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サンパウロ政府は水野龍に コーヒーかゴムを選ばせた。 水野はコーヒーを選び、サンパウロ州と輸入契約をむすんだ。 1913年大正2年 銀座6丁目に カフェパウリスタを開店 コーヒーをひろめた。 おしゃれな店でモガとモボがお茶してたのかな。 1908年6月25日付のブラジルの新聞では 日本人移民の上陸や乗車ぶりを「清潔で秩序正しい民族」と誉め 『船内は欧州船の一等船室よりも清潔だ、またサントスからの 列車内も床につばをはく人もなく、不快なことは皆無だった』 と書いてあったそうです。明治の日本人はえらいね。 渡航心得に洋服でとあったので 女性は安価なものではあったが、黒い服を着て、靴を履いて てぶくろをしている人もいたそうです。 同紙は「今後のサンパウロの産業はこの移民により築かれるだろう」 と予想したそうです。
笠戸丸 明治41年4月28日神戸港出航 6月18日午前9時半、サンパウロ港に入港 笠戸丸は仮泊して検疫を受け14号埠頭に着岸 19日午前3時半起床 午前7時下船 列車に乗り サンパウロ移民収容所へ 笠戸丸の建造は1900年 イギリス・ニューカッスルで貨客船として建造 船籍はロシア 当時、シベリア鉄道を建造するため黒海沿岸の港から極東めで運ぶ役で就航 日露戦争にはロシア極東艦隊病院船として従軍 その後、日本海軍が接収 カザンから笠戸丸に 排水6167トン 推進17ノット 東シナ海、南シナ海からインド洋、大西洋を越える西航ルート 総航程 1万1700カイリ(1カイリは1.852キロメートル)52日 船長はイギリス人 一等航海士日本人村尾武 機関長飯島巽 事務長布施謙蔵 船医草間 など士官日本人 寄港地シンガポール・ケープタウン燃料・炭・清水・食料の補給(移民は上陸出来ず) 西航ルートは暑さが大問題 食事麦飯(脚気予防)魚・漬物 最終目的地サントス
中川トミさん 1906年10月6日熊本生まれ 笠戸丸乗船時 1歳半 両親(父 光次、母 スエ)姉ふたり(コト、トモ) ズモンド耕地を脱耕 ソブラード耕地 サンパウロ市で父 大工 母 紡績工場5年働く ソロカバナ線沿線で3年働く 上塚周平植民地16年、コーヒー栽培をした。 1928年(昭和3年)両親は熊本に引き揚げる トミさんは姉の義弟中川正と結婚、ブラジルに残る。 8人の子女をもうけ、夫と農業をした。 サンパウロ州のプロミッソ耕地で4年 パラナ州カンベのコーヒー園で5年ロンドリーナに落ち着いた。 戦後の日本がアメリカに勝ったという『勝ち組』が出現し詐欺にあい、 すべてを失くしてしまうが、晩年は子供、孫に囲まれおだやかに過ごされた。 2006年10月100歳 永眠。
児島良一さんの話 「おじがいるにで、ハワイに行きたかった。 アメリカに渡った移民の中には二、三年で儲けて帰国する人もいました。 北米移民が中止になり、それで十三歳のときにブラジルに移民してきたんです。」 ズーモン農場は 待遇が悪く紛争がおこります。耕地入植52日後、サンパウロに もどり、新しい就業先をさがすことになりました。 児島さんはサンパウロに残り、家庭奉公に入りました。 「農場を出てからしばらく家庭奉公をやっていました。おかげでずいぶん言葉を覚える ことが出来ました。でもあの時分は町を歩いていると、よくシネース(中国人)とからか われよった。中にはわしにつばやたんをはきかけるものもおった」
「今日のひとから見ればまことにアホらしい甘い夢であるが、彼等800人の それぞれに描くコーヒーは金のなる木で一日五円、十円という金が転がりこ んでくるということは現実性のある夢であった。 一歩、一歩というよりも一波一波といったほうが適切である。彼らは夢の国 ブラジルに近づいていくのである。」 鈴木貞次郎が書きのこしています。 当時、日本では 小学校教員の初任給が十円から十三円 銀行員の初任給は三十五円 国家公務員上級試験合格者の初任給は五十円でした。
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