<広島原爆>88歳被爆医師が引退へ 今後は詩で非戦訴え
広島原爆で被爆し、長年被爆者の治療に当たってきた医師、丸屋博さん(88)=広島市安佐南区=が今月末、医療現場の一線から引退する。
1977年に広島共立病院(同区)院長に就任してから2000人以上の被爆者を診てきたと語るが、今月5日に米寿を迎えたのを機に決断した。
自らも原爆症と認定された丸屋さんは「核被害の過小評価は許せない」と訴え、今後はもう一つの顔である詩人として告発を続ける。
丸屋さんは山口県岩国市出身。旧制広島高校(現広島大)を45年春に卒業し、米軍が広島に原爆を投下した時は岡山医大(現岡山大)の学生で岩国の実家にいた。知人を捜すため2日後に広島に入り、惨状を目の当たりにした。
卒業後、54年に東京で勤務医になり、岡山の病院を経て77年に広島医療生活協同組合が運営する広島共立病院の院長に就いた。93年の退任後も内科医として現場で働き、現在は名誉院長で週1回健診を担当している。
「被爆者」という言葉が定着していなかった東京時代、放射線障害に苦しむ広島出身者に接し途方に暮れた。知人らに請われて広島に戻ると、残留放射能や「黒い雨」、遺伝の影響など、未解決の問題が山積していた。
「核保有国や科学者にとっては、核被害は数字の世界かもしれないが、患者には命の問題だ」。病院を挙げて被爆者医療に取り組み、相談機能などを充実させ、原爆症認定の申請を積極的に支援した。援護の手が届いていなかった韓国の被爆者を大勢受け入れ、毎年のように訪韓して交流した。
80歳を過ぎると、体の不調に悩まされるようになった。前立腺がんやぼうこうがんを患い、09年には原爆症と認定された。風邪を引くと回復が遅くなった。「昨日20分で歩いた距離が今日は30分かかる。耳も遠くなった」。
今月9日、広島市内で知己の人が集まった米寿を祝う会で医師を引退することを明かした。後を託せるスタッフがそろったことも、決断を後押ししたという。28日が最後の勤務になる。
丸屋さんは医師と並行して、詩人「御庄博実(みしょうひろみ)」の名で反核と平和を訴えてきた。戦後の広島で興った反戦文学運動にかかわり、原爆詩人の峠三吉らと親交を深めた。80歳を超えて3冊の詩集を刊行し、創作意欲は衰えていない。
昨年の新作「哀悼と怒り 桜の国の悲しみ」(共著、西田書店)では、青春を過ごした街を原爆で奪われた喪失感と、原発事故で避難を強いられた人々への思いを重ね合わせた。
「捨てる」と題した一編は「枯れ果てる田畑/崩れる我が家/だが おのれの記憶は枯れるわけにはゆかん/この故郷を捨てねばならんか」と結んだ。
年内に次作刊行を目指して構想を練る。米海兵隊の垂直離着陸輸送機MV22オスプレイが郷里・岩国の基地を拠点に訓練を始め、被爆地と目と鼻の先で米軍基地が強大化していく現状への悲憤をつづるつもりだ。
「自分の底辺には『あの日』がある」。これからも核被害の実相に迫り、「非戦」を訴え続ける。【宇城昇】
毎日新聞 3月24日(日)14時32分配信
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