甘木聖書バプテスト教会からのお知らせ

福岡県朝倉市にあるバプテスト教会です。牧師のショートメッセージをお届けしています。神様の祝福があなた様の上に豊にありますように。
下記にブログ引っ越しました。
甘木BBCブログアドレス 
引き続きご覧ください。

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。(エペソ書6章18節)
 先日、久しぶりに入所中のM姉をお訪ねしました。ベルを持って来ていることをお伝えすると、施設の方が、「演奏会が始まりますよ」と声を掛けてくださり、十数名の皆さんが集まって、楽しい「夏の唱歌・懐メロ・賛美歌コンサート」が始まりました。熱波に疲れ気味だった皆さんも、爽やかなベルの響きに目覚めたようで、リードして歌い出す人もあり、終わってみたら、一時間が経っていました。あんなに喜んでいただけるなら、今度はもっと準備してお訪ねしようと思います。
 先週、私たちは身体の障害の故に、物乞い生活をしていた人が、「イエス・キリストの名によって、歩きなさい。」(使徒3-6)と命じられたとき、「歩いたり、はねたりしながら、神を賛美」(8)するようになったメッセージを聴き、「イエス・キリスト」の御名が持つ権威に驚きました。イエス様を信じている私たちにも、同じ聖霊の賜物が与えられています。それはイエス・キリスト様の御名による祈りです。魔術を使うことではありません。神への正しい祈りです。
 物乞いの男はお金を恵んでもらおうとしました。ペテロは彼に、「金銀は私にはない。」と伝えました。彼が欲した金銭的な援助を与えることはできませんでしたが、それ以上の祝福、自ら働きに出れるよう、彼の脚力を回復してやることができたのです。ここに、教会の大切な使命が明らかにされています。
 私たちは金銭的援助も力仕事もできないのが現実です。しかし、権威ある主イエス・キリストの御名により祈る特権を授かっています。その賜物を活用すれば、神と人に大いに役立つことができます。各地で福音の証しを続ける諸教会のためにも、難問と苦闘している国の指導者たちのためにも祈りましょう。
 夏休みになり、K姉とMっちゃんが集われ、久しぶりに共に主に礼拝をお捧げできました。ベルの讃美にも加わり、イエス様に栄光が帰されました。Mちゃんの高校受験のためにも祈りましょう。帰りに入所中のI兄もお訪ねし、一緒に「いつくしみ深き」も讃美しました。猛暑の8月も、イエス様にしっかり結びついて、「水路のそばに植わった木のよう」(詩篇1-3)に、「愛、喜び、平安」の聖霊の身を結びつつ歩んでまいりましょう。
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。(ローマ書6章23節)
 先礼拝は大雨警報が発令されていたので、各自ご家庭で礼拝を捧げていただくよう連絡させてもらいました。ところが、J姉御夫妻がメールに気づかれなかったそうで、集ってくださいました。そのおかげで、御夫妻の思わぬ賜物が発見されました。初めてベルを手にしたT兄がきれいな音を出され、4人で美しい讃美をお捧げできたのです。御夫妻の喜びようを見て、「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」(ルカ15-7)というイエス様の御言葉を思わされました。
 近隣の町々には浸水の被害もあったようで、心よりお見舞い申し上げます。また、京都で起こった放火事件の犠牲者、負傷者、関係者の皆様に、愛の神の深き御慰めをお祈り申し上げます。聖書は、「すべての人は、罪を犯したので、」(ローマ3-23)と人間の罪性を明らかにしています。また、「罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1-15)とも警告しています。ですから、ヨハネが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1-29)と指し示した救い主イエス様を信じて、罪の解決をいただく必要があるのです。
 もし、私たちの心の奥に、根深い妬み、憎しみ、恨みがあり続けたら、どうでしょうか。しばらくは紛らわすことができても、いつかは暴発するときがくるでしょう。そんな危険を抱えていた私たちに、「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8-1)という神の赦しが宣言されたのです。
 そして、私たちは「まことのぶどうの木」(ヨハネ15-1)であるイエス様に接木されました。もはや「罪の奴隷」(ローマ6-17)ではありません。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5-22 23)の聖霊の身を結ぶ「神の子ども(ローマ8-14)です。
 車も自動運転され、AIによって管理された工場で野菜が造られ、支払いもお金の不要な時代が間近だと聞きます。しかし、そのような環境において、果たして人間は幸せな生活を手に入れることができるのでしょうか。私たちは、「神の国とその義とをまず第一に求め」(マタイ6-33)、主イエス様への礼拝の歩みを続けてまいりましょう。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(第一ヨハネ4章10節)
 今日は参議院議員選挙の投票日です。聖書は、「私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすため」(Ⅰテモテ2-2)に、国、自治体などに立てられる人たちのために、「願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(2-1)と教えています。日本史を顧みても、キリシタン禁令、踏み絵、迫害などの史実を見ることができますし、今日でも、世界には自由に聖書を読むこと、イエス様に礼拝を捧げることのできない国があります。そのような中にあって、私たちは日本国民として、「信仰の自由」が保障されていることを感謝し、政体の中に、神のみこころが為されるよう祈り、選挙権を行使しましょう。
 先週、私たちは、「互いに熱心に愛し合いなさい。」Ⅰペテロ4-8)と教えられました。かつて、私たちは自分中心であり、「喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣き」(ローマ12-15)などということはできない者たちでした。しかし、イエス様を信じて以来、次第に人を思いやることのできる者へと変えられてきています。それは「御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3-18)とあるとおりです。
 愛を身につけるための道場は教会です。神のみことばを共に拝読し、イエス様の愛を讃美し、神の助けを祈っていくとき、私たちは次第に「主と同じかたちに姿を変えられて」(Ⅱコリント3-18)、悲しむ人を慰め、弱った人を支えることができるようになっていきます。イエス様が私たちの罪を負い、十字架の苦難を耐えてくださったのですから、私たちも「赦しの愛」を実践していきましょう。
 道場である教会で愛を身につけると、社会のいたるところで、キリストの愛を実践することができます。私たちは施設を訪問して、「歌のプレゼント」をしていますが、それもまた教会で養われた愛が身についているからできることです。また、朗読奉仕の皆さんとの交流会に出たところ、何名かの方々から、「いつも短歌を楽しみにしています」と言っていただきました。そうした詩作を続けていることも、社会へ向っての、キリストの愛の実践です。
 痛ましい犯罪のニュースを聞くことが多いことを悲しみます。それだけ、罪に捕えられた人が多いのです。しかし、私たちは知っています。「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」(Ⅰテモテ1-15)ことを。聖霊の実を結ぶことにより、教会の内でも外でも、キリストの愛を実践し、人々がイエス様を仰ぐことができるよう、証しを続けてまいりましょう。
私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。(申命記30-19)
 大学生の長男が帰省し、どんな将来を思い描いているか訊いてみました。挑戦的な意気込みで学んでいるようなので、祈りで支え、見守っていこうと思わされました。聖書に、「若い男は幻を見る。」(ヨエル2-28)とありますが、自分の未知の可能性に賭けているようです。箴言に、「心を尽くして主に拠り頼め。」(3-5)とあるように、教会で聴き育った主イエス様に祈りつつ、与えられている幻を実現していってほしいと願います。引き続き、応援の祈りをお願いします。
 人生にはこうした道の選択を迫られる場面があります。そうしたとき、必要な能力が「識別力」(ピリピ1-9)、物事を見極め、最善の道を選び取る能力です。福岡へ行くには福岡方面行きの道を熊本へ行くには熊本方面の道を選ばなければならないように、私たちは「いのちに至る門」(マタイ7-14)であるイエス様を信じ、その御教えに導かれて進まなければ、祝福の人生を歩むことはできません。
 そのためには、「滅びに至る門」(7-13)の誘惑の招きを断固として拒む必要があります。私たちが「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」(ヘブル12-2)いれば、誘惑を見聞きすることは少ないのですが、礼拝をおろそかにし、みことばを求める生活を止めてしまうならば、滅びに至る道の門口に立つことになります。
 神は人を創造されたとき、自由な意思を授けられました。その自由を神をお喜ばせすることにも、悲しませることにも使えます。最初の人アダムとエヴァはその自由を誤用して罪を侵し、神の祝福を失い、エデンの園から追放されました。私たちは進んで、私たちの自由を「神をお喜ばせする」ことに用い、祝福を相続する者としていただきましょう。
 八十路を過ぎた大楠兄姉がみゅうじっくベルに挑戦し、美しい調べを奏でてくれています。障害と闘いつつ、礼拝に集っておられる兄姉にも励まされます。いずれも「いのち」を選び取る生き方です。この夏も、皆そろって主イエス様の証し人としての歩みを続けてまいりましょう。
わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。(ヨハネ伝10章9節)
 朝倉の豪雨災害から二年、今年もまた南九州に雨が降り続き、災害となりました。被災された皆さんに心よりお見舞い申し上げます。これからも大雨、台風、地震など、災害が起こり得ますので、主イエス様のあわれみと守りを祈り続けましょう。
 こうした水害を経験する度に思い起こされるのがノアの時代に起こった大洪水です。聖書はその時代を、「地上に人の悪が増大し」(創世6-5)と表現しています。人々の考えが「みな、いつも悪いことだけに傾」いていたというのです。それは神が人を創造された目的に大きく反れた状態でした。
 そして、遂には神に「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。」(7)と決心させるまでに悪化していきました。「神のかたちに」(1-27)に創造され、「「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」(28)と祝福されたアダムとエヴァでしたが、その子孫たちは「人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」(6)とあるほどに、神を悲しませる者へと堕落していったのです。
 やがて、その悪の時代は洪水によって滅ぼされ、「全き人」であり、「神とともに歩んだ」(9)ノアと彼の家族だけが箱舟に入り、難を逃れて、罪の一掃された新天新地を受け継ぐ者となりました。彼らは神の警告を信じ、周囲の人々のあざけりにもかかわらず、神に従う義人たちでした。
 イエス様は、世の終わりについて、「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」(マタイ24-37)と語られました。確かに今の時代、人々は神の教えを脇に追いやり、人間の欲望の追求に走っています。このような豪雨を神の警告と受け止め、私たちはノアの家族がしたように、「いのちに至る門」(マタイ7-14)である救い主イエス様を信じて救われるよう、周囲の人たちに証しを続けてまいりましょう。

イエス様を愛する!

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32篇1、2節)
 先日、二つの講習会があったので出席しました。一つは非行少年の更正にたずさわっておられる「少年サポートセンター」の指導員の講演でした。子どもたちが健全に育っていくために、家庭、地域、学校などが良き働きをしていますが、それでも悪の道へ迷い込む子どもたちがいます。そういう子たちの補導、更正のために働いておられる方の話には説得力がありました。教会も罪人の救いのために来られたイエス様を紹介し続けなければなりません。
 もう一つは障害者のための防災の講習会でした。豪雨、台風シーズンに入る前に、いかに身を守り、減災するか、皆さん心構えになったのではないでしょうか。聖書に出てくる避難の例としてはソドムに下ったイオウの火から逃れたロトの家族が上げられます。そのとき御使いが告げた、「「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」(創世19-17)は今日の災害においても覚えておくべき警告です。これから幾度か避難情報が流れるようなことがあるでしょうが、まずは、生命を守る行動を第一としましょう。
 先週、私たちはイエス様の「罪の赦し」のメッセージを聴きました。パリサイ人のシモンはイエス様を食事に招待しましたが、その動機はイエス様を試そうとするようなものでした。一方、「罪深い女」(ルカ7-37)と名指しされていた女性はイエス様に出会い、罪を悔い改めた人でした。女性は人々の蔑みの目も気にせず、イエス様の御足に口づけし、持って来た高価な香油を塗りました。女性の行動はイエス様への深い愛と感謝に動機づけられていました。
 その女性に対しイエス様は、「「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。」(50)と告げられました。このことはイエス様が罪の赦しを宣言できる神であることを示し、その赦しが罪の悔い改めと救い主への信仰に基づくものであることを明らかにしています。また、女性に、「安心して行きなさい。」とも告げられたのですが、女性はどこへ行ったらいいのでしょうか。
 このように罪を悔い改め、イエス様を信じた人を受け入れ、信仰者として育てていくのが教会です。聖書の教えに基づいて、その人を導き、イエス様に奉仕する者として育てていくのです。私たちの教会もイエス様から、「安心して甘木教会へ行きなさい。」と推薦していただけるよう努めてまいりましょう。
教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ書1章23節)
 先礼拝では「父の日」を記念し牧師の短歌を添えたお花が壮年の皆さんにプレゼントされました。いつまでも健康で、教会の「お父さん」として良き模範を示してまいりましょう。主イエス様は、「天にいます私たちの父よ。」(マタイ6-9)と祈るように教えられました。つまり、父の日は「神に近づき、礼拝する日」なのですから、多くの世のお父さんたちが、「天地の主であられる父」(マタイ11-25)を知ることができるよう祈りましょう。
 国際情勢としてはホルムズ海峡で日本のタンカーが襲撃されたということで、アメリカとイランの対立が深まっています。エネルギーの8割をこの地域からの原油に依存している日本にとって、由々しき事態です。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、」(エペソ2-14)とあるように、紛争が抑止され、平和が保たれていくよう祈りましょう。
 凶暴な犯罪も多く、心傷みますが、そんな中で地震警報が鳴り出し、「津波が到達します」の放送が流れ、被災地の守りを祈らされました。幸い、津波の被害はなかったようですが、地滑り、液状化、断水など、被害が報じられています。余震も続いていますから、更なる守りを祈りましょう。
 また、身近なところでは先日、「カードが不正使用されているから、手続きをするように」といった内容のメールがありました。これは詐欺だと思い、削除しましたが、だまし事も増えています。そんな中で読んだ、「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」(詩篇133-1)という御言葉は教会の礼拝の麗しさを教えています。兄弟姉妹が集まって救い主を讃美し、「天の父」に祈りを捧げ、ともに神のメッセージに耳を傾けることに勝る幸いはありません。
 ダビデはその祝福の理由を、「主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたから」(3)とかたっています。私たちは、「神は私たちとともにおられる」(マタイ1-23)から「幸せです。」と告白しましょう。イエス様に従う者たちに主は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束していてくださるのですから。

災害の中の恵み!

まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。
 先週、林田仮設住宅の閉鎖を前に「お別れ会」が開かれ、出席させていただきました。元九キ災メンバーであったT御夫妻もゴスペル歌手の竹下静姉とともに来ておられました。午前に感謝状の贈呈式もあったそうで、「復興支援コンサート」、「歌の交流会」で奉仕させていただいた「ヘブンリー・どろっぷす」の名前も呼ばれたそうです。後から自治会長さんから、感謝の品を添えて、賞状をいただきました。
 二年前の7月5日の豪雨災害の直後、知人の安否を問うたところから始まった杷木との繋がり、益城の震災支援に入っておられた九州キリスト災害支援センターが杷木にも支援に駆けつけてくださり、長い泥かき作業、そして、仮設集会所での「復興支援コンサート」へと発展していきました。九キ災は常に地元の教会である私たちを立ててくださり、退却後も、私たちは「歌の交流会」を続けることができました。
 被災地の皆さんにとって、苦闘の二年間でしたが、多くの人々の祈りと善意の結集した、恵み豊かな時でもありました。とは言え、仮設閉鎖後の行き先の定まっていない住民の方々もおられますし、梅雨末期の大雨への心配もあります。イエス様は、「からし種ほどの信仰があったら」と語られました。これからも杷木をお訪ねし、皆さんに「天地を造られた主」(詩篇121-2)を証させていただきたいと願っています。
 太鼓の演奏や神楽の舞いもあって、「お別れ会」の最後は竹下姉のコンサートでした。地元の皆さんは九キ災の真実な奉仕を良く覚えていますので、ゴスペルに敬意を払って聴いておられました。T御夫妻も北海道から駆けつけた甲斐があったことでしょう。
 竹下姉のコンサートは「アメージンググレース」で始まり、「アメージンググレース」のアンコールで終わりました。大災害を通して為された神の「驚くばかりの恵み」を誉め讃えずにおられません。これからも主が小さき教会を、どのようにお用いくださるか、期待して歩んでまいりましょう。
信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。(ヤコブ諸5章16節)
 先日、JBBF70周年記念聖会の主催教会からお知らせがあり、○○教会、○○○名の参加申し込みがなされているとのことでした。同時に記念誌も発刊されるとのことです。こうしたフェローシップの良き交わりに加えられていることも、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。」(ヨハネ15-4)とあるように、主イエス様に繋がっていることの恵みです。同じ信仰告白に立つ諸教会との交わりを大切にしてまいりましょう。
 先週、私たちは、重い病を宣告されたヒゼキヤ王が、「主よ。どうか思い出してください。私が、まことを尽くし、全き心をもって、あなたの御前に歩み」(イザヤ38-3)と、神への忠誠を根拠に、癒しを祈ったことについて学びました。その涙の祈りに、主は、「わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたの寿命にもう十五年を加えよう。」と応えられました。王の真実な祈りが神のあわれみを導いたのです。
 ヤコブも、「信仰による祈りは、病む人を回復させます。」(5-15)と教えています。もちろん、それは医療行為を軽視したり、拒否するようなものではありません。体に治ろうとする回復力を備えていてくださる神を信頼し、「この薬を有効に用いて、癒してください。」と祈ることです。
 私たちの体は年齢とともに衰えていきますから、病を発症する可能性も高まります。そんな弱さを感じるとき、「主を待ち望む者は新しく力を得、」(イザヤ40-31)という御言葉は、私たちを神への信仰に生きるよう促しています。「キリストの御霊」(ローマ8-9)を宿している私たちは、「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされて」(Ⅱコリント4-16)いるのです。
 聖歌を讃美するとき、背筋を伸ばし、お腹から声を出しましょう。祈るとき、聖書を拝読するときも同様です。それを心がけるだけで、ヒゼキヤ王のように、15年の寿命が増し加えられることでしょう。「信仰はなんてすばらしい!」という歌があります。心から主イエス様を讃美し、祈りによって、健康長寿を授かりましょう。

[ すべて表示 ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事