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			<title>ecrit</title>
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			<title>ecrit</title>
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		<item>
			<title>映画「風立ちぬ」を解読する　vol.1</title>
			<description>お久しぶりです。と言うべきでしょうか。&lt;br /&gt;
少し、復活してみます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
映画が大好きな私は、宮崎駿のアニメを面白く拝見することが多かった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
が、最近の傑作、「風立ちぬ」について、評価や「読み解く」みたいなものを目にしても、「ちょっと違う」というものが多くあって、そこで、「麦秋」、「おくりびと」について徹底的に書いてみた私としては、「風立ちぬ」について書いてみたいなと。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
きっかけは、岡田斗司夫氏の、風立ちぬ評で、例えばお絹さんについて書いている部分。&lt;br /&gt;
要約すると、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「二郎と菜穂子は、列車で遭遇する。後に結婚するが、二郎が最初に惚れたのは、菜穂子ではなく、列車に同乗していたお絹である。」&lt;br /&gt;
その理由として、&lt;br /&gt;
「二郎が大学の教室にいるときに、用務のおじさんが「二郎宛てに女の人が荷物を置いていった」ことを告げる。　届けられた風呂敷包みを開けると、二郎が彼女たちに与えた着替えのシャツと計算尺と手紙が入っていた。」&lt;br /&gt;
「その時、お絹が校門を去っていくイメージのカットが挿入される。」&lt;br /&gt;
その後、二郎は妹の加代に、「きっとその人、お兄様のこと好きだったのよ。（震災の後）その家に行ってみたの？」と訊かれ、「行ってみたけどもう誰もいなかった。焼け跡だった」&lt;br /&gt;
という会話を拾うことが出来る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
よって二郎が最初に好いたのはお絹であって、菜穂子ではない。求婚の際に、「帽子を受け取ってくれた日から（君を愛していた）というのは、ささやかな嘘だ」&lt;br /&gt;
というものだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし私の見方は違う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
映っていない主人公の心情などを推量することは辞め、フィクションの修辞学を念頭に、描写と、記号だけを拾い集めれば、以下のようにいえるはずだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「菜穂子とお絹、二郎の三人が出会った汽車の中のシーンを端緒に、地震の発生から最後に二郎が手を振って神社を後にするまでの一連のシークエンスで、二郎のアクションによって三角関係が発動している。同時に、結局、二郎はお絹を選ばないという選択までもがきちんと予弁として描かれている。後に計算尺やシャツをお絹が学校にいる二郎に届けたのは、袖にされたお絹による二郎との決別の挨拶である。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以下、解説してみよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ご留意いただきたいのは、以下に解説する登場人物の二郎、菜穂子、お絹三者の心理などは扱わないということだ。しかし、以下の解説では、彼らがそう思ったかのような表現をすることがある。しかし、彼らが実際にそう思ったということではない。そのようなものは画面に映っていないからだ。しかし、フィクションの文法に沿って、そのような書き方をすることをお許しいただきたい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
読んでいくのは記号。そして予弁と見立てである。これらをこの物語を描く宮崎駿の権能とテクスト論的な読みに従って解読してゆく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
震災発生の直前の電車の中で、二郎と菜穂子、お絹は出会う。&lt;br /&gt;
二郎は三等車に、菜穂子は二等車に乗っている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして風が立つ。&lt;br /&gt;
二郎の帽子が風に飛ばされ、菜穂子がそれをキャッチする。&lt;br /&gt;
ナイスキャッチ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コミュニケーションの成立だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菜穂子がバランスを崩す。&lt;br /&gt;
二郎が二等車に乗り移り、菜穂子を受け止める。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菜穂子は言う&lt;br /&gt;
“Le vent se l&amp;egrave;ve,”　（風立ちぬ）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二郎は答える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
“il faut tenter de vivre”　（いざ、生きめやも）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
恋愛譚と言うフィクションの背景には、歴史的に「身分の壁」、「敵味方」、「三角関係」、「病」、「消息不明」、「戦争による別離」などという設定がつきものである。&lt;br /&gt;
「風によって飛ぶ帽子をキャッチ」し、二郎が「三等車から二等車に飛び移るという身分の壁を乗り越えるかのような所作を模倣し」「二人にしかわからない会話の成立（詩の一節を二人でつぶやく）によって、フィクションの世界では、この後もちろん二人は恋愛関係に陥らなければならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、また風が立つ。大震災だ。&lt;br /&gt;
地震波が海からやってくるその波紋は、風が起こす波の文様と同等であることに注目しよう。&lt;br /&gt;
二郎が菜穂子と軽井沢で再会し、ナイスキャッチ！という言葉が再度響き、愛が再開されるのは、「湖に波紋を立ててやってきた突風」が、菜穂子のパラソルを飛ばしたからだという事実を想起しよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
汽車は脱線し、お絹は足を骨折する。そのお絹を二郎が手当てする。&lt;br /&gt;
この手当の所作は、女性の切れた鼻緒を男が直すという、フィクションの常套手段として初対面の男女の間に愛が発動する、その代表的な所作を模倣したものだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二郎は図らずも、菜穂子とお絹の両方に対して、愛のアクションを披露してしまっているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして、二郎、菜穂子、お絹の三人の間に、フィクションとしての恋愛の条件である「三角関係」が発動する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二郎は言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこ（上野の菜穂子とお絹の住まい）まで送って行こう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お絹を背負う二郎。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この「背負う」という行為がキィの一つだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
男が女を「背負って」歩く、という行為は男女の道行きを容易に想像させる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、お絹を背負って線路を歩く二郎の後ろを、菜穂子が、二郎のトランクを持って付いてくる。菜穂子らの荷物は置き去りにされる。&lt;br /&gt;
二郎は言う「君たちの荷物は？」&lt;br /&gt;
菜穂子は答える「いいんです。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菜穂子が自らの荷を捨て着いてくるその所作は、後段、二郎と菜穂子の結婚式の際の、媒酌人の黒川夫人の口上である「七品万宝投げ捨てて、身一つにて山を下りし～」、つまり、「自らの持ち物を捨て置き、身一つで添う」という「新妻の所作」を予弁として模倣しているのである。菜穂子も負けてはいないのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一度、神社で休憩する三人。&lt;br /&gt;
そして二郎はシャツに浸した水を、己が手で、お絹に飲ませる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
わざわざ描かれるこの艶めかしいシークエンスは、もちろん、「盃事」つまり、「三々九度」の模倣なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じシャツを渡された菜穂子は、その水を「口にせず」、顔をぬぐうにとどめる。&lt;br /&gt;
二郎が好きな「美しさ」を顔の汚れをぬぐうことで担保するように。（もちろん菜穂子にそのような心理が働いたということではない。物語の神である宮崎駿が記号として、符牒としてそうした描き方をしているとうことだ）&lt;br /&gt;
だが、三々九度は、二郎とお絹の間に交わされた。こうしてお絹は、二郎との道行の権利を勝ち取ったかに見える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、次の瞬間二郎は言う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「自分は本郷（母校の東大）へ戻る。貴女方は？」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
思い出そう。その少し前、脱線した列車のそばでお絹の足の手当てをした際、二郎は彼女たちに「上野まで送る」と言っていたはずなのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうして簡単に前言を翻す二郎。&lt;br /&gt;
伏線は、お絹を背負って歩く途中、二郎が転びかけるシーンにある。&lt;br /&gt;
物理的なお絹の重さと、お絹とともに行く将来の道行の不可能性が、お絹を背負う二郎を転ばせることによって二重に示されているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、「僕は本郷の学校へ行く、貴女方は？」と、約束など無かったかのように告げる二郎に、菜穂子が、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「私、家のものを呼びに行きます。」という。&lt;br /&gt;
「僕も一緒に行きましょう。」&lt;br /&gt;
という二郎。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お絹を背負って送り届けるはずが、結局、彼女らの住まいには「菜穂子とだけ一緒に行く」ことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二郎は神社に残されるお絹に対し、必ず戻ってきますと言い残す。&lt;br /&gt;
荷物をお絹に預けた二郎は、菜穂子の「手を引いて」家に向かう。これもまた道行である。&lt;br /&gt;
二郎は戻ってくる。そしてまた私を背負う。お絹はそうして二郎を待つ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
菜穂子を届け、職人たちを率いてお絹の元に戻る。&lt;br /&gt;
今度はお絹を背負って、約束通り上野まで届けてくれるのか？&lt;br /&gt;
しかし、そのお絹を、今度は二郎に同行したその職人が背負う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり以下のように読めばよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まずは二郎とお絹の関係から。&lt;br /&gt;
鼻緒を直すかのような所作で恋愛の始まりを予兆させ、家まで送って行こうと言って二郎はお絹を背負う。二人の将来の道行が暗示される。しかし、二郎は途中で「躓く」。神社に立ち寄り、お絹を「降ろす」が、そこで、お絹に水を飲ませるという（三々九度の模倣）所作を披露する。&lt;br /&gt;
しかし家まで送り届けるという言葉を反故にし、僕は本郷へ行くという。その後、ライバルである菜穂子と二郎が「手に手をとって歩み去り（二郎が菜穂子を送り届け）、戻った二郎は連れてきた職人に、お絹を背負わせる。&lt;br /&gt;
お絹を「背負ってきた」二郎が、フィクション上、将来の約束をするかのような行動をとりながら翻意し、菜穂子と共に歩む姿をお絹に見せつけ、連れてきた職人にお絹を背負わせ、その後を託して去る。「背負う男」が二郎から職人へと変わるわけだが、それは、背負うという所作の同質性において、「二郎がお絹を職人に譲り渡す」ということを示しているのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従って、フィクションの文法では、その後、お絹はその職人と「添う」ことになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お絹は後に二郎の通う東大を訪れ、シャツを計算尺を届けるが、シャツは「盃事（さかづきごと）」の、その盃である。&lt;br /&gt;
そのお絹の「盃を二郎に返す」という所作はすなわち、二郎に「別れを告げて」いるのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、誰が何を考えているかなどの想像を廃し、フィクションの修辞学に従って単純に出来事と発言だけを丹念に拾い、記号を読めば、記号は語るのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では次に、菜穂子と二郎の関係に戻ろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
風が立ち、飛ばされる二郎の帽子をキャッチし、三等車から二等車に乗り移って女性の元にゆく（フィクションの文法上）ことで二郎は階級差を乗り越え、二人にしかわからぬフランス語の詩の一節を吟じ合うことで恋愛の始まりが告げられる。&lt;br /&gt;
しかし、また風が吹き（風が波を立たせるように地震波が海に波を形成する）、突然、二郎はお絹に愛の所作を示す。つまりは、骨折したお絹の足を、切れた鼻緒を挿げ替えるように手当てし、「家まで送る」という言葉と「背負う」という行為で、お絹と二郎、二人の将来の道行が暗示される。&lt;br /&gt;
汽車の中で、菜穂子と二郎がの二人が取り交わした道行の約束は反故にされたかのようだ。菜穂子も負けてはいない。自らの荷物を捨て、「身一つで道を共にする」ために、二郎の荷物のみを持って後に続く。&lt;br /&gt;
しかし、途中休憩した神社で、あろうことか二郎はお絹と「盃事」を執り行う、取ってつけたようにシャツを差し出され、「あなたは？」と聞く二郎。もちろん、お絹と並んで盃事を執り行うことは出来ない。だから、汚れた顔を拭うことで応える。「汚れを落とした顔を見て。私は美しいのよ。見て、貴女は美しいものが好きでしょう。」とばかりに。&lt;br /&gt;
こうして、お絹と菜穂子は全く違う位相で二郎の誘惑に応じる。&lt;br /&gt;
最後に二郎の取った行動は、お絹との約束の反故と、菜穂子との道行である。二郎は約束通り、上野の家まで送り届ける。時系列に見て、汽車の中で二郎と菜穂子は愛の発動を確認しながらも、突如二郎は「お絹を背負った」のだが、結局は「菜穂子の手を取って歩む」。上野の家まで送り届けたのは菜穂子一人でお絹は排除されている。二郎はお絹との約束通り神社に戻るが、背負う約束のお絹を捨て置き、同行した職人に「背負わせてしまう」。こうしてお絹の譲渡は完了し、最後に道を共にした菜穂子と二郎との再会とその後の道行が担保されたのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
面白いのはこのエピソードの後始末だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
学び舎にいる二郎の元に届けられたシャツと計算尺。&lt;br /&gt;
その際、お絹が校門を出てゆくカットが挿入される。このカット、神の視線で描かれたカットなのか（つまり、実際にお絹が来校したのか）、スクリーンに何度も登場する二郎の妄想なのかは判然としない。&lt;br /&gt;
お絹が「別れを告げに来た」ことを示すカットであることは間違いないのだが。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この後、失意の様子で下宿に帰った二郎に、女中が女性客の来訪を告げる。二階で待っているという。&lt;br /&gt;
二郎は駆け上がる。&lt;br /&gt;
はたして、待っているのはお絹か？それとも菜穂子か？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
部屋に入ると果たして、窓の外を見る女性の姿がある。&lt;br /&gt;
見ている我々も、後ろ姿ではだれなのか判然としない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまりこういうことだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
震災の折、二郎の出会った菜穂子は「洋装」で、帽子をかぶりつつも「おかっぱ」頭だった。そしてお絹は「着物姿」で「髪を結いあげ」ていた。&lt;br /&gt;
さて二郎の下宿に現れた後ろ姿の女性は、お絹と菜穂子両方の特徴を備えていることにお気づきだろうか？&lt;br /&gt;
後ろ姿の彼女は「おかっぱ頭」で「着物姿」。&lt;br /&gt;
だから二郎は、一目でどちらかわからなかったのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このあたり、宮崎駿は非常にうまい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、下宿で待っていたのは実は妹なのだが、それはどうでも良い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二郎の中で、恋愛対象と成りうる女性は「お絹と菜穂子の二人」だったということだ。そのどちらが本命なのかは観客には不可知であるかのように表現されているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし振り向いた女性は二郎の妹、加代であることが判明する。&lt;br /&gt;
二郎は言う。&lt;br /&gt;
「大きくなったね。きれいになったなあ。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二郎と菜穂子が初めて出会ったのは、列車の中。当時の菜穂子はおそらく中学生くらいだろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「大きくなったね。きれいになったなあ。」&lt;br /&gt;
この言葉をあえて響かせるのは、大きくなり、きれいになる菜穂子を遠く見据えてのものなのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、次回は最初から風立ちぬを見ていこう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
-to be continued</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/alyinv/65287638.html</link>
			<pubDate>Mon, 30 Mar 2015 08:57:38 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>映画の観方(2)　「おくりびと」の仕掛け　その6</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-29-0e/alyinv/folder/1035775/32/61340732/img_0?1274103588&quot; width=&quot;560&quot;&gt;&lt;br /&gt;
/Photo :thanks to Mr.Mah /　blog name まぁのブログ　/　記事：おくりびと&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もしも「おくりびと」という作品が、「感傷」ではなく優れた「抒情」に留まっているとするなら、それはこれまでにみた徹底した「形式主義」によるのかもしれない。&lt;br /&gt;
謎は残さない。台詞は形式化され、宣言となり、主題は反復される。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
例えば美香（広末涼子）は、大悟（本木雅弘）の父が残したレコードコレクションを手にとりながら、「私思うんだけど、大ちゃんのお母さんって、ずっとお父さんのこと好きだったんじゃないかな。でなきゃ、レコード全部捨ててるって。こんなにきれいに整理してないって。」&lt;br /&gt;
とつぶやく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この台詞は「命題」であり「法則」である。&lt;br /&gt;
つまり、「愛する人物の持ち物は、ずっと捨てないでとっておかれる。」。あるいは「ずっと残しておくという行為は、愛である。」。&lt;br /&gt;
この命題＝法則は作品を貫く。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「ずっと残されたもの」。それは母が大悟に残した喫茶店、大悟の子供用のチェロ、父が大悟に贈った石手紙、父の死の床で握りしめられていた大悟から贈られた石手紙である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大悟はモノローグで、喫茶店を「母がたったひとつ残してくれた遺品」と形容している。しかし、その一方で美香は何故だか突然、「ここって最初はお父さんの喫茶店だったんだよね。」と「わざわざ」呟く。&lt;br /&gt;
つまり喫茶店は「父が母に残し」、それを受け継いだ「母が大悟に残し」たものだ。&lt;br /&gt;
よって先の命題の故に、父は母を愛し、母は大悟を愛していたということになる。&lt;br /&gt;
父が死の床で握りしめていたのは大悟から貰った石手紙である。父は大悟を死ぬまで愛し続けたのだ(&lt;br /&gt;
これは分析するまでもなく自明ではあるが）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大悟と父と母。この三人の愛のベクトルを考えてみよう。&lt;br /&gt;
父が母を愛し、また母も父を愛していたという構図は成立している。（大悟は、父が母と自分を捨てたと理解している。しかし父は喫茶店を母に残すことで形式的に愛を表明しているのだ。）また母が大悟を愛し、父が大悟を愛していたことも「残されたもの」の命題によって理解される。では、大悟の母への愛、あるいは大悟の父への愛はどのように示されているのだろう？&lt;br /&gt;
「大事にとっておかれたもの」で未検討なのは、子供用のチェロと、チェロのケースに同梱されていた石手紙だ。&lt;br /&gt;
父が愛人と出奔した後、これらの二品を「とっておいた」のは大悟の母である。子供用のチェロは「父」が大悟に買い与えたものであり、また石手紙は父が大悟に贈ったものだ。&lt;br /&gt;
これを母は「ずっと捨てずにとっておいた」。母は、父の大悟に対する愛を、母の大悟に対する愛ゆえに伝達しようとしたのだ。あるいは、父が母に残した喫茶店とレコードが大悟へと残した母は、父の自らへの愛と変わらぬ大悟への愛を、息子に遺品として残すことによって（大悟に）知らしめたといっても良い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、子供用のチェロを実家に残したのは大悟である。つまり、大悟もまた母を愛していることをチェロを残すことで示しているのだ。&lt;br /&gt;
しかしその一方で、父が母に喫茶店を残し、レコードを残すことによって形式的には愛を残しつつも「妻＝故郷」を捨てている。母に「チェロ」を残しつつも都会へと逃れ去り、父の遺品を放置し、母の遺品を都会へと持ち出さなかった行為をみれば判るように、大悟は図らずも父の行為を模倣しているのだ。&lt;br /&gt;
つまり、母に対するその身振りにおいて。大悟は父そのものなのである。とするなら、大悟は父の贖罪を代行しなければならない。従って物語は大悟を「帰郷」させるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、大悟の父に対する愛は消え去ったようにもみえる。「愛の命題」に即してみてゆくと、どうもそれらしきものが見当たらない。父から貰った子供用のチェロと再び手にとった父からの石手紙を発見し、「大事にとっておく」ことで愛を証明しようとするのだろうか？&lt;br /&gt;
ここで、滝田洋二郎は、面白い演出を行う。美香と大悟が鶴の湯から帰り、家で乾杯した夜、美香は残されたレコードを物色しながら「お父さんに会いたくないの？」と大悟に問う。大悟は「会いたくない。でも、もし会ったら・・・ぶんなぐる。」と言って、父にもらった石手紙をテーブルの上に放り出す。石は「ゴトリ」と大きな音を出す。まるで父を許さないかのような台詞と演出である。&lt;br /&gt;
しかし、この直前、美香がかけたレコードを聴いて大悟が漏らしたのは「父の好きだった曲だ」という一言だ。ここで思い出そう。レコードから流れた曲は、大悟が実家に帰って初めて子供用のチェロを手にした夜、一人密かに弾いた曲なのだ。大悟は父の好きだった曲を奏でることで、父への愛を既に証明していたのである。&lt;br /&gt;
美香は大悟と共に父の残したレコードを聴きながら、大悟がテーブルの上に放り出した父の石手紙をそっと両手に包んで、前出の「大悟の母は、父がずっと好きだったのではないか」という言葉を呟くのだが、もちろん美香がこの曲を聴くのは二度目である。従って美香は大悟の父への愛に気づいているのだ。その父が残した石手紙を両手に包むことで、その石手紙に込められた父の大悟への気持を、美香は読みとっているのである。その後美香が大悟と父の再会をお膳立てすることになるのは言うまでもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、宙に釣られたままに見える台詞を検討してみよう。&lt;br /&gt;
大悟が腐乱死体を納棺した夜、子供用のチェロを弾きながら以下のようなモノローグが流れる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「一体自分は何を試されているのだろう。母を看取らなかった罰なのか？この先どうなっていくんだろう？」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この問いを発した翌日、悩める大悟はNKエージェントに出社せず、一人橋の上に立ち、産卵のために川を上る鮭を眺める。途中、川を上り切れずに死んで下流に流れされてゆく鮭を見送る大悟。&lt;br /&gt;
つと通りかかった平田が大悟のそばに立ち、共に川を除き込む。また力尽きた鮭が一匹、死んで下流に流されてゆく。「なんか切ないですよねえ。死ぬために川を上るなんて。どうせ死ぬならあんな苦労しなくても・・・」と呟く大悟に、「帰りてえんでしょうのお。生まれ故郷に。」と応じる平田。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
その後、大悟は河原に座って時間を過ごすが、橋に車が止まる。社長である。&lt;br /&gt;
車を降りた社長は「メシ食いに行こう、メシ。」と声をかける。&lt;br /&gt;
大悟は「偶然ですか？ここを通りかかったのは。」と叫ぶ。&lt;br /&gt;
社長はそこで、「運命だな。君の天職だ。」という。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この一連の抽象的な問答が、大悟の問い（モノローグ）に対する回答を示している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注目すべきは、平田もまた火葬場に長く務める「おくりびと」であること、そしてその彼と並んで大悟は「鮭を看取っている」という構図だ。図らずもまたここで大悟は「おくりびと」を模倣しているのである。&lt;br /&gt;
（このシークエンスにはもう一つの事実に気付かねばならない。「なぜ死ぬために川を上るのか？それは故郷に帰りたいからだ。」という「命題」は、「故郷に帰って死にたい者」、つまり大悟の父と、NKエージェントの事務員上村の心境を代弁しているのである。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした「模倣」に苛まれる大悟は、社長とのやり取りの場を借り、「一体自分は何を試されているのだろう。母を看取らなかった罰なのか？この先どうなっていくんだろう。」という問いを凝縮し、橋までやって来た社長に対して「偶然ですか？ここを通りかかったのは」と聞いているのだ。つまり、「私がチェロを辞め、故郷へ帰る、そして貴方と出会い、納棺師の仕事を行うことになったのは偶然か？」と問うているのである。それに対して導師である社長が、チェリストを辞め、タコを葬送し、鮭を今また図らずももう一人のおくりびとである平田と共に葬送してしまうその振舞いと、「故郷へ帰って死にたい父」を看取ることになるという予兆をその証左として、また、前述のようにチェロの演奏と納棺の儀の相等性において、「運命だな。君の天職だ。」と答えているのだ。&lt;br /&gt;
「一体自分は何を試されているのだろう。母を看取らなかった罰なのか？」という問いの中で、「試されている」のは第一回の記事で述べた「資質」であるが、しかしそれも「通過儀礼」にすぎない。「納棺師」になる未来は「運命」として約束されているのだ。&lt;br /&gt;
「母を看取らなかった罰なのか？」そうではない。図らずも父を模倣し、母を看取れなかったという悔恨から大悟を開放するために、「父を看取ることが出来るように」故郷へ大悟を誘い、納棺師への道を開いたのは、社長のいう「運命」の仕業だ。&lt;br /&gt;
では、こうした運命に導いたものは何なのか。あるいは誰なのか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チェリストとしての道をあきらめ、田舎に帰らなければ父の死の電報を受け取れず、父を看取ることもできなかった大悟。「一体自分は何を試されているのだろう。母を看取らなかった罰なのか？この先どうなっていくんだろう？」という問いへの回答として、ふと「無性にチェロが弾きたい」と思わせ、子供用のチェロと父の石手紙に大悟を遭遇させることで回答へと導いたのは、もちろんそれらを残した人物、つまり母なのだ。母こそが大悟を「運命」に導いたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、「おくりびと」という作品の徹底性は、「謎を残さない」ことにも表れている。映画を観た感想は人それぞれであって良い。しかし、作品中に問いかけられた謎に対する回答は、全て作品中に用意されている。&lt;br /&gt;
作品中に納棺される人々は、息子、母、娘、祖父、祖母、子供。そして最後に「父」を看取らせる。つまいｒ老若男女、その網羅性は徹底しており、形式性が色濃く反映されている。&lt;br /&gt;
エンドロールと共に流れる大悟の手による「納棺」は、その形式性においてもちろん大悟の手による「納棺の案内ビデオ」である。社長が演じた納棺ビデオではない。つまり、大悟が納棺師を継承した証として撮られたビデオなのである。&lt;br /&gt;
作品のこうした自己完結性と徹底した形式性に我々は戸惑う。&lt;br /&gt;
交わす会話の抽象性。あるいは不意に飛び出す命題＝宣言。&lt;br /&gt;
これらが作品からリアリティを奪い去ってゆく。もちろん、反リアリズムの作品だと言いたいのではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうした題材ならばリアリズムが徹底されるべきではないかという、観客のごく初歩的なフィクションに対する誤解に対して滝田洋二郎は徹底的に抗っているだけだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ともすれば安易な善意とつまらない社会性を振りかざしながら「職業の貴賎」だの「生と死」だのと口にすることが作品を観ることの放棄に過ぎないことに気づかぬ観客、「感傷」や「俗情」を「感動」であると勘違いする観客、リアリズムをフィクションと誤解して文句をのたまう観客に対するアジテーションとして形式主義的な設計が採用されたのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いずれにせよ「おくりびと」は、由緒正しい映画なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
-to be continued</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/alyinv/61340732.html</link>
			<pubDate>Mon, 17 May 2010 22:39:48 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>映画の観方(2)　「おくりびと」の仕掛け　その5</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-29-0e/alyinv/folder/1035775/41/61281141/img_0?1272774257&quot; width=&quot;320&quot;&gt;&lt;br /&gt;
「おくりびと」の主要な登場人物たちは皆、家族関係が不完全だ。&lt;br /&gt;
大悟、社長、事務員上村、笹野高史演じる火葬場勤めの平田達は皆一人者か、父母、あるいは子を失っている。鶴の湯の家族は母ツヤ子（吉行和子）は夫を亡くし、息子（杉本哲太）との間には風呂屋の売却をめぐる対立がある。その対立は深い。ツヤ子が亡くなった際、平田が火葬場でツヤ子の息子に、二人でクリスマスを過ごした逸話を披露する。この会話で解るのは、ツヤ子が一人暮らしでありながらクリスマスに息子達家族とツヤ子が共に過ごさない間柄だということだ。また、ツヤ子と息子達との親子関係の疎遠さは鶴の湯を舞台にした映画的設計でも表現されている。これは後段で述べるとして、こうした希薄な家族関係の中におかれたそれぞれの人物たちが、家族以外の登場人物達と取り結ぶ関係を観ていこう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「鶴の湯」の脱衣場、ツヤ子と息子のマンション建設をめぐる言い争いに大悟（本木雅弘）が居合わせる。対立している息子とは正反対の態度で、ツヤ子は大悟に、「こんな息子だったら」と実の息子と比較して大悟を褒めちぎり、お嫁さんを連れておいでと告げる。次の機会に大悟は妻（美香＝広末涼子）を連れ、鶴の湯を訪れる。実は作品中、美香が大悟以外の人間と接する場面が描かれるのはこのシーンが初めてだ。実際、美香は孤独である。美香はウエブデザイナー。どこへ行ってもPCとインターネットがあれば仕事ができるという運命にある。つまり、大悟に同道するのに不自由はないという設定上の配慮のようにも思われるが、それと同時に、美香の対人的な接点はPC上に限られてしまっていることも示されているのだ。&lt;br /&gt;
市中が閑散として人気（ひとけ）なく描かれるのは、ホラーという見立ての一方、登場人物達の孤独も表現されている。美香が大悟の職業を知って反発し、実家へ帰るという設定、つまり故郷には親兄弟がいるかもしれないという設定にあっても、映画の中でそうした人々は話題にも上らなければ当然スクリーンにも現れない。つまり、映画的に見て美香には大悟しかいないのである。&lt;br /&gt;
美香の孤独はその状況や台詞によっても示されている。大悟が1800万円のチェロを買ったこと、加えて納棺師になったことを大悟は美香に隠した。その二つの秘密が露見する度、美香は「何で言ってくれなかったの」という疎外感と孤独を示す台詞を口にしなければならない。&lt;br /&gt;
大悟を愛しつつも不審の念を抱かざるを得ない美香の転機は、この鶴の湯で訪れる。入浴が終わった美香が脱衣所に座っていると、石油ストーブを持ってツヤ子がやってくる。ツヤ子は、家族の状況を説明した後、「ここがなくなったら、今のお客さん困るから、あたしが元気なうちは・・・」で言葉を切る。&lt;br /&gt;
美香はそれを「そんな、まだまだ」と受ける。&lt;br /&gt;
さて「そんな、まだまだ」は、もちろんツヤ子の将来を暗示する。日本映画においては往々にして反語的に使われる台詞である。&lt;br /&gt;
この後ツヤ子は急に真顔になり、「支えてあげての。大ちゃん（大悟）、優しい子だからの。全部自分で引き受けてしまうのよ。両親が別れた時も、母親の前では絶対泣かなかったの。男湯で、一人になった時に泣くのよ。ちっちゃい体で・・・肩震わせて・・・そういうとこあるから、わかってあげての。」と告げる。美香は笑顔で「はい」と答える。&lt;br /&gt;
大悟が美香に相談なくチェロを買った理由はここで一応納得がいく。ツヤ子の言うように負担を「全部自分で引き受けてしまう」からである。&lt;br /&gt;
さてこの場面、大悟のことを語るツヤ子の切実さは普通ではない。&lt;br /&gt;
結論から言えば、これは、「母」が「義理の娘」に残した遺言なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ツヤ子は息子とは疎遠だ。マンションを巡る対立だけでなく寡婦のツヤ子と息子は一緒にクリスマスを過ごせない関係だということは上で述べたが、さらには、同じ火葬場の炉の前のシーンで披露された、ツヤ子の平田に対する「一緒に銭湯をやってくれないか」という求婚の逸話を思い出そう。二人で共に暮らし、愛を育もうというツヤ子の意志とのみ採ってはならない。平田が焼却場の炉の前で切り出した言葉は「たぶん人間、何か予感がするんでしょうの。」というものだった。さらにクリスマスを二人で過ごし、いっしょに銭湯をやってくれと乞われたことを話し、次いで「つまりはこういうことやったのよの。わたし、燃やすのが上手ですからの。」と話す。これは、ツヤ子が「平田さんは燃やすのが上手だから貴方も私と一緒に銭湯の切り盛りが出来るでしょう」と「貴方の手で私を荼毘に付してと」をひっかけたのだと捕らえるだけではなく、「私が死んでしまったら、その後、貴方が銭湯を切り盛りして頂戴」という含意があるのだ。&lt;br /&gt;
だからこそ、平田に銭湯を継がせようとしたのは自らの身勝手な論理であったことに気付いた息子が、母に「ごめんよ、かあちゃん」といって泣くのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
映画の文法その１&lt;br /&gt;
「登場人物が死ぬ前、誰かに何かを告げた場合、死の接近が説話的に描かれていなくとも。それは遺言である。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
よって、美香に対する「わかってあげての」も遺言なのである。&lt;br /&gt;
では、美香に対するツヤ子の遺言を検討するにあたって必要な監督の設計にまず触れておこう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「鶴の湯」の「脱衣所」という空間のことだ。&lt;br /&gt;
鶴の湯の脱衣場にはガラスの仕切り戸があって、その向こう側、つまり洗い場や浴槽には物語上の第三者が常に配置されているが、脱衣所にはそうした者（つまりはエキストラ）が一人も入り込んでこないことにお気付きだろうか。脱衣所に第三者が現れるのは大悟と美香が風呂に行った日、入口の土間から外に出てゆく親子のみで、まるで、脱衣所から追い出されるかのように外へと消える。&lt;br /&gt;
脱衣所に現れるのが許されるのは、ツヤ子と息子夫婦と孫、そして、常にいる平田、そして大悟夫妻のみである。また、死んで茶の間に遺体が置かれるまで、ツヤ子が登場するのは脱衣所だけである。つまり吉行の生の世界は鶴の湯の脱衣所にあるのだ。結論をまず書けば、脱衣所に入ってよい者は家族のみ。つまり脱衣所は、ツヤ子の家族と認められる者のみの聖域なのである。&lt;br /&gt;
この脱衣所の安寧を妨げるのが実の長男で、銭湯の売却を巡って口論の場となってしまう。この後長男は退場し、再び脱衣場に現れることはない。見立てとしては親子関係がここで破綻するのである。&lt;br /&gt;
さて長男とツヤ子の口論にピリオドを打つのが、言い争いを中断させるかのような「ああ、そうか、なるほど」という平田の台詞だ。吉行の「詰んだ？」という言葉に続いて平田が「詰んだ。」と応じる。つまりこれは、父ならぬ父親として妻と息子の喧嘩を仲裁しているのである。平田が最初に登場したのは大悟が腐乱死体を納棺した帰りに立ち寄った鶴の湯の脱衣所だが、番台にツヤ子がいなかったために、彼は風呂番よろしく大悟に入浴料金とタオルの代金を教える。その振舞いも含めて平田が「鶴の湯」の「家族」と見立てられていることが分かるだろう。この法則に従って、後にツヤ子は平田とあのクリスマスの夜を過ごすことになるのである。&lt;br /&gt;
さて、追放された長男は、ツヤ子の聖域にとって欠員である。その欠員を埋めるのが大悟と美香なのである。ツヤ子は子を喪失し、大悟には両親がいない。加えて大悟は父母の離婚の際、人前では涙を見せず一人浴槽で泣いた。その、一人で背負うという姿勢の、ツヤ子が銭湯を一人で背負わざるを得ない状況との等質性のゆえに、大悟とツヤ子の間に磁力がはたらくのである。大悟のことを「（ウチの長男も）こんな息子だったら」と洩らすのを世間の通り相場の御世辞とのみ採ってはならない。観る、聞くとは「こんな息子だったら」をツヤ子の希望と聞き、その願いを叶えるように脱衣所に現れ続ける大悟を観て、親子関係の成立を想定することなのである。&lt;br /&gt;
一方の美香も孤独であり、その孤独を母の代行者として埋めるのがツヤ子なのだ。大悟に「こんな息子だったら（自慢だ）」と言ったツヤ子の「願望」はかなえられている。従って、大悟を「分かってあげての」と美香に告げた言葉のただならぬ真剣さに、私達は母の義理の嫁への遺言という見立てを発見するのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
映画の文法その2&lt;br /&gt;
「家族に欠員がいる場合、その欠員を埋める働きをする第三者が登場した場合は、彼らを欠員者の代理であり家族の成員と見立てる。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし遺言にも関わらず大悟を「分かってあげられない」美香は、その後大悟が納棺師であることを「一人で背負って隠していること」を知り、家を出る。&lt;br /&gt;
妊娠が判明して大悟のもとに戻っても、まだ大悟を「分かってあげられていない」。&lt;br /&gt;
そこにツヤ子の死の一報が入る。&lt;br /&gt;
ツヤ子の納棺に立ち会う美香は、当然、母を看取っているのである。&lt;br /&gt;
実の長男夫婦と孫が湯灌のために故人の顔を拭いた後、大悟と美香が目を合わせ、躊躇なく美香もまた湯灌の布を手にするのは、もちろんツヤ子が美香の母だからであり、同時にまた母の遺言である「一人で背負ってしまう大悟を理解する」瞬間なのである。&lt;br /&gt;
もう一点思い出そう。それはNKエージェントの事務員美香がそこで働く理由だ。上村が、彼女の恩人の死にあたって社長が施した納棺を観て「私もこの人に（納棺）してもらいたい。」といった台詞である。&lt;br /&gt;
社長と事務員上村という男女関係を大悟と美香の関係に投影しよう。&lt;br /&gt;
もちろん、巷間言われるように、大悟が施す納棺を観てその厳粛な美しさに感動し、これをケガレと考えた自分を恥じてもいるだろうが、記号を読むことが出来れば感動は大きくなる。この時美香母の死に立ち会い、そして母の遺言を今初めて理解したが故に大悟を理解し、さらには「私が死んだら大悟に納棺をしてもらいたい」と思っているのだ。こうした見立てが可能なようにこの作品は設計されているのである。&lt;br /&gt;
記号を読むということは単なる好奇心を満たし批評をせんがためということではない。&lt;br /&gt;
ツヤ子の納棺シーン一つに感動を呼ぶ要素がこれほどに豊富にあるということに気づき、このシーンをより豊かに看取するための技術なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「母の遺言」が感動の増幅装置となるのはこのシーンだけではない。&lt;br /&gt;
父の死を知って美香と共に遺体のある漁協に出向き、涙を流しながら父の亡骸に納棺師として作業を施す大悟と、後ろに座って視線を大悟におくる美香の表情を思い出して欲しい。&lt;br /&gt;
ここで遺言を思い出そう。「両親が別れた時も、母親の前では絶対泣かなかったの。男湯で、一人になった時に泣くのよ。ちっちゃい体で・・・肩震わせて・・・」&lt;br /&gt;
泣きながら父の遺骸に触れる大悟と、それを後ろから見つめる美香。この構図が、小さな肩を震わせて鶴の湯の浴槽で背を向けて泣いている幼い大悟少年と、それを見つめるツヤ子の構図に重なることに気付いただろうか？&lt;br /&gt;
遺言にあった「ひとりでしょいこみ、一人で泣く。大ちゃんのそういうところを分かって欲しい」という遺言に「はい」と答えた美香が、今まさに、その遺言どおり、幼く小さな肩を震わせて泣くその姿を観ながらツヤ子が大悟の心情を「わかった」ように、美香が父の亡骸の前で涙を流す大悟をここでも「わかった」のである。&lt;br /&gt;
遺言に忠実な美香の、その悲しくも柔らかい微笑みを浮かべた表情の上に、幼い大悟を見つめる若かりしツヤ子をみてしまい、それがツヤ子の生前の笑顔と死に顔に重なると、これはもうたまらない。&lt;br /&gt;
この構図を頭に入れていただいて、というか、おくりびとを再見していただく時、孤独なツヤ子と孤独な美香の、脱衣所での親子の交情と遺言のシーンをもう一度しっかりと目に焼き点けていただき、ツヤ子の湯灌のシーンでの美香を、そしてラストの感動のシーンをもう一度ご覧になって頂きたい。泣く幼い大悟とそれを見つめるツヤ子を、同じ構図の大悟と広末に重ね合わせてみて頂きたい。&lt;br /&gt;
初見の際の二倍、涙が出ます（笑）。本木雅弘の清廉な顔と涙ばかりに気をとられていたオレがばかだった。この映画では今一つ評判が低かった広末涼子を見直そう（笑）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
-to be continued</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/alyinv/61281141.html</link>
			<pubDate>Sun, 02 May 2010 13:24:17 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>映画の観方(2)　「おくりびと」の仕掛け　その4</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-29-0e/alyinv/folder/1035775/23/61273223/img_0?1272588108&quot; width=&quot;294&quot;&gt;&lt;br /&gt;
先日、民放で「おくりびと」が放映された。上映時間の都合からか、それは「特別篇」と銘打たれており、映画館で放映された本編とは異なる編集がなされ、ショットどころか多くのシーンがカットされている他、クリスマスの夜フライドチキンを食べるシーンと、いくつかの納棺の短いシーンが新たに編集し直されている。従って、あの放送をご覧になってこれをお読みいただいても、何を書いているかよくわからないと思う。もしもこの記事を読んでやろうというのであれば、おそらくは上映時と同じ編集であろうDVDを観ていただいた上で読んでいただければと思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、もう少し、前半の分析を続けよう。&lt;br /&gt;
これまで記号を見てきたが、まだタコが残っている。&lt;br /&gt;
あのタコは何なのか。何故タコでなければならなかったのか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
楽団が解散した日、広末涼子演じる妻の美香がタコをもらって帰ってくるシーンから考えよう。&lt;br /&gt;
夫婦で楽団の解散とチェロの借金の話の途中、とりあえず話を打ち切って夕食を作ろうとキッチンに消えた美香が大声を出し、「このタコ生きてる！」と叫んでタコを床にとり落とす。二人はそのタコを食べるのをやめ、海に出かけ、「もう釣られるなよ」と言って海に帰してやろうとするが、そのタコは死んだらしく波間に漂っている。&lt;br /&gt;
もちろん、そこで「死」という主題を云々するのは簡単だ。&lt;br /&gt;
だがよく観よう。このシーンの大悟の行動と言うのは、形態から見て、「死んだもの＝タコ」を海と言うタコの「生地（同時に墓）」に帰してやる行為である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり大悟は、死んだタコを海に葬るという「おくりびと」としての作業を図らずも挙行しているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
従って、このエピソードの機能は、「ハレ＝チェリスト」を経、楽団の解散によって宙に釣られてしまった大悟が、次のステップで「ケ＝おくりびと」という仕事に就くだろうことを、その模倣的行為によって「予兆」しているのである。&lt;br /&gt;
このタコの葬送は、説話論上、ハレからケへの分岐点となっているのだ。&lt;br /&gt;
この「無意識に模倣してしまったおくりびとの仕事」を境に作品は時系列的に「喪」の世界に入るのである。だから大悟がチェロを辞めようと決意したのはこの直後である。海を漂うタコの死骸を見ながら「辞めようかな」と呟き、あっさりと帰省を決めてしまうのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて次の疑問だが、なぜ、タコであって他の動物ではないのか。タコである必然性はあるのだろうか？ 答えは作品の他のエピソードにある。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大悟がNKコーポレーションで行った「おくりびと」としての初仕事として初めて行った納棺は死んで２週間放置され、腐乱した老婆の納棺だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
腐乱死体のあるそのアパートの一室に入った大悟は、まず床に落ちて腐乱した何かを踏みつけ、「ずるり」と足を滑らせる。我々は即座に、「床に落ちた」「不気味な感触のモノ」として、キッチンで美香が「床に落とした」「タコ」を想起しなければならない。&lt;br /&gt;
腐乱死体のあるアパートの「床に落ちていて踏みつけてしまった腐敗した食べ物」を撮るキャメラ・アングルが、美香の「床に落ちて蠢くタコ」と全く同じであることに注意しよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
腐乱死体のあるアパートで大悟が社長に命じられたのは、まず、死体の「足を持つ」ことだった。彼は躊躇し嘔吐を催すが、強い口調で社長に「しっかり持て！」と命じられ、仕方なくその両足を「掴む」。腐乱死体の両足を「掴む」。そこでこのシーンは唐突に終了する。&lt;br /&gt;
部屋で踏みつけた腐乱物のズルリとした感触は、もちろん腐乱死体そのもののイメージを想起させるのだが、同時に腐乱死体の足を掴んだその「感触」をも示している。つまり、腐乱死体の足の感触＝踏みつけた腐敗物の感触が、ひいてはタコの葬送時にタコを手にした感触を想起させるのである。&lt;br /&gt;
従って、タコの葬送は納棺師という職業に就く予兆だけでなく、その仕事でタコのような不気味な感触をした腐乱死体の足を掴むことになることを予兆していたのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
帰宅した彼は、妻の美香がご近所からもらったという「捌かれたばかりの鶏」を観て嘔吐を催した後、彼女を求めるが、体に触れる大悟の愛撫は不自然だ。彼は執拗に両手で妻の体を撫で擦る。タコを手にし、腐乱死体を掴んだ手の「感触」の記憶を消すために、妻の美香の「生の感触」をその手に取り戻そうとしているのである。&lt;br /&gt;
（大悟と美香のラブシーンは、伊丹十三監督「お葬式」の、高瀬春奈がとてつもなく豊満なヒップをさらけ出して山崎勉と事に及ぶシーンを想起させる。伊丹作品を意識していることは豊富な引用から明らかなのだが、あの高瀬春奈の豊満な尻と広末涼子の引き締まった腹の対照は滝田監督の「ひとひねり」の上手さだといってよいだろう。このシーンの本来的な意味は「エロスとタナトス」といってしまえばそれまでであるが、「おくりびと」で、広末涼子がスリムで肉の薄い腹部を晒すにとどまるのには、監督の別の計らいがある。映画と言うコンテクストから鑑みればわかる通り、もちろんこの時、美香は懐妊するのだが、映画のラストで美香の「大きくなったお腹」が映し出され大悟の手がそれを触れる時、その対照性のゆえに、ラブシーンにあって美香の「薄い腹部」に「大悟が触れる」カットをクローズアップによって示しているのである。&lt;br /&gt;
換言すれば、ラストの大悟が美香の腹部に石手紙を当てるカットに、このラブシーンで見せた美香の「薄い腹部」の記憶をふと重ねてみようということだ。それが映画を観るということである。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、話を少し理論上の批評、つまり、批評理論からこの映画の作りにふれておく。&lt;br /&gt;
チェロ演奏と納棺の儀式の均質性、タコと死体の関係、映画館でのビデオ撮影での拍手、&lt;br /&gt;
文学上の修辞技法で言えば、予弁法、あるいは直喩といわれる技法であると言って良い。&lt;br /&gt;
もっと平たく言えば暗示といってよいかもしれない。&lt;br /&gt;
この作品には他に修辞技法上の暗喩、提喩、隠喩といえる修辞技法が様々に使われている。そのうち予弁的な比喩表現の代表例を二つ挙げておこう。（今回の記事ではそのうちの一つ。）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
NKエージェントの面々がクリスマスを過ごすのシーンの後、おくりびとのテーマ曲に乗って、大悟の納棺風景がいくつか示される。その中に、社長の山崎勉が事務所一回のソファで眠りこみ、それを見た「上村」が「社長も年齢をとったわ」と呟き、大悟が社長にそっとコートをかけてやるというシーンがある。&lt;br /&gt;
「愛情」と「いたわり」と「月日の流れ」を感じさせる場面だ、と一般にはかんがえるのだろうが、実はこのシーンは「社長の死」の予弁（予兆）なのである。&lt;br /&gt;
私たちは、納棺の儀のシーンを何度か目にしている。湯灌の前に、布団の下から手品のように遺体の浴衣を引き抜き、それを遺体の上にかける。あるいは、棺に納まったニューハーフの遺体には、赤いワンピースがかけられる。&lt;br /&gt;
つまり、「横たわって目を閉じた人間に衣類をかけてやる」というのは納棺の儀そのものなのだ。映像的にもそれは確認できる。横たわる社長にコートをかける大悟。そして社長の顔と大悟の顔の切り返しは、納棺の儀で大悟と遺体を交互に映しだすキャメラワークと同じなのである。&lt;br /&gt;
勘の良い人ならこの社長のうたた寝のシーンを観て、劇中、彼が死んでしまうのではないかと想像するだろう。しかし、その死は回避される。この後、大悟が出先からNKエージェントに戻って父の死を告げられるシーンで、ソファに「寝転がって」本を読んでいるシーンが映されるからだ。もちろん目は見開いており、死が回避されたことは明らかだ。しかし先に述べたように、このシーンで社長は営業車のキーをほうり投げて大悟に渡す。納棺師継承の儀式である。社長は説話の中で生きながらえるが、もちろん我々が一度想起させられた社長の「老い」や「死期」を背景に、成長した大吾を配することで、そしてまた前出の「家族関係の成立」という主題において継承が遂げられる。従って、社長と上村を継ぐものとして、大吾と美香が営業車に乗り込むのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、美香（広末涼子）で思い出したのだが、この作品がホラー映画を踏襲していることにお気づきだっただろうか？&lt;br /&gt;
大悟が市中を行くシーン、奇妙に人気（ひとけ）が少ないことにはお気づきになったと思う。大悟が第三者と呼びうる人に出会うのは遺体のある場所とその付近に限られる。街中を歩いても、人とはすれ違うことはない。人影は景色の奥に小さく配されるばかりである。NKエージェントへ続く坂道など、車も通らなければ人も通らない。日々NKエージェントに出入りする社長も上村すらも、表通りには出てこない。&lt;br /&gt;
これはホラー映画の常套手段なのである。&lt;br /&gt;
（NKエージェント前の坂道を行き来するのは大悟だけだったのだが、そこに初めて美香が現れ、絶対に社長・上村・大悟以外の者が立ち入らない「閉域」であるNKエージェントに足を踏み入れることで、上村を継承することになるのだ。）&lt;br /&gt;
冒頭の吹雪の中にヘッドライトがぼんやり浮かぶというシークエンスはホラー、サスペンスの古典的導入部に決まって使われる。&lt;br /&gt;
さらに、往来から人影を排することでホラー的風土は横溢する。&lt;br /&gt;
大悟が初めてＮＫエージェントを訪れるシーンを思い出そう。&lt;br /&gt;
人通りの絶えた坂道を上ぼり、途中で見上げると不気味なデザインの建物がある。キャメラはこの建物を仰角で捕らえる。由緒正しい「吸血鬼の住む城」の撮り方である。&lt;br /&gt;
ドラキュラの場合は、一人城を訪れると召使が応答し、案内し、伯爵さまはお出かけだと答える。待っているとドラキュラ登場。帰ろうにも帰れぬ契約を交わされ、彼は城の虜となる。&lt;br /&gt;
大悟も全く同じである。扉をあけると事務員上村が出迎え、社長を待つはめになる。そこに山崎勉が登場。あれほどに「死神」に相応しい渋面を持つのは本邦では彼一人だろう。その彼は大悟をすぐに採用する。契約である。そうして彼はＮＫエージェントに囚われの身となる、という寸法だ。だから、棺が置かれているのも当然だ。棺はドラキュラ伯爵の由緒正しい寝所なのである。&lt;br /&gt;
さて、城を抜け出そうと心に決めた大悟、召使の上村に相談すると、彼女は二階を指さす。&lt;br /&gt;
キャメラは上を見つめる大悟と上村を、真上から映しだす。&lt;br /&gt;
これはもちろん「天上界」を見上げる者と見下ろす者の視点である。&lt;br /&gt;
さて、その天上界、そこは天国なのか地獄なのか。初めて入った社長＝ドラキュラ伯爵の居室は観葉植物で埋め尽くされている。その繁茂する濃い緑を「生」とみるか、あるいは「生きる物が捕食されるジャングル」とみるか。社長=ドラキュラの台詞を思い出そう。「メシどうしてる？カミさん、まだ戻ってないんだろ？食ってけよ。俺のが（おれの出す食い物のほうが君の女房の作る食い物よりも）うまいぞ、たぶん。」&lt;br /&gt;
女房が作るものより俺のモノの方がうまい。すなわち俗世のものではなく、吸血鬼の食事である血の味を味わうという盟約によって、こちらの側につけということだ。もちろんそこで食うのは河豚の白子。&lt;br /&gt;
大悟はそこで「肉」の味を知り「うまい」とつぶやいてしまう。こうして女房を捨て、魂を死神に売り渡し、城の人間、すなわちドラキュラの仲間、吸血鬼となるのであった。死体を求めてドラキュラと街へと繰り出した大悟は、帰って獲物のフライドチキンにむしゃぶりつく。紅茶ばかり飲むことで正体を隠していた上村も本性を露わにし、骨付き肉にかぶりつき、肉をかみちぎり、屍の骨を累々と積み上げ、うまいうまいと笑うのだ。上村が出自を詳らかにすることでドラキュラは横滑りし、三人はベム・ベラ・ベロとなっているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、映画全編のあの過剰とも見えるあさましい食事のショットは、怪物の食事をモチーフとしているのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
-to be continued</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/alyinv/61273223.html</link>
			<pubDate>Fri, 30 Apr 2010 09:41:48 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>映画の観方(2)　「おくりびと」の仕掛け　その3</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-29-0e/alyinv/folder/1035775/69/61253569/img_0?1272113493&quot; width=&quot;300&quot;&gt;&lt;br /&gt;
チェロとは一体何なのか。納棺師の物語とその前段のチェロのエピソードにはいったいどんな関係があるのだろうか。&lt;br /&gt;
気になるのはチェロをめぐって流れる大悟のモノローグ（ナレーション）である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
映画はエピソードΔ料鞍症分から始まり、タイトルに続いていきなりベートーベンの第九、つまり歓喜の歌を演奏するオーケストラのシーンへと続く。&lt;br /&gt;
ごく単純に見れば、歓喜の歌はハレ、冒頭の納棺はケである。これを対照的な表現とのみとらえればチェロ奏者というハレの職業からケの職業へという運命の大転換を設定するためだけに、大悟をチェロ奏者として設定したかにも見える。しかし、観ることを怠らなければ記号は声を上げる。&lt;br /&gt;
大悟が所属する楽団の解散が決まった後、家に帰りついた彼はチェロを机に立てかけ、その正面に正対して座りチェロを眺める。そこにナレーションが流れる。&lt;br /&gt;
「このチェロには何の罪もない。僕のような人間に買われたばかりに、仕事を失ってしまった。あらゆる意味でこのチェロは、僕には重たすぎた。」&lt;br /&gt;
ここで注意したいのは、チェロが「擬人化」されていることである。「罪が無い。」「仕事を失う。」&lt;br /&gt;
しかも、チェロに正対して見つめるショットに重なるモノローグであるから、「人に語りかけて」いるようだと自然に考えればよいだろう。&lt;br /&gt;
チェロはその形状から女性の体に例えられることがあり、映画史をひも解いてもチェロは女性、その演奏の所作をごく単純に性行為と見立てる映画も少なくはない。しかし、そうしたものを想起せずとも「語りかけ」や「擬人化」と楽器の「形状」から「チェロは人ではないか。」と考えることができるだろう。&lt;br /&gt;
とするなら、モノローグで示されるチェロに対して発する大悟の台詞は「人間に対する考え方」を示すものと考えてよいだろう。&lt;br /&gt;
人一般なのか、それとも特定の人物を指すのか？まずは、「彼が手に入れた持ち物」であることや「抱える」動作を鑑みればチェロは「妻」と見立て、それが妥当するかを大悟と妻とのエピソードで確認すればよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チェリストを辞めることを決心した大悟はチェロを売ってしまうが、楽器店で売却手続きをとり、終わって店を出るまでのシーンに、さらに以下のナレーションが響く。&lt;br /&gt;
「もっと早く、自分の才能の限界に気づけばよかったのだ。」そして、「人生最大の分岐点を迎えたつもりだったが、チェロを手放した途端、不思議と楽になった。今まで縛られていたものから、すうっと解放された気がした。自分が夢だと信じていたものは、たぶん、夢ではなかったのだ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここまでくればわかる。&lt;br /&gt;
例えば、汚らわしいと言い残して実家に帰った妻を、大悟は追おうとはせず、納棺の仕事へと向かった。その後も一向に妻の不在を嘆くような表情を見せない。妊娠を期に突然妻が帰ってくるまで気にするそぶりは微塵もない。その理由は前回までに書いたように、納棺師としての仕事を見せることができれば妻の自分への評価は変わるという確信もあろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、もう一つの解釈も成り立つ。自分が得たもの（チェロ=妻）についてモノローグで言うように、何の罪もないが自分に関わり、しかし重過ぎて、結果手放した途端に不思議と楽になり、縛られていたものから解放された気がした」からこそ、妻を追わなかったのである。&lt;br /&gt;
「納棺を見せることができれば納棺師に対する見方は変わる」という確信と同時に、しかし、「妻に罪はなく、しかし自分には重く、離れると不思議と楽になり、解放された気がしたから」という二つの理由は相容れないものではない。&lt;br /&gt;
もちろん、妻をごく単純に重荷に感じていたわけではない。「もっと早く、自分の才能の限界に気づけばよかったのだ」から分かる通り、才能がある自分には妻は相応しいかもしれないが、才能の無い自分には重荷で妻を手元に置く器量はない」とも採れようし、妻を妻とする男しての器量自体が十分でないとも採れるだろう。この両義性は、どちらを採ろうと妻を追わない理由となろう。&lt;br /&gt;
大悟の納棺師としての仕事を侮蔑した親友に対して誤解を解こうとしないのも同じ理由である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もうひとつ、こちらのほうが重要なのだが、チェロ演奏家と納棺師の相似性である。&lt;br /&gt;
チェロ演奏を納棺の儀に見立てれば、演奏時に観客を正面に置き、チェロを抱え、両手でそれをエレガントに奏で、チェロの音色において観客を感動に導くという構図が、正面に近親者を置き、遺体に触れ儀式的に衣装替えや死化粧を施すその所作の美しさと共に遺体を美しくし、見守る近親者を感動に導くという構図に合致することに注目しよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あの納棺の儀の際の納棺師の儀式的な手の所作は、チェロをエレガントに奏でる両手の所作そのものなのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
よって、チェロの演奏と納棺師の行う納棺の儀は同じ性格のものだということなのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
面白いのは、納棺師になった大悟が初仕事で納棺のビデオに死体役として出演するシーンである。そのビデオ撮影は小さな映画館で行われる。大悟は撮影の用意をするよう社長に指示され、促されて舞台に上がる。そこで観客席側に陣取るビデオの撮影スタッフからなぜか拍手が送られる。&lt;br /&gt;
大悟にとって、舞台はチェリストとしての舞台でもあった。&lt;br /&gt;
舞台に上がった大悟に拍手を送るのはチェリスト時代と変わらない。そうした見立てをビデオ撮影のシーンで形態的に施し、チェリストと納棺師の等質性を示しているのである。&lt;br /&gt;
このあたりは手が込んでいるのでもう少し踏み込もう。&lt;br /&gt;
冒頭のタイトルショットの後、大悟がチェリストとして第九を演奏するシーンがある。客席をキャメラが捕らえると、観客はまばらで中央に冴えない顔をした楽団のオーナーがとらえられている。そのゆがんだ表情は、説話論的には演奏終了後に解散を言い渡さなければならないオーナーの心中を現すものと言えようが、もうひとつ、楽団の演奏、ひいては大悟のチェロ演奏に対する観客の評価を代表的に示すものだとも捕らえることができる。果たしてそのシーンは演奏終了後の観客の拍手を映し出すことなく楽屋へのシーンへと唐突に飛ぶ。「冴えない表情の観客」を配し、「拍手もない」状況を映画的に配することで、大悟のチェリストとしての技量（に対する第三者の評価）を表してもいるのだ。&lt;br /&gt;
ところが、ビデオ撮影のシーンでは、客席側にいるビデオ撮影スタッフから舞台上の大悟に対する拍手がおくられる。これは構図として、チェロでは評価されない大悟が、納棺師としては賞賛されることになるという対比的な構図を予兆として示しているのである。&lt;br /&gt;
もちろん、ビデオのシーンは伊丹十三監督作品へのオマージュでもある。&lt;br /&gt;
ビデオは納棺の「How to」を紹介するものなのだが、その納棺のHow toを語り演じる山崎勉の姿は、まずは伊丹監督の「たんぽぽ」で、大友柳太朗が見せたラーメンの正しい食べ方＝「How to」のシーンを想起させる。もちろん映画「お葬式」との関連は、表向きには「喪」を描き、かつ山崎勉が主演であるという共通点によって示されるが、もう一歩踏み込んで、当の「お葬式」で、喪主の山崎勉が葬儀が初体験なので、妻と共に葬儀の「How toビデオ」を見て学ぶというシーンを想起しよう。お分かりのように、「お葬式」で喪主・山崎勉が観て学ぶ「葬儀のHow toビデオ」は、実は「おくりびと」で、納棺師・山崎勉が制作した「納棺のHow to ビデオ」であるという面白い見立てが施されているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、チェロのコミカルな見立ては、NKエージェントに初出勤した際の、余貴美子演じる事務員上村が三本の「棺」の差を説明するシーンで観られる。&lt;br /&gt;
棺は右から５万円、真中が１０万円、右が３０万円で、それぞれ、合板、金具つきの二面彫り物、総檜がその差だというのだが、大悟はその差の説明に、「素材と飾りですか」とつぶやいて納得する。大悟が買ったチェロは1800万円なのだが、材質、価格の決定要素など、件の棺の傍にチェロを立てかけても、その値踏みにおいて同じセリフが成立してしまうような配置を施しているのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、チェロは二本、つまり、大悟が手放した１８００万円のチェロと、幼少期に父に買い与えられたチェロが登場する。チェロを辞めた大悟がふとまたチェロを弾きたくなったのは、腐乱死体の納棺を済ませた夜のことである。妻と同衾していた大悟は夜半に起きだし、階下に降りて子供のころに父から買い与えられた子供用のチェロを取り出して弾く。そこに「一体自分は何を試されているのだろう、母を看取ってあげられなかった罰なのか、この先どうなっていくんだろう。そう思ったらなぜかチェロが弾きたくなった。記憶を巻き戻しながら、ただ、チェロが弾きたくなった。」というモノローグが流れる。&lt;br /&gt;
チェロのケースからは父にもらった石手紙が新聞紙にくるまれ同梱されている。&lt;br /&gt;
モノローグにあるとおり、大悟が子供用チェロを弾くことによって彼の幼少の頃の記憶をよみがえらせる。フラッシュバックされるのは、幼少の彼が両親を前にチェロを弾くショットである。この時奏でられるチェロは、職業としての演奏ではなく家族の時間を過ごすためものである。ここに説話上の一つの切断がある。これを見てゆこう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大悟にとって職業とは何か。この映画の前半はそれを金銭的価値で示している。プロに相応しいいチェロの値段（1800万円）のエピソードに始まる金銭の話題は綿々と続く。NKエージェントに初訪問の際、入社を断り切れなかったのは社長に５０万円と言う給与を示されて驚き、さらには面談だけなのにその日の賃金を手渡されたからであり、また棺の値段の相違の要因はわざわざ話題に上げられ、納棺師の職業は隙間産業だというセリフまでが口にされる。腐乱死体を納棺して嘔吐を催しても日銭を渡されれば納得してしまう。&lt;br /&gt;
しかし、物語の前半、これでもかといわんばかりに頻出していた金銭の話題は、この子供用のチェロを弾くシーンを境に、ふっつりと消える。要はこの時まで、職業もプロフェッショナリズムも、大悟にとっては経済的手段だったのだ。&lt;br /&gt;
しかし、子供用のチェロを両親の目の前で弾く回想シーン、彼の演奏は経済的価値とは無縁である。ただチェロを奏でれば眼前に両親がいる。大悟が階下で奏でるチェロの音色を聞きながら二階で布団に横たわる妻の笑顔が、そのチェロのなんたるかを物語る。&lt;br /&gt;
チェロを弾くのは金の問題ではない。つまりは、職業やプロフェッショナリズムを金銭価値に置換して捕らえていた大悟の価値観が、子供のころ手にしたチェロを手にすることによって変わる瞬間が示されているのである。&lt;br /&gt;
以後、大悟が成人用のチェロを手にすることはない。雪解けの季節、川沿いの土手に座り出羽の山を背景に奏でるチェロはもちろん子供用であるから、奏でられるチェロが金銭的価値とは無関係のものである。いくつかの短い納棺のエピソードにその音色は重ねられている。さあ、そのチェロの音色はどんな役割を果たすのか？それはもちろん書かない。野暮である。&lt;br /&gt;
同梱されていた石手紙の性格を想起すればいい。&lt;br /&gt;
あるいは、そのチェロは、ただただ目の前にありし日の両親の姿を想起させるチェロであり、あるいは、それを聞きながらまどろむ妻が笑顔を見せるチェロであると思い起こすだけでよい。そしてクリスマスの夜、社長を深く沈黙させ、上村が涙を流したチェロであったことを忘れなければよい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
チェロはそのようなものであり、納棺の儀式もそのようなものなのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
繰り返すが、子供用チェロを引いた夜以来、大悟の頭からは「金銭」という労働価値が消える。先にチェロを弾く行為は納棺と同じだと述べた。つまり、納棺師という職業が「金の問題とは無関係に選び取られた」職業へと、この夜を境に変容するのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
だからその翌日、橋に佇み産卵のための川上りに失敗した鮭を「看取った」大悟に社長はこう言い放つのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「運命だ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「君の天職だ」と。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
-to be continued</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/alyinv/61253569.html</link>
			<pubDate>Sat, 24 Apr 2010 21:51:33 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>解題　「映画の観方」</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-29-0e/alyinv/folder/1035775/75/61240675/img_0?1271812496&quot; width=&quot;520&quot;&gt;&lt;br /&gt;
「おくりびと」について書くのはこれで終わりではなく、次回以降も書き続ける。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回「映画の観方」などという不遜極まりないものを書いた理由を説明しよう。いや、僭越を承知で書いているのだけれど。&lt;br /&gt;
実際、前回の「映画の観方「麦秋論」」については、名著と呼ばれる蓮實重彦の「監督　小津安二郎」の中で「食べること」の章のみが面白くなかったからリライトしてやれと思ってやってみた恐れを知らぬ暴挙。金井美恵子もエッセイで、麦秋のケーキに触れ、ウエディングケーキを食べるのが紀子の結婚の予兆だと書いているのを見て、それよりは三々九度の杯と直後の失恋を語れ！と少し腹が立ったことも手伝っている。&lt;br /&gt;
蓮實のパスティッシュはネット上にもいるが、大体下手なので、（というか教養がないので（笑））、蓮實のパロディをやっちゃえということで、「飄々批評宣伝」と「表層批評宣言」をモロにもじった題をつけ書いてきたのだが、そろそろ飽きたので、ecritと改題した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
で、今回のいきさつはこうだ。&lt;br /&gt;
娘は熱烈なウィル・スミスファンで、部屋にはポスターが貼られ、彼の出演した作品のDVDはすべて持っている。&lt;br /&gt;
で、先日、ウィル・スミスが主演する「７つの贈り物」という作品について彼女から質問されたのだ。&lt;br /&gt;
「お父さん、原題が「7 pounds」っていうんだけど、これはヴェニスの商人から来てるんだよね。」と聞かれてそうだと答えた。&lt;br /&gt;
それからインターネットのレビューでは賛否両論だと聞いた。最後にベン（ウィル・スミス演じる主人公）が自殺するところが、いいのか悪いのかで意見が分かれてんの。という。&lt;br /&gt;
だから「あの自殺は、ハルマゲドン（ブルース・ウィリス主演の地球滅亡もの）で主人公が自己犠牲になるのと何が違うの？」と聞いたら、深く考え込んでしまった（笑）。&lt;br /&gt;
まあそれはいいとして、あの結末をどうこう考えるよりも、あれは聖書のマタイ伝からの引用で出来てるから、ネットで調べてご覧。誰かが指摘してると思うから。で話が終了。&lt;br /&gt;
数日後、娘が、「ネットで調べたけど、日本語と英語で読めるところでは、数字の７だから聖書から来てるとしか書いてない。というので、んなこたないだろ、といって調べてみるとその通り。で解説することになった。&lt;br /&gt;
主人公のガールフレンドが通う病院の、その病院名を書いた看板が大写しになる。そこには「St.Mathew　Medical Center」とある。St.Mathew　は聖マシュー。マタイの英語読み。&lt;br /&gt;
といったらそんな細かいとこまで見ないよ、と反論された。そうか。&lt;br /&gt;
で、「病院にマタイと書いてあっても、それで聖書っておかしくない？聖路加病院が出てきても、ルカが関係あるとは限らないでしょ？」と聞かれた。&lt;br /&gt;
それはそうだ。だけど「しるし」はそれだけじゃないんだ、ということでさらに説明。主人公が職業を騙るのだが、その詐称した職業が超税吏。で、超税吏と言えば、西洋の芸術の世界では、マタイか、ダンテなんだ。と説明した。マタイが十二使徒になる前の職業が悪名高き徴税吏。ローマの手先。それから、ダンテも元超税吏。&lt;br /&gt;
病院名と超税吏。これで証拠は二つ。娘も納得。&lt;br /&gt;
「ヴェニスの商人」と「マタイ伝」は共通する反ユダヤ教で一致。それは盲目の精肉会社のコールセンター員を「お前はユダヤ人か！」と記号として罵倒することから伺え、また、映画中の主人公の行状やエピソードは、全てマタイ伝中のイエスの行状や十二使徒への命からとられていることを話した。もちろん、複数の引用先の共通性を示すしるしとして「反ユダヤ」をちょいと借用しただけであって、反ユダヤ教的な映画などではない。念のため。&lt;br /&gt;
さて、ところがどこをどう調べても「七つの物語」のレビューに「マタイ伝」のマの字も出てこないという。娘は聖書を開き、「７つの贈り物」との類縁性を調べ、納得したようだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
でもその後、素人なら分からなくても仕様がないからプロの映画評論家のを見てみようと二人で検索してあるサイトを発見、なんとそこには「主人公が神のようにふるまっていて不快だ」と書いている。娘が、「これどうなの？」&lt;br /&gt;
というから、「神のようにふるまうように映画では設計してるんだから、神のようにふるまっているように見えたことは成功なんだよ。」と言って笑うと、娘が、「このひと、プロだよね。」といって黙った。&lt;br /&gt;
こういうことはみんな知ってるわけじゃないでしょ？というから、素人は知らなくても普通だから構わないけど、映画の批評家なら知ってないとね。プロなんだからと答えると、&lt;br /&gt;
何をどれだけ知ってなきゃいけないの？&lt;br /&gt;
というから「ギリシャ神話」「聖書」「神曲」「シェークスピアの悲劇」「フロイト」、とりあえず、これだけで「物語の見立て」は７割くらい押さえられる。と話した。キミは素人なんだから、知らなくても罪はない。でも、知らなくて映画を誤解することもあるだろうから、わかんなきゃ聞きに来い。分かる範囲で解説するからと言っておいた。&lt;br /&gt;
最後に、じゃあ、「７つの贈り物」のラストの自殺はあれだよね。キリスト？というから、正確には、キリストではなくイエスだと答えた。ちなみにキリスト教諸派はいずれも自殺は厳禁だが、聖書に自殺を禁ずる文言はない。ちなみに、聖書では殺人を禁じているが、キリスト教には十字軍遠征の歴史がある。&lt;br /&gt;
いずれにせよ、「７つの贈り物」は考える映画ではない。見立てを見る映画だ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
話しながら、このプロ評論家に、だんだん腹が立って来た。&lt;br /&gt;
知らないのはいい。しかし、正反対の誤認はダメだ。&lt;br /&gt;
神のようにふるまう映画なのに、神のようにふるまっているから不快だ、とは何事か。&lt;br /&gt;
もしその批評家にセンスがあれば、この主人公は神のようにふるまっているから、きっと聖書かなんかに関係するんじゃないのか？というくらいの推理は働かせて、よくわからないから、そっち方面への言及を避ける、くらいは出来たんじゃないのか、と思うと、プロとして必要な教養もない、加えて教養の無さを隠すセンスもない、でもプロの映画評論家として金をもらってる、と思うと、何だか猛然と腹が立って来たのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上にあげた書物なら、ゆっくり読んでも１年はかからずとりあえず読めるだろう。しかし、「見立て」の力が無いのはまずい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「見立て」、つまり記号を読むにはそれなりに訓練が必要なのだが、「７つの贈り物」の例のように、ある映画や小説の中にその作品以外のモノから引用する場合もある。それを読むには一定の知識が必要かもしれない。しかし、他の知識はとりあえず必要なく、作品の中に配置された記号だけでだいたい読み解けるものはないか、と考え、格好の題材として「おくりびと」を思い出して、映画をあんまりきちんと観たことが無いと言う人に向けて書こうと思ったのだ。「おくりびと」については、他の映画の知識で言えば伊丹十三とドラキュラと、ハワード・ホークス監督の「脱出」を知っていれば、まあ一層楽しめるのだけれど、とりあえず別に聖書など知らなくても、作品の中身を検討するだけで「記号」を読める作品として「おくりびと」はちょうどいい。「監督の設計」を説明するのにも向いている。というわけで「映画のお約束を知りましょう」「映画をちゃんと見ましょう」「記号を読めるようになりましょう」をテーマに書こうと思い立ったのだ。&lt;br /&gt;
だから、隅々まで徹底して解読してみるが、もちろんこれは解読であって批評ではない。&lt;br /&gt;
じっと、注意を払って、とことん見ると、面白い。&lt;br /&gt;
しかし、映画ファンの「おくりびと」のレビューを、ヤフーのレビューで読んでも、皆さん、書かれている「感想」があまりにも似てしまっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まずは、とにもかくにも「考えさせられる」という言葉を使うのはやめよう。二度と書かないと心に決め、口にするのも避けよう。&lt;br /&gt;
「考えさせられる」という言葉が「陳腐」で「大衆的」だからという理由だけでなはない。&lt;br /&gt;
「考えさせられる」と言う言葉は述語。つまり考えたことを書くべきスペースに置かれてしまう言葉だ。「考えていない」からこそ「考えさせられる」という放言が飛び出してしまう。感想にしろ批評にしろ、「考えたこと」を書く場だから、簡単にいえば、それまでに「考えさせられる」と書いた経験があるなら、それを消し、そこに「考えたこと」を書け、ということだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、例えば「「おくりびと」をレビューするなり、批評するなら、「生と死」であるとか、「日本人の死生観」であるとか、そのような「出回っている言葉で簡単に主題を総合する」ことは絶対に避けよう、ということだ。&lt;br /&gt;
「死と生」などと口にした瞬間に、「おくりびと」は「死と生」の物語になってしまう。その文脈でしか読めなくなってしまう。こうした「総合」の言葉は、その言葉の磁力においいて自由な思考を妨げる引力となり、「観察」という科学的態度の行使を妨げてしまい、「生と死」ではない「他の記号」を「生と死」に引きつけて解釈してしまう。これを称して「誤読」というのだ。従って、「おくりびと」を総括するなら、最後まで「おくりびと」への検討を重ねてから、総括する言葉を選ぼう。もうひとつ、「生と死」「日本人の死生観」などと言った陳腐な言葉は単なる「常識人」しか使用しない言葉である。常識とは陳腐を正当化するための用語に過ぎない。出来あいの言葉は、「概念操作」以外の目的では使わないようにしよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
言い方を変えよう。&lt;br /&gt;
「おくりびと」いついて書くのは、何かを語る際に、「理性」の潜在的な要請に従って、作品の中心を見てしまい、例えばストーリーのみを追いかけてしまう故に、それ以外の描写をストーリーの修飾物として扱い、観る意識から遠ざけてしまいがちな人間の、その結果書かれる感想が、皆、似てしまい、少々凝ったものと言えば、批評するものの知識のストックにこじつけてしまい、うまくいかないと「作品がおかしい」なんて言い、結果、つまらない他人の自意識に尽きあわされる羽目となり、その実、よくよく見れば、その自意識自体が共同体的意識に犯されていることを発見することの繰り返しになってしまうという悪循環を断つには、何事も前提とせず、ただただ観ること、ただただ読むこと、これに尽きると言いたかったからだ。そのうち記号がそこかしこで貴方を呼ぶ。同じ声に注意を払うと、なるほどそういうことか、と気付く。慣れれば、それに気づくまでの時間が短縮される。映画を見ている間にそうした記号の発声を聞きとることができるようになり、人一倍、作品への感動が深くなってゆく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回の記事のその１とその２は、自分の都合のいいように行間をよんでしまう事例を摘発するためのもの。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
記号の話に戻ろう。記号は、何かを明確に示す場合と、複数のもの同時に示す場合もある。&lt;br /&gt;
また、具体的なものを示す場合もある一方、具体的ではないが、あるイメージを作品の通奏低音として響かせたりする場合もある。要は、何か具体的なものを指し示さなければならないといったものではない。&lt;br /&gt;
例えば村上春樹の「海辺のカフカ」が、何故カフカなのかについて明示しにくいように。&lt;br /&gt;
古井由吉の「掌中の針」のその針が、明示しにくいように。&lt;br /&gt;
しかし、「おくりびと」に限って言えば、記号の指し示すものが明確なので、手始めに見てみようということだ。腐乱死体＝食べ物のように明確だということ。こうした記号ををまず、読めるようにしよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだまだ、「おくりびと」は続きます。&lt;br /&gt;
次回、その３では、チェロはこうではないかという分析結果を、「映画の設計」あるいは「説話の設計」と言う視点と合わせて書いてみる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Photo: Vocazione di san Matteo / Michelangelo Merisi da Caravaggio</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/alyinv/61240675.html</link>
			<pubDate>Wed, 21 Apr 2010 10:14:56 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>映画の観方(2)　「おくりびと」の仕掛け　その２</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-29-0e/alyinv/folder/1035775/35/61234335/img_0?1271677099&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
その２&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社長との面会で辞意を保留した理由は何か？を検討しつつ、フライドチキンで終了する「食べ物」の物語について検討を進めてみよう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社長との面談シーンでとりあえず態度を留保した理由を、Wikiでは「社長のこの仕事を始めたきっかけや独特の死生観を聞き思いとどまる。」と説明する。&lt;br /&gt;
言いたいことはわかる。しかし、もう少し考えよう。&lt;br /&gt;
ここでは社長が披露した妻のエピソードに注意を向け、さらにWikiで言うところの社長の「独特の死生感」を聞いた後の「食事」に注目したい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
Wikiのように、社長の語る妻のエピソードに大悟が共感し、辞意を留保したという説明ももちろん可能だろう。しかし、その見解はあまりにも凡庸である。誰もが分かるように多数の記号を赤裸々に配置した滝田洋二郎である。「行間を唯々諾々と読む」ことを拒否する精神が貫かれている。そこを観ようではないか。だからここでは、彼の唯物論的精神に従おう。&lt;br /&gt;
社長は自らの就業の理由を、「初めての納棺は亡くなった妻だった。美しく送ってやるためだが、それ以来この仕事を続けている。」と語る。つまり、ディコンストラクトすれば、「社長の妻となるには「社長によって納棺」されなければならない」ということだ。ここで想起したいのは、上村百合子が大悟に告げた「社長に納棺してもらいたいからここで働いている」という言葉である。この社長と上村の二人の需給の一致に、社長と事務員以上の関係、つまり夫と妻の関係を「見立て」なければならない。もちろん男と女の関係が既にあるとかないとかという「憶測」をしてはいけない。条件の合致性の上にその関係と対人間の磁力を見ようということだ。&lt;br /&gt;
同時に大悟もまた両親が（実質上）いない一人身であることから、後継者と妻がいない社長、子を捨て夫がいない上村との三者間の需給関係を満たすピースとして機能し始め、三人家族という図式が成立してしまうが故に、大悟もまたその磁力圏内に留まることを余儀なくされる、つまり、納棺師を辞められないのである。&lt;br /&gt;
これは作家の超越的権能による作中人物の関係の図式化であって、作品中の大悟の意志からは独立的だ。時系列的に見てこの時点で大悟は上村に子がいることを知らない。つまり、大悟から上村に対する需要が観る者に未知であるから、作家は大悟に対して完全な翻意には至らせない。しかし、社長からの納棺師継承の磁力は働いているので、不安定ながらも態度保留の形で大悟は会社に留まるのである。（上村が子を捨ててきた事実を大悟が知って、上村―大悟間の需給が双方完全に一致するのは父の訃報を聞いて面会を拒否する大悟に最後の対面を上村が促すその時である。それを受諾することによって、三角形は完成する。さらには大悟の妻が、他の誰も足を運ばぬNKエージェントにあらわれることで、社長と事務員上村の関係を引き継ぐ構図が完成する。そこで社長は営業車のキーを大悟に投げ渡すのだが、もちろんそれは、社長から大悟への「納棺師継承の儀式」なのである。&lt;br /&gt;
さて、こう観ればその場で河豚の白子を共に食うのは、大悟の成長＝おくりびと継承が可能な水準にいるか否かを問う試験であると見立てることができる。白子は炙られて外側が張り詰めていながらも微妙に柔らかく、内部はどろりとした食べ物だ。腐乱死体のトラウマを乗り越えるために、同系列の形容が可能な干し柿はクリアした。しかし、干し柿は植物だ。さらにハードルは上がった。白子は干し柿に比べ、より腐乱死体との同質性の高い「動物」なのである。これを大悟は口にし、結果、うまいとまで口にする。いわゆる精神面において「おくりびと」として免許は皆伝したのである。これもまた、大悟が辞職を保留する要因として機能する。資質が確認されたのだ。&lt;br /&gt;
さて、残るは実技である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以上のシーンの後、Δ離┘團宗璽匹紹介される。シーン冒頭の「僕ははたしてこの仕事をやっていけるだろうか。」というモノローグは、もちろん「仕事をやっていく技量があるか否か」を自問しているのである。&lt;br /&gt;
その要請に従い、Δ離┘團宗璽匹砲いて社長が大悟に「やってみるか？」と問い、「実技試験が」がほどこされる。納棺師としての精神的な試練は「河豚の白子を食することができ、旨いとまで感じることが出来た」ことによって乗り越えた。今回は「実技」で前回の納棺でしでかしたような「失敗」をしないか否かが試されるのだ。&lt;br /&gt;
ここで、納棺を施される遺体が「ニューハーフ」であることに注目したい。「ニューハーフ」という記号を云々するのはやめよう。精査を伴わぬ安易な図式化と理解は、徹底的に観ようという倫理の欠如に他ならない。&lt;br /&gt;
バイク事故で死んだ女子高生の納棺で大悟は、死化粧を施した際に、母親から、「この娘はこんなんじゃない、髪型もそう・・・全部、こんなんじゃない。」とその仕上がりを非難される。つまり失敗である。&lt;br /&gt;
大悟の化粧の腕自体は悪くないのだろう。失敗は、そこにあった「遺影」と「遺骸」の相違の無視にあったのである。母親のイデアとして存在する彼女は「遺影」にあり、それは母が遺影を指さして、この娘はこうだと言っている。その彼女は黒髪である。一方、「遺骸」は茶髪である。納棺の儀の成功・失敗の基準とは、ただ単に美しく処理出来たか否かにあるのではなく、遺族がどのような姿を遺体の最後の表情として留めたいかを知り、それを実現出来たか否かなのである。&lt;br /&gt;
大悟が失敗した納棺の際、彼の目の前に遺影があった。怠ったのは、遺影と亡骸の差を遺族がどう思い、どのようにして欲しかったかを忖度できなかったことにあるのだ。単純に美しくすればよいという大悟の短慮が遺族の不興を買ったのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大悟のカノンは、のエピソードで見せた社長の納棺である。&lt;br /&gt;
そこでは納棺の儀にとりかかる前に、社長の山崎勉をキャメラの左に配し、やや右奥に遺影を並べたショットが認められる。そこで社長は首を回してしっかりとまず遺影を見、それから遺骸を見てその差を確認している。社長が施した死化粧は、その遺影に近づけ、さらには、遺影をより輝かせ、喪主である夫に「今までで一番美しい」と言わせるまでの出来であった。遺影はご存じのように、遺族が最も良いと思う写真を選んで作成される。遺族にとって生ある頃の故人の理想のイメージが最もよく投影されているものである。社長は、そのイデアに近づけ、かつ、納棺師が普段利用する「化粧用パレット」から色を拾わず、彼女が生前に使っていた口紅を用意させ、目を閉じた状態の顔にあって最も印象を残すであろうパーツである「唇」に、ありし日に使った口紅の色を鮮やかに配してやるという、繊細この上ない配慮を施したのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうした配慮を忘れたがために、大悟は前回、失敗したのだ。&lt;br /&gt;
今回の試験は前回と同様の難問である。前回同様遺影と遺骸の差があるケースである。「どのように死装束、死化粧を施せばよいかわからない。」そうした状況を設定するために、最後の試練として「女性のようだが男性である」というニューハーフを遺骸として用意したのである。&lt;br /&gt;
大悟は、このニューハーフの男性器に触れた時、「名手」である社長に湯灌用の布を預けたのは、「失敗はしたくない」からであり、その回避ために「名手である社長の判断を仰いだ」のだ。そこで社長は、「女の化粧をするか、男の化粧をするか」を遺族に聞くという、「こうした場合」の範を示したのである。&lt;br /&gt;
その遺影は美しい。髪は後ろに束ねて化粧はないが、健康で美しく微笑んでいる。しかし、美しい女性の素顔を持ちつつ、男子の黒い詰襟の学生服を着用している。&lt;br /&gt;
さてここで、母の希望で女性の化粧を施せと命じられた場合にどうするか。遺影は素顔である。素顔に近い化粧を施すのか？それで無言の父の希望はかなえられるのか？さらには、亡き彼の望みはかなうのか？&lt;br /&gt;
大悟は選択する。熟達した納棺師として。大悟はしっかりと美しい遺影に女化粧を施し、美しい女性の姿へと昇華させ、しかも棺に納められた遺骸の胸元に、遺影と同じ黒の学生服ではなく、輝くように赤いワンピースをそっと乗せたのだ。こうして、遺族の希望に敬意を払いつつ、しかし遺影に近づけることよりも、女性として輝かせることを大悟は選ぶ。不興を買うかもしれない。しかし、遺影とは離れても、目の前に横たわる今は亡き人の希望をも叶えよう、そして母を、それから真の希望を表明しない無言の父をも納得させようという困難に挑んだのである。&lt;br /&gt;
のシークエンスで社長の納棺作業を目にした際の大悟の感動が「ナレーション」で語られているが、つまりはその時の大悟の感動としてあった「納棺の儀式の美しさ」を再現し、さらには乗り越えようとした大悟は「美しく静謐な儀式」を創出し、その美しさが遺体の美しさを現出せしむるという信念において美しい納棺を試み、その儀式の美しさゆえに死化粧が無き人の美しさを増幅し、亡き人の体に沿って柔らかく置かれた深紅のワンピースがその美しさを決定づけ、そうありたかった息子の美しい女性としての姿を息子の本生として遺族に披露するのである。&lt;br /&gt;
無言だった父は、社長と大悟の帰り際に、「息子がこんなになってから喧嘩ばかりしていた。しかし今日の息子を見て女の恰好をしていても、おいの息子だの、と思った。」と述懐し、その深謝は父の土下座にまで及ぶのである。&lt;br /&gt;
滝田洋二郎は、父の感謝の言葉を聞く際の社長と大悟が並ぶショットを、二度、全く同じ構図で示している。&lt;br /&gt;
一度目はのケースで、喪主からの感謝は社長に対するものであり、社長は会釈を返し、釣られて大悟も会釈をする。&lt;br /&gt;
二度目はこのニューハーフのケースだが、答礼するのはもちろん納棺の儀を仕切った大悟であり、しかし、社長は答礼せず、じっと大悟の方に視線をおくる。&lt;br /&gt;
このショットは、大悟が自身のカノンとしていたで見られた社長の納棺の儀に対する遺族の謝辞と、ニューハーフのケースにおける大悟に対する遺族の謝辞を比較対照するために配置されている。&lt;br /&gt;
大悟の納棺は、にみられた社長と遺族との関係を超え、遺族に家族の和解までもたらした。さらに大悟は土下座するほどの深い感謝をささげられた。社長は、納棺師として自分を超えた大悟に驚いたが故に答礼を忘れ、大悟をまじまじと見つめ成長を確認するのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この後は、クリスマスにNKエージェントの事務所で社長、事務員の上村、大悟の三人でフライドチキンを食べるシーンへと続く。&lt;br /&gt;
このシーン、ホラー映画の文法に従って見ることもできるのだが、ここでは前述のコンテクストのままにみていこう。&lt;br /&gt;
このシーンは、単にクリスマスだから祝っているのではなく、もちろん、先の大悟の納棺の儀の大成功の祝賀と見立てることができる。かつて嘔吐を模様した「捌かれたばかりの鶏」が、フライドチキンとなって蘇る。その生々しい不気味さは、むさ苦しく残り身をまとわりつけた血合いの混じる骨を累々と積み重ねる様を描くショットで示されているが、大悟は一向に気にする様子なく、意地汚いまでに旺盛な食欲を見せている。腐乱死体経験を克服する過程として描かれる食の通過儀礼は、干し柿、河豚の白子を経て、フライドチキンで完了する。しかし、注目すべきは、食べている最中に発する大悟の「うまいですか」に対する社長の「困ったことに」という応答である。&lt;br /&gt;
「困ったことに」というユーモアのみに目を奪われてはならない。&lt;br /&gt;
先の社長との面会時に二人は河豚の白子を食べた。この時、「旨いから食ってみろ」と声をかけたのは社長で、「うまい」と答えたのは大悟だった。フライドチキンの場面では声をかける立場が社長から大悟へと逆転している。つまり、大悟は社長と対等になったという事実が表現されているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まだまだ、検討したい点は様々にある。。それほどに、各ショットは考え抜かれ計算されている作品なのだ。&lt;br /&gt;
それらをつぶさにみていこう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/alyinv/61234335.html</link>
			<pubDate>Mon, 19 Apr 2010 20:38:19 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>映画の観方(2)　「おくりびと」の仕掛け　その１</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-29-0e/alyinv/folder/1035775/49/61225749/img_0?1271475283&quot; width=&quot;500&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　　　/Photo :thanks to Ms.Tama /　blog name 庄内弁・庄内散歩　/　記事：遊佐町で観光してみた  &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「おくりびと」には、ストーリーにもその構造にも周到な設計が見られる。凝った作りである。&lt;br /&gt;
多数の記号が配置されて我々を解釈に誘う。&lt;br /&gt;
初見で、大体の見当はつく。考えはしない。記号の謎はするする解けてゆく。しかし、ストーリー展開に合致しない。おかしい。と感じる。&lt;br /&gt;
何かおかしい。そこで再見、再確認。&lt;br /&gt;
やられた。滝田洋二郎、恐るべし。&lt;br /&gt;
ここまで周到か。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
私がどう騙されたかをまず話そう。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
大悟は納棺師になってしばらく後、納棺師を辞めたいと思い、社長に相談する。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
彼が納棺師を辞めたいと思った理由は、一般にはどのように考えられているだろうか？&lt;br /&gt;
その部分を代表する第三者の意見として、Wikiで「おくりびと」を引いてみる。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
Wiki　「おくりびと」　ストーリーより抜粋&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
「少しずつ納棺師の仕事に充実感を見出し始めていた大悟であったが、噂で大悟の仕事を知った幼馴染の銭湯の息子の山下から「もっとましな仕事さ（=に）就けや」と白い目で見られ、仕事の内容を知った美香にも「そんな汚らわしい仕事は辞めて」と懇願される。大悟は態度を決めきれず、美香は実家に帰ってしまう。さらに、ある現場で不良学生を更生させようとした列席者が大悟を指差しつつ「この人みたいな仕事して一生償うのか?」と発言したのを聞いたことを機会に、ついに退職の意を社長に伝えようとするが、社長のこの仕事を始めたきっかけや独特の死生観を聞き思いとどまる。」&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
いかがだろうか？&lt;br /&gt;
要は、友人や妻の蔑視と反対、妻の帰京と別居、納棺の席での侮蔑、これらの要素が辞職を決意させた、ということのようだ。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし、実はよくよくみると、どうもそうではないのだ。&lt;br /&gt;
こうした理由で、大悟が辞職を決意したわけではないらしい。&lt;br /&gt;
辞職を思いとどまったことも。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
単なる「両義性」の罠なのか？&lt;br /&gt;
いや、唯々諾々と「常識」によって「行間を読む」観念論者の我々を嗤いたかったのか？&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
いずれにせよ、してやられたり。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
滝田洋二郎の仕掛けた罠を知るには、まず冒頭から見直す必要がある。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
雪と霧の中をゆっくりと進む車のヘッドライトが見えてくる。次に車内へとキャメラは移動し、大悟のナレーションが重なる。&lt;br /&gt;
「東京から帰って来てから二カ月、思えば、なんともおぼつかない毎日を生きてきた。」&lt;br /&gt;
これに続いて、自動車はある屋敷に停車する。待っていたのは自殺死体で、本木雅弘演じる主人公とNKエージェントの社長佐々木が納棺を行うシーンとなる。&lt;br /&gt;
この時、社長は大悟に、「（納棺の儀を一人で）やってみるか」と問う。&lt;br /&gt;
湯灌の途中、大悟は躊躇する。女性だと思いこんで体を清めていた大悟は死体の男性器に触れ遺体はニューハーフだと知る。彼は躊躇し儀式を中断、社長がその後を引き取って性器を確認、すると社長は近親者に男性の化粧、女性の化粧の何れを施すかを聞き、女性でいくとの返答をもらう。再び、後の儀式を主人公が引き継いだところでクレジットタイトルが入り、場面はオーケストラに飛ぶ。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
この冒頭の納棺の儀はここで中断し、その残りは後半に描かれている。&lt;br /&gt;
不思議なことに、後段は納棺の儀の途中からシーンが再開されるのではなく、再度、冒頭のナレーション、「東京から帰って来てから二カ月、思えば、なんともおぼつかない毎日を生きてきた。」が繰り返されることで始まる。しかし、それに続いて冒頭部にはなかったナレーションが続く。&lt;br /&gt;
「僕は、本当にこの仕事がやっていけるのであろうか？」と。&lt;br /&gt;
この台詞をそのまま感受することが重要だ。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
ではまず、結論から述べよう。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
大悟が納棺師を辞めようと決意した理由は、上のWikiに書かれたような理由ではない。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
真の理由は、&lt;br /&gt;
「納棺師として二カ月たったが、先日の納棺で「技量」を否定されてしまった。納棺師として未熟だ。チェリストとして失敗したように、やはり才能がないようだ。」と考えたからなのだ。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
逆に言うなら、納棺師として友人から忌み嫌われようが、女房にけがらわしいと罵られて逃げられようが、女子高校生の事故を引き起こした不良を改心させようとした近親者の「このひとのような仕事（納棺師）をして一生償うのか！」という強烈な蔑視の言葉も、大悟は意に介していないのである。そんなことはこの仕事を辞めようと決めた理由ではないのである。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
何故そういえるのかを実証するには、彼の納棺師としての経験を追ってみることが必要だ。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
そこで、大悟のNKエージェント入社後の経歴を時系列的にまとめた。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
           自身が死体モデルとなってのビデオに出演&lt;br /&gt;
           老婆の腐乱死体の納棺（社長に帯同）。&lt;br /&gt;
           女性の納棺（社長に帯同し、初めて社長の手による納棺の儀を見る）。&lt;br /&gt;
           ホテルの首つり現場への単独対応（これは事務員からの深夜の電話と、対処後の彼女との対話によってのみ示され、映像にはない。）&lt;br /&gt;
           バイクで事故死した女子高校生の納棺（大悟が一人で納棺する）&lt;br /&gt;
           冒頭と後半の二つに分けて編集された、練炭自殺のニューハーフの納棺（社長に帯同。納棺の儀は大悟が行う）&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
ではまず、，遼儀賄エピソードは後に検討することにして、△ら観ていこう。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
老婆の腐乱死体を見て業務の厳しさを感じていた大悟は、次の仕事で、亡くなった女性の納棺のため社長に帯同し、初めて見る社長の仕事に驚嘆する。納棺を待つ家には遅刻し、喪主である死亡女性の夫に「遅い！おまえら死体で食ってんだろ！」という蔑視と敵意を投げつけられる。ところが社長の手による納棺は「静謐で美しい時間」へと変容し、遂には、嫌みを言った喪主に、「先ほどはすみませんでした。今日の妻はこれまでで最も美しかった。有難うございました。」と深々と礼をさせ、訪問時の蔑視を敬意へと変えてしまう。遅刻と職業差別的罵倒で始まった関係を、謝罪と深謝に変えてしまう社長の姿に、大悟は納棺師への印象を改めたのか、それまで見せなかった笑顔で帰りの車に乗り込む。そして喪主から礼にもらった干し柿を車内で口にする。干し柿は、「長く放置することで外見がしなび果て、内部はぐちゃりとした」食べ物であって、この形容から分かる通り、「老婆の腐乱死体」のそれを連想させる。本木は嘔吐を催さず口にする。つまり腐乱死体の納棺後に死体を想起させる「捌かれた鶏」を口にすることができないという状況を一歩抜け出したことを示す表現である。以後、業務への「慣れ」は、「何を食べたか」によって示されることとなる。現段階では、「腐乱死体」と同様の形容が出来る「干し柿」で、腐乱死体との相違点は、植物か動物かである。&lt;br /&gt;
   &lt;br /&gt;
次の大悟の仕事い蓮⊆鵑弔蟷狢里稜軸修任△襦（もちろん大悟は他にも納棺を経験したとみなすことは出来ようが、映画であるからもちろん映画で紹介された事実のみを持って事実として観よう。）&lt;br /&gt;
深夜に電話で、NKエージェントの事務員上村（余貴美子）から依頼があり、社長は不在なので大悟一人で対処するよう依頼される。納棺を終え、事務所に戻った彼に事務員上村は「警察が感心していたわよ、若いのにって」と賛辞をおくる。&lt;br /&gt;
大悟の「力量」はこうして評価される。大悟のチェリストとしての評価とは逆である。この賞賛は大悟が自身の仕事に対する自信を深める言葉として機能する。さらに上村は、NKエージェントで働く理由を、彼女は「自分が勤めていた飲食店のママが社長によって納棺されるのを見て、私も社長にやってもらいたいと思った」と述懐する。この説明は、大悟が社長の仕事に魅了された際（での社長の納棺）に感じたものと同質であり、大悟の職業選択に自信を与える言葉である。&lt;br /&gt;
この後、状況は一変する。大悟は、帰宅途中、旧友の一家に出くわすが、旧友からは「もっとましな仕事につけ」という言葉と冷たい言葉を投げつけられる。帰宅後、妻から「今すぐ仕事を辞めて。今度だけは私の言うことを聞いて。と告げられる。しかし「いやだといったら？」と大悟は反駁する。実家に帰ろうとするのを止めようとすると、「けがらわしい！」とまで言われる羽目になる。&lt;br /&gt;
結果、妻が家を出ることになるが、どうしたわけか大悟は妻を追いかけようともしない。それは何故なのか？&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
それは、のエピソード、つまり喪主から「遅い！お前ら死体で食ってるんだろう！」という怒りと罵倒を、社長の一仕事が、謝罪と最大級の謝辞と深々としたお辞儀に変えてしまうのを見ているからである。&lt;br /&gt;
だから蔑視する友人にも妻に対しても、彼らの偏見を変えられると確信しているのだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、おくりびとという職業に対する周囲の偏見は、大悟に辞めようと決意させる理由ではないのである。&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
しかし、この見立てなら、次のシーンで駆け付けた、バイク事故で死んだ女子高生の近親者から投げつけられる侮蔑の言葉、その近親者の彼女を死に至らしめた不良高校生達を改心させようと、「納棺師のような忌まわしい仕事を一生して、死を償えるのか」といった決定的な蔑みの言葉にも耐えられるはずだが、にもかかわらず彼は辞職を決意する。それはなぜなのか？&lt;br /&gt;
 &lt;br /&gt;
それは、件のバイク事故の女子高生の席で行った、納棺の儀そのものの「失敗」である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
問題は、彼が女子高生に施した死装束や化粧を見た彼女の母親が、彼女の遺影を指さし、「違う、こんなんじゃない。髪も違う。全部違う。（遺影を指して）この娘はこうなの、やり直せ」と大悟の納棺師としての手腕を非難・否定したこと、そして、社長がかってみせたような、中傷を深謝に変えた力を発揮できず、逆に納棺の儀そのものを混乱に落としめたという、「納棺師としての技量の未熟さ」を思い知るからである。大悟が、チェロを辞めた理由を思い出そう。大悟が納棺師を辞める理由はチェロを捨てた理由と同じ、技量の未熟さが露呈し、やっていけないと感じたことにあるのだ。チェロでの経験を単に経緯・経歴として観てはいけない。「辞める」という相似性のゆえに、チェロのエピソードが配置されているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、退社の決意を伝えようと社長と向き合うが、最後にはとりあえず結論を保留する。では、辞意を保留した理由は何か？Wikiに書かれている通りなのか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それは次回説明しよう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/alyinv/61225749.html</link>
			<pubDate>Sat, 17 Apr 2010 12:34:43 +0900</pubDate>
			<category>映画レビュー</category>
		</item>
		<item>
			<title>たまには、話題を変えてみる　その１</title>
			<description>&lt;div&gt;○文学&lt;br&gt;
赤松啓介の「差別の民俗学」を再読。「非常民の性民俗」を含め、彼の著書は皆抜群に面白い。中上健次の著作から風俗・文化のみを読むならば赤松には遠く及ばない。中上が小説家でよかった。ただ、中上が谷崎潤一郎をして「物語の豚」と発言した際にはあきれた。中上は、「書ける」が「読めない」のだろうか？読書力が無くとも小説家になれるのだろうか？映画をよく知らなくとも北野武が突然優れた映画作家になったように。&lt;br&gt;
でも確かに、中上の書評は面白くない。ちなみに中上の小説には、性描写以外、描写にリアリスティックなものを感じない。それが才覚なのだけれど。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;○スポーツ&lt;br&gt;
キム・ヨナの採点とナショナリズム&lt;br&gt;
フィギュアのキム・ヨナ選手のスコアが高すぎることが問題となっているらしい。事の真偽は分からないが、キム・ヨナは、新採点方式を浅田選手陣営よりも深く研究しているようには感じられた。トリプルアクセル+ダブルよりもトリプルルッツ+トリプルトゥーループの方が配点が高いことはもちろん、加点要素、それから失敗の場合の減点規模などを総合的に研究した作戦勝ちに見える。演技構成を誰が考えたのかは知らないが、もしそれがコーチなら、そのコーチにジェネラルマネジャーとしての才覚があるということだろう。トリプルアクセルや４回転という大技を持たない選手が、大技の名手にどうすれば勝てるか？プロ野球でいえばボヤキの野村野球、つまり弱者の戦法での勝利とは言えまいか？しかし、先般の世界選手権、キムヨナには目に見える大きなミスが二つあったにもかかわらず、フリーの得点が浅田選手とあまり変わらないということについて、スケート連盟は再考しなければならないだろう。以前の採点方式なら、浅田の圧勝だろうからだ。フィギュアの採点疑惑によって生まれたはずの新採点方式が疑義を生むなら、改善すればよい。まあ、それも「力学」なのだということは、スキージャンプ、レスリング、スキー複合などのルール改正をみて分かってはいるのだが。&lt;br&gt;
ただ、「正義の論理」とは恐ろしい。&lt;br&gt;
「果敢に大技にチャレンジし、それを達成したものにこそ栄光がもたらされるべきだ。」という論理は一見「正義」に見える。逆に「失敗しても他を素晴らしく滑れば逆転可能なのだ」あるいは「大技が出来なくとも、他の要素を頑張ればハンディは乗り越えられるのだ」という論理もまた「正義」に聞こえはしないだろうか？&lt;br&gt;
ナショナリズムとは、「相反する複数の「正義の論理」から、自らに有利なものを選び取り、他を圧殺することだ。」と定義してみようか。どうだろう？&lt;br&gt;
しかし確かに、キム・ヨナのスケーティングは美しく滑らかなのにスピードがあって、荒川静香のスケートと並んで私は好きだ。真央ちゃんはルッツが逆エッジになってしまうのだし、表現力ではキム・ヨナに敵わない。が、完成されたキム・ヨナに対して伸びしろが非常に大きいと思っている。ちなみに、長洲未来の一連のスピンの連続の美しさには驚いた。すごい！&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;○政治&lt;br&gt;
レンホウ議員の「二番ではいけないんですか？」発言について。&lt;br&gt;
もちろん、二番でいけないわけじゃない。ただ、勉強不足・戦略性の欠如を露呈しているし、彼女の現場はディベートの現場ではないのだ。&lt;br&gt;
日本はヨーロッパ型の社会民主主義とアメリカ型の自由競争主義を比較検討せぬまま、後者を選択した。&lt;br&gt;
それも、「カイカク！」「郵政民営化、反対か賛成か！」という二つの掛け声によって。&lt;br&gt;
さて、間違いなく、ヨーロッパは大人でアメリカは子供だといってよい。日本が子供であるように。民主党がなすべきであったのは、あるいは社民党がなすべきだったのは、社会民主主義的理念の喧伝だ。つまり理念の相違を唄うことだ。&lt;br&gt;
「あなたの働く会社の生産性が２/３に落ち込んだとしよう。かつ政策で挽回が不可能な状況であると仮定しよう。自民党の政治は、こういうケースで人員を１/３削減し、２/３の従業員の給与水準を守る政治である。我々の目指す社会は、全従業員の給与を２/３にするが、雇用は維持するという政治だ。あなたがたは、どちらの政治を選ぶのか？」とでも問えば、選挙民は「政体」と「理念」を選択できたのだ。&lt;br&gt;
こうした「選択選挙」に勝利してはじめて、「二番で何がいけないんですか？」という発言が「政治性」と「理念」を伴うのである。そこを怠った結果、「自民とおんなじ」にも関わらず、「ばらまき」「左傾化」「景気対策無し」としか呼んでもらえない政体が誕生してしまった。&lt;br&gt;
なぜ、こうした理念が重要なのか？著名な「ヴィジョナリー・カンパニー」にあるエピソードがある。&lt;br&gt;
日本の電子機器メーカーであるソ○ーはかつて「世界初」を社是としていた。そして「世界初」の製品を生み続け、優良企業へと成長した。あるとき、「世界初」を企業理念から取り払い、「世界最高」だか、「世界最大」だかに変えた。それ以後、「世界初」の理念に魅力を感じ、同社を支えてきたエンジニアたちが次々と会社を去り、同社の付加価値は低下してしまった。というものである。かように「世界初」を目指すという企業理念は優秀なエンジニアにとって魅力的で重要だったのだ。&lt;br&gt;
レンホウさんに意見したい。「二番で何がいけないんですか？」という問いをヴィジョン不鮮明な政治家が発してはならない。と。言うなら民主党の「理念選択選挙」に勝利してからだと。&lt;br&gt;
政治家は政治学だけではなく思想と経営学に長けていなければ、マスコミにすら勝てはしない。&lt;br&gt;
ここで私の政治的信条を書くことについては保留するが、組合という組合は概ね全て嫌いだ。体制が厭なのではない。知と倫理と方法論が決定的に欠如しているにもかかわらず、耳学問と自意識と権利意識が支配的だからだ。教育にしても「百マス計算」レベルの知恵が大きく取り上げられざるを得ないといううすら寒い状況だ。徹底的に考え抜き実践し、遂には成功させるというプロセスを踏んでいるのは、実は日本の先進企業体組織であることを教育者も政治家も知り、そのプロセスをしっかりと学ぶべきだ。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;○思潮&lt;br&gt;
東浩紀が、フーコーをして「すべてを歴史に閉じ込めてしまった」と評した時には怒りを通り越してあきれてしまった。なぜならば、フーコー的知のアルケオロジーをこの日本に適用した労作すら全く生まれることがないまま、つまり真に歴史的な視座を欠いたまま現在・社会を語る二流思想人の「日本論」が便利にもてはやされている時代の発言だったからだ。&lt;br&gt;
畏敬の念を抱かせる労作、つまり膨大な資料空間に身をさらし、しかし収集資料のバイアスによる誤認という誹りを受けるかもしれないという覚悟を持って書かれた労作ともいうべき歴史書・思想書に９０年以降行私は行きあたらない。東が歴史を括弧にくくるのはかまわないが、フーコーをそう呼ぶべきではない。逆に東が自著の冒頭に付け加えるべきは、未だ「フーコー的知のアルケオロジーによって日本の歴史を踏査したことのない私が日本の現在のエピステーメーを書く不明を恥じながら」の一言ではないか。最近ようやく、松浦寿輝、苅部直らの仕事によって、明治の一部に光があたりつつあるのだが。誰か、日本のエピステーメーの歴史を書いてはくれないものか？それにしても相次いで出版されるそこいらあたりの大学教授たちの書く、思いつきのような日本の社会論には何も期待していない。文芸春秋を右に置き、彼らの著作を左においてつらつら考えても、やれやれというしかないのだから。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;○映画&lt;br&gt;
「恋するマドリ（監督：大九明子　主演：新垣結衣）」を初めて観て驚く。なんというキュートな映画だろう。&lt;br&gt;
商業面への配慮というか、大胆にもテレビ的なショットを多々配しつつも、映画的に素晴らしい構図が散りばめられ、編集も秀逸だ。設計の妙だ。やるじゃないか。やはり監督は女性かあ。ウーン。「おくりびと」よりもずっと映画的だ。「おくりびと」は残念ながら、映画的だと思えるショットが少ないのだよなあ。記号の配置も単純すぎて残念。&lt;br&gt;
もとい、恋するマドリの新垣結衣は、コード・ブルーよりも良い。ちなみに、コード・ブルーは比嘉愛未が良い。山下智久は悪くないが、彼は「アクション」が出来るという印象が薄い。ブザー・ビートでもバスケットのシーンで躍動していたという記憶がない。基本的には「たたずむ人」の系譜だ。しかし、「静」の魅力と「アクション」の魅力を同時にもつものが真の映画スターなのだけれど。さて次に「眠狂四郎」を主演できるのは誰だろう。ところで、テレビくらいは観ますよ。私も。&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&amp;nbsp;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;-了&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/alyinv/61166981.html</link>
			<pubDate>Fri, 02 Apr 2010 01:12:40 +0900</pubDate>
			<category>倫理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>[転載]エノケン　その７　春琴抄　検閲? 方便？</title>
			<description>E.お琴がどんな衣装を着ているかという記述が全くないということですか？&lt;br /&gt;
A.厳密にはあるんですが、金襴緞子か地味なのかという二項対立的な判断はできない記述なんですね。&lt;br /&gt;
お琴は贅沢なんで、髪飾りと衣装の色の配合に気を配ったとか、肌着は毎日洗ったものを着ていたとかですね。つまり、地味か派手かという位相からは判断できないんですね。衣装の色彩、模様、テキスタイルを示す描写はないんですね。&lt;br /&gt;
E.なぜ、衣装は地味だと思ったんですかね？淀川さんは？&lt;br /&gt;
A.わからない。一つはまず、細部をおろそかにして読んでいるということね。しかし、読者の自由なイメージで読んでいい部分でもあるんですね。あの人は本当に多くの映画を見ているので、彼がプロデューサーならば、衣装には文句をつけたということ。つまり、映画史的に、衣装は地味でなければならないということ。それは映画の側の文法なんですね。で、気付くべきは、やはりきちんと読もうよということなんですね。&lt;br /&gt;
E.なるほど。&lt;br /&gt;
A.先ほどの春琴抄の話をもう少し続けると、あの作品の話者の語りの部分にはある一貫性があるんです。&lt;br /&gt;
E.どんなですか。&lt;br /&gt;
A.つまり、話者の推量の中で面白いのは、サディスティック・マゾヒスティックな関係にあると読んでしまう佐助とお琴のエピソードに対して、そうではなくて違う心理が働いている、あるいは、変態的に見えるだろうけれどそうではなくてこうではなかろうかという、彼ら二人の性癖や関係の特殊性を、そうではなく、一般的な心理から理解可能だ、あるいは当時としてはノーマルな関係、あるいは美談としてエピソードの印象を転倒させようとしているんですね。つまり二人の関係はサド・マゾではないんだという弁明のようなものね。あるいはまた、話者自体のサド・マゾ論とも読めてしまうような書き方なんですね。で、最後に読者諸賢は肯首さるるやいなやと〆る。&lt;br /&gt;
E.えーと、その弁明みたいなものの例は？&lt;br /&gt;
A.佐助はお琴にいじめられるんだけれど、それでもお琴の世話を嫌がらず献身的に続ける。それは特殊な性的な関係に見えるけれども、語りではそうではなくて、それはお店の娘と奉公人という主従関係、あるいは三味線の師匠と弟子と言う主従関係を通して、佐助は主人への忠義を尽くす立派な奴なんだということではなかろうか、という書き方をするんです。それが全編続く。&lt;br /&gt;
E.へーーー。そうでしたか。あーそれはそうか、読んでみなきゃあ。もう一度。&lt;br /&gt;
A.つまり、佐助とお琴の間に起こったエピソードだけを散りばめれば、サドマゾっていう風に当然読者が解釈＝物語化してしまうけれども、簡単にいえば、厳しくすることで弟子を育て上げる師匠としてのお琴と、主人であるお琴に対する忠義を全うする佐助という構図の別の物語へと変換しているんですね。つまり語り手の推量という形式は、一般的な解釈＝物語に抗う物語をぶつけてるんです。いわゆる主君への忠義の話だと思うんだけれど、肯首されるや否や（笑）。つまり、忠臣蔵なんですね、語り手にとってのお琴佐吉は。吉良は特定できないんですけれど、忠君と殉死の話の形式なんです。そうするとね、谷崎が後年歴史小説を書き始めたという理由を、まあしたくはないけど理屈付けすると？&lt;br /&gt;
E.歴史小説の題材を、小説に利用したかっただけで・・・・つまり歴史小説を書きたいわけではないということ？&lt;br /&gt;
A.おーーーー、冴えてるじゃん。&lt;br /&gt;
E.えええええ。&lt;br /&gt;
A.そんな理屈付けには意味がないんですけどね。これこそ推量になってしまうんで。僕自身の批評のスタイルとしては、そんな要素を括弧に括って、批評はしたい。でもね、まともな深読み、証拠をそろえた深読みっていうのは、この小説をもう一度読んでもらうための、宣伝になるんじゃないか、それと、もうちょっと小説をちゃんと読もうと言えるんじゃあないかと思って今、話してるわけです。柄谷的な転倒だと非難されるかも知れないけれど（笑）。&lt;br /&gt;
E.いやあああああ。これからちょっと読んでみます。いやあああ。小説って、面白いんですねえ。&lt;br /&gt;
A.当たり前じゃないか（笑）。&lt;br /&gt;
E.谷崎って、他の小説もそういう面白さがあるんですよね？&lt;br /&gt;
A.もちろん、そうした意味では、もっとも理解に苦しむのが「細雪」なんだよなあ。小説的な工夫について未だによくわからないんだよねえ。あの作品は。&lt;br /&gt;
E.そうなんですか？えーとじゃあ、他には例えば？彼の作品でいうと？&lt;br /&gt;
A.えー、そうだなあ、例えば、「刺青」という作品は読んだ？&lt;br /&gt;
E.はい。短いし。すぐ読めたんですけれど（笑）。&lt;br /&gt;
A.娘に蜘蛛の刺青を彫るよね？&lt;br /&gt;
E.はい。蜘蛛ですね。&lt;br /&gt;
A.刺青は背中に彫るよね？&lt;br /&gt;
E.はい。蜘蛛。蜘蛛に抱きしめられているから苦しいだろうとかって、書いた部分がありませんでしたっけ。&lt;br /&gt;
A.ある。でもね、先ほどの春琴抄のお琴の衣装の話じゃないですけれど、お琴の衣装は贅沢ではあるけれど具体的な柄や記事については書いていないと言いましたよね？&lt;br /&gt;
E.はいはい。読者の想像でうめちゃってもいい部分ですね？&lt;br /&gt;
A.刺青は、彼女が刺青を彫られてゆく際の様子を書くのに、蜘蛛が描かれる背中の詳述はしないんですよ。&lt;br /&gt;
E.エーそうでしたっけ？でも、風呂に入って仕上げをして、肌が赤く染まったようなというかそういうのって書いてませんでしたっけ？&lt;br /&gt;
A.痛いと言って風呂から出て来て倒れ込んで？うん、でもね、風呂から出て倒れ込んだところの記述で娘が肌着を着けていたのか裸なのかという判断ができる記述はありませんよ。&lt;br /&gt;
E.え？そうでしたっけ？あれ？あれ？&lt;br /&gt;
A.違うのね。湯上りの肌だの、背中の肌理だの、エロティックな色彩や形状を現す記述は全くないんだよね。ところがね、一つだけあるのは、足。白い足なんだ。白いという最低限の形容だけれどもね。肝心の背中の刺青については、最後に彫り師にもろ肌脱いで見せるんだけれど、燦然と輝くという記述だけでね、もう完全に抽象化しちゃってるんだよね。&lt;br /&gt;
E.それは、あの時代、検閲があるからそういう風に書かざるを得なかったっていう背景があるんじゃないんですか？&lt;br /&gt;
A.だとすると、足だけ「白い」と複数回にわたってわざわざ書くのは、背中の肌の描写を描くことによるエロティックなイメージを補完するために、「法的には」エロスの対象だとは言い難い足の描写をしたということ？&lt;br /&gt;
E.違うんですかね？足は、着物を着てても見える部分ですよね？だからOKだったとか？&lt;br /&gt;
A.そう、ある意味、冴えてるじゃない。今日のエノケン（笑）。そうするとね、この作品にあらわれる「足への拘泥」は、検閲対策の記述っていうか、つまり、検閲対象の背中や風呂上がりの肌を書けないから、代用として白い足と記述したという解釈なのね？それはそれで理屈は通るけど。どう？&lt;br /&gt;
E.ちょっと、短いから、読んでみていいですか？&lt;br /&gt;
A.どうぞ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10分で読み終えまして、その続きです&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
E.えーと、確かに白い足だけで、背中や入れ墨については何も具体的なことは書かれてませんね。勝手にイメージしちゃってました。書かれているもんだと。でもね、白い足ってこの娘のを記憶するのに役立っていて、同時にエロチックなムードを・・・。だからまあ、女性の背中に入れ墨を入れる描写を避けて、白い足でエロティックさを、何というか、作品全体に醸し出していると読むのは間違いですか？&lt;br /&gt;
A.いや、間違いかどうかは分からない。ただね、谷崎って、一般の文学ファンは足フェチだと思ってるんじゃあない？&lt;br /&gt;
E.ああ、僕も、痴人の愛を読んだりもしましたんで、後、春琴抄でも、佐助が歯が痛くてほっぺが腫れて熱を持ったんで、お琴の足を温めるのに、お琴の足をほっぺにくっつけるという部分もありましたしね。&lt;br /&gt;
A.うんうん、で、そのお琴の足を佐助が自分のほっぺにくっつけたのは、ほっぺを冷やしたかったから？それとも足フェチだからほっぺが腫れているのを冷やすという口実で足に頬ずりしたかったの？どっち？&lt;br /&gt;
E.あ、あ、あ、そういうことか。あーーーー。&lt;br /&gt;
A.ね。そのどっち？に当たる部分を春琴抄は徹底して書いてるんですね。SM的な関係というのは、徒弟制度のある時代を時代背景にして書くと美談して正当化できる。そういうアリバイ工作ができるわけね。それはアリバイではなく真実なんだと言い募ることができる。たとえ、SMを書きたかったとしてもだよ（笑）。だから、「刺青」で、「白い足」と何度も書くことが、検閲対策なのか足フェチなのか決定不可能だよね？&lt;br /&gt;
E.はいはいはいはい。&lt;br /&gt;
A.で、世間の谷崎のイメージというのは？&lt;br /&gt;
E．足フェチだという（笑）ことになっているんじゃあないですか？&lt;br /&gt;
A.ということは、二つの作品に限って言えば両義性があるんだけれど、世間は「谷崎はフェチ」のほうを選んでそのイメージを流通させていると？&lt;br /&gt;
E.ディベートみたいですけどね。でも、もう一つの理由はあると。春琴抄では、もう一つの理由のほうを語り手の想像、というか推量で書いているのに、そこは読まれてないと。&lt;br /&gt;
A.こういうのを上手な仕掛けっていうんですよ。&lt;br /&gt;
E.なあるほどお。&lt;br /&gt;
A.谷崎って面白いでしょ？&lt;br /&gt;
E.いやあ、そうですね。え、じゃあ、痴人の愛はどうなんでしょう？&lt;br /&gt;
A.もう一回読んで、自分なりに考えろよ（笑）。&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;https://rdsig.yahoo.co.jp/rss/l/blog/myblog/rss2/scrap_item/RV=1/RU=aHR0cHM6Ly9ibG9ncy55YWhvby5jby5qcC9lbm9rZW41NTUvNjI5NjgzNjAuaHRtbA--&quot;&gt;転載元: エノケンが行く！&lt;/a&gt;&lt;/p&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/alyinv/60934475.html</link>
			<pubDate>Tue, 02 Feb 2010 18:10:03 +0900</pubDate>
			<category>小説</category>
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