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先日、民放で「おくりびと」が放映された。上映時間の都合からか、それは「特別篇」と銘打たれており、映画館で放映された本編とは異なる編集がなされ、ショットどころか多くのシーンがカットされている他、クリスマスの夜フライドチキンを食べるシーンと、いくつかの納棺の短いシーンが新たに編集し直されている。従って、あの放送をご覧になってこれをお読みいただいても、何を書いているかよくわからないと思う。もしもこの記事を読んでやろうというのであれば、おそらくは上映時と同じ編集であろうDVDを観ていただいた上で読んでいただければと思う。

さて、もう少し、前半の分析を続けよう。
これまで記号を見てきたが、まだタコが残っている。
あのタコは何なのか。何故タコでなければならなかったのか?

楽団が解散した日、広末涼子演じる妻の美香がタコをもらって帰ってくるシーンから考えよう。
夫婦で楽団の解散とチェロの借金の話の途中、とりあえず話を打ち切って夕食を作ろうとキッチンに消えた美香が大声を出し、「このタコ生きてる!」と叫んでタコを床にとり落とす。二人はそのタコを食べるのをやめ、海に出かけ、「もう釣られるなよ」と言って海に帰してやろうとするが、そのタコは死んだらしく波間に漂っている。
もちろん、そこで「死」という主題を云々するのは簡単だ。
だがよく観よう。このシーンの大悟の行動と言うのは、形態から見て、「死んだもの=タコ」を海と言うタコの「生地(同時に墓)」に帰してやる行為である。

つまり大悟は、死んだタコを海に葬るという「おくりびと」としての作業を図らずも挙行しているのである。

従って、このエピソードの機能は、「ハレ=チェリスト」を経、楽団の解散によって宙に釣られてしまった大悟が、次のステップで「ケ=おくりびと」という仕事に就くだろうことを、その模倣的行為によって「予兆」しているのである。
このタコの葬送は、説話論上、ハレからケへの分岐点となっているのだ。
この「無意識に模倣してしまったおくりびとの仕事」を境に作品は時系列的に「喪」の世界に入るのである。だから大悟がチェロを辞めようと決意したのはこの直後である。海を漂うタコの死骸を見ながら「辞めようかな」と呟き、あっさりと帰省を決めてしまうのだ。

さて次の疑問だが、なぜ、タコであって他の動物ではないのか。タコである必然性はあるのだろうか? 答えは作品の他のエピソードにある。

大悟がNKコーポレーションで行った「おくりびと」としての初仕事として初めて行った納棺は死んで2週間放置され、腐乱した老婆の納棺だ。

腐乱死体のあるそのアパートの一室に入った大悟は、まず床に落ちて腐乱した何かを踏みつけ、「ずるり」と足を滑らせる。我々は即座に、「床に落ちた」「不気味な感触のモノ」として、キッチンで美香が「床に落とした」「タコ」を想起しなければならない。
腐乱死体のあるアパートの「床に落ちていて踏みつけてしまった腐敗した食べ物」を撮るキャメラ・アングルが、美香の「床に落ちて蠢くタコ」と全く同じであることに注意しよう。

腐乱死体のあるアパートで大悟が社長に命じられたのは、まず、死体の「足を持つ」ことだった。彼は躊躇し嘔吐を催すが、強い口調で社長に「しっかり持て!」と命じられ、仕方なくその両足を「掴む」。腐乱死体の両足を「掴む」。そこでこのシーンは唐突に終了する。
部屋で踏みつけた腐乱物のズルリとした感触は、もちろん腐乱死体そのもののイメージを想起させるのだが、同時に腐乱死体の足を掴んだその「感触」をも示している。つまり、腐乱死体の足の感触=踏みつけた腐敗物の感触が、ひいてはタコの葬送時にタコを手にした感触を想起させるのである。
従って、タコの葬送は納棺師という職業に就く予兆だけでなく、その仕事でタコのような不気味な感触をした腐乱死体の足を掴むことになることを予兆していたのである。

帰宅した彼は、妻の美香がご近所からもらったという「捌かれたばかりの鶏」を観て嘔吐を催した後、彼女を求めるが、体に触れる大悟の愛撫は不自然だ。彼は執拗に両手で妻の体を撫で擦る。タコを手にし、腐乱死体を掴んだ手の「感触」の記憶を消すために、妻の美香の「生の感触」をその手に取り戻そうとしているのである。
(大悟と美香のラブシーンは、伊丹十三監督「お葬式」の、高瀬春奈がとてつもなく豊満なヒップをさらけ出して山崎勉と事に及ぶシーンを想起させる。伊丹作品を意識していることは豊富な引用から明らかなのだが、あの高瀬春奈の豊満な尻と広末涼子の引き締まった腹の対照は滝田監督の「ひとひねり」の上手さだといってよいだろう。このシーンの本来的な意味は「エロスとタナトス」といってしまえばそれまでであるが、「おくりびと」で、広末涼子がスリムで肉の薄い腹部を晒すにとどまるのには、監督の別の計らいがある。映画と言うコンテクストから鑑みればわかる通り、もちろんこの時、美香は懐妊するのだが、映画のラストで美香の「大きくなったお腹」が映し出され大悟の手がそれを触れる時、その対照性のゆえに、ラブシーンにあって美香の「薄い腹部」に「大悟が触れる」カットをクローズアップによって示しているのである。
換言すれば、ラストの大悟が美香の腹部に石手紙を当てるカットに、このラブシーンで見せた美香の「薄い腹部」の記憶をふと重ねてみようということだ。それが映画を観るということである。)

さて、話を少し理論上の批評、つまり、批評理論からこの映画の作りにふれておく。
チェロ演奏と納棺の儀式の均質性、タコと死体の関係、映画館でのビデオ撮影での拍手、
文学上の修辞技法で言えば、予弁法、あるいは直喩といわれる技法であると言って良い。
もっと平たく言えば暗示といってよいかもしれない。
この作品には他に修辞技法上の暗喩、提喩、隠喩といえる修辞技法が様々に使われている。そのうち予弁的な比喩表現の代表例を二つ挙げておこう。(今回の記事ではそのうちの一つ。)

NKエージェントの面々がクリスマスを過ごすのシーンの後、おくりびとのテーマ曲に乗って、大悟の納棺風景がいくつか示される。その中に、社長の山崎勉が事務所一回のソファで眠りこみ、それを見た「上村」が「社長も年齢をとったわ」と呟き、大悟が社長にそっとコートをかけてやるというシーンがある。
「愛情」と「いたわり」と「月日の流れ」を感じさせる場面だ、と一般にはかんがえるのだろうが、実はこのシーンは「社長の死」の予弁(予兆)なのである。
私たちは、納棺の儀のシーンを何度か目にしている。湯灌の前に、布団の下から手品のように遺体の浴衣を引き抜き、それを遺体の上にかける。あるいは、棺に納まったニューハーフの遺体には、赤いワンピースがかけられる。
つまり、「横たわって目を閉じた人間に衣類をかけてやる」というのは納棺の儀そのものなのだ。映像的にもそれは確認できる。横たわる社長にコートをかける大悟。そして社長の顔と大悟の顔の切り返しは、納棺の儀で大悟と遺体を交互に映しだすキャメラワークと同じなのである。
勘の良い人ならこの社長のうたた寝のシーンを観て、劇中、彼が死んでしまうのではないかと想像するだろう。しかし、その死は回避される。この後、大悟が出先からNKエージェントに戻って父の死を告げられるシーンで、ソファに「寝転がって」本を読んでいるシーンが映されるからだ。もちろん目は見開いており、死が回避されたことは明らかだ。しかし先に述べたように、このシーンで社長は営業車のキーをほうり投げて大悟に渡す。納棺師継承の儀式である。社長は説話の中で生きながらえるが、もちろん我々が一度想起させられた社長の「老い」や「死期」を背景に、成長した大吾を配することで、そしてまた前出の「家族関係の成立」という主題において継承が遂げられる。従って、社長と上村を継ぐものとして、大吾と美香が営業車に乗り込むのである。

さて、美香(広末涼子)で思い出したのだが、この作品がホラー映画を踏襲していることにお気づきだっただろうか?
大悟が市中を行くシーン、奇妙に人気(ひとけ)が少ないことにはお気づきになったと思う。大悟が第三者と呼びうる人に出会うのは遺体のある場所とその付近に限られる。街中を歩いても、人とはすれ違うことはない。人影は景色の奥に小さく配されるばかりである。NKエージェントへ続く坂道など、車も通らなければ人も通らない。日々NKエージェントに出入りする社長も上村すらも、表通りには出てこない。
これはホラー映画の常套手段なのである。
(NKエージェント前の坂道を行き来するのは大悟だけだったのだが、そこに初めて美香が現れ、絶対に社長・上村・大悟以外の者が立ち入らない「閉域」であるNKエージェントに足を踏み入れることで、上村を継承することになるのだ。)
冒頭の吹雪の中にヘッドライトがぼんやり浮かぶというシークエンスはホラー、サスペンスの古典的導入部に決まって使われる。
さらに、往来から人影を排することでホラー的風土は横溢する。
大悟が初めてNKエージェントを訪れるシーンを思い出そう。
人通りの絶えた坂道を上ぼり、途中で見上げると不気味なデザインの建物がある。キャメラはこの建物を仰角で捕らえる。由緒正しい「吸血鬼の住む城」の撮り方である。
ドラキュラの場合は、一人城を訪れると召使が応答し、案内し、伯爵さまはお出かけだと答える。待っているとドラキュラ登場。帰ろうにも帰れぬ契約を交わされ、彼は城の虜となる。
大悟も全く同じである。扉をあけると事務員上村が出迎え、社長を待つはめになる。そこに山崎勉が登場。あれほどに「死神」に相応しい渋面を持つのは本邦では彼一人だろう。その彼は大悟をすぐに採用する。契約である。そうして彼はNKエージェントに囚われの身となる、という寸法だ。だから、棺が置かれているのも当然だ。棺はドラキュラ伯爵の由緒正しい寝所なのである。
さて、城を抜け出そうと心に決めた大悟、召使の上村に相談すると、彼女は二階を指さす。
キャメラは上を見つめる大悟と上村を、真上から映しだす。
これはもちろん「天上界」を見上げる者と見下ろす者の視点である。
さて、その天上界、そこは天国なのか地獄なのか。初めて入った社長=ドラキュラ伯爵の居室は観葉植物で埋め尽くされている。その繁茂する濃い緑を「生」とみるか、あるいは「生きる物が捕食されるジャングル」とみるか。社長=ドラキュラの台詞を思い出そう。「メシどうしてる?カミさん、まだ戻ってないんだろ?食ってけよ。俺のが(おれの出す食い物のほうが君の女房の作る食い物よりも)うまいぞ、たぶん。」
女房が作るものより俺のモノの方がうまい。すなわち俗世のものではなく、吸血鬼の食事である血の味を味わうという盟約によって、こちらの側につけということだ。もちろんそこで食うのは河豚の白子。
大悟はそこで「肉」の味を知り「うまい」とつぶやいてしまう。こうして女房を捨て、魂を死神に売り渡し、城の人間、すなわちドラキュラの仲間、吸血鬼となるのであった。死体を求めてドラキュラと街へと繰り出した大悟は、帰って獲物のフライドチキンにむしゃぶりつく。紅茶ばかり飲むことで正体を隠していた上村も本性を露わにし、骨付き肉にかぶりつき、肉をかみちぎり、屍の骨を累々と積み上げ、うまいうまいと笑うのだ。上村が出自を詳らかにすることでドラキュラは横滑りし、三人はベム・ベラ・ベロとなっているのである。

つまり、映画全編のあの過剰とも見えるあさましい食事のショットは、怪物の食事をモチーフとしているのだ。

-to be continued

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面白くて息もつかずに読み進んで居ます。この章後半で 事務員上村と美香の名前が 取り違えられているのがまことに惜しいです。今後の方のためにも また読み返すであろう私のためにも、加筆訂正おねがいします。

2010/5/30(日) 午後 5:04 [ りっきい ]

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りっきい様、ご指摘ありがとうございました。
一応手直しを致しましたのでご報告申し上げます。
お暇な折に眺めていただいた折には、またお気づきの点等ご指摘いただければ幸いです。

2010/7/19(月) 午前 9:51 [ aly*nv ]


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