甘木聖書バプテスト教会からのお知らせ

福岡県朝倉市にあるバプテスト教会です。牧師のショートメッセージをお届けしています。神様の祝福があなた様の上に豊にありますように。
来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。(詩篇95篇6節)
 私たち夫婦は健康のためにスロージョッギングをしてきましたが、さすがに今夏の猛暑では出かける気になりませんでした。しかし、涼しくなったので、久しぶりに公園へ行ってみると、驚くなかれ、桜が数輪咲いていました。きっと、一年前の災害で全国から応援をいただいたので、いま被災しておられる皆さんを励ます朝倉市民の気持ちが咲かせたのでしょう。各地で被災しておられる皆さんの日々が守られ、一日も早く、普段の生活を回復されますよう、お祈り申し上げます。
 アメリカの大統領中間選挙が近づき、選挙を妨害するハッカーの攻撃が深刻であると報じられています。それを防ぐために、多額を投じて、選挙システムを一新する州もあるそうです。災害対策に奔走する日本でも、ミサイルを迎撃するシステムが配備されるそうです。これらはみな、人災対策であり、多額の費用を要します。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6-23)とありますが、人間の心に巣くう罪は、人を傷つけ、社会を分断し、世界を破滅へと誘い続けています。
 ヨハネはイエス様を指して、「「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1-29)と叫びました。この言葉に、昔も今も変わらない、究極の問題解決が示されています。人間の心から罪を取り除いてくださる救い主がイエス・キリスト様であることを明らかにしているからです。
 2001年9月11日のテロから17年が過ぎました。その後、アフガン、イラク、リビアへとテロリスト征伐の戦争が拡大していきました。数知れないほどの犠牲者を生み続けてきましたが、世界は平和へ向っているでしょうか。私たちは今日、主の晩餐に与り、イエス様の十字架を感謝し、罪の赦し(エペソ1-7)を確認することができます。
 「来たれ。」と神は私たちを主イエス様への礼拝へと招いておられます。神を喜び讃えることは、私たちの力の源泉です。罪と災害の世にあって、イエス様から豊かな「いのち」をいただき、道に迷う人たちに救いの道を証してまいりましょう。

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神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。(詩篇57篇1節)
 台風21号は関西空港の閉鎖をはじめ、各地に甚大な被害をもたらしました。その直後、今度は北海道に大地震があり、全道が停電する事態に陥っています。神のあわれみと助けにより、被災地の都市機能が復旧し、人々の安全が確保されますようお祈り申し上げます。こうした災害を通し、イエス様が語られた、「この天地は滅びます。」(ルカ21-33)という警告を真剣に受け止め、キリストの「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)に至る人たちが起こされるよう祈りましょう。
 先週、私たちは合唱団の皆さんが催された故I姉の「思い出の会」に集い、心安らぐひとときを過ごさせていただきました。また、わたしたちにも聖書朗読、讃美、祈り、メッセージの機会が与えられ、キリストの救いについて証しすることができました。「信仰は聞くことから始まり、」(ローマ10-17)とあります。聴かれた皆さんのたましいの救いのため、お祈りさせていただきましょう。
 さて、私たちは先の礼拝において、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムについて学びました。彼が神の示す地へ出発したのは75歳のときでした。住み慣れた地を離れて、新天地を目ざすには歳をとり過ぎていました。しかし、彼は、それが「神のみこころ」と信じ、従いました。実にシンプルな信仰でした。打算も駆け引きもなく、ただ神の御言葉を聴き、素直に従ったのです。
 同じように出発したという点では、モーセに率いられた出エジプトのイスラエルの民も同様でした。しかし、両者には大きな違いがあります。アブラハムは、「望みえないときに望みを抱いて信じ」(ローマ4-18)とその信仰が称賛されていますが、イスラエルの民はモーセに逆らい、繰り返し不平をつぶやき、その結果、約束の地へ入ることができませんでした。
 このように、信仰をもって進むことと、神のみこころに逆らうこととには大きな違いが生じます。私たちはこの地で、イエス様の教会を立て上げるために召されました。そして今、その働きにたずさわっています。この地に灯された希望の光を輝かせ、不安の時代に生きる人々に、揺るがない人生の土台、イエス・キリストの救いを証してまいりましょう。

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神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6章2節)
 先主日にはH姉が久しぶりに来会され、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」Ⅱテモテ4-2)という教えを日々、実践しておられる様子を証してくれました。K姉、V姉も共に礼拝をお捧げすることができました。秋に入り、ますます励まし合って、主の日の礼拝を尊んでまいりましょう。
 今日午後、私たちは故I姉の「思い出の会」に出席し、I姉を支えて来られた「キリスト信仰の希望」を証させていただきます。I姉は、「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされること」(ピリピ1-20)を願っておられたキリスト者です。合唱団の皆さんやご友人たちが、「まことの神」(ヨハネ17-3)を知る機会となるよう祈りましょう。
 パウロによって書かれたローマ書には、キリスト信仰の勝利が高らかに宣言されています。妬みからイエス様を十字架に架けたユダヤ教指導者たち、使徒たちを迫害したローマ皇帝ネロ、それらの苦難に遭いながらも、クリスチャンたちが「圧倒的な勝利者」(ローマ8-37)であったとは、驚くべきことです。
 今の時代、私たちを「キリストの愛から引き離す」(35)誘惑は何出しょうか。地域の行事、部活動、レジャーなどが挙げられるでしょう。事実、このような活動に加わって、主日の礼拝を捧げることは容易なことではありません。協会も、そうした人たちに、別の礼拝の機会を提供する責任があるでしょう。
 今年も大きな震災もありましたし、豪雨、熱波と苦難のときが続いています。このような自然の猛威に怖れるとき、イエス様が語られた、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4-17)という御言葉を心に留めましょう。イエス様の十字架のもとに、すべての人のたましいの安息があるのです。

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あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。(ルカ伝15章7節)
 次礼拝の後、Mホールにおいて、故I姉の「思い出の会」が開かれます。教会からも8名が参加し、聖書朗読、メッセージ、祝祷などを担当します。主催の合唱団の皆さんと共に、在りし日のI姉を思うとともに、姉を支えたキリスト信仰を証させていただきます。集われる方々の中から、イエス様の救いを求める方が起こされるよう祈りましょう。
 さて、今、「時の人」となっている1人が、山に迷い込んだ弐歳児を救助した78歳のボランティアさんです。行方不明のニュースを聞いて、いたたまれず、大分から駆けつけたとのことです。このニュースから思い起こされたのが、イエス様が語られた、いなくなった一匹の羊を捜し歩いて見い出した羊飼いの例えです。そこには、「見つけたら、大喜びでその羊をかついで、」(ルカ15-5)とありますが、ボランティアさんの気持ちもそのとおりだったにちがいありません。
 私自身、この例えからのメッセージを聴いて、自分が迷い子であることに気づき、私を救うために来てくださったイエス様を信じ、不安の中から救われました。今でも、自分の道を失って、助けを求めている多くの人がいます。イエス様は、「いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」(15-4)と、私たちが為すべき務めを示しておられます。
 見い出された童子は家族のもとへ帰りました。健やかに育っていくことでしょう。イエス様に救われた人は教
会へ加えられます。教会は「キリストのからだであり、」(エペソ1-23)イエス様の愛が満ちているところだと言われています。これもまた責任のあることです。イエス様を信じた人は、教会で奉仕することを通して、「神の子ども」(ピリピ2-15)として成長していくのです。
 イエス様は「種蒔きの例え」において、良い地に落ちた種が、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。」(マタイ13-8)と教えています。教会がいつも、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、」(ガラテヤ5-22 )などの、聖霊の実を豊かに実らす場であるよう祈り、努めてまいりましょう。

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赦されている幸い!

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5章17節)
 K教会主催の夏季キャンプに5名で参加させて頂きました。講師のS先生ご夫妻の美しいデュエットの讃美が心に残っています。第一集会では「祈りの交わり」、第二集会では「喜びの信仰生活」が語られました。歌もテーマに合わせて、「この日を喜ぼう」という讃美が歌われました。甘木でも覚えて歌いたいと思います。
 朝、同室の皆さんで「祈りの交わり」ができたことも良き思い出として残っています。また、各教会の讃美も、それぞれに味わい深いコーラスでした。甘木が歌った「恐れることはない」の讃美も皆さんの霊勢を高めるものだったと聞き、感謝しました。これからも讃美を通し、主イエス様の救いのすばらしさを証してまいりましょう。
 クリスチャンの喜びの理由は何でしょうか。パウロはそれを、「罪の赦しを受けている(エペソ1-7)からだと教えています。私たちは振り返ってみれば、多くの失敗、挫折の経験を、容易に思い起こすことができます。その中には、いまさら詫びることもできないようなことも多くあります。いつも、そうした失敗の記憶にさいなまれ続けるとしたら、どうでしょうか。喜びどころか、鬱々として生きなければならないでしょう。
 しかし、イエス様は私たちが受けなければならない罪の罰を身代わりに受け、私たちを罪の呪縛から解放してくださいました。もはや私たちを訴える者はありません。私たちの信仰に基づいて、罪の赦しが宣言されているからです。
 神は主イエス様を信じる全ての人に、「あなたの罪は赦されました。」(マルコ2-5)と罪の赦しを宣言してくださいます。神による罪の赦しこそ、キリスト者の喜びそのものです。ますます、神の子どもとされている者として、感謝の歩みを続けてまいりましょう。

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あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。(ヨハネ伝15章7節)
 先日、健康福祉館で「真夏の歌プレゼント」をさせていただきました。猛暑の中でしたので、避暑に来ておられた方々もあったのでしょう、多くの皆さんが加わってくださいました。災害の多い時代に、温泉に入り、冷房の効いた広間で音楽を楽しめることは感謝に堪えないことではないでしょうか。十月もまた、幸いなひとときをプレゼントさせていただきましょう。
 私たちはこの季節、73年前、広島、長崎に投下された原爆の悲劇を思い起こします。豪雨や台風は抗しがたい自然災害ですが、「殺してはならない。」(出20-13)と戒められた人間が、互いに殺戮を繰り返していることは、明らかな神への反逆です。それどころか、「あなたがたは互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13-34)と命じられていることを思い起こすべきです。
 アメリカと北朝鮮との間に紛争が勃発しかねない状況が続いていましたが、急転直下、融和へ向い始めました。ところが今度はアメリカとイランの関係が厳しくなってきています。このような状況の中にあって、私たちは「キリストによる平和」の証人として、堅く立つときです。
 こういうと、ずいぶん難しいことのように聞こえるかもしれませんが、まずは主の日の礼拝を尊び、主イエス様を讃美し、イエス様の御名によって祈ることです。この祈りは必ず聴かれます。なぜなら、私たちは主イエス様を信じることにより、「神との平和」(ローマ5-1)を持っているからです。
 自然災害の猛威や、人間間の争いの根深さを見るとき、無力さに打ちのめされますが、イエス様は、「あなたがたは、地の塩です。」(マタイ5-13)と弟子たちに告げられたではありませんか。キリストの御名による祈りには、世の腐れを防ぐ力があります。大いにこの特権を用いて、神と人にお仕えしてまいりましょう。

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善を行なうのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。(ガラテヤ書6章9節)
 視覚障害者クリスチャンの全国修養会が福岡で開かれ、参加してきました。アフガニスタンの枯れ地を農地へよみがえらせる働きをしておられるN先生を講師にお迎えし、争い多き地における国際支援についてお話を聞かせていただきました。災害多き時代に、助けを必要としている人々に、どう関わっていくべきかを問われるひとときでした。
 私の担当は夜の「讃美の時間」のリードでしたが、暑い中、全国から集まられた皆さんに「来てよかった!」と思っていただけるよう、いつものようにマラカスを振りながら、思いっきり盛り上がっていただきました。I兄をはじめ、半年間にわたって準備してこられた皆さんの労報われる集いでした。
 また、いくつかの合唱団を主催しておられるM先生が来会され、9月2日の午後、故I姉の「思い出コンサート」を計画中とのことで、教会にも協力依頼がありました。生前、良き関わりのあった方々に集っていただき、姉の生き方の根底にあった聖書の教え、キリスト信仰について知っていただく良き機会です。祈りつつ準備してまいりましょう。
 冒頭に掲げた「善を行なうのに飽いてはいけません。」という御言葉が心に響きます。主イエス様の救いを感謝し、聖名を讃えて礼拝をお捧げすることは明らかな善です。「永遠のいのち」と「主への礼拝」は不可分ですから、聖霊を宿している者は、喜んで主を礼拝します。そのことによって、たましいは神の恵みに満たされるのです。
 ネヘミヤが民に語った「あなたがたの力を主が喜ばれる」(8-10)という言葉は、「主を喜ぶことは、あなたがたの力です。」と訳した方が意味が伝わります。神御自身を喜ぶことが礼拝であり、私たちの力の源です。大いに神を喜ぶ礼拝を捧げてまいりましょう。

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子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。(第一ヨハネ3章18節)
 故I姉の記念会にはお子様がた御家族、御友人がたが集われ、キリスト信仰の希望について聴かれました。これを機に、皆さんがまた来会できますよう祈りましょう。その中のお一人、杷木のTさんが昨年の豪雨災害後に受けた、九州キリスト災害センターの援助について、深い感謝を述べられました。九キ災の尊い御奉仕があったればこそ、私たちに今なお、杷木の皆さんとの良き交流が与えられていることを感謝します。
 昨年の九州北部豪雨に次ぎ、今年は更に西日本の広い範囲に河川の氾濫、土砂崩れが起こり、甚大な被害となっています。更に、その復旧活動を妨げる記録的な猛暑も続いています。こうした状況の中で、「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」(マタイ24-35)と語られたイエス様の預言が、説得力をもって響いてきます。
 私たちが子どもの頃、30度Cを越える日はめったにありませんでした。それが今は40度Cを越える日まであります。豪雨災害も年ごとに激しさを増しています。さまざまな有効な対策が叫ばれ続けています。いずれにも耳を傾け、備えを為すべきでしょう。しかし、「これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。」(ルカ21-31)というイエス様のメッセージには、何にも増して耳を傾けるべきです。
 イエス様は世の終わりについて警告されましたが、どのように備えるべきかについては、「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(ヨハネ14-1)と告げておられます。あわてることを諌め、救い主イエス様を信じ、「真の礼拝者」(ヨハネ4-23)として歩むべきことを教えておられるのです。
 港北NBCのK牧師より8月8日〜12日に、被災地岡山へ救援チームを派遣される旨の協力依頼がありました。九キ災も広島、愛媛へ救助隊を派遣しておられるそうです。杷木で為されたような「キリストの愛」に根差した奉仕が捧げられることでしょう。私たちも祈りと捧げ物をもって、これらの良き働きに協力させていただきましょう。

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私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。(ピリピ書3章20節)
 先日、北部九州豪雨から一年ということで、被災地の区長さんやボランティアの皆さんから、災害発声時の体験と、その後の復旧活動についての報告を聞かせていただきました。特に印象深かったのは、既に指定の避難所に移動するのが困難と判断した比良松の区長さんが、地元の公民館で自主避難所を運営されたこと、また、ボランティアによって道に出された山積みの廃棄物を、別の団体ボランティアを指揮して、処理場へ運んでもらったことなど、今進行している各地災害でも活用できる、貴重な体験報告でした。
 豪雨の後、猛暑が復旧活動を妨げていますが、聖書は、「神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10-13)と約束しておられます。私たちは被災された皆様への「深い同情心」(コロサイ3-12)を持ち、早くもとの生活が回復されますよう祈り続けましょう。
 今日は去る5月29日、主のみもとへ召された故I姉の御遺骨と共に 最後の礼拝をお捧げし、墓地へ納骨させていただきます。姉のたましいは既に主イエス様の身傍に安らいでおられますが、どれほど教会と共に礼拝を捧げることを切望しておられたことでしょうか。甘木に賛美歌を歌い、聖書のメッセージを聴くことのできる教会を求めた姉の祈りに主は応えられ、甘木聖書バプテスト教会は当地で宣教を開始しました。姉の願いは良い地に落ちた「一粒の麦」(ヨハネ12-24)となり、今も実りを生み出し続けているのです。
 この地に協会が立てられていることは朝倉市民にとって祝福です。他所へ行かなくても、当地でイエス様の「永遠のいのち」の福音を聴くことができますし、賛美歌をはじめ、人々の心を慰める音楽も楽しんでいただいています。そして何よりも、生ける真の神に、この町の祝福を祈り続ける協会があることは、なんと幸いなことでしょうか。
 豪雨災害を経験する中で、市民の皆さんの多くが、これまで以上に、神への畏敬の思いと祈り心を持つようになっておられることでしょう。災い転じて福となす、イエス様を信じ、真の神に祈りを捧げる人たちが起こされていくよう、キリストの十字架と復活の証人としての働きを続けてまいりましょう。

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救われるために

もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。(ガラテヤ書5章25節)
 今回の豪雨では、心配していた昨年の被災地は守られましたが、西日本各地に甚大な災害が今なお進行中です。被災された地方の皆様に心よりお見舞い申し上げます。今回の災害は当地にも起こり得ました。どこにも起こり得るのです。被災者の皆さんに寄り添って、まずは「絶えず祈りなさい。」(Ⅰテサロニケ5-17)と勧められているように、全能の神のあわれみと助けを求め、祷援を続けましょう。
 原爆が落とされ、無条件降伏し、その焦土の中から復興してきた日本です。それから比べるならば、被災地の周辺には援助可能な健全な自治体が多く残されており、救援の手を惜しまない大勢の市民がいます。私たちも昨年の経験から、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4-13)と告白し、何を為すべきか考えてみましょう。
 また、タイの洞窟に閉じ込められていた少年たちについても神の御加護を祈らされていましたが、無事救出されたとのこと、感謝しました。潜水経験のない少年たちを、5KMもの困難な道のり、抱えるようにして助け出すことは、どんなに多難な任務であったことでしょう。罪に捕らわれた魂を、キリストの「永遠のいのち」に導く務めにおいても、あのダイバーたちのような使命感と勇気を持たねばと思わされました。
 では、水害の中から、あるいは洞窟の奥から救出された人たちは、なぜ助かったのでしょうか。それは、その人たちが身に迫っている危険を察知し、SOSを発して救いを求めたからです。そして、来てくれた救助隊を信じ、その指示に従ったからです。イエス様も、「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。」(黙示3-20)と語られ、いつも、あなたの心に招き入れられるのを待っておられます。
 あのダイバーたちが衰弱した少年たちを支えて進んだように、聖霊は私たちを守り導いてくださいます。イエス様が、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15-5)と語られたように、私たちは迷い易いものです。主イエス様の導きに従い、この困難の世を進んでまいりましょう。

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