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諸事物の断片(248)
原爆ドーム 爆心地からわずか数百メートルにあった建物が今でもかろうじて骨組みを残して立ち尽くしている姿は思えば異様である。 私は広島には行ったことがないのでその現物をこの目で視たことはない。 常にその姿は百メートル程離れた位置から撮影されて陰影の如く映ったものとして私の目にはイメージされてきた。 今日初めて現地付近をグーグルマップで見てみると建物のごく近くは瓦礫が散乱したまま残されていることを知ったのである。 普遍性 「笑顔は世界で共通なんだと思いました。」 これは女子ゴルフ全英女子オープンで優勝した渋野選手の記者会見での言葉だ。 正確に言うと同じ笑顔を共有する人達が集まる場所にだけ我々は足を踏み入れることが出来るということである。 本当に世界で共通なのは貨幣だけである。 笑顔は相対的に・条件付きで流動性を保っているに過ぎない。 まぁちょっとリップサービスをしておくと今回の彼女の活躍で日本人の笑顔の流動性が少しだけ高まったとしておくしかない。 渋野選手のお母さんは「娘は周りに育てられた」と言う。 娘の成功がご自分の育て方ではなく本人の素質でもなく他人のおかげであることを一言言うのは日本では謙遜として了解され、またそのように言うことが期待される。 アメリカではそのようには言わない。 同じように自分の娘が勝利し、栄誉ある賞を得た際には「娘を誇りに思う」とストレートに言うのが定石だ。 もちろん副次的な部分では周りの友人への感謝・長年のパートナーであるコーチらを評価する言葉も添えるのだろうが賛美のピークはあくまでも娘である。 それらの違いは日本人が謙虚でアメリカ人が高慢であるからというわけではない。 単にそれぞれの社会のコードに沿うためにそのように発言することが想定されているだけである。 アメリカ社会で「いや、なんといっても周りの人達の行動が娘の成功の一番の要因なんですよ」なんて言えば「この親は自分の娘を正当に評価しようとしないのか」と訝しがられるだけである。 言葉の表層では全く相反的であっても日本とアメリカ双方の親が自分の娘を賛美していることは同じである。 現代社会は国を超えた普遍性を求めようとする意志に満ちているが、そういう違いがあることを了解した上での普遍性の理解でなくてはいけない。 スマホの普及に比例して世界は互いにつながろうとする機運が高まっている。 それは地球の諸民族の普遍性の可能性を信じた上でのことであり、普遍性への希求こそが人間の新しい生き方であり自己実現だと信じて疑わぬ人々もいる。 だが、彼らの信じている普遍性の内実は、彼らが足を踏み入れようとするその大胆さに比してみて、あまりにもお粗末過ぎる。 そもそも普遍性の追求は古代からあったものであり、およそ2500年前に世界各所で起きた精神的革新こそはその第一歩であったのである。 以来、世界は普遍性の希求とともに距離を縮めることに努めてきたがいまだにそれを成し遂げてはいない。 むしろ退化してすらいるではないか。 ビール 久しぶりにビールを飲んだ。 美味いビールを飲むには半日の間水分を摂らないでいること、などと言われる。 世の中には、ビール道指南、美味いビールの飲み方、ビールのうんちく、みたいな本があって、大概は喉の渇きを限界近くまでもっていってから飲むビールの一口目が至福だとするのだ。 ビールと言うと父の野球チームの宴会を思い出す。 8年くらい前まで父が仲間内で組んだ野球チームで試合をしていたときのことである。
父は野球をやる間ずっと塩飴を舐めて水筒の水をほとんど口にしなかった。 ふだん好きでよく飲んでいたバルベールのミネラル水を凍らせて持っていってあげても我慢して飲まない。 ゲームセットの時に水筒の水を頭からかけてあげなくてはいけない程父の体は熱くなっていたけどそれでも試合中は水をごくごく飲むことはなかった。 素人野球チームの試合だから長くても3時間ほどで終わるのだが夏の午後の炎天下でのことだから大変だったろう。 父の野球チームと対戦チームは施設のシャワー室でクールダウンした後はいつも居酒屋に直行した。 ビールを美味しく飲むために父たちは野球をしていたようなものである。 この苦行と楽行の落差はここ数年叫ばれている熱中症対策の点から全く推奨されないものだがやはり至福には違いない。 私は以前、冬場にちびちび飲むビールが好きでベルギービールを好む洋酒派だったが最近は日本のビールも美味しく感ずるようになった。 ビール好きの人達と、あのプハ〜の感覚を共有するようになったのである。
以上 |

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