あめちゃん夢想

素敵な人々がたくさんいた、温故知新です。

素敵な人

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弓場農場

弓場勇   1906年兵庫県西宮市塩瀬町名塩生まれ70歳交通事故  死亡

蘭学の影響をうけている。  (祖父は 緒方洪庵をかくまったことがある。)

1920年力行会員

19歳の時父為之助と家族10名で入植

大正13年信濃海外協会    実際はキリスト教系のボランティア団体 日本力行会

アリアンサ移住地開設



弟、繁さんの話

中学時代は野球ばっかりやって勉強せえへん。

そしたら、力行会の永田会長にだまくらかされてブラジルに行くと言い出した。

最初、親父はカンカンになって怒ったがわしの親父いうのがねぇ

これがまたひとり息子で金勘定いうもんが全然でけん男や。

金に困って山は

売り払ってしまうし、なんとも先の見通しつかん

結局ブラジルでも行こうかいうことになったんや  アハハハ・・・

繁さんはポルトアレグレ神学校に入学し、日本人移住地における伝道をされた。



弓場勇さん

「移住は文化の創造である。このブラジルの処女地に日本民族の特徴を生かした

新しい文化の創造を」と歩み始めた。

「人が定着しなければ文化は育たない」という思想を挙げ仲間と共同生活を開始する。

倒産、分裂。



「芸術すること、
 
 宗教すること、

 百姓すること、

この三つがハーモ二ーした生活こそ、人間の求める本質的な生き方である。」


 
                         
という思想のもと再出発・・・・・

晩年には バレエ団を組織し、文化交流を深めた。

現在もその意志は受け継がれている。

魅力的な方だったんでしょうね。

新聞記者2

三浦さくの家族

  妻 郷原アサエ   明治32年8月22日福岡生まれ
         13歳の時、父の弟、その妻とともに連れ家族として移住。 
         グワタパラ耕地でコロノとして就労したが男に騙されサンパウロに
         18〜19歳くらいには夜の街で働いていた。
         三浦が客になり、そのうち朝江をひき取って妻にした。
         どこへでも同伴した。朝江の過去を知る者も多く、なかには客だった
         者もあった。三浦はそのようなことは我関せずという態度で少しも悪                 びれず、妻をますます手厚く、優しくあつかった。
    民雄   しばらくして、朝江が男の子を産んだ。当初、三浦の子と信じていた               が、生まれた子は誰の目にも日本人にはみえなかった。
         三浦は生涯一言もいわず、自分の子として温かく、懸命に慈しんで
         育てた。訪日中も毎日息子に英語、日本語など教えていたし、家庭教                 師もつけた。

日伯新聞


 日本移民が移民会社、および政策をかいた日本政府、そしてサンパウロのコーヒー経済と耕地構造、ブラジルの政治・政策のからくりによって、どのように非人間的に追い込まれていくかを解説し、そこに渦巻く欺瞞性の化けの皮をはぎながら、それらを告発することに情熱を傾ける。

一方、出稼ぎ根性に汚染され、欲の皮をつっぱらせて粗食と過激な重労働を重ね自ら倒れていく日本人移民をも手厳しく論断していくのであって、けっして哀れな棄民として、貧しい日本人移民を庇護する安手の正義感の論を展開しているのではない。

1、 州政府から補助金をもらうのが過ち
コーヒー耕地の良悪の落差は極端に激しく、補助金をもらっているから
耕地選択の自由を奪われて、不利な耕地に連れて行かれる。

2、 我が政府が資金を融通することが必要である。
里子に遣るには旅費をつけてやるのが当然であって、費用の不足を先方から
もらうなど恥である。
日本政府が移民会社を通じて渡航費の補助するようになったには1925年からである。

3、 契約移民を全廃してすべて自由移民にし、独立自営農に
移民問題に就ては政府自ら柱庵たるべし。
自由移民の立場より伯国を見れば世にも都合よきところである。
契約移民は奴隷制時代からの遺制がのこっている。
耕地は「経済的島」と言われる。
他から隔離される。労働者は自由に離れられない。
情報、通信は耕地により管理される。
耕地経営の商店で市価の幾倍かで物を買わされる。

大正12年10月
伯国社会は現今の珈琲園を除いたほとんど放漫に近き自由なところであるうえ
に国土は飽くまでも富んでいて、日本のようにややもすれば働いても食べられないというベラボウな国ではなく、働けば必ず食べられるところだ。
親はなくとも子は育つ。それでも日本人は珈琲園に放り込まれただけで
その後、銘々勝手の方向に発展して、其の所に自己の運命を開拓することとなった。
これには、領事館の指図も移民会社の助力もなにも受けない。生一本で進展した。


初期移民だけでなく、日本から契約移民した方の苦労は続いたのですね。

新聞記者

風狂の記者 ブラジルの新聞人  三浦鑿(さく)の生涯  前山隆著

とってもおもしろかったです。

明治の男って感じで かっこいいです。



 三浦は   明治14年12月6日生 愛媛西条


    父 熊八1858生まれ 銅山師  あるとき濡れ手に粟式の大金をつかみ
                          またあるときは夜逃げの山師
    
      実母 籍を入れてもらえず出産。 発狂し、死亡。

継母と同居
      26年西条小学校に入学 11歳

感性の烈しい継子に手を焼き、父親が留守ねらって、四国遍路の順路にあたる町を
大勢通った巡礼の旅人の一人に頼みこんで、捨子として連れ去らせたという。
帰宅した父が激怒してどこまでも追いかけて連れ戻ったという。

      29年4月中学校入学 下宿
    明治31年16歳東京
      32年4月から34年4月在籍
        私立中学郁文館編入
        国民英学会に進学

    明治32年山津波  父財産失す。正式結婚3人妹 大正7年死亡。
    明治34年12月     教師  新潟県高田中学校柏崎分校に就職
三浦は黒帯たった。  
講道館柔道を柏崎中学にもたらした
39年「職員職務規定」職員、生徒との日常生活のすべて軍隊式の細々した規則によってがんじがらめにされていたとは考えないが、自由奔放に生きてきた野人三浦にはしだいに
息を詰まらせていったとうかがいしることができる。


勝田加一 明治9年生まれ三浦より5歳年長 柏崎  書道
     35年創刊「中越新聞」の編集者。

     合体して「柏崎日報」になる。

勝田の関係した新聞はどの政党にも、権力にも与せず、自由な立場で主として
地域の問題を論じ、報道を行った。
勝田がやっていた新聞がサンパウロの三浦の「日伯新聞」のモデルになる。
書は人なり。

三浦の生涯は破天荒であるが日常の生活は規則正しく、しかも手習いを日課にした。

    23歳小樽   英語の先生   
    38年大陸に渡る。上海


1908年12月8日ブラジル海軍練習艦ベンジャミン・コンスタント号は世界周航

          海兵たちの柔道教師として将軍らと上陸。

    27歳 パスポートなしでリオデジャネイロに現れる

    リオデジャネイロで海軍兵学校の武術教師になる。

    カポエイラと試合
        瞬時に負けた。挨拶するつもりで手をだしたら、やられてしまった。
        言い訳せず、武術教師はやめた。
リオ浪人    山県宅
    1913年リオはなれる
    各地を放浪後サントスで新聞記事をかいていた。


    1919年9月「日伯新聞」
            金子に5コントス支払って社主になる。
鋭く真実を見抜き、堂々と記事にしていく三浦は敵も多かった。

国外追放
三浦の国外追放運動はブラジル在住日本人の興した運動
7月11日リオ出航のイタリア船に三浦を送り込みブラジルから追放した。


日本へ
1944年12月6日力行会の建物の方に行った。
1945年5月頃、憲兵隊が幾度も三浦をさがしに来て連れ去り、そのまま三浦は終戦まで収監された。巣鴨の留置場から小菅拘置所へ移されたと考えられる。


連行されるまでは意気軒昂であり、数ヵ月後出獄してきた時はすでに憔悴し切っていたということである。
敗戦直後の日本の刑務所から解放されてまもなく東京で死んだ。

渡辺トミさん2

ブルー家では家庭教師をつけて勉強させてくれた。

1918年10月25日ボア・モルテ教会で洗礼をうける「マルガリータ」クリスチャン

名をさずかる。

コンデ街の日本人の子どもが日曜学校にきたが言葉がわからないので
トミが手伝うことに、日本人青年にもポルトガル語を無料で教えた。


1920年親戚の池上が鹿児島に帰ったので130円父にとどけてもらった。

日本人医師 高岡専太郎夫妻のはからいで陶器会社で専任会計士の渡辺儀平を紹介される

儀平は 1910年13歳のとき、兄と第2回旅順丸でわたり、コーヒー農園の契約を終

え、ひとりでリオ・デ・ジャネイロ市で働きながら商業学校にかよい、1922年大正1

1年に卒業。日本人はじめての公認会計士になる。

1928年昭和3年4月19日ブルー家応接間で結婚式がおこなわれた。

1942年昭和17年1月19日サンパウロ州保安局は
日本・ドイツ・イタリア人を敵国民として、取締り令をだした
3人以上の集会、公共の場所での母国語使用、母国の歌など禁止
おぼえのないスパイ容疑や路上でちょっと日本語をつかったというだけで
着の身着のままでつかまった日本人で留置場は満員になった。

トミが留置所へ衣類の差し入れをたのまれる。

トミたちはサンパウロ大司教ドン・ジョゼ・ガスパール神父に相談

大司教館のもとで活動 政治警察の許可がおり、「サンパウロ市カトリック日本人救済会」が発足した。


1945年8月15日終戦

政府公認の民間社会福祉法人として登録

信仰、人種、国籍には関係なく、だれでも、たすけを必要とする人たちを無料で援助し、宗教にとらわれない団体をめざす。

1958年5月25日 日系老人ホーム「憩いの園」が開園

1970年バチカン市国、ヨーロッパの国ぐにをたずね、45年ぶり2度目の帰国

1974年サンパウロ市議会はアンシェッタ章

1976年病棟が完成

1978年移民70周年 移民祭開かれる。

勲四等宝冠章を日本政府は送る

1990年特別老人ホームを完成

1992年日本の吉川英治文化賞、受賞


1996年3月12日永眠  (91歳)

      ブラジル日系人は「移民の母」とよんでいます。


初期移民は女性が少なく結婚できなかった人も多かったようです。
結婚し、子供に恵まれても大戦中、日本語が禁止になったこともあり、
ポルトガル語で話し、ブラジル社会で育った二世とはうまくいかない
ことも多く孤独な老後を迎えなければならなかった人達には日系老人
ホームは安らぎの場所だったことでしょう。

渡辺トミさん1

渡辺トミ

      ブラジルの大地に生きて

          マルガリータ渡辺    藤崎康夫著   より


1900年明治33年10月25日

父・池上豊二             母・アイ


長女としてうまれた。ユミ、一利,タミ

鹿児島県 枕崎   父は船主(漁業経営者)でカツオ漁船

と鰹節工場を経営。

1908年明治41年4月28日父の妹と弟・ツヨと恒利が笠戸丸でブラジル移民

1909年6月 破産

1911年母死去


       姉妹ばらばらにあずけられる。

       トミはおばになじめず、学校にもいけなかった。

       以前、父のカツオ船にのっていた船頭の鳥越末次郎はトミのことを気にか

       けてくれていた。鳥越がブラジルに行くことを知り、連れて行ってほ

       しいとたのみこんだ。

1912年 明治45年3月10日神奈川丸   トミ11歳

           4月25日サントス入港

叔母ツヨに再会。         サンパウロ移民収容所へ


移民会社の人とツヨがトミがコーヒー農場に行かずにサンパウロ市にとどまれるように

手続きをしてくれた。


    6月14日グロリア街にあるブルー家に家庭奉公にはいる。

        フランスから移住してきた一家。

家族は    パウロ医学博士52歳

     妻・セバスチアナ 52歳

    長男・セレスティーノ医学博士32歳

    長女・ブランカ25歳

    白人家政婦・黒人料理人の女性、黒人の庭師男性    トミ

    パウロ博士は毎日ひとつずつ言葉をおしえてくれた

    セバスチアナ夫人は敬けんなカソリック信者

    ミサに連れて行ってもらったり、日本製の人形を買ってもらった。




    このままでは 自分はひがんで意地悪になってしまう

           自分はだめになると思ってブラジル行きを

           11歳の少女は決めたそうです。

            すごいよねぇ

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