが化膿し、次にその奥に瘻孔(ろうこう)の潰瘍(かいよう)が生じたからである。それは不治で、中央の内臓まで冒していった。そこから無数の蛆が発生し、死臭が発散した。そのばかでかい肉体全体は、大食が災いして病気になる前からぶよぶよの巨大な脂肪の塊に変わっていたが、それがそのとき腐乱し、近づいた者には耐え難い身の毛のよだつ光景になった。医者の中にはその強烈な異臭に全く耐えられず、(そのために)殺された者もいた。また、その大きな(肉の)塊が膨張して治癒の希望が完全に断たれた状態に達して何も手を施すことができず、(そのために)容赦なく殺された者もいる。

彼はかくも多くの悪と一緒に消滅しそうになったとき、神を恐れる者たちに犯した自分の残虐な行為を後悔した。そこで彼は気を取り直すと、まず全宇宙の神に自分の罪をはっきりと告白した。ついでに側近たちを呼び集めると、キリスト教徒への迫害を即刻やめ、皇帝の法令と勅令によって(キリスト教徒に)彼らの教会を立てるように促し、慣例になっている(礼拝)を行わせ皇帝のために祈りを捧げさせるように命じた。この命令はすぐに実行に移され、皇帝の布告が各都市で公布された。それは以下のような、わたしたちにたいする(迫害の布告の)取り消しが含まれている。

(略)
予らが国家の便益と利益のために講じている措置の中でも、予らはこれまでとくにすべてのことがローマ人の古い慣習と良風美俗によって是正されるように望んできた。また予らは、自分たちの父祖の宗旨を棄てた類のキリスト教徒も健全なる精神に立ちもどるように配慮した。なぜならば、彼らはある(誤った)論証によって、はなはだしい傲慢に陥り愚かな考えにとらわれてしまったために、昔の人たちの慣習−おそらく彼らの祖父たちがそれをつくったのであろう−にしたがわず、たんに自ら
の性向と各人の望むところにしたがって自分たちのために法律をつくってそれを守り、さまざまな(場所)でさまざまな群集を集めているからである。

そこでついてに、彼らは先祖たちのつくった慣例にもどるべきである、という趣旨の予らの命令が出されたが、そのとき多数の者が危険にさらされ、多くのものが苦しみ、そしてあらゆる類の死に耐えたのであった。

(後略)
 
 
何だかまぁ これについても創作の匂いがプンプンするのだが、エウセビオスの教会史ではマクシミヌス・ダイアが行った寛容令についても少し言及している。しかしながら、それは偽善の行為であると切り捨て彼が行った悪行の数々を著書では挙げている。
 
 
しかし、考えてもみればテトラルキアの時代、正帝や副帝などほとんど皇帝が「寛容令」と関わっていたことが知られている。
 
 
その歴史的意義についてはコンスタンティヌスの功績として描かれて
 
いるのだが、このままでいいのだろうか?
 
 
それに、考えてもみればガレリウスの勅令に同意したのはコンスタンティヌスだけでなく、彼とミルウィウス橋で激しい戦いを演じたマクセンティウスもその一人だ。そうなってくると、ミルウィウス橋の戦いにおいてキリスト教が聖なる象徴(PとX)によって異教徒に勝利をおさめたという構図も、もう一度考え直す必要がありそうだ。
 

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ミラノ勅令の存在を裏付ける資料は以下の2つだけだ
1. ラクタンティウスの『迫害者の末路』に収録されているラテン語版
2. エウセビオス『教会史』中のギリシア語版
ラクタンティウスもエウセビオスもコンスタンティヌス帝と同時代の人であり、もしそうであればミラノ勅令なども実際の体験として語ることが出来る立場にある。この2人について少し見てみよう。

ラクタンティウス(260年頃〜330年頃)
すでに本ブログの記事にも書いたが、彼はアフリカ出身のラテン語修辞学の教師でありキリスト教弁証家だ。ディオクレティアヌス帝(位284〜304)に召喚されたことで、ローマ皇帝との繋がりができる。当初ニコメディアに新設された帝都の宮廷で修辞学を教えていたが、303年にキリスト教の迫害によって職を追われる。その後コンスタンティヌスの時代になると、ドイツ南西部の都市トリアに召喚され、コンスタンティヌスの長男クリスプスの家庭教師を務める。
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/28072909.html
ラクタンティウスは中世初期のキリスト教著述家のうち、正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送った人々の称号でもあると「教父」として数えられる。彼の著書には『神の教程(Institutiones Divinae)であるとか、10人のローマ皇帝の死について書いた『迫害者の末路(De mortibus persecutorum)』がある。

エウセビオス(263年頃〜339年頃)
イメージ 1彼は、キリスト教教会の誕生から324年のコンスタンティヌス帝が亡くなるまでの歴史を綴った全10巻からなる『教会史』の著者で、後世「教会史の父」と呼ばれることになる。
の出生地は現在のパレスチナにあるカエサレア・マリティマと呼ばれた都市で生まれたとされ、人生の大半をそこで過ごしたと推測される。初期キリスト教の代表的神学者オリゲネスと、その学統を受け継いだパンフィロスの活動によって、カエサレアはキリスト教教育における一つの中心地になった
 
オリゲネス↓
イメージ 2余談だがギリシア語のオリゲネス『Origenes』の由来は『Horigenes』。つまりエジプトの太陽神である『ホルスからなる者』という意味で、彼はエジプトの出身であったと考えられている。初期キリスト教の代表的神学者がエジプト神話に由来する『ホルスからなる者』という名をもっているのはちょっと面白い。
 
彼の生まれたカエサレアは、人口10万人以上を数える大都市で、オリゲネスの影響もありキリスト教の中心地であった。オリゲネスの蔵書コレクションはその後、孫弟子にしてエウセビオスの師であるパンフィロスに受け継がれ、カエサレアに3万冊以上の蔵書を有する大図書館が設立された。エウセビオスは職制上、今日では残されていない多くの公的文書や教会の図書館の書物、またオリゲネスが収集した膨大な資料などを参照する事が出来たので、そうした意味においても、彼が残した歴史資料は重要視されている。
 
ただし、エウセビオスの記述に問題点がなかったかというとそうではなく、単純な事実を誤認しているようなケースや、彼のコンセプトにそるよう多少参照した資料を操作しているようなところもあり、記述の正確性についてはなおも異論反論があるところだ。
 
いずれにしても、ミラノ勅令の真贋はキリスト教の歴史家ラクタンティウスとエウセビオスが残した記述が果たして信頼できるのかということにかかっている。タブンネ
 
この2人は全く同時代の人間であるが、接点はあったのだろうか
エウセビウスがそれほど活発にローマ帝国内を移動したという記録はないが、フリーメイソンの如くそのキリスト教のネットワークというのは強固なものであったに違いない。また、ラクタンティウスエウセビオスが伝える内容はほぼ一致していると言われ、日本語版ウィキペディアによると次のような内容だ。

……我、皇帝コンスタンティヌスと、我、皇帝リキニウスとは、幸いにもミラノに会して公共の利益と安寧に関わる全ての事柄を協議したる時、大多数の人々【多くの全体】にとり有益であると我等が考えた他の事柄の中にあっても先ず第一に、神格に対する敬意を堅持するような事柄が規定されるべきと考えた。即ち、キリスト者に対しても万人に対しても、各人が欲した宗教に従う自由な権能を与えることである。……

– 古山正人ほか編『西洋古代史料集』東京大学出版会、1987年、198頁「99 所謂ミラノ勅令」
問題は、このリキニウスの親書が残っている訳でもなく、ラクタンティウスやエウゼビオスがどのようにしてその内容知りえたのだろうかということだ。
イメージ 3エウゼビオスについて言えば、彼は皇帝に近い立場にあったわけではないが、325年5月20日からニコメディアで開催されたニカイア会議の様子を伝えているので、ラクタンティウスとそこで知り合いになった可能性もある。ではラクタンティウスがどうしてこの親書の内容を知るにいたったかというのは分かっていない。
ラクタンティウスは、303年のキリスト教迫害令によってニコメディアで職を失って以来、317年にコンスタンティヌスにトリア(現ドイツ西部)に招聘されるまで、この時代に彼が何処で何をしていたかというの不明である。
まぁ、キリスト教迫害令が出された後、職を失った土地であるニコメディアに居座ったとなればそこそこ信憑性もあるかもしれないが、ガリア地方に移住したという説もある。オリジナルや文献の出所をちゃんとたどって研究すればそれでいいのかもしれないが、このあたりがサラリーマンの限界なのだろうか。
 
それにしても、ミラノ勅令などが記されているラクタンティウスの著書『迫害者達の末路』だが・・・タイトルからして副島隆彦のような怪しさが漂う。『売国者の末路』とかいう本だったっけ・・・。
 
一部の研究者は、この著書そのものがラクタンティウスのものではないという主張する者もいる。どうもこの作品の文体が彼の他の作品と異なっており、研究者の間でも本当に彼が書いたものであるかどうかは議論が分かれたようだ(最近はやはり彼の作品であるというように議論が収斂しつつある)
 
では ミラノ勅令のようなものはなかった・・・
・・・と仮定すると、それでは
ローマ帝国内におけるキリスト教の地位が大転換した
という歴史的事象を説明できない事態に陥る
例えば、ドラマチックな出来事はいっさいなく、キリスト教は徐々にローマ帝国全体に浸透していったのだろうか?
あるいは、何か他にも見落としている決定的な事実があるのだろうか・・・?
ふむ。
コンスタンティヌス帝のキリスト教に対して行った貢献があまりにも誇張されているせいか、見落とされがちな勅令が存在していた。(・・・まぁ そう言ってもこれもラクタンティウスが言及しているのではあるが・・・。)
それはミラノ勅令の2年前に出されたキリスト教に対する寛容令だ
311年の 「ガレリウスの勅令 が公布されている。
https://history.blogmura.com/

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歴史の時計をミラノ勅令の313年に合わせる前に、テトラルキア崩壊前夜の2年前、311年のローマ帝国における状況をもう一度振り返ってみよう。テトラルキアの4人の皇帝は次のようだ。
コンスタンティヌス副帝(39歳)
コンスタンティヌスの父親であるコンスタンティウス・クロルスについては様々な伝説がつきまとっているが、出身地はイリュリアという旧ユーゴスラビアがあった場所と推測されているが、正確な位置については分かっていない。ただし、ヘレナという極めて身分の低い女性と最初の結婚し、コンスタンティヌスをもうけていたことからも、決して身分の高い家柄ではなかく、おそらく平民以上の身分であったとは考えにくい。
 
コンスタンティヌス帝については既に何度か述べているのでここでは省略するが、。イリュリアマクセンティウスの父であるマクシミアヌス帝の義理の娘を妻として迎えているので、本来マクセンティウスとの関係には微妙なものがある。

マクセンティウス正帝(33歳)
後の皇帝マクシミアヌス(当時は軍人)とその妻エウトロピアとの間に生まれた。マクシミアヌスはもともと現在セルビアの一都市であるシルミウムで暮らす貧しい家庭に生まれ、教育らしい教育はほとんど受けていないと考えられている。しかし軍隊に入隊すると頭角を現し、ローマを再統一したアウレリアヌスやその後の歴代皇帝に仕えながら軍人としてのキャッリアを積んでいく。

そして、ディオクレティアヌス帝が285年に、マクシミアヌスを副帝にして帝国の西側を任されると、翌年にはディオクレティアヌスに並ぶ正帝となった。293年にテトラルキアが導入されると、コンスタンティヌス帝の父親コンスタンティウス・クロルスがマクシミアヌスの副帝となり、マクシミアヌスの義理の娘フラヴィア・マクシミアーナ・テオドラを妻としている。

305年3月1日、ディオクレティアヌスの引退伴いマクシミアヌスも引退し、コンスタンティウス・クロルスが今度は正帝となり、軍人のセウェルスが副帝となる。しかし、306年にコンスタンティウス・クロルスが亡くなると、その息子であるコンスタンティヌスが皇帝として宣言し、副帝としてガレリウスを迎えるが、それに対抗するようにディオクレティアヌスの息子であるマクセンティウスが皇帝として擁立され、制圧しようとしたセウェルス帝の軍隊を破り正帝を名乗るようになった。
リキニウス正帝(46歳)
もともとはダキア地方の農民という低い身分の出身だが、軍隊にはいるとやはり頭角をあらわし、297年の時にガレリウス帝に伴ってペルシア遠征に参加したのがきっかけで、皇帝との関係が親密になる。思い切った人材登用だと思うのだが、308年にガレリウス帝は、リキニウスを正帝の座につけた。そして、311年5月にガレリウス帝が亡くなると、マクシミヌス・ダイアと支配地域を分割することになる。
マクシミヌス・ダイア副帝(41歳)
リキニウスと同じくダキアの農民出身であり、軍隊に入り頭角をあわらす。そして、ガレリウス帝の後ろ盾によってキャリアをつむというのはリキニウスと同じだが、マクシミヌス・ダイアにとってガレリウスは母方の伯父にあたる。まぁ、ガレリウスも元々ダキア地域の牧夫出身であったので、リキニウスにしろ、マクシミヌス・ダイアにしろ同郷出身の軍人を優遇したというのだろうか・・・。


311年の同盟関係で言うと下のようであった。

コンスタンティヌス副帝 & リキニウス正帝
                  VS.
マクセンティウス正帝 & マクシミヌス・ダイア副帝
イメージ 1


おそらく、この311年のテトラルキアを担う

4人の皇帝に共通していることは、

貧しい家庭、もしくは平民の出身であった・・・。

ということだろう。

それにしても 軍人皇帝と言えば聞こえは良いかもしれないが・・・


当時ローマ帝国と呼ばれた地域は、差別するわけではないのだが農民など当時教養のない社会的底辺層出身の人物と、その血縁関係によって牛耳られていたということが分かる


ローマ皇帝が農民出身だとか、貧しい家庭の出自というのは、

当時ローマにおけるキリスト教の主要な信者が比較的社会的地位の低い人々であったことを考えると、後のキリスト教に対する寛容な展開はむしろ必然性をもってみることが出来るかもしれない


さて、本ブログでも何度か書いたが、まずコンスタンティヌス帝とマクセンティウス帝の戦いの火ぶたが切っておとされる。

・・・とは言ってもまずは口頭での誹謗中傷合戦だ。

マクセンティウス帝はコンスタンティヌス帝を「父親殺し」となじり、コンスタンティヌス帝も「マクシミアヌスの妾の子」とやり返した。(何だか逆が正しい様な気もするが・・・)

売られたケンカは買わなければならず、312年の初め、コンスタンティヌス帝は伝説のハンニバルよろしくアルプス山脈を越えてマクセンティウスの領土に侵入する。トリノ、スーザ、そしてヴェローナでマクセンティウスの駐屯兵を相手に何度か小規模な戦闘があったが、いずれもコンスタンティヌス帝が勝利し10月にはローマに到達した。

マクセンティウス帝はいったんアウレリアヌス城壁で守られた町に避難するが、同月の28日にあのミルウィウス橋の決戦が行われた。

イメージ 2


同盟者のリキニウス帝はその時何をしていたかというと、ドナウ川流域で本来の使命である外の敵と戦っていたのだ。しかし、コンスタンティヌス帝がマクセンティウス帝に勝利し西方情勢が一段落すると・・・
 
313年3月リキニウスはコンスタンティヌス1異母妹であるフラウィア・ユリア・コンスタンティアミラノで結婚することになる。この時点で、リキニウス帝はコンスタンティヌス帝の後継者となることを意識していたに違いない。

ミラノで盛大な政略結婚の宴あった・・・か どうかは知らないがそこでコンスタンティヌスとリキニウスとの間に宗教史上もっとも影響を及ぼしたと思われる会談がもたれ、そこである合意がなされた。


僕たちがミラノ勅令として知っているあの宗教寛容に関する合意だ。

しかしながら、そこであったとされる合意はメソポタミア文明のように粘土板や石板に刻み込まれた碑文で残っているわけでもない。書く物と言えば、おそらく当時の古代ローマ帝国ではバピルスから羊皮紙へと移行していた時期なのではあるが・・・、ミラノ勅令とやらに関する公文書の記録はいっさい残っていない。

では、僕たちはどうしてソレを知っているのだろうか?


ウィキペディアでも書いてあるのだが、それを裏付ける史料と言えばラクタンティウスの『迫害者の末路』に収録されているラテン語版と、エウセビオス『教会史』中のギリシア語版の2種類しかない。

またアイツだ。あのコンスタンティヌス大帝がミルウィウス橋の戦いでPとXのラバルムを見たと伝えているラクタンティウスだ。。。

そして、彼の伝えたミラノ勅令は、ビテュニアの代官に宛てられたリキニウスの親書であり、313年に公開された場所はニコメディア(今日のトルコ、アナトリア北部)である。

でも公開って・・・どんなふうに行われたのだろうか?

ニコメディアってローマから見ると随分遠いような気がするし、ニコメディアが当時ローマ帝国の重要都市の一つであったとは言え、リキニウスの親書がそこで公開されたのに、どうしてあたかもコンスタンティヌスがミラノで公布したかのように伝えられているのだろうか?

それに、ビテュニアにしろニコメディアにしろ当時はまだリキニウスと対立していたマクシミヌス・ダイアの領土では?

まぁ、どっちにしても当時コンスタンティヌスの領土でないことは確かだ。

コンスタンティヌス帝とリキニウス帝の会談がミラノであったといわれるのが313年3月。その後すぐにリキニウスとマクシミヌス・ダイアとの戦いがはじまり、ツィラルムの戦いがあったのが4月30日。その後負けたマクシミヌス・ダイアは、ニコメディアを経由してタルススに逃亡して、8月に死亡したとある。

したがって、このミラノ勅令がコンスタンティヌスの何らかな政治的な意図があったという話もこのドタバタ劇の中では何とも怪しくなるのではないだろうか?

さらに、翌年にはミラノ勅令の連名者であるリキニウスとの関係が悪化して、314年10月にはシバレーの戦いが勃発していることを考えると、ミラノ勅令が当時果たした役割は、少なくとも政治面においてはほとんどなかったのではないだろうか?

そうすると、このミラノ勅令を後世にもっともらしく伝えているラクタンティウスの記録そのものもあやしくなってくる。
 
・・・そう・・・思いません?
 

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ミラノ勅令とは何だったのか?・・・というシリーズのパート2だ。
 
前回からかなり日数があいてしまったが、所謂ミラノ勅令が公布されるまでのローマ帝国の背景を見てみようというものだ。
 
元々はダゴン→キュベレー→キリスト教という冠(司教冠)の系譜を辿るのが目的だったのだが、ローマ帝国の宗教事業をみているうちに例によってまたかなり脱線してしまった。
 
さて、ミラノ勅令というものがミラノで発行されたものでもなければ、勅令でもないというのは前回述べた通りなのだが、時代背景を冷静に見てみると、その意義にしても一般に解釈されているものとは違う一面が見えてくる。それは今日でも脈々と生き続ける『ローマ帝国』という誇張された理想の帝国とも言うべき存在が、いかに僕達の歴史認識を歪めているかという問題でもある。
 
前回のブログ記事でも書いたが、395年にローマ帝国が東西に分裂したと教わったものだが、その200年も以前にその長い滅びへの道の序曲は流れはじめていたのである。コンスタンティヌス帝の時代のローマ帝国とはほとんど地理的概念の何物でもないような印象さえ受ける。
 
 
さて、『三世紀の危機』と言われる時代にさらに拍車をかけたのは、226年にパルティアを滅ぼして勢いの出てきたサーサーン朝ペルシアの興隆だ。ゾロアスター教の神官でもあったアルダシール1によって建国されたサーサーン朝が、拡張的な政策で西部に領土拡大政策を展開する中で、彼の息子であるシャープール1世が即位すると、ローマ帝国とは常時戦争状態にはいっていた。
 
そして、259年にエデッサ(現在のトルコ南部にあるシャンルウルファ)で、ローマ軍と戦争が勃発する(エデッサの戦)。その戦いでうかつにも皇帝ウァレリアヌスがエデッサの戦いで敗れて虜囚となるというローマ帝国史上最大の失態をおきた。
 
皇帝ウァレリアヌスは軍人皇帝時代にありながら、由緒正しき元老院議員の出自であった。しかし、前回の記事で五皇帝の年だとか六皇帝の年だとかについて述べたように、当時のローマ帝国は覇権主義の限界を露呈していて、共同統治はほとんど統治政策の基本となっていた。皇帝ウァレリアヌスが即位した背景をみても・・・それが分かる。
 
以下はウァレリアヌスについてのウィキペディアの記事を抜粋
251年、皇帝デキウスの時代にケンソル(監察官)に選出、また、ライン川沿岸のノリクムおよびラエティア両属州の総督に任じられた。
 
デキウスがアブリットゥスの戦いで戦死した後も、引き続いて総督職を維持したが、デキウスの後継皇帝のトレボニアヌス・ガッルスに対してマルクス・アエミリウス・アエミリアヌスが反乱を起こして、トレボニアヌス・ガッルスおよびその共同皇帝ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌスが殺害されると、アエミリウスを追討するため、軍を率いて南下。その後、アエミリウスが自軍内の兵士に殺害されると、253年にウァレリアヌスはローマ皇帝となった。

皇帝となったウァレリアヌスは息子ガッリエヌスを共同皇帝としてローマ帝国の西半分を任せ、自らはペルシア(サーサーン朝)とのリメスに面した帝国の東半分を受け持った。
 
 
まぁ、文民出身の割に格好つけすぎたのが運のつきだったのかもしれない。
 
256年、サーサーン朝(ペルシア)皇帝シャープール1世が、ローマ帝国領カッパドキアに侵攻し、それに対抗して259年ウァレリアヌス率いるローマ軍シリア属州のアンティオキアに到着し、臨戦態勢となる
 
そうはいってもここまでの遠征だけでも3年間費やされているのを考えると、戦費のファイナンスだけでなく、兵隊のモチベーションを維持するだけでも大変だっただろう。エデッサの戦いの運命はこの時点で決まっていたのかもしれない。
 
エデッサの戦いで敗れたウァレリアヌスはビシャプールへ護送されたとも、ペルシア国内で皮剥ぎの刑に処されたと伝えられるが、ローマに戻らなかったのは確かなようである。そして、この前代未聞の出来事の後、すぐにウァレリアヌスの息子であり共同皇帝であったガッリエヌスが単独での皇帝へ即位するのだが・・・
 
 
もちろん、それでことはおさまらなかった。
 
 
独立運動・・・と言うと語弊があるかもしれないが、ローマは3つに分裂する。
 
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ガリア帝国(260年から274年) 緑色の領域
ローマ帝国の統治体制が動揺する中で、ゲルマニア2属州(インフェリオルおよびスペリオル)の総督であったマルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムスという人物が今日のフランスの領域を中心としたガリア帝国を築く。彼はアウグストゥスを名乗り独自の貨幣を発行した。結局ガリア帝国は260年から274年までの14年間しか存続しなかったものの、この動きは、もはやローマという帝国があまりにも肥大し、帝国全体を統治するのがもはや難しくなっていることを示している。
 
パルミラ王国(260年? 〜 273年) 黄色の領域
オリエント地域でも同じような動きが起こる。パルミラ王国を統治した女王ゼノビアについては、本ブログですでに述べているので、これ以上ここでは深入りしない。サーサーン朝に対する防衛線というような口実を巧みに使っていたが、事実シャープール1世率いるベルシア軍に対して果敢に抵抗し、西進を食い止めたのは事実のようだ。
 
 
273年アウレリアヌスは三分されていた帝国をようやく再統一することに成功、『世界の修復者』というタイトルを元老院より授かるが、その後も政権は混乱し、暗殺やクーデターが相次ぐ。
 
そして、284年にディオクレティアヌスが皇帝の座に着き、歴史に名高いテトラルキア(4分割統治)を敢行する。
 

テトラルキア(4分割統治)

 
以下はウィキペディアより抜粋。
イメージ 3当時、広大なローマ帝国の統治と防衛を単独で行うのは困難だと考えられた。そこで、軍の同僚だったマクシミアヌスを共同皇帝として西方を担当させ、自身はニコメディアを拠点に東方を治めた。
 
皇帝ディオクレティアヌスは将軍マクシミアヌスを共同皇帝に取り立てた(デュアルキア、2分割支配)。彼らは国境防衛に便利なように前線にほど近い都市に宮廷を置いたため、既に荒廃していたローマの重要性はますます低下し、ローマ帝国の重心は東方におかれるようになった。

しかしディオクレティアヌスは、住民問題と軍事問題の解決にはどちらにもより多くの力を注ぐ必要があると考えて、293年に、マクシミアヌスの同意を得て、それぞれの正帝の補佐役として副帝を加えた。東方副帝ガレリウスと西方副帝コンスタンティウス・クロルスである。
 
ニコメディア
東方正帝ディオクレティアヌスの都。現トルコ領イズミット。主要なタスクはエジプトで度々隆起する反乱を鎮めることにあった。
 
シルミウム
東方副帝ガレリウスの都。現セルビア領スレムスカ・ミトロヴィツァ。対ペルシアの最も危険な防衛線を託されていた。
 
メディオラヌム
西方正帝マクシミアヌスの都。現イタリア領ミラノ。ミラノが本拠地ではあるが、彼の基本的なタスクは不穏な動きが頻発する北アフリカの情勢を鎮静化することにあった。
 
アウグスタ・トレウェロルム
西方副帝コンスタンティウス・クロルスの都。現ドイツ領トリーア。かつてはガリア皇帝テトリクス1世の拠点であった。彼はイングランド領とライン川流域の秩序を維持することを使命としていた。
 
権限という点では副帝も正帝同様の権限が与えられていており、対侵略者を相手にこのテトラルキアは当初有効に機能した。東方正帝ディオクレティアヌスは、行政区と軍隊の改革を断行し、また経済面では、前任者が行った貨幣の改鋳を終了させ、価格統制を行いインフレを収束させることに成功している。
 
公式な肖像画では、4人の皇帝は全く同じに描かれた。テトラルキアの時代に入ってから鋳造されたコインにはどの皇帝も同じ容貌に描かれ、ただコイン上の銘刻だけが、それが4人の中の誰であるかを示していた。(ウィキペディア)
 
コインは下のリンクを参照
 
しかしながら、20年目にしてこのテトラルキアは世代交代に失敗し、ローマ帝国はまた混迷の時を迎えるようになる。
 
 
活字だけだとイメージが伝わりにくいのだが、当時の動向を地図で追う次にようになる。(ただし、ここで留意しておきたいのは4人の皇帝が支配する領土が確定していたかどうかというのは、定かではない。)
 
下の画像の出所は不明(コピーしたものの再度見つけられず・・・)
293年 テトラルキアの誕生
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305年 第二テトラルキアの形成
305年、ディオクレティアヌスとマクシミアヌスは20年の統治を終え、ともに退位した。同時に副帝であったガレリウスとコンスタンティウスは正帝に昇格し、新たにマクシミヌス・ダイアがガレリウスの副帝(東方)に、フラウィウス・ウァレリウス・セウェルスがコンスタンティウスの副帝(西方)に選任された。ここに第2のテトラルキアが形成されたのである
 
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しかしこの制度は間もなく瓦解した。306、西方正帝コンスタンティウスが死ぬと、東方正帝ガレリウスは西方副帝セウェルスを正帝とした。一方、コンスタンティウスの息子コンスタンティヌス(後の1世、大帝)も、軍に推戴され父の後継者として西方正帝を宣言した。
 
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マクセンティウス(マクシミアヌスの息子)は新秩序から疎外された身分を不満とし、セウェルスを退位させ、307年には殺害した。その後、マクシミアヌス・マクセンティウス父子も正帝を宣言した。
 
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308、元々の東方正帝ガレリウスは先帝ディオクレティアヌスと(同じく先帝であるはずの)マクシミアヌスを伴い、ドナウ川河畔のカルヌントゥム (Carnuntum) でいわゆる「帝国会議」を開催し、リキニウスが西方正帝でコンスタンティヌス1世はその副帝であるという合意を得た。一方、東方ではガレリウスとマクシミヌスが引き続き正帝と副帝に就いた。一度は復位を宣言したマクシミアヌスは再び引退し、その子マクセンティウスは簒奪者とされた。
 
 
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だが、この合意がのちに事態を一層悪化させることとなった。308年の時点で皇帝の位から追われたマクセンティウスは、イタリアとアフリカを事実上支配していた。また、コンスタンティヌス1世とマクシミヌスの両者(ともに305年から副帝)は正帝としてのリキニウスの幕下に入る気は毛頭持ち合わせず、その地位を認めようともしなかった。
 
 
310、コンスタンティヌス1世は、マクシミアヌスを絞首台に送ることに成功した。311年には東方正帝ガレリウスが死去、「簒奪者」マクセンティウスは、312ミルウィウス橋の戦いでコンスタンティヌス1世に敗れ、戦死した。コンスタンティヌスがキリスト教を象徴するPとXを見たあの戦いだ。
 
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313年、東方副帝マクシミヌスはリキニウスと戦って敗れ、タルススで自害した。
 
結果として、313年には西方正帝コンスタンティヌス1世と、東方正帝リキニウスだけが残った。
 
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つまり、
 
この内戦状態の中で、
 
歴史上有名な”ミラノ勅令が公布”された年を迎えるわけだ。
 
 
では その実際はどうだったのであろうか?
 

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前回のブログの記事で疑問に思ったのは
 
ローマ帝国でだされたミラノ勅令やテオドシウス1世がキリスト教を国教とした時も、IHSを認めるとか国教にするとかいうふうに記載されていたのだろうか?
 
 
ということだったのだが、調べているうちにいろんなことが分かってきた。
 
 
ミラノ勅令なんてもの存在しなかった・・・
 
 
とは言い過ぎかもしれないが、実際 ソレ が何であったのか 僕らはあまりにも知らなすぎる。
 
 
まだ、学生の頃・・・おそらく誰もが学校で
 

313年、コンスタンティヌス大帝のミラノ勅令によってキリスト教がローマ帝国で公認された・・・。

 
・・・と教わったと思うのだが、どうも違うようだ。
 
 
それがミラノで発行されたものでもなければ勅令でもない・・・
 
 
というのは日本語版ウィキペディアにも記載されている
 
ミラノ勅令(―ちょくれい、ラテン語:Edictum Mediolanensium, 英語:Edict of Milan)は、313年にローマ皇帝コンスタンティヌス1世(当時は西方正帝)とリキニウス(同・東方正帝)が連名で発布したとされる勅令である。一般に、全帝国民の信教の自由を保障した内容とされるが、この勅令の実在そのものや、真の起草者について疑問視する研究者もいる。

(中略)

一般的理解からみた誤解
ミラノ勅令は、しばしばキリスト教のみを公認したものだといわれるが、それは誤りである。ミラノ勅令がキリスト教優遇政策の始まりであることは確かだが、この「勅令」はすべての宗教の完全なる信仰の自由を保障するものであった。没収されたキリスト教会所有の財産の返還が命じられたのは、信教の保障という観点からそれが不当であると判断されたからである。

また、この「勅令」は「ミラノ勅令」という名称からミラノで発布されたと勘違いされがちである。ミラノはコンスタンティヌス帝とリキニウス帝が会談した場所であるが、会談の合意内容を記してビテュニアの代官に宛てられたリキニウスの親書(ラクタンティウスが依拠する文書)が313年に最初に公開された場所はニコメディアである。

またエウセビオスの『教会史』の該記述の情報源はパレスチナの代官に宛てられた親書と推測されている。それゆえ311年のガレリウスの勅令と異なり、この宣言は法的には「勅令(edictum)」ではない。
 
 ふむ。陰謀論者の落書きかと思いきや、そうではない。
 
 
ここで「勅令」という言葉使うこと自体が間違いだと指摘されているが、ドイツ語版のウィキペディアにも同じ事が書かれている。
 
英語でもミラノ勅令はEdict of Milanと書かれており、「Edict」は政令、あるいは何ら法的拘束力をもつような布告とかを意味する言葉で表現されている。しかしながら、ミラノ勅令に限って言えば「法律」の類でないということは間違いなく、またローマ帝国全体に効力を発するような性質ものではなかった。
 
 
時代背景を考えれば当たり前かもしれない。
 
僕らはローマ帝国を思い浮かべる時、今日のヨーロッパ地域はおろか、アナトリア、シリア、エジプトなど、地中海をつつみこむように存在する巨大な帝国を想像する。
 
395年に東西に分裂するまで、パックス・ロマーナ(ローマによる平和)という言葉に象徴されるように、あらゆる民族・文化・宗教などを内包する国家といったイメージがあり、その時代は「歴史上人類が最も幸せだった時代」と主張されたとしても、とりたてて反論する理由もないように思っていた。
 
今日、EU統合を突き動かすのは、かつての超大国ローマ帝国へのノスタルジーに他ならない。
 
ローマ帝国の歴史を語る時、395年の東西分裂が強調されるのだが、ローマ帝国自体はそこにいたるまでの200年以上の間、分裂と統合を繰り返してきたわけであり、そもそも、395年にいたるまで僕たちが思い描くようなローマ帝国が果たして存在していたのかというとそうではない。
 
おそらく学校でも教わっているはずなので知ってはいるのだが、固定観念というのはどうも払拭するのが難しく、例えば旧約聖書の創世記でエバがリンゴを食べたとはどこにも書いていないし、イエスの誕生にあたって東方から三博士(聖王)がやってきたとあるが、3人の・・・とはどこにも書かれていない。三つの贈り物に言及されているのみだ。
 
 
しかしながらこの場合、問題はミラノや勅令という言葉の使い方が正しいのかどうかというよりも、そのものの存在なのだ。
 
 
ミラノの勅令にいたるまで、ここでもう一度3世紀の危機と言われた時代をふりかえってみる。
 

五皇帝の年

『3世紀の危機』とは235年から284年までの時期、つまりセウェルス朝の終焉から軍人皇帝時代、そしてディオクレティアヌスの帝位就任まで時期をさす。この時代になるとローマ皇帝の権威は失墜し、長い分裂と混乱の時期を迎えたといわれている。
 
ただ、こうした混乱の予兆はすでに五皇帝の年(Year of the Five Emperorsと呼ばれた内戦からはじまった。五賢帝ではないのでご注意を
 
まぁ、五皇帝とはいっても193年実際にアウグストゥスを名乗ったのは以下の4人である。
 
ペルティナクス帝(193年1〜3月):
自由民階層の出身。元老院と近衛隊の推挙を受けて皇帝となる。同年暗殺
 
ディディウス・ユリアヌス帝(193年3〜6月):
上流階級の出身。帝位競売によって皇帝となる。
 
セプティミウス・セウェルス帝(193年〜211年):
アフリカ出身。セウェウルス朝の創始者
 
ペスケンニウス・ニゲル帝(193年〜194年):
騎士階級出身。シリア属州総督でシリア軍より支持を受け皇帝となる
 
 
したがって本来「四皇帝の年」と呼ぶのが正しいのだろう。69年にもローマが分裂し皇帝として4人が名乗りを挙げた「四皇帝の年」というのがあったのでそれと区別するために193年を「第二の四皇帝の年」とも呼ばれている。
 
 
皇帝を名乗るとことによって彼らはいったい何をしたのだろうか?
 
 
「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば、誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでも良い。」
 
・・・と
 
ロスチャイルドの先輩を気取ったつもりかどうかは知らないが、この皇帝を名乗った4人はそれぞれ硬貨を発行した。
 
                      ペルティナクス帝
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                   ディディウス・ユリアヌス帝
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                  セプティミウス・セウェルス帝
 
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                   ペスケンニウス・ニゲル帝
 
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5人目として数えられるクロディウス・アルビヌスは、194年にローマをおさえたセウェルスと盟約を結び、カエサルの称号を獲得し、執政官として務めていた。確認のためみると
 
 
アウグストゥス = 正帝 つまり ローマ皇帝
 
カエサル = 副帝
 
当初の思惑ではアルビヌスはセウェルスの後継者となるはずであったようだ。しかしその後、セプティミウス・セウェルスがニゲルを倒し、彼の息子であるカラカラとゲタを後継者と考えていることが明白になると、アルビヌスは盟約を破棄し、196年に自ら対立皇帝となった。しかしながら、彼は翌年のルグドゥヌムの戦いでセウェルスに敗れ、自害した。
 

六皇帝の時代

そこから40年ほどカラカラ帝などを輩出したセウェルス朝の下でローマは統一されるが、今度は238年に「六皇帝の年」と呼ばれる年を迎えう。35年におよぶ内戦時代の幕開けである。内戦の原因は当時のローマ皇帝マクシミヌス・トラクスと元老院の確執で、238年にゴルディアヌス親子(1世、2世)がマクシミヌスに対して反乱を起こし、それに元老院が乗るような形で幕を開けた。
 
ここで問題となるのは次の6人の皇帝である。
 
マクシミヌス・トラクス(在位:235年〜238年)
 
ゴルディアヌス1世(在位:238年)
 
ゴルディアヌス2世(在位:238年)
 
マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス(在位:238年)
 
デキムス・カエリウス・カルウィヌス・バルビヌス(在位:238年)
 
ゴルディアヌス3世(在位:238年〜244年)
 
 
そして
 
「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば、誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでも良い。」
 
・・・しつこいか・・・(笑
 
 
とりあえず、この皇帝を名乗った6人もそれぞれ硬貨を発行した。
 
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インフレが起きたであろうことは容易に想像できる
 
そして238年の六人皇帝の時代に終止符らしきものが打たれたかというとそうではなく、その後もダラダラと誰かが帝位については殺されるという状態がさらに20年以上続く。
 
紀元前2000年頃の古代メソポタミアで栄えたウル王朝風にいえば
 
「誰が王で誰が王でないのか分からない」というような時代だ。
 
 
そのうち日本も誰が首相で誰が首相でないのか分からない。
 
あるいは
 
誰が民主党で誰が民主党でないか分からない。
 
 そんな時代が来るのだろうか?
 
 
 

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