甘木聖書バプテスト教会からのお知らせ

福岡県朝倉市にあるバプテスト教会です。牧師のショートメッセージをお届けしています。神様の祝福があなた様の上に豊にありますように。
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。(エペソ書5章8節)
 あさくら音楽祭では、2名の新メンバーも加わって、ジョイフルクワイヤが三曲の賛美コーラスを歌いました。帰り際に全体合唱の指揮をされた先生が、「良く響いていましたよ。」と誉めてくれました。「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55-11)とあるように、聴かれた皆さんの心に、何かの気づきが残ることを期待します。
 もう少し音楽による証しの幅を拡げようと思い、ミュージックベルを注文しました。考えるときは過ぎ、いざ挑戦!手元にあれば、いつかできるようになるものです。皆さんで一音一音に緊張しながら、美しいベルの賛美を奏でてみましょう。詩篇にも、「タンバリンを打ち鳴らせ。六弦の琴に合わせて、良い音の立琴をかき鳴らせ。」(81-2)とあるように、礼拝にふさわしい音楽の捧げ物は、主イエス様に栄光を帰す奉仕です。
 主は私たちに、「あなたがたは、世界の光です。」(マタイ5-14)と語っておられます。冒頭のみことばにあるように、「以前は暗やみ」の中をさまよっていた者でしたが、イエス様の十字架の救いにより、「いのちの光」(ヨハネ8-12)を宿す者とされました。私たちが発光体となったというのでなく、イエス様の御霊が私たちのうちにあって輝いていてくださるのです。
 次はクリスマスです。最善の準備をもって、救い主の御降誕をお祝いしましょう。既に美奈宜の杜、卑弥呼の湯での「クリスマスコンサート」、教会のクリスマスなどが予定されています。28日の礼拝からアドベントに入りますので、クリスマスのキャロルを歌い始めます。ベルによる「きよしこの夜」の賛美にも挑戦してみましょう。
 フェイスブックに「あさくら音楽祭」で賛美しているジョイフルクワイヤの写真をアップしたところ、たくさんの皆さんが共感してくれました。ホームページには録音した賛美をアップしましたので、聴いてくださった方も多いことでしょう。主がそれらを用いて、悩みの中にある人、救いを求めておられる方を教会へ導いてくださるよう祈りましょう。私たちがイエス様に用いていただけるとは、なんと光栄なことでしょうか。

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父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。(ヨハネ伝6章37節)
 今日は礼拝後、ジョイフルクワイヤが「あさくら音楽祭」に出演して、三曲の賛美コーラスをします。二人の姉妹たちは初参加ですから、緊張しているのではないでしょうか。既に十数年、この音楽祭に出演することにより、地域の皆さんに教会を知っていただき、賛美歌のすばらしさを証してくることができました。「多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。」(詩篇40-3)とあるように、聴かれる皆さんの心に何かの「気づき」が残ることを期待します。
 先週、私たちは「干からびた骨よ。主のことばを聞け。」(エゼキエル37-4)という預言について学びました。神の御言葉を聴くのは生きている人ですから、この語りかけを不思議に感じます。しかし、御歳をめされた人たちに「歌とトークのプレゼント」をするとき、反応の乏しい人が、ある質問に答えたり、ある歌になると歌いだしたりするのを見て、「見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。」(5)という御言葉の片鱗を感じることがあります。
 人に運ばれ、物乞いをするしかなかった男に向ってペテロが、「イエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3-6)と命じられると、彼は立ち上がって、「歩いたり、はねたりしながら、神を賛美」(8)しました。これもまた「干からびた骨」に「いのちの息」が吹き込まれた実例です。
 私たちが愛唱する賛美の歌の中にも、イエス様の福音によって生かされたクリスチャンたちの感謝の証しが多く歌われています。また、私たち自身もかつては、「「干からびた骨」のような者たちでしたが、イエス様を信じ、たましいの生まれ変わりをいただきました。
 最近の調査によれば、小中学生の不登校が十三万人を越え、増え続けているとのことです。そうした引き籠り現象は全世代に見られる減少かもしれません。本人はもとより、ご家族の心労もいかばかりでしょう。こうした弱ったたましいが、イエス様の「永遠のいのちのことば」(ヨハネ6-68)を聴くことができたなら、どんなに幸いなことでしょうか。
 紛争によって生じた難民を寛容の精神で受け入れ続けたドイツのメルケル首相は支持を失い、差別や迫害を逃れてアメリカを目ざし行進を続けている人々が入国を拒否されています。安住の地を持たない人々が増えているのです。そんな時代にイエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11-28)と招いておられます。イエス・キリスト様の「永遠のいのち」の救いに目を向ける方々が起こされるよう祈り、証しを続けてまいりましょう。

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私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。(第一ヨハネ4章16節)
 先日、市長とボランティアの懇談会があり、参加しました。というのは、昨年の豪雨災害の直後から杷木に入って、援助活動を続けてくださった九キ災の働きについて報告する責任を感じたからです。イエス様が、「おおわれているもので、現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません。」(マタイ10-26)と語られたように、隠れたところで黙々と為された、彼らの「愛の労苦」(Ⅰテサロニケ1-3)について、新市長にも知ってほしかったからです。
 終わってから、市長が来られ、「知りませんでした。これからも、よろしくお願いします。」と握手してくださいました。災害多発の時代、広域的な援助が必要とされますが、その良き例の一つとして、彼らの真摯な奉仕について、行政の長に報告できたことを感謝します。
 さて、今日は教会の創立32周年感謝礼拝をお捧げします。過日、少年の頃に教会に来たことのある大学生が、聖書の授業が あるということで相談があったので、教会にあった聖書をプレゼントしました。地域に教会があることが覚えられているのです。近々、「甘木聖書バプテスト教会ジョイフルクワイヤ」として、音楽祭で賛美歌コーラスを聴いていただく機会もあります。少しづつではありますが、教会の門が地域に開かれつつあることを感謝します。
 イエス様は、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3-3)と語られましたが、人が救い主を信じ、生まれ変わる場所は教会です。そしてまた、「みことばの乳」(Ⅰペテロ2-2)によって養われ、信仰者として成長していくのも教会です。誰でも罪人のまま、弱いなら弱いなりのまま来ることができます。しかし、そこで、罪を示され、心の向きを変えてイエス様を信じ、新しい歩みを始めていくのです。
 「まことのぶどうの木」(ヨハネ15-1)であるイエス様にとどまる人は「多くの実を結びます。」(5)と約束されています。聖霊の実である「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5-22 23)といった美徳が備わるようになります。これからも、この地域の人たちに、「信じる者が、ひとりとして滅びること」(ヨハネ3-16)のないように、私たちの罪を負うために来てくださった救い主、イエス・キリスト様を証してまいりましょう。

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教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ書1章23節)
 先ごろ、「北九州シロアム会」の50周年記念修養会があり、メッセージの御用をさせていただきました。視覚障害者にイエス様の光を届けようとのビジョンで始められた会が、50年続けられてきたとは、主の導きであり、発起人のAご夫妻の忠実な信仰によるものにちがいありません。協力者の兄姉の献身的な奉仕もあって、祝された会となりました。これを機に、私どもも、できることをもって、応援協力させていただければ感謝です。
 さて、次週、私たちは甘木教会の32周年感謝礼拝をお捧げしようとしています。では、この教会を支える土台は何なのでしょうか。それは、イエス様が弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」(マタイ16-15)と問われたとき、ペテロが応えた、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」(16)という信仰の告白です。
 神の御子イエス様が人となって来てくださり、私たちの罪を負って十字架の苦難を受けてくださり、信じる者を罪の縄目から解放してくださいました。私たちはペテロやトマスと同様に、イエス様を「私の主。私の神。」(ヨハネ20-28)と告白し、その救いの福音を宣べ伝えます。
 おそらく、すべての人に共通する願いは「幸せになりたい」ということでしょう。では、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3-23)と言われている人間は、どうしたら幸せになれるのでしょうか。罪人のままで幸せになることはできません。イエス様の権威によって、「あなたの罪は赦された。」(マタイ9-2)と宣告していただく必要があるのです。
 主イエス様は「バプテスマ」と「主の晩餐」によって、この「罪の赦し」を宣告する権威を教会にお与えになりました。1人でも多くの人が罪を悔い改め、バプテスマを受け、主の晩餐に与ることができるよう、教会に委ねられた「イエス様の救いの道」を証してまいりましょう。

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このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。(マタイ伝18章14節)
 先日、健康福祉館で「秋の歌プレゼント」をしました。台風で延期されていた小学校の運動会があり、聴かれた方々は20名程だったですが、温かい雰囲気の集まりでした。次はクリスマス、多くの皆さんにお会いできることを期待しましょう。
 「週末台風」という言葉ができたそうですが、先週通過した24号も広範囲な停電をはじめ、深い爪痕を残しました。被災地の教会、皆さんに、心よりお見舞い申し上げます。
 さて、私たちはその台風が接近していた中で礼拝をお捧げしました。その中で、イエス様が語られた、「子どものように、自分を低くする者が、天の御国で一番偉い人です。」(マタイ18-4)という御言葉から教えをいただきました。また、「偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(20-26)とも教えられています。これは組織の上に立つ人が心すべき教訓です。
 また、イエス様の「いなくなった一匹の羊」のたとえ話から、神様がどんなに弱く、小さな物を大切にされ、目を留めておられるかを教えられました。山深く分け入って、いなくなった羊を見い出した牧者は、「迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶ」という表現に、苦難にあえぐ人間に対する、神の深い愛を感じます。
 私たちも弱い者、小さな者たちですが、イエス様に救われ、聖霊なる神を宿し、「永遠のいのち」を持つ者です。ですから、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」(Ⅱコリント12-9)という約束を信じ、どのように、神が用いてくださるか期待しましょう。主イエス様は教会を通して、「すべての人が救われて、真理を知る」(Ⅰテモテ2-4)ことを望んでおられます。この秋、「そのひとり子をお与えになったほど」(ヨハネ3-16)の神の大きな愛を証してまいりましょう。

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しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント12章9節)
 先日、長男からのメールに「審判をしているよ。」と書いてあったので、ネットで調べてみると、大学二部リーグの三塁審判として名前が載っていました。何をしているか心配でしたが、名前を見つけて安心しました。「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。」(箴言3-6)とあるように、甘木から巣立っていった若者がイエス様への信仰に堅く立って、成長していけるよう祈り続けましょう。
 先週、私たちは、キリストの力は「弱さのうちに完全に現われる」ということを学びました。その秘訣を会得したパウロは、「大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」とまで言い切っています。私たちがスポーツなどで見慣れているのは、勝者が強さを誇っている姿ですが、パウロは、どのようにして、あえて「弱さ」を誇るようになったのでしょうか。
 彼は律法の専門家として、自分の学識を誇っていたときには、イエス様の弟子たちを迫害する者でしたが、復活のイエス様にお遭いし、その光に撃たれ、目が見えなくなるという弱さの中で、始めて、「人知をはるかに越えたキリストの愛」(エペソ3-19)を経験しました。だから彼は、「私が弱いときにこそ、私は強い」(10)と言うことができたのです。
 現代のクリスチャンで、この「弱いときにこそ強い」を実証してくれた人としては作家の三浦綾子さんや、詩画作家の星野富弘さんが良く知られています。三浦さんはカリエスをはじめ、いくつかの難病を患われましたし、星野さんはけがによって、頸から下、すべての身体機能を失いました。その絶望の中で、イエス様を信じ、生まれ変わって、弱さの中に現れる神の愛と力を証しし続けています。
 私たちも病、障害、家族の問題など、弱さを追わされています。しかし、私たちには神への讃美と感謝があります。それは、主イエス様が私たちの罪を負ってくださり、「永遠のいのち」の救いへ招き入れてくださったからです。自分の弱さに目を留めるのでなく、イエス様の十字架と復活の希望に目を留め、「私が弱いときにこそ、私は強い」と告白する人生を歩んでまいりましょう。

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罪を赦される幸い

そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。(ヘブル書10章22節)
 先日、ボランティアの研修で、桂川にある障害福祉事業所「ひなの家」をお訪ねしました。グループホームに住んでいる方々と、送迎を受けて通所している方々がおられ、パン工房と軽作業所で働いていました。中心施設は木のぬくもりを感じる建物で、食器なども陶器、木の器が使われており、思いやりが伝わってきました。
 工房で作られたパンも大変おいしく、また買いに行きたいほどです。B型ですから、軽いとは言えない障害なのですが、適切な指導さえあれば、あのように、しっかり社会に貢献できることを見て、生まれつきの盲人について、「神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9-3)と語られたイエス様のみことばを思い起こしました。
 さて、先週は主の晩餐式をしましたが、その歴史は出エジプトの「過ぎ越し」に辿ることができます。エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民は、鴨居に塗られた子羊の血によって、神の裁きを免れ、約束の地へと旅立ちました。私たちは今、罪なき神の御子イエス様の十字架のご業を信じる信仰によって、罪の奴隷状態から、「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)の救いへと導かれました。
 教会は「歌とトークのプレゼント」のボランティアもしますし、音楽祭で賛美歌コーラスもします。しかし、バプテスマを授けることや、「主の晩餐式」を執り行うことは、主イエス様のみことばに基づく第一の務めです。これらの「定め」を執り行うことによって、私たちは罪の赦しを確信し、今、天の御国への途上にあることを実感するのです。
 人は皆、罪を侵す者ですから、どこかに負い目を感じています。そして、それは人の思いを暗くします。イエス様によって、「あなたの罪は赦された。」(マタイ9-2)と宣言していただくとき、その赦しは神の権威に基づいています。教会でバプテスマを受け、主の晩餐に与る方々が多く起こされるよう祈りつつ、証しを続けてまいりましょう。

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来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。私たちを造られた方、主の御前に、ひざまずこう。(詩篇95篇6節)
 私たち夫婦は健康のためにスロージョッギングをしてきましたが、さすがに今夏の猛暑では出かける気になりませんでした。しかし、涼しくなったので、久しぶりに公園へ行ってみると、驚くなかれ、桜が数輪咲いていました。きっと、一年前の災害で全国から応援をいただいたので、いま被災しておられる皆さんを励ます朝倉市民の気持ちが咲かせたのでしょう。各地で被災しておられる皆さんの日々が守られ、一日も早く、普段の生活を回復されますよう、お祈り申し上げます。
 アメリカの大統領中間選挙が近づき、選挙を妨害するハッカーの攻撃が深刻であると報じられています。それを防ぐために、多額を投じて、選挙システムを一新する州もあるそうです。災害対策に奔走する日本でも、ミサイルを迎撃するシステムが配備されるそうです。これらはみな、人災対策であり、多額の費用を要します。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6-23)とありますが、人間の心に巣くう罪は、人を傷つけ、社会を分断し、世界を破滅へと誘い続けています。
 ヨハネはイエス様を指して、「「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1-29)と叫びました。この言葉に、昔も今も変わらない、究極の問題解決が示されています。人間の心から罪を取り除いてくださる救い主がイエス・キリスト様であることを明らかにしているからです。
 2001年9月11日のテロから17年が過ぎました。その後、アフガン、イラク、リビアへとテロリスト征伐の戦争が拡大していきました。数知れないほどの犠牲者を生み続けてきましたが、世界は平和へ向っているでしょうか。私たちは今日、主の晩餐に与り、イエス様の十字架を感謝し、罪の赦し(エペソ1-7)を確認することができます。
 「来たれ。」と神は私たちを主イエス様への礼拝へと招いておられます。神を喜び讃えることは、私たちの力の源泉です。罪と災害の世にあって、イエス様から豊かな「いのち」をいただき、道に迷う人たちに救いの道を証してまいりましょう。

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神よ。私をあわれんでください。私をあわれんでください。私のたましいはあなたに身を避けていますから。まことに、滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます。(詩篇57篇1節)
 台風21号は関西空港の閉鎖をはじめ、各地に甚大な被害をもたらしました。その直後、今度は北海道に大地震があり、全道が停電する事態に陥っています。神のあわれみと助けにより、被災地の都市機能が復旧し、人々の安全が確保されますようお祈り申し上げます。こうした災害を通し、イエス様が語られた、「この天地は滅びます。」(ルカ21-33)という警告を真剣に受け止め、キリストの「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)に至る人たちが起こされるよう祈りましょう。
 先週、私たちは合唱団の皆さんが催された故I姉の「思い出の会」に集い、心安らぐひとときを過ごさせていただきました。また、わたしたちにも聖書朗読、讃美、祈り、メッセージの機会が与えられ、キリストの救いについて証しすることができました。「信仰は聞くことから始まり、」(ローマ10-17)とあります。聴かれた皆さんのたましいの救いのため、お祈りさせていただきましょう。
 さて、私たちは先の礼拝において、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムについて学びました。彼が神の示す地へ出発したのは75歳のときでした。住み慣れた地を離れて、新天地を目ざすには歳をとり過ぎていました。しかし、彼は、それが「神のみこころ」と信じ、従いました。実にシンプルな信仰でした。打算も駆け引きもなく、ただ神の御言葉を聴き、素直に従ったのです。
 同じように出発したという点では、モーセに率いられた出エジプトのイスラエルの民も同様でした。しかし、両者には大きな違いがあります。アブラハムは、「望みえないときに望みを抱いて信じ」(ローマ4-18)とその信仰が称賛されていますが、イスラエルの民はモーセに逆らい、繰り返し不平をつぶやき、その結果、約束の地へ入ることができませんでした。
 このように、信仰をもって進むことと、神のみこころに逆らうこととには大きな違いが生じます。私たちはこの地で、イエス様の教会を立て上げるために召されました。そして今、その働きにたずさわっています。この地に灯された希望の光を輝かせ、不安の時代に生きる人々に、揺るがない人生の土台、イエス・キリストの救いを証してまいりましょう。

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神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。(第二コリント6章2節)
 先主日にはH姉が久しぶりに来会され、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」Ⅱテモテ4-2)という教えを日々、実践しておられる様子を証してくれました。K姉、V姉も共に礼拝をお捧げすることができました。秋に入り、ますます励まし合って、主の日の礼拝を尊んでまいりましょう。
 今日午後、私たちは故I姉の「思い出の会」に出席し、I姉を支えて来られた「キリスト信仰の希望」を証させていただきます。I姉は、「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によって、キリストのすばらしさが現わされること」(ピリピ1-20)を願っておられたキリスト者です。合唱団の皆さんやご友人たちが、「まことの神」(ヨハネ17-3)を知る機会となるよう祈りましょう。
 パウロによって書かれたローマ書には、キリスト信仰の勝利が高らかに宣言されています。妬みからイエス様を十字架に架けたユダヤ教指導者たち、使徒たちを迫害したローマ皇帝ネロ、それらの苦難に遭いながらも、クリスチャンたちが「圧倒的な勝利者」(ローマ8-37)であったとは、驚くべきことです。
 今の時代、私たちを「キリストの愛から引き離す」(35)誘惑は何出しょうか。地域の行事、部活動、レジャーなどが挙げられるでしょう。事実、このような活動に加わって、主日の礼拝を捧げることは容易なことではありません。協会も、そうした人たちに、別の礼拝の機会を提供する責任があるでしょう。
 今年も大きな震災もありましたし、豪雨、熱波と苦難のときが続いています。このような自然の猛威に怖れるとき、イエス様が語られた、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」(マタイ4-17)という御言葉を心に留めましょう。イエス様の十字架のもとに、すべての人のたましいの安息があるのです。

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