甘木聖書バプテスト教会からのお知らせ

福岡県朝倉市にあるバプテスト教会です。牧師のショートメッセージをお届けしています。神様の祝福があなた様の上に豊にありますように。

復活の希望に生きる!

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ伝20章19節)
 受難週にパリのノートルダム大聖堂が火災で大きく損傷したというニュースが流れ、世界中の人々が、その貴重な歴史的遺産に起こった悲劇を悼みました。しかし、フランス大統領は五年以内の再建を約束し、事実、再建に必要な額を超える寄付金の申し出があるとのことです。このニュースもまた、イースターにふさわしく、イエス様のよみがえりを証しているかのようです。
 二千年前、イエス様の呼び掛けに応え、職を棄て、弟子となっていった者たちは、十字架に架けられた主を、悲嘆と絶望の思いで見上げたことでしょう。期待に溢れて聴いた「互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13-34)という教えも、主の十字架と葬りとともに輝きを失い、多くの弟子たちがもとの生活へ戻ろうとしていました。
 しかし、女たちが香料を持って墓に行くと、天使たちが、「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。」(ルカ24 25)と告げたというのです。その後、主は弟子たちの只中に立たれ、「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20-21)と、彼らを福音宣教へと遣わされました。
 ですから、使徒たちは行く先々で、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(使徒2-32)と、イエス様の復活の事実を証し続けたのです。パウロもまた、「キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、」(第一コリント15-14)と、私たちの信仰の土台がイエス様のよみがえりにあることを告げています。
 私たちが信仰の歩みをともにした兄姉たちの幾人かが、既に主のみもとへと召されていきました。兄姉たちの墓碑には、「我は、よみがえりなり。いのちなり。」(ヨハネ11-25)という、イエス様の勝利の宣言が刻まれています。兄姉は地上での信仰の歩みを終え、主のみもとへ召されましたが、私たちと同様に、主イエス様を讃美し、父なる神に礼拝を捧げています。
 この復活祭の良き日に、あなたも救い主イエス・キリスト様を信じ、罪の赦しをいただき、残された地上での日々を、神を讃えつつ歩ませていただきましょう。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。(ヘブル書11章6節)
 四月は花見、子どもたちの入学、就職と華やぐ季節ですが、加えて、新元号「令和」の発表もあり、日本の春は祝賀ムードが高まっています。教会も頭なる主イエス様の御復活を祝うイースターを迎えますから、新たな力をいただくときとさせていただきましょう。私たちの主イエス様は「永遠に存在され」、「変わることのない祭司の務め」(ヘブル7-24)を果たしておられます。
 あのイエス様の、「わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。」(ヨハネ17-9)という「大祭司の祈り」は私たちのために、今もなお捧げられています。牧師が祝祷を捧げるとき、「よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださる」(ローマ8-34)とあることを思い起こしましょう。
 1人の人が「真の礼拝者」(ヨハネ4-23)となることは、子々孫々に大きな祝福をもたらします。その実例がルツです。異教の地に育ち、夫に先立たれるという不幸に遭遇しましたが、姑ナオミの信仰する真の神を信じ、ベツレヘムへ移住し、ダビデ王、救い主イエス様へと繋がる家系の母となりました。神の摂理は実に不思議であり、偉大です。
 姑ナオミはベツレヘムへ帰ろうとしたとき、ルツにモアブの地に残ることを勧めました。しかし、ルツは、「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(1-16)と告白し、信仰による祝福を選び取りました。神の招きに従うとき、私たちは驚くべき神の摂理を経験し、みわざを誉め讃える者とされます。
 神様は私たちの前に、イエス様の「いのちに至る門」(マタイ7-14)を開いていてくださいます。私自身、その道を歩んで来れたことを感謝します。なおこの先、どのような祝福が待っているか、楽しみです。この良き季節、多くの人たちが「いのちに至る門」から入り、「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)に与れるよう祈り、働いてまいりましょう。

全地はあなたを伏し拝み、あなたにほめ歌を歌います。あなたの御名をほめ歌います。(詩篇66篇4節)
 先日、平塚川添遺跡公園で開かれた「野草積み」のイベントに参加しました。俳句の歳時記に記されている春の植物に触れてみたいと思ったからです。30分程で春の七草をはじめ、よもぎ、スミレ、タンポポ、野蒜、、椿や陽光桜の花などを積み、天ぷらにして食しました。「神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。」(創世1-11)という創造のみわざを想い、神を讃美しました。
 とかく「雑草」と邪魔者扱いされがちな野草ひとつひとつに名があり、花が咲き、味わいがあります。「神は見て、それをよしとされた。」(12)とあるように、野のペンペン草(なずな)さえも神の創造の種であり、他のものをもっては代えられない固有の植物です。
 ましてや、「神に似せて彼を造られ、」(創生5-1)と記されているほどの人間は、更に尊い使命を与えられて創造されています。イエス様も空の鳥や野のゆりをさえ養われる神が、「ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」(マタイ6-30)と語り、「神の国とその義とをまず第一に求め」(33)るよう勧めています。
 ハローワークの前を通ると、企業の求人広告が掲示されています。聖書には、「霊とまことによって」神を賛美する「真の礼拝者」(ヨハネ、「4-23)を神が求めておられることが記されています。進んでこの招きに応じ、「真の礼拝者」とさせていただきましょう。
 社会が健全に機能していくために、人々の忠実な働きが続けられていることを感謝します。しかし、その背後にあって、神が良き環境を整えていてくださることを忘れてはなりません。まず、神の愛と見守りに感謝して、ふさわしい礼拝をお捧げするところから、新たな週を始めてまいりましょう。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5章17節)
 いつもスロージョギングをする公園の池には鴨が去って、代りにツバメがやってきていました。出店の支度も進んでいましたので、今週は花見客でにぎわうことでしょう。そんな良き季節に、教会では「復活の希望」の案内の配布を始めました。各地の被災地では「復興」の取り組みが進められています。災害によって破壊された街を再建していく働きです。人もまた、さまざまな失敗や挫折を経験しますが、その中から、確かな希望を見い出すことができれば、「永遠のいのち」へと復活できます。
 最近も児童の虐待や高齢者が標的とされる強盗など、悲しむべき事件の報道が続いています。そのようなニュースを聞く度、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ3-23)という、「罪人」である人間の実態についての描写を思わされます。それはすべての人の心に巣くう罪であり、暴発する可能性を持つ「犯罪の芽」なのです。
 こうした不安定で、危うい状態にある人間と社会を守るため、神は「殺してはならない。」(出20-13)、「盗んではならない。」(15)、「偽りの証言をしてはならない。」(16)といった律法を与え、人と社会を守ろうとされました。しかし、この律法には人間の罪の性質を変える力はなく、詭弁を弄して、神の道を捻じ曲げる者へと堕落していきました。
 イエス様はそのように惨めな「罪の奴隷」(ローマ6-17)状態にあった私たちの救い主として来てくださり、私たちの罪を身代わりに負い、救いの道を成就してくださいました。その「罪への勝利」、「キリストによる救いの希望」を感謝するのがイースター(キリストの復活祭」です。
 イエス様を信じる人の心には聖霊なる神が宿り、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5-22 23)という美徳のプレゼントが与えられます。この聖霊の恵みによって、私たちは神を愛し、人に仕えることのできる者へと、日々新たにされていくのです。このイースター、イエス様を信じ、聖霊の賜物をいただく人たちが起こされるよう祈り、働かせていただきましょう。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。(ルカ伝16章10節)
 先に九州視覚障害者信徒会の各県からの役員の集いが開かれ、「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。」(マタイ20-26)と語られたイエス様の御言葉から、メッセージを取り次がせていただきました。会員の皆さんは多かれ少なかれ視覚に障害があり、高齢の方々も多くなっています。それに加えて、病と闘っておられる方々も増えています。普通に考えれば、仕えてもらう資格があるのです。しかし、そうした方々が皆、当然のように「仕えるしもべ」となっておられるからこそ、この会は成り立っています。
 また、あの東日本大震災からの復興の闘いが8年続けられてきたとのことで、その軌跡をたどる報道が多くなされていました。やはり、その闘いの中心を担っておられる方々は被災者の皆さんです。家族、職、財産、故郷を失った人たちが、悲しみを抱えたまま、被災地の再建を担っていますこの方々の中にも、「仕えるしもべ」の姿を見ることができます。
 教会もまた、主イエス様に使えるしもべたちの働きによって成り立っています。ほとんどのメンバーが何らかの弱さを抱えていますが、イエス様に出あい、たましいの生まれ変わりをいただき、教会を立て上げる尊い働きに任じられています。それは神の救済の働きであり、その権威を委ねられているのが教会です。
 イエス様はナタナエルを召されたとき、「彼のうちには偽りがない。」(ヨハネ1-47)と語られました。その後、ナタナエルが活躍した記述はないのですが、復活のイエス様が弟子たちに現れたとき、彼はしっかり弟子の1人としてとどまっていました。(ヨハネ21-2)私たちもナタナエルのように、大きな働きはできなくても、忠実なイエス様の弟子として歩み通す者でありたいと願います。
 イエス様はナタナエルに「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た」(ヨハネ1-48)と語られましたが、彼は静まって祈りの奉仕をしていたのではないでしょうか。これもまた、私たちが倣うべき弟子の姿です。混迷する時代にあって、忠実な祈りの奉仕者として歩ませていただきましょう。

赦す神・裁く神!

まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。(マタイ伝5章18節)
 今夕から、私たちは九州の視覚障害者キリスト信徒会の集まりに参加し、夜の集いでメッセージの御用をさせていただきます。この働きは全国に繋がりをもっており、私は九州の地区委員を仰せつかっています。何ができるかなと祈った結果、示されたのが、教会任職の当初に書いた週報のメッセージを、会のメーリングリストにアップすることでした。当初それを読まれた教会員はわずかでしたが、その後、ブログにアップしたり、今回、こうして視覚障害者の信仰成長に役立てていただいたりと、思わぬ方法で、主が用いていてくださることを感謝します。
 また先日は、あの豪雨災害から一年8カ月を経た、林田の仮設集会所で「早春の音楽プレゼント」をさせていただきました。7名の被災住民の方々と、4名の奉仕者の和やかな集いでした。これからまた大雨の季節に向いますので、神様の守りを祈る賛美歌も歌わせていただきました。仮設に住める期間は二年と限られているそうですので、それぞれに最善の道が開かれていきますよう祈りましょう。
 先週、私たちはイエス様が律法につき語られた、「廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」(マタイ5-17)という教えについて学びました。律法では、「殺してはならない。」(出20-13)と命じていますが、イエス様は、兄弟に向かって「『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(22)と教えられました。心に湧き上がる悪意を「殺す」に匹敵する罪と規定されたのです。
 最近報じられている子どもの虐待や、高齢者を狙っての詐欺のニュースに、「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」(ローマ3-18)という御言葉を思わされます。「殺してはならない。」とか「盗んではならない。」という絶対的律法が欠落した人たちが育っているのです。神の御言葉をもって「いのち」の教育をしなければならない教会の責任を感じます。
 教会はイエス様を信じる者に「罪の赦し」(エペソ1-7)を宣言し、バプテスマを授ける権威を与えられています。しかし、「罪から来る報酬は死」(ローマ6-23)という、神の警告をも伝えなければなりません。この地に立てられた教会として、神のみことば、聖書のメッセージを語り続けてまいりましょう。

「仕える」生き方!

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。(マタイ伝20章28節)
 回復を祈りましたY兄が去る2月14日、主のみもとへ召されました。N姉が人吉へ帰省した際、出席していた教会でYご夫妻との出会いがあり、長い歳月を経た後、4年程前、再会に導かれ、それ以来、親しき信仰の交わりをさせていただきました。召される2週間前、病状重きにもかかわらず、訪ねてくださったのは、このような別れを感じてのことではと思うと、感謝が溢れてきます。
 長年、ふすま業を営んでおられた兄は、教会の引き戸の修理をしてくださったり、音楽祭の奉仕のためにS姉をお連れくださったりして、小さな群れを励ましてくださいました。「みなに仕える者になりなさい。」(マタイ20-26)と語られた主イエス様の御教えとおりに歩み通された兄でした。深い悲しみの中にあるS姉をはじめ、御遺族のため、主の御慰めを祈らせていただきましょう。
 もう一つ、兄の召天は、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」Ⅱテモテ4-7)という御言葉を思い起こさせてくれます。発足に尽力された益城の教会が震災に遭われたとき、兄は単車で教会を見舞われ、翌日、本震を経験されるということもありました。主は歩みを全うされた兄を、「よくやった。良い忠実なしもべだ。」(マタイ25-21)とお迎えくださったにちがいありません。
 私たちも日々、苦難を経験しながら歩んでいます。祈っても祈っても、暗雲の立ち込めたような状態が続くこともあります。しかしイエス様は、「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16-33)と、私たちを励ましていてくださいます。
 先日、視覚障害者のための老人ホームをお訪ねし、「音楽のプレゼント」をさせていただきました。40名くらいの方々が集ってくださり、共に歌ったり、質問に応えたりして、良き交流を楽しみました。これからも、主イエス様が私たちを愛してくださったように、私たちもますます周りの人々にお仕えしてまいりましょう。
主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。(第二コリント12章9節)
 先週の小郡音楽祭では、練習を重ねてきた10名のメンバーで、三曲の賛美コーラスを歌うことができました。急にアカペラになりましたので、ハーモニーに難があったかもしれませんが、賛美歌の中に込められているメッセージを証しすることができました。翌日、1人の御婦人が練習日などを尋ねる電話をしてくれました。御本人は聴かれなかったようですが、誰かから好評を聞いてのことだったのではないでしょうか。次の機会には、共に賛美に加わっていただけるよう、祈って待ちましょう。
 私は、ヨシュアに導かれたイスラエルの民がヨルダン川を渡って、エリコに入って行く場面の、「祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、」(ヨシュア3-15)という言葉が好きです。川は岸いっぱいに溢れていて、渡れそうもなかったのですが、信仰をもって進んだとき、その流れはせき止められ、民は渉ことができました。教会に託されている福音の宣教においても、強いガードによって、門が閉ざされているように見えることがありますが、恐れず、信仰をもって前進するとき、少ないながらも、開かれている門があることに気づきます。
 初代の宣教において、教会が迫害され、ペテロが捕えられたとき、「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(使徒12-5)という言葉にも励まされます。その熱心な祈りに応え、主は御使いを遣わし、ペテロたちを獄の囚われから解放されたではありませんか。彼らの働きは主御自身の働きだったからです。
 イエス様は「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28-20)と約束しておられます。パウロも、「御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ5-25)と促しています。私たちは高齢であったり、障害があったり、外国人であったり、弱さを負っています。しかし、復活の主が共にいてくださること、聖霊に導かれていることを思うとき、私たちはパウロとともに、「私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(Ⅱコリント12-10)と告白できます。
 今度はイエス様の復活を記念するイースターに向って、良き集いを準備しましょう。召天された方々の御家族、友人たちもお招きしようではありませんか。私たちは主の御国で、兄姉たちと再会する、すばらしい希望をいただいているのですから。
あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ伝5章16節)
 今日、私たちは小郡音楽祭に出演し、3曲の讃美コーラスを歌います。イエス様が、「あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。」(マタイ5-15)と語られたように、私たちがいただいた信仰の宝は教会の中だけに閉じ込めておくべきものではありません。イエス様を信じ、「死からいのちに移った」(Ⅰヨハネ3-14)驚くべき経験は、多くの人たちに証されるべきです。
 いつもピアノ伴奏に来てくださるY姉が、御主人の重篤な病状のために集えません。Yご夫妻を励ますためにも、祈りを込めて讃美させていただきましょう。「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ5-16)とあるのですから。
 イエス様は、「わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行なわなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。」(ヨハネ9-4)と語られましたが、その厳粛な事実を実感します。私たちはいつでも働けるのではありません。いくら働きたくても、働けないときが来るのです。だから、讃美できる今、祈ることのできる今、奉仕できる今を大切にします。「明日しよう」、「来年しよう」ではなく、感謝して今日、神をほめたたえ、イエス様の救いを証しさせていただくのです。
 今月は二つの視覚障害者の集いで「歌のプレゼント」をさせていただくことになっています。イエス様は生まれつきの盲人を癒されるとき、「神のわざがこの人に現われるためです。」(ヨハネ9-3)と語られましたが、今の時代、私たちを用いて、どのような御栄光を現してくださるでしょうか。
 あの癒された盲人は、「私は盲目であったのに、今は見えるということです。」(25)と証ししました。イエス様は私たちをも「滅びの穴から、泥沼から、引き上げ」(詩篇40-2)、神をほめたたえて生きる者としてくださいました。その喜びをもって今日、素直に主を讃美させていただきましょう。

救いへの「神の招き」

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。(第一テモテ2章4節)
 先日、知り合いの方々が教会で二十年ぶりの再会を果たすことになりました。長年、会社の同僚として親しくしておられたそうですが、一方の方が失明され、それ以来、お付き合いが途絶えていたそうです。ところが私たちを介して互いの音信が伝わることとなり、今回の涙の再会となりました。この方々が今度は、イエス様のもとへ立ち返ることができるよう祈りましょう。
 先週はイエス様が語られた「ぶどう園の主人の労務者雇用」のたとえ話(マタイ伝20章1〜16節)を学びました。過労の問題などから、「働き方改革」が叫ばれている昨今、朝早くから暑さに耐えて働いた人と、就業間際に雇われ、わずか一時間しか働かなかった人に、同じ賃金が支払われたというのですから、誰もが理解に苦しむところです。しかし、この話は世の雇用についてでなく、神の御国建設の働き人の雇用について語られたものであると知れば、神のあわれみと恵みを感謝せざるを得ません。
 朝早くから雇われるとはクリスチャンホームに生まれたような人達、朝9時とは中高生の頃、昼頃とは青壮年期、午後5時頃とは老年期にさしかかってから救われた人たちと解釈できるでしょう。これらいずれの働きにも一デナリの報酬が支払われました。それはイエス様を信じる者に約束されている「罪の赦し」(エペソ1-7)と「永遠のいのち」(ヨハネ3-16)です。
 そうであるならば、人生の終わり頃、天国へ滑り込んだ方が得だと思う人がいるでしょうか。私は19歳のときイエス様の救いをいただきましたが、「もっと早く聖書を読み、賛美歌を歌い、真の神に祈ることができていたら」と思います。神との親しい交わりの中に生きることは、「なんというしあわせ、なんという楽しさ」(詩篇133-1)でしょうか。教会でイエス様の働きを担わせていただいていることは感謝と喜びでしかありません。
 私たちの周りにも、「だれも雇ってくれないからです。」(マタイ20-7)と嘆きつつ、神の御国の外で佇んでいる人たちがいるはずです。そのような人たちがイエス様の救いをいただいて、神をほめたたえる者とされたら、どんなにすばらしいことでしょうか。喜んで、この尊い神様の招きをお伝えする働きを続けてまいりましょう。

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