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土曜日に行ったときの布教のメモをここに記します。
因みに
布教というのはどんなにいい文章を書いても、書くのと口で伝えるのとはまったく違います。了承ください。
いのちと生命の違い
いのちと肉体の違い
肉体は土に埋めたり、火葬して骨になります。
それで終わりでしょうか
いのちはどこにいったのか。
私たちのいのちは阿弥陀様の国極楽浄土へ行くんです。
そこで生まれて、みんな一緒に生きていく、それが阿弥陀経というお経様に書かれている教えであります。
阿弥陀仏様は私の名前を言うた人は必ず極楽浄土へつれていくと約束しているんです。どうぞそれを心にとどめていただいて、南無阿弥陀仏の念仏をとなえていただきたいのであります。どんなによい行いをしても、お金を稼いでも、どんなにみんなから担がれても、念仏を唱えないと極楽いくことができないんです。
ここから西の方へ遠く遠くはなれたところに名づけて極楽という世界がある。その国は阿弥陀仏さまがおられ、今現在、説法されている。
つぎにお釈迦様は弟子にいいます。
なぜ極楽というか、知っているか?その国の人は何の苦しみもなく、いろんな楽しみだけを受けている。だから極楽というのだ
苦しみがなく、ただ楽のみをうけるとゆえに極楽という。と阿弥陀経に説かれています。
楽は楽でも修行をするのに楽ということです。
私たちがいますこの世界では楽をすると必ず苦労が待っています。楽というのは苦しみの種になる。それが私たちのいう楽であります。この世界はどこに行ってもどんな時代でも苦しみから逃れることはできません。
どこにいっても苦手な人っていますね。
生きる上でほとんどの苦しみが人間関係ではないかと私個人思っております。
曽野綾子さんがつぎのように人間関係についておっしゃっております。
おおよそ、私たちのほとんどの悩みが人間関係であります。
それはどのような知恵も教育でも解決できるものではありません。それくらい人間というものは複雑で一筋縄ではいかないから、人間関係の基本は永遠の失敗ということで決まる。しかし、それだけにごく稀にうまくいったときの嬉しさは貴重だし、うまくいかなくて当然の苦しみが私たちの心を柔らかなものにする。
ホント人間関係って人に相談しても解決できないことが多いですね。昔の人は今よりももっともっと人間関係が濃いくて深いから、そうとう苦しんであったと思います。
それくらい苦労が多かったのか、歳をとるのも早かったのではと私は想像します。
この歳をとるということもこの世の苦しみの一つ。
時間というものが存在する限り、歳をとります。これはみなさんの方がはるかにご承知であります。こんな私が32歳の若造が歳を取るをとるんですよといっても全然説得力ありませんし、失礼ですね。
今年西日本新聞でせんがい和尚の特集をやっておりました。
玄侑 宗久さんという芥川賞作家であり臨済宗のお寺さんである方が江戸時代に博多の聖福寺にいらっしゃった仙涯さんの書いた老いについての詩を紹介します。
しわがよる。ほくろが出来る。腰が曲がる。頭がはげる。ひげ白くなる。手は揺れる。足はよろめく。歯は抜ける。耳は聞こえず、目はうとくなる。
身に添うは、頭巾、襟巻、杖、眼鏡、たんぽ、温石おんじゃく、しびん、孫の手。
聞きたがる。死しにともながる。淋しがる。心は曲がる。欲深くなる。くどくなる。気短かになる。愚痴になる。出しゃばりたがる。世話焼きたがる。またしても同じ話に子を誉める。達者自慢に人はいやがる 。
寂しがって、心が曲がって、欲が深くなる。
欲が深くなると物事を客観的に見れなくなって、自分はなんて不幸なんだろうと思い込むようになります。
それによりどれだけの人を傷つけることになるのか、
私ごとでありますが、
お盆の後、なんでこんなにきついのかなと、病院にいって検査したら、喘息の発作がでてます。あなたの今の肺の機能は95歳と結果がでてます。これからずっと喘息とのお付き合いですよ。とお医者さんにいわれました。しばらく声を出してはいけません。2週間は安静にしてくだい。お仕事は?お寺さん。お経も唱えないほうがいいですね。とまでいわれました。
なんで喘息、この私が喘息になるなんて、非常にショックをうけました。
病気になると気持ちまでもが落ち込んでします。もうだめかもしれない。
その2週間は一歩も外にでませんでした。出たくても出ようという気になれなかったといった方がいいかもしれません。
病気したときはあらゆることがネガティブになります。自分の悪いところがどんどん出てきます。
イギリスのことわざに「病気というものはわれわれの本性を教えてくれる」ということばがるように病気というのはその人の本質がでてくるんでしょうね。
どんなに体が健康で、死に物狂いでお金を稼いでも、仕事を成功しても、みんなから尊敬されても、それでいいのだろうか、死んだらゼロになってしまうのなら、一体なんのために生きてきたのだろうか。
体が健康のときはなかなかそういうことは考えません。
しかし、突然病気したり、うまくいかない時、壁にぶち当たったとき、本当に大事なものが見てきます。
お釈迦様はお悟りを開かれて、最初に何をおっしゃったか、それはこの世は苦であるということ。
生きる苦しみ、歳をとる苦しみ、病気の苦しみ、そして人はみんな死ぬという最大の苦しみがある。それを前提として、しっかりと向き合って、物事を考えましょう。というのが仏教であります。
極楽はこの世界でどれだけ探してもありません。
この世界にあるのなら、戦争、地震や津波、自殺は存在しません。
私たちの心の中にあるわけではありません。もしも心の中にあるんだったら自分の心を拝めばいいということになります。
そもそも私たちの心の中というのは欲にまみれております。煩悩をもっている私たちです。そんな中に綺麗なものがあるわけがないと考えるのが仏教。
はっきりと死んだ世界があるのはこの阿弥陀様の国だけ。
テレビではなくなったら天国といってます。キリスト教ではものすごくきちんとした信仰心がないと天国にはいけません。ものすごくきびしい信仰です。
仏教にも一応天国はあります。しかしそれは苦しみの世界の一つであります。お寺さん呼んで葬式するとき弔事を読むとき天国で安らかにしてください。といいますが、天国は人間世界より美しい人がいっぱいいますが、醜い人もいっぱいいます。この世とかわらず仏教の天国の人々は欲望をもっておりますので当然苦しみがあるのあります。
私たちの心、欲望、その欲望でどれだけわたしたちは苦しんでいるか。
ある考えさせられる文章を紹介させていただきます。
一番すきなのもの(詩)
18歳の関本理恵さんの詩を紹介
「一番好きなもの」という題名。
私は高速道路がすきです
私はスモッグで汚れた風がすきです
私は魚の死んでいる海がすきです
私はごみでいっぱいの町がすきです
殺人詐欺自動車事故が好き
そして、何よりもすきなのは
多数の人が
涙を流す
血を流す
戦争が大好きです
飢えと
寒さの中で
戦ってしんでいく姿を見ると
背中がぞくぞくするほど
楽しくなります
毎日毎日
大人が
子供が
生まれたばかりの赤ん坊が
次から次へと
死んでいるかと思うと
心がゆったりします
歴史を歴史と感じ
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お説教
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土曜日に行ったときの布教のメモをここに記します。
因みに
布教というのはどんなにいい文章を書いても、書くのと口で伝えるのとはまったく違います。了承ください。
十夜法要とは阿弥陀様が仏様になったことをお祝いする法要です。
去年の十夜法要から今年の十夜法要の間になくなられた方を初十夜といいます。はじめてお盆をむかえるところを初盆といい、はじめて十夜をむかえることを初十夜というのであります。
葬儀をむかえる大変な年であったと察し申し上げます。葬式を迎えるということがどのように受けとめるのか、どのように考えなければならないか、きちんと整理しておかないと、どんどん心が折れていきまし、心を整理することがなき方への供養に繋がっていきます。
それは3.11の震災もそうであります。
私たちは今回の震災で何を考えなければならないか。
なにも解決できていないのではないか。ただ時間がすぎてしまって、放射線はあるのかないのかをただ不安に生きているだけではないのか。
震災後には結婚相談が2割ほど伸びたそうですが、被災地では震災前に比べてうつ病は3倍に増え、離婚相談も3倍に増えました。
本当に私たちは幸せになったのだろうか、ご先祖さまと比べて、物質的に豊かになった便利になったんだけれども、幸せを感じるようになったのだろうか。
山元町がやった心を絆をもどして安心を得たこと。
仮説住宅を建てたが、ほとんどの町はお年寄りや障害者を先に入れた。
宮城県の山元町では地域ごとにいれた、当然批判をうけた。
ところがお年寄りや障害者を先に入れたところは、なにをしていいかわからない、隣近所知らない者同士で先へ進むことができなかった。不安でいっぱい、避難所生活の方が良かったからそっちへ帰りたいという人まで出てきた。
山元町では地域ごとに入っているから、隣の人がどんな家なのか知っているから安心、しかも、緊急のときだからみんなが助け合っていこうと団結する。そうやって成功をおさめていった町があるんです。
普段は面倒だとか古臭いとかいわれる絆、近所付き合い、地域社会、山元町はそれが大事だとわかったのであります。
今絆がなくなっている。それ故葬式をしない家族。なくなると火葬場へ直行、都会では多い。3割もあるといわれている。
そのせいか、今葬式を知らない子供が増えているそうです。
子供なんか控え室かなんかに閉じ込めておく家族、めいわくをかけるからという理由かもしれませんが、なんとなく子供に見せようとしない雰囲気がただよってます。臭いものにはふわをするような。
親しい人を失うということ、悲しみ、苦しみを伝えるということがなくすことになる。世の中楽しいことだけではない、苦しいこと悲しいことがいっぱいある。そのことを体験していないと人に寄り添うことができなくなる。
お葬式というのは極楽浄土におくることはさることながら、社会的な機能からみたら、一人では弱い存在である人間が死別と向き合ってとき、誰かに支えてもらうことで生きるために必要な力を得る時間や場所として葬儀がある 。悲しみを寄り添うことが大事。
死をタブーとしようとしている現代。
なぜそのようになったのだろうか。
日本人が昔からもっていたある価値観が共通の価値観が失われたせいであるという話があります。その価値観とは死生観。死んでも私たちは同じところに行くんだということ。
なぜそういう動きか、きちんとした死生観を伝えていない、伝わらない。体験していないという現実があります。
ある保育園でうさぎが死んだ話
子供が保育園に通っている関係で、保育園で行われたの講演を聞いておりました。
ある保育園で飼育していた、飼っていたウサギが死んでしまいました。
そこで保育しの先生がみんなでウサギさんのお墓をつくりましょうということになった。保育園の敷地の隅のほうに穴をほって、ウサギを埋めた。そして保育氏の先生はこういったんですね。ウサギさんは遠い遠いところのお星様になったんだよ、といって子供たちをなぐさめたんです。
ところが数日後、とこもあろうに子供たちが思わぬ行動に出たんですね。
ウサギを埋めている墓を掘りおこしてしまったんです。
ウサギは本当に星になったんだろうか。という素直な疑問です。
なんだウサギはお星様になっていないじゃなか、先生はうそつきだ。とはやし立てたということが実際にあったんだそうです。
どうでしょうか、子供に伝えるってものすごくむずかしいと思います。本質がわかっていないとわかりやすく説明できませんから。
いのちと生命の違い
いのちと肉体の違い
肉体は土に埋めたり、火葬して骨になります。
それで終わりでしょうか
いのちはどこにいったのか。
私たちのいのちは阿弥陀様の国極楽浄土へ行くんです。
そこで生まれて、みんな一緒に生きていく、それが阿弥陀経というお経様に書かれている教えであります。
阿弥陀仏様は私の名前を言うた人は必ず極楽浄土へつれていくと約束しているんです。どうぞそれを心にとどめていただいて、南無阿弥陀仏の念仏をとなえていただきたいのであります。どんなによい行いをしても、お金を稼いでも、どんなにみんなから担がれても、念仏を唱えないと極楽いくことができないんです。
ここから西の方へ遠く遠くはなれたところに名づけて極楽という世界がある。その国は阿弥陀仏さまがおられ、今現在、説法されている。
つぎにお釈迦様は弟子にいいます。
なぜ極楽というか、知っているか?その国の人は何の苦しみもなく、いろんな楽しみだけを受けている。だから極楽というのだ
苦しみがなく、ただ楽のみをうけるとゆえに極楽という。と阿弥陀経に説かれています。
楽は楽でも修行をするのに楽ということです。
私たちがいますこの世界では楽をすると必ず苦労が待っています。楽というのは苦しみの種になる。それが私たちのいう楽であります。この世界はどこに行ってもどんな時代でも苦しみから逃れることはできません。
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第四懺悔(さんげ) 其の二
自らの罪を認め告白すること
片ちぶさ つかむは欲の はじめなり
生まれる前から私たちは罪を作ってきております。
生まれてきた赤ん坊が教えもせずに泣いたり、腹を立てたり、するのはなぜでしょうか。
片方の乳房を飲んでいるときもう片方の乳房を取られんようにしっかりつかんでいる。
誰にも教わったわけではない。最初から持ってきたものがある。そうやって作ってくる罪というものがあります。普段の生活で作っていく罪というものがあるのです。
これくらいいいだろうと思って小さい罪を作ってはいけない。
ちょっとずつの水であっても、それがたまると大きな器をいっぱいにするほどになる。
これくらいいいだろう、あやまったらいいだろうというのが懺悔ではありません。
罪というのは包み隠すというところから来ております。気づかないかもしれませんが私たちは自分で反省するぐらいの罪を犯しているのであります。
神道でも禊(みそぎ)といって今までの罪、汚いものを洗いましょうといたします。
純一君(前回の話)のお父さんのようにこれくらいいいさ、と思ってやっているとたまりにたまって、、、、
となります。
仏教では尊いみ教えを居眠りして、聞かなかったというのは罪になるとお経に書かれております。(笑)
せっかく仕事を休んで三日間通うのですから、聞いているフリをしていたら、世間ではそれで済むかもしれない。仏様はちゃんとわかっています。仏様の目からはごまかしがききません。悪い種をまけば悪いものが出てくる。壁に耳あり、ふすまに目あり。
包み隠さず懺悔しましょう。
人は直接、人に加害を加えなくても存在自体が罪であることがある。 村瀬かよこさんの作品、「遠い冬の日の夜」を紹介します。
昭和11年の頃、しだいに戦争色が強まった頃。私は祖父を見送りに行こうと駅に向かった。
(中略)
夜行列車がなんとなくロマンチックに思えた見送りだった。
お気に入りのコートをパステル調の淡いピンク色、姉が髪を内巻きにカールしてくれて、そのコートを着ると、まるでシャーリーテンプルちゃん(当時の有名子役)みたいと周りからも言われて、いささか、よい気分になっておった。
母と手をつなぐと、祖父は再会を約束しながら、いよいよ優しい言葉をかけてくれた。
汽車のテールランプが遠ざかり、闇にきえようとするころ、プラットフォームにすぐそばにいた私と同じくらいの年齢と思われる女の子が激しく泣いており、
連れのおじいさんかと思われる人に強いきびしい口調でしかられているのがわかった。
その女の子は私の着ているコートを指差して、あんなものを着たいと泣いていた。その女の子はセーターの上に半纏(はんてん)を着ていた。私は子供心にもその子の家庭の暮らしの裕福でないことに感じた。
それまでのふわふわしていた気分は一転した。私は自分は意図せずとも、その女の子が気づいて、無性に悲しくなった。私は母の手を引っ張るようにして家に帰るのを急いだ。
家に帰ってもそのコートを見ると、そのことを思い出して、悲しさがこみ上げてきた。これからはグレーと黒のオーバーコートしか着ない。もうピンクのコートは着ないと私は母に言った。
母はいつも黙っていても、子供の気持ちをわかってくれる人だったが、このときもあの女の子が泣き出したときと関係があるらしいと察してしるようであった。そっとわかってくれ、だまっている母、大好きな母だった。
「じゃぁ、あげてもいいのね」と当時、大連に住んでいた父方のいとこが来たときに、そのコートをあげた。いとこは大喜びだった。そのコートが目にふれなくなっても、私は時に物悲しい思いになった。
人間は直接加害的行為をしなくても存在自体が罪であることがある。罪があっても生かされている感覚の原形をあの遠い冬の出来事が私に教えてくれたのである。
人間は直接加害的行為をしなくても存在自体が罪であることがある。
そう考えると私たちはなんと罪を犯しているでしょうか。
昔の布教師さんがよく使ったいた話に
空腹の われにみかんをくれる人
手ないのわれを また悲します
という歌があります。
昔の列車というのは隣の人、向かいの人とも楽しく会話をし、食べ物や飲み物を交換しておりました。
そんな中で体が不自由な自分でみかんがむくことができないお方がおりました。
列車に乗っている見ず知らずの人からみかんをどうぞとひとつもらう。もらったこの方、自分でむくことができない、あげた方はそういうことを知りませんから、いいことをしたと思っているが人を悲しますことになってしまう、そういう気持ちを込めた歌であります。
あやまったから済むのではありません。悪い行為をしないということです。皿は割ってももどりません。
ワシントン君の話
初代アメリカ大統領ワシントンは小さい頃はたいへんないたずら好きな少年でありました。
悪さばっかりしていて、こまりはてたお父さん、なんとかこの悪さをなおさないといけないと思って台所の柱におまえがこれから悪いことをしたら、釘を一本ずつ打つ、いいことをしたらその代わり釘を一本抜くぞ。
いくら子供でも自分の家の台所の柱に悪いことをした分釘を打ったら、少しは気をかけるだろうと思った。なかなかいいことをしない、悪いことばかりしかしない、柱中に釘がいっぱいになった。
ワシントン君それが気づくようになっていいことをすることになる。いたずら、悪いことを少なくなった。ふえたりへったりがつづいて、とうとう釘が一本もなくなった。
そこでお父さんがワシントンを呼んで柱をなでさせた、「おまえはいい子になったね、ごらん、あれだけたくさんあった、釘が一本もない、ワシントンも誉められてニコニコ顔。
「だけどね、釘は一本もないけれど、釘を打った穴は二度と戻らないんだよ、この穴は神様しかなおすことができないんだぞ」と。
釘を抜けばいいということではありません。釘を打つということが悪いのであります。
穴を作ってしまってはどんなに懺悔しても、もとには戻らないのです。自分の力ではどうすることもできない、きれいにすることはできないのです。
仏教では人は一日八億四千回の思いがあって、そのほとんどが地獄に落ちる原因となる行いと考えます。
悪い方へ悪い方へ、わがままに使ってしまっているのです。一日でもそれくらいの罪がたまるのだから、一生涯ならものすごい。お経さまに書いてある通り、仏様の念仏の功徳でしか、この罪を洗うことはできないのです。
キリスト教の牧師さんの話
ある信仰心があるキリシタンがおりました。そこの教会の牧師さんはいつも「懺悔しなさい、懺悔しなさい」というのが口癖。その信仰心がある方がなぜそんなに懺悔しないといけないのかと聞くと、「人間は罪つくりだから、懺悔しないといけない」という。
しかし、そこまでしなくてもいいのではないかというと、それでは今から言う物を持ってきてと言った。
一つは大きい石、二つ目に中ぐらいの石、三つ目は小さい石。
この三つを探してきなさい。と牧師さんが言った。
その信者さん、言うた通りに持ってきた。すると牧師さん、「元にあったところに戻して来なさい」といった。
何をさせるのだろうか、牧師さんとの付き合いがたいへん深いため、その信者さんは素直に戻そうとしました。
大きい石はここにあった。後がついているからはっきりわかる。
中がらいの石、拳ぐらいの石もたしかここにあった。これもだいたいわかった。
ところが小さい石、小指の爪のくらいの石だからどこにあったのかわからない、たしかこのへんだったんだけどなあ。と探してまわる。
それを見ていた牧師さん「そうだろうね。私たちの罪も一緒だよ、大きい罪、中ぐらいの罪はわかるけど、小さい罪は自分ではわからないんだよ。だから人間は罪作りだから、懺悔しないといけないんだよ」
気づかずに犯してしまう罪があるのです。これくらいいいじゃないと思って私たちは小さな罪を重ねているのです。
だから念仏をして常に懺悔しなければなりません。
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第四懺悔(さんげ)
自らの罪を認め告白すること
善導大師は 「念念称名常懺悔」といって悪いことをしたと気づいたら念仏するとそれが懺悔になりますとおっしゃいました。
浄土宗の日常勤行で
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち) 従身語意之所生(じゅうしんごいそしょしょう) 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ) とお読みいたしてその後お念仏を唱えますね。これが懺悔であります。
伊藤ヒロミさんという詩人がこのお経をわかりやすく訳しております。
私がこれまでになしてきたいろんな過ちは、はるかな昔から脈々とつながる貪る心、怒りの心、おろかな心をもとにして、体、言葉、意識を通して現れてきたもので、私は今、きっぱりとここに誓う、そのすべてをひとつひとつ心に切り刻むようにして悔いていきます。 そうしないと汚いまんまではきれいな戒はさずかろうと思っても入らないのであります。ここであらいざらい出していただきます。
いっぱい罪を作っているということを反省しないといけません。私は警察につかまっていないから大丈夫だ、というのではいけません。
かくいう私も警察につかまったことがあります。船に間に合わないとおもって高速を飛ばしておったら後ろから「ウウウウーーー」とサイレンが鳴って覆面パトカーにやられました。つかまえるなら堂々とつかまえてほしい、悪いのは私。
道徳的に、人に後ろ指をさされていないから罪ではない、だれにも迷惑をかけていなくても、心の中で思っていたら包み隠してもこれは罪になります。これが宗教上の罪です。
台風シーズンになると台風あっちいけーと思う。
なんで田舎ばかり来るのだろうか、私の島は安い地図には載っていません。なぜ地図に載っていないようなところに台風がくるのか、東京の永田町に行ってたらもう少し政治が変わるのかもしれないのに。と思ってしまう私。自分中心に物事を考えてしまうからです。
ぬすみせず 殺さぬことはよきにして
われ罪なしと 思うはかなさ
世間の目では100円ぬすむのと100万ぬすむのは大違いだが、
仏様の目ではぬすんだという行為は同じであります。
何億も横領した人にとってはたった1円、たった10円と思うのは人間のものさし、宗教的に見たら盗みをしたという行いであります。
当たり前をよろこばない罪もあります、感謝しない罪、報いに報わなければならないのに報わない罪、だれにも迷惑かけていないのにという宗教上の罪。
あるところに淳一君という少年がおりました。
8歳の時、お父さんといっしょにドライブに出かけた。
アルコールがはいっていたのか、スピードの出しすぎで、白バイにつかまった。お父さんはやられたとつぶやいて、警察のところへ行った。免許証を出して5000円一枚を警察官ににぎらせた、ちょっと注意をうけただけで無罪放免となった。
再び車に乗っては知らせた、淳一君はお父さんに言った。
あれはワイロというんじゃないの?
するとお父さんはみんなやっているんだと苦笑いをしていった。
淳一君9歳になった。
お父さんと魚釣りにいった。魚がなかなかつれないのでお父さん期限がわるい、帰りの電車の切符を買うときにお父さんが入場券だけ買って来い、あとは学校に行くときに使う定期があるだろう、あれで降りなさいと言った。魚がつれずにイライラしていたため安くあげようと思った。淳一君、あれはキセル乗車っていうんじゃないのというと、いいんじゃ、いいんじゃ、みんなそうしているんだ、わからなければいいんじゃ。
10歳のある朝、淳一君、朝寝坊をしてしまった。
その学校では遅刻をしたら親の遅刻届けがいる。寝坊をして遅刻なんだけど、お母さんは届けに「腹痛」と書いた。僕はおなかがいたくないよといったら、ありのままに書いたら親が起こさないのがばれてしまって恥ずかしいからそうしなさい。
ある日、友達とケンカをしてしまって耳を傷めた、耳鼻科にいくことになった。病院にいくとき親がいうた。おまえは学校の安全保険に入っているから学校でけがをしたって医者にいうんだぞ、いや帰ってきてけがしたんだよ。と淳一君がいうと、いや学校でけがしたことにしないと保険がおりない。
12歳になった。
お父さんがはじめての海外旅行でおみやげに派手な赤いセーターを買ってきた。淳一君の学校では派手な服を着てきたらいけないということになっているが、お父さんとしては自分がはじめての海外旅行で買ってきたのだから着てほしい、
父「若いものはこれくらい着ないといかん、着ていけ」
淳一「だめだよ父さん」
父「着ていけー」
13歳
夏休みの間、親戚のおばさん家の八百屋で手伝いをしておった。
おばさんからトマトをならべてといわれ、つぶれた汚いものを上において、きれいなものを下においておったら、
「こら!そんなことしたら売れんやろ、きたないものは下にしてきれいなものを上にして並べなさい」。
「そんなことしたら下がつぶれるよ」というと、
「そうしないと売れないの。」
14歳
親戚の集まったとき、税金の話になり、ちょうど申告の時で大人が話しているのを聞いておったら、いわゆる申告をごまかす方法を話しておった、そして、おじちゃんの一人が、「こういうことは学校で教わらんだろう、人生勉強だ、こうやって税金はごまかすのだ」
15歳
淳一君、万引きをしてつかまる。
親が呼び出され頭をペコペコさげ、引き取って淳一君に親が言うには「お前を万引きするような育て方をした覚えはない」と
そのことが親戚中に知れ渡って、
「うちのこの親戚から血族から警察のやっかいになるものが出るなんて、面汚しだ」
と言われた。
子供に席をとらせるような人がいる、誰にもめいわくかけていないけれど悪いこといっぱいやっている。
(時間が来て)時間を守らないのも罪ですので、休憩を挟みます。
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去年の11月27日〜29日に長崎の長寿院でおこなわれた授戒会で布教師さんの話を聞いたものをお伝えしております。
(画像はそのときの布教師さま)
第三 請師
お師匠さまをお迎えすることです。
お釈迦様やお弟子さんたちは今の世の中いらっしゃらないので、今の人達に代わってなってもらい、その代理をしていただきます。目に見えない仏様を目の前にいると受け取る。
私たちは儀式という形式をともなわなければ、なかなかその内容を身に付けることが難しいのです。
結婚式というのは届けてしまえば結婚していることになりますが、やはり式を通じてその人達、周りの人達がきちんと受け取っていきます。
葬式もそうであります。今は火葬場へ直行だから遺体処理をしているだけです。ちゃんと行くべきところへ見送りをするのが葬式です。その儀式を通じて別れを悲しみ、49日を通して心を落ち着かせる。またそういう区切りがあるから、生活が整えていくのであります。
水を飲みたいといっても水だけでは飲めない、コップが必要であります。戒を授かるためには五座の請師をお迎えいたします。
五座の請師
1、お釈迦様
2、文殊菩薩
3、弥勒菩薩
4、十方の諸仏
5、一切の菩薩
お釈迦様の代理となる人を敬う。
自分は先生になったおかげでこうしてお酒が飲めるようになったという話をしていたら、ある思い出で話にこういうことがあったそうです。
おせわになった先生が
「キョウインとはどんな字を書くかしっているか」と聞かれた。
「教える員って書くのでしょ」というと
「ちがう、強く、飲む」と書くのだ
といわれたそうです。
酒を飲んで、仲間を作っていかないといかん。
そうやって、教えられた。あの先生のおかげで今の自分がいるのだという話。
お釈迦様は今はいらっしゃらないが人生最大のお師匠様としてあおぎ、授戒の儀式にお招きするのが第三請師であります。
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