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「おくりびと」の主要な登場人物たちは皆、家族関係が不完全だ。
大悟、社長、事務員上村、笹野高史演じる火葬場勤めの平田達は皆一人者か、父母、あるいは子を失っている。鶴の湯の家族は母ツヤ子(吉行和子)は夫を亡くし、息子(杉本哲太)との間には風呂屋の売却をめぐる対立がある。その対立は深い。ツヤ子が亡くなった際、平田が火葬場でツヤ子の息子に、二人でクリスマスを過ごした逸話を披露する。この会話で解るのは、ツヤ子が一人暮らしでありながらクリスマスに息子達家族とツヤ子が共に過ごさない間柄だということだ。また、ツヤ子と息子達との親子関係の疎遠さは鶴の湯を舞台にした映画的設計でも表現されている。これは後段で述べるとして、こうした希薄な家族関係の中におかれたそれぞれの人物たちが、家族以外の登場人物達と取り結ぶ関係を観ていこう。

「鶴の湯」の脱衣場、ツヤ子と息子のマンション建設をめぐる言い争いに大悟(本木雅弘)が居合わせる。対立している息子とは正反対の態度で、ツヤ子は大悟に、「こんな息子だったら」と実の息子と比較して大悟を褒めちぎり、お嫁さんを連れておいでと告げる。次の機会に大悟は妻(美香=広末涼子)を連れ、鶴の湯を訪れる。実は作品中、美香が大悟以外の人間と接する場面が描かれるのはこのシーンが初めてだ。実際、美香は孤独である。美香はウエブデザイナー。どこへ行ってもPCとインターネットがあれば仕事ができるという運命にある。つまり、大悟に同道するのに不自由はないという設定上の配慮のようにも思われるが、それと同時に、美香の対人的な接点はPC上に限られてしまっていることも示されているのだ。
市中が閑散として人気(ひとけ)なく描かれるのは、ホラーという見立ての一方、登場人物達の孤独も表現されている。美香が大悟の職業を知って反発し、実家へ帰るという設定、つまり故郷には親兄弟がいるかもしれないという設定にあっても、映画の中でそうした人々は話題にも上らなければ当然スクリーンにも現れない。つまり、映画的に見て美香には大悟しかいないのである。
美香の孤独はその状況や台詞によっても示されている。大悟が1800万円のチェロを買ったこと、加えて納棺師になったことを大悟は美香に隠した。その二つの秘密が露見する度、美香は「何で言ってくれなかったの」という疎外感と孤独を示す台詞を口にしなければならない。
大悟を愛しつつも不審の念を抱かざるを得ない美香の転機は、この鶴の湯で訪れる。入浴が終わった美香が脱衣所に座っていると、石油ストーブを持ってツヤ子がやってくる。ツヤ子は、家族の状況を説明した後、「ここがなくなったら、今のお客さん困るから、あたしが元気なうちは・・・」で言葉を切る。
美香はそれを「そんな、まだまだ」と受ける。
さて「そんな、まだまだ」は、もちろんツヤ子の将来を暗示する。日本映画においては往々にして反語的に使われる台詞である。
この後ツヤ子は急に真顔になり、「支えてあげての。大ちゃん(大悟)、優しい子だからの。全部自分で引き受けてしまうのよ。両親が別れた時も、母親の前では絶対泣かなかったの。男湯で、一人になった時に泣くのよ。ちっちゃい体で・・・肩震わせて・・・そういうとこあるから、わかってあげての。」と告げる。美香は笑顔で「はい」と答える。
大悟が美香に相談なくチェロを買った理由はここで一応納得がいく。ツヤ子の言うように負担を「全部自分で引き受けてしまう」からである。
さてこの場面、大悟のことを語るツヤ子の切実さは普通ではない。
結論から言えば、これは、「母」が「義理の娘」に残した遺言なのである。

ツヤ子は息子とは疎遠だ。マンションを巡る対立だけでなく寡婦のツヤ子と息子は一緒にクリスマスを過ごせない関係だということは上で述べたが、さらには、同じ火葬場の炉の前のシーンで披露された、ツヤ子の平田に対する「一緒に銭湯をやってくれないか」という求婚の逸話を思い出そう。二人で共に暮らし、愛を育もうというツヤ子の意志とのみ採ってはならない。平田が焼却場の炉の前で切り出した言葉は「たぶん人間、何か予感がするんでしょうの。」というものだった。さらにクリスマスを二人で過ごし、いっしょに銭湯をやってくれと乞われたことを話し、次いで「つまりはこういうことやったのよの。わたし、燃やすのが上手ですからの。」と話す。これは、ツヤ子が「平田さんは燃やすのが上手だから貴方も私と一緒に銭湯の切り盛りが出来るでしょう」と「貴方の手で私を荼毘に付してと」をひっかけたのだと捕らえるだけではなく、「私が死んでしまったら、その後、貴方が銭湯を切り盛りして頂戴」という含意があるのだ。
だからこそ、平田に銭湯を継がせようとしたのは自らの身勝手な論理であったことに気付いた息子が、母に「ごめんよ、かあちゃん」といって泣くのである。

映画の文法その1
「登場人物が死ぬ前、誰かに何かを告げた場合、死の接近が説話的に描かれていなくとも。それは遺言である。」

よって、美香に対する「わかってあげての」も遺言なのである。
では、美香に対するツヤ子の遺言を検討するにあたって必要な監督の設計にまず触れておこう。

「鶴の湯」の「脱衣所」という空間のことだ。
鶴の湯の脱衣場にはガラスの仕切り戸があって、その向こう側、つまり洗い場や浴槽には物語上の第三者が常に配置されているが、脱衣所にはそうした者(つまりはエキストラ)が一人も入り込んでこないことにお気付きだろうか。脱衣所に第三者が現れるのは大悟と美香が風呂に行った日、入口の土間から外に出てゆく親子のみで、まるで、脱衣所から追い出されるかのように外へと消える。
脱衣所に現れるのが許されるのは、ツヤ子と息子夫婦と孫、そして、常にいる平田、そして大悟夫妻のみである。また、死んで茶の間に遺体が置かれるまで、ツヤ子が登場するのは脱衣所だけである。つまり吉行の生の世界は鶴の湯の脱衣所にあるのだ。結論をまず書けば、脱衣所に入ってよい者は家族のみ。つまり脱衣所は、ツヤ子の家族と認められる者のみの聖域なのである。
この脱衣所の安寧を妨げるのが実の長男で、銭湯の売却を巡って口論の場となってしまう。この後長男は退場し、再び脱衣場に現れることはない。見立てとしては親子関係がここで破綻するのである。
さて長男とツヤ子の口論にピリオドを打つのが、言い争いを中断させるかのような「ああ、そうか、なるほど」という平田の台詞だ。吉行の「詰んだ?」という言葉に続いて平田が「詰んだ。」と応じる。つまりこれは、父ならぬ父親として妻と息子の喧嘩を仲裁しているのである。平田が最初に登場したのは大悟が腐乱死体を納棺した帰りに立ち寄った鶴の湯の脱衣所だが、番台にツヤ子がいなかったために、彼は風呂番よろしく大悟に入浴料金とタオルの代金を教える。その振舞いも含めて平田が「鶴の湯」の「家族」と見立てられていることが分かるだろう。この法則に従って、後にツヤ子は平田とあのクリスマスの夜を過ごすことになるのである。
さて、追放された長男は、ツヤ子の聖域にとって欠員である。その欠員を埋めるのが大悟と美香なのである。ツヤ子は子を喪失し、大悟には両親がいない。加えて大悟は父母の離婚の際、人前では涙を見せず一人浴槽で泣いた。その、一人で背負うという姿勢の、ツヤ子が銭湯を一人で背負わざるを得ない状況との等質性のゆえに、大悟とツヤ子の間に磁力がはたらくのである。大悟のことを「(ウチの長男も)こんな息子だったら」と洩らすのを世間の通り相場の御世辞とのみ採ってはならない。観る、聞くとは「こんな息子だったら」をツヤ子の希望と聞き、その願いを叶えるように脱衣所に現れ続ける大悟を観て、親子関係の成立を想定することなのである。
一方の美香も孤独であり、その孤独を母の代行者として埋めるのがツヤ子なのだ。大悟に「こんな息子だったら(自慢だ)」と言ったツヤ子の「願望」はかなえられている。従って、大悟を「分かってあげての」と美香に告げた言葉のただならぬ真剣さに、私達は母の義理の嫁への遺言という見立てを発見するのである。

映画の文法その2
「家族に欠員がいる場合、その欠員を埋める働きをする第三者が登場した場合は、彼らを欠員者の代理であり家族の成員と見立てる。」

しかし遺言にも関わらず大悟を「分かってあげられない」美香は、その後大悟が納棺師であることを「一人で背負って隠していること」を知り、家を出る。
妊娠が判明して大悟のもとに戻っても、まだ大悟を「分かってあげられていない」。
そこにツヤ子の死の一報が入る。
ツヤ子の納棺に立ち会う美香は、当然、母を看取っているのである。
実の長男夫婦と孫が湯灌のために故人の顔を拭いた後、大悟と美香が目を合わせ、躊躇なく美香もまた湯灌の布を手にするのは、もちろんツヤ子が美香の母だからであり、同時にまた母の遺言である「一人で背負ってしまう大悟を理解する」瞬間なのである。
もう一点思い出そう。それはNKエージェントの事務員美香がそこで働く理由だ。上村が、彼女の恩人の死にあたって社長が施した納棺を観て「私もこの人に(納棺)してもらいたい。」といった台詞である。
社長と事務員上村という男女関係を大悟と美香の関係に投影しよう。
もちろん、巷間言われるように、大悟が施す納棺を観てその厳粛な美しさに感動し、これをケガレと考えた自分を恥じてもいるだろうが、記号を読むことが出来れば感動は大きくなる。この時美香母の死に立ち会い、そして母の遺言を今初めて理解したが故に大悟を理解し、さらには「私が死んだら大悟に納棺をしてもらいたい」と思っているのだ。こうした見立てが可能なようにこの作品は設計されているのである。
記号を読むということは単なる好奇心を満たし批評をせんがためということではない。
ツヤ子の納棺シーン一つに感動を呼ぶ要素がこれほどに豊富にあるということに気づき、このシーンをより豊かに看取するための技術なのである。

「母の遺言」が感動の増幅装置となるのはこのシーンだけではない。
父の死を知って美香と共に遺体のある漁協に出向き、涙を流しながら父の亡骸に納棺師として作業を施す大悟と、後ろに座って視線を大悟におくる美香の表情を思い出して欲しい。
ここで遺言を思い出そう。「両親が別れた時も、母親の前では絶対泣かなかったの。男湯で、一人になった時に泣くのよ。ちっちゃい体で・・・肩震わせて・・・」
泣きながら父の遺骸に触れる大悟と、それを後ろから見つめる美香。この構図が、小さな肩を震わせて鶴の湯の浴槽で背を向けて泣いている幼い大悟少年と、それを見つめるツヤ子の構図に重なることに気付いただろうか?
遺言にあった「ひとりでしょいこみ、一人で泣く。大ちゃんのそういうところを分かって欲しい」という遺言に「はい」と答えた美香が、今まさに、その遺言どおり、幼く小さな肩を震わせて泣くその姿を観ながらツヤ子が大悟の心情を「わかった」ように、美香が父の亡骸の前で涙を流す大悟をここでも「わかった」のである。
遺言に忠実な美香の、その悲しくも柔らかい微笑みを浮かべた表情の上に、幼い大悟を見つめる若かりしツヤ子をみてしまい、それがツヤ子の生前の笑顔と死に顔に重なると、これはもうたまらない。
この構図を頭に入れていただいて、というか、おくりびとを再見していただく時、孤独なツヤ子と孤独な美香の、脱衣所での親子の交情と遺言のシーンをもう一度しっかりと目に焼き点けていただき、ツヤ子の湯灌のシーンでの美香を、そしてラストの感動のシーンをもう一度ご覧になって頂きたい。泣く幼い大悟とそれを見つめるツヤ子を、同じ構図の大悟と広末に重ね合わせてみて頂きたい。
初見の際の二倍、涙が出ます(笑)。本木雅弘の清廉な顔と涙ばかりに気をとられていたオレがばかだった。この映画では今一つ評判が低かった広末涼子を見直そう(笑)。

-to be continued

閉じる コメント(9)

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aly*nvさん、こんにちは。尾崎です。
aly*nvさんのおくりびとシリーズ、その密度と明晰さに、私はただ愕然とするばかりなのですが、その研究熱は一体どこからくるのでしょうか?唐突な質問ですいません。

2010/5/4(火) 午後 11:31 [ 尾崎太一 ]

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尾崎さん、ありがとうございます。
お褒め戴くようなものではありませんが、文芸書と批評書を読みあさった結果、何やらそういう眼ができてしまったとしか言いようがありません。これはただの分析で批評ではありませんが、「耳学問はいやだ」という妙なこだわりがあるのかも知れません。誤認がないかとおそれながら書いてはいるのですが、気になることがあれば指摘していただければ幸いです。この記事を書いているのは映画初心者のためのOJTになればと思ったからで、良く観るとこんなことがいえないだろうか?という例示をさせていただいているのです。僭越ですが。

2010/5/5(水) 午後 2:48 [ aly*nv ]

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onionさん、この記事は映画の初心者向けですので、記号を読むとこんなに感動できるよ!という宣伝なんですね。その裏腹で、広末涼子を救ってあげたいんです。素人の映画レビューを読むと、多くの人が元木雅弘に対して評価が高く、広末に厳しいんです。「けがらわしい!」なんていうのは許せない!とかですね(笑)。あるいは演技は下手だとか。あの笑顔と困ったように口元をモグモグさせるのが(笑)厭な人も多いようなのですが、その笑顔と困惑の二つの表情からうって変わって、旦那が納棺師であることを知って、二階で正座し、帰宅して部屋をのぞいた大悟を強く見つめる顔を見て、「すごい!」となぜ言えないのか!とか思うわけです(笑)。で、それじゃあ、ラストシーンの広末涼子はこうなんだぞ!これならわかるだろ!
と書きたかっただけなんですよ(笑)。

2010/5/7(金) 午前 0:05 [ aly*nv ]

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前段の日本対アメリカですが、アメリカでI proud youなんていうのは映画の中だけですし、そんなセリフが登場するのは80年以降でしょう。映画から批評精神が消えうせてプロパガンダ映画が出てきてからですね。だからヴェンダースも怒って正当なアメリカ映画ということで「パリ・テキサス」を撮ったということですね。そんな家族は無いと。イーストウッド、スピルバーグも絶対やらない。ヨーロッパに至っては絶対に言わない。だから対日本で違うのではなくて、アメリカのプロパガンダ映画だけです。あんなセリフを使うのは。

2010/5/7(金) 午前 0:13 [ aly*nv ]

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日本のディスクールでいえば、漱石の「それから」に、I love youは出て来ない。主語と目的語の「人称」の組み合わせで(一人称+love+二人称)以外はあるけれどという批評があるんですね。「それから」の中で、話者が西洋小説のI love youに触れ、その言葉は日本語では愛の告白に使えない、なぜなら」として「露骨」「放埓」「直線的に濃厚」と書いているんですが、さらに「原語で読めばともかく、日本には約し得ぬ趣味」と書いてるんです。また漱石の文学論ノートには、日本語と英語の「formulaの差があるので使えないと書いてるんですね。つまり本当は、言葉の配置が日本語には存在しないがゆえに、I love youを「愛」の「台詞」に使うわけにはいかないということです。
このコンテクストでいえば、「I proud you」の直訳である、「私はお前を誇りに思う」という日本語が、何らかの西洋小説から翻訳されるまで、日本においては存在しなかったformulaだ、つまり日本後にはそんな言葉の用法が存在しなかったとも考えられます。面白いですねえ。

2010/5/7(金) 午前 0:40 [ aly*nv ]

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それから「擬制」。吉本隆明かと思いましたよ(笑)。まあ、最近使われるようですね。アイロニカルな解読をしていただきましたが、正反対の読みといっても、私がやっているのは広末涼子の名誉回復のために記号を集めただけで、和解の美を顕揚しようとしているわけではありません(笑)。ここではまだアポリアについては触れず、とりあえず記号を拾っていきます。ただ、社会文化批評をイロニーでやると、どうしても主観=主体がのこってしまい、かつ、過剰な細部が無視されてしまうんですね。結論的にいえばこの作品は生と死の二元論をモロにディコンストラクトしようとしているわけですから、擬制のイロニーが持つ悲劇性も消えてしまうんです

2010/5/7(金) 午前 1:33 [ aly*nv ]

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風邪、だいじょうぶですか。僕はこの連載記事を読んで小説のことを考えています。もちろん alyinvさんの小説についての記事も拝読しています。「映画と小説とでは文法が違う」と言葉ではわかっていますが、実地でわかって創作を書くことで楽しむにはまだまだです。ぜんぶを書かれたら、自分の考えたところを記事にしたいと思っています。早く元気になられて続きを、よろしくお願いします。楽しみにしております。

2010/5/15(土) 午前 10:57 [ Jump・Jack ]

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それから、「それから」の Ilove you の件といい、コメントいただいた「こころ」の杖といい、細部をほんとうに読まれていて、読み手である自分の側にある主観がとらえた主題や自分の論理で作品を読まずに、拾った心地良さを宣伝していくまでに読み見る態度、そこにいつも敬服しております。いま金井美恵子の「小説論」を読んで、映画と小説のことを考えながら自作を書いております。はたして僕はこの「「おくりびと」の仕掛け」を宣伝するまでに読み込むことができるでしょうか。

2010/5/15(土) 午後 6:09 [ Jump・Jack ]

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Jump・Jackさん。ご心配をおかけしました。
映画と小説は全く別物ですが、昭和の作家たちは皆、映画を非常に強く意識していました。映画に鈍感な小説家が増えたのは近年なんです。僕はちょっと信じられないんですね。小説家でありながら映画を観ないというのは。違うものではあるのですが、どちらにとっても相手は恐るべき存在のはずなのですが。

2010/5/17(月) 午前 0:10 [ aly*nv ]


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