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諸事物の断片(251)
開 祖 宗教上、開祖は伝統宗教の創始者を指す。 一つの宗教から分かれた宗派の創始者は宗祖、新宗教(新興宗教)の創始者を指す場合は教祖と呼んで区別される。 いかなる場合に伝統宗教の開祖となるかについては創始者と言うほか説明は出来ない。 各々の宗教によって事情が異なるからである。 伝統宗教によっては必ずしも開祖が特定できるとは限らない。 最も自明なのはイスラム教であり、ムハンマドが開祖であることは確実である。 イスラム教と同程度に一人の人物が意図的に新しい宗教を興すことを画策し、完成度の高い宗教組織を作り上げた例は世界宗教において他に無い。 文盲の男ムハンマドが天使ジブリールを通じて預かった神の言葉とされるものがコーランとして文書化されたのは彼の死後、後継者による作業だが、教団の基礎はムハンマドの生前に全て築かれた。 仏教の場合、釈尊には当初は宗教を興す意向はなかったが、多くの弟子をとるようになり、教化活動するようになったので釈尊が開祖と言ってよい。 キリスト教では開祖を特定することが困難である。 あらゆる宗教の歴史の中で磔刑になったイエス程、鮮烈な存在は例をみないが、イエス自身に新しい宗教を興す意図があったと断定することは難しい。 キリスト教を広めることに最も貢献したパウロが事実上の開祖と言えるがパウロ以前にも原始キリスト教の組織は存在した。 ユダヤ教の開祖についてはキリスト教以上に悩ましい問題だ。 アブラハムはヘブライ民族の始祖とされる一方で、キリスト教にもイスラム教にも重要な預言者として位置付けられている。 奴隷の身分であった民を引き連れてエジプトを去ったモーセはイスラエル民族の指導者であり、配下の民をヤハウェ神と結びつけたが、彼もアブラハムと同様、キリスト教・イスラム教の預言者として扱われている。 伝承上はヘブライ民族もイスラエル民族もユダヤ民族とほぼ同一と認識されてはいるが、しかしユダヤ教が興ったとされるのはバビロン捕囚以降であり、アブラハムやモーセをユダヤ教の開祖とすることは出来ない。 民族宗教であるユダヤ教の開祖は不詳あるいは不特定とするしかないのである。 暑夏 この言葉さえも涼しく感じてしまう程に酷く暑い日が続いている。 尋常でない猛暑がここ数年当たり前のように続くと昔の夏の暑さがいか程のものだったのかを思い出すのが難しくなっている。 夜を少しでも快適に過ごすには様々な工夫があろうが意外に看過されるのが空間の明るさではないだろうか。 もし就寝する前の三時間程の時を部屋でゆっくりと過ごすことが出来るのであれば、部屋をできるだけ暗くしてくつろぐのがいい。 部屋全体を灯す照明を消して、小さな灯りをつけて本を読んだり、TVだけつけて番組を視聴するのである。 照明を消しただけでも身体は涼しく感ずるものである。 暗くすると副交感神経が優位になるので寝つきもよくなるのである。 西瓜 小さな子供時分は夏休みになると決まって祖母の実家に行ったものである。 両親が東京育ちである私達には親の実家が自然豊かな土地にない。 親の実家は、ふだんから行き来している所であって、親にしてみても年に一度子供を連れて帰省すべき場所ではなく、子供達に平生では経験できないことをさせてやれる土地柄もない。 それで祖母が私達子供を自分の実家に連れていってくれた。 祖母の実家の台所の隅は、山から流れてくる水を引き込んで石の水槽に貯水するつくりとなっていて、その水で野菜や果物を冷やしていた。 山の水は水槽へと流れ落ち、水槽からあふれ出した分はちょろちょろと四方から漏れて水溝にたどり着き、外にある鯉池へと流れてゆく。 昼夜を問わず聞こえて来る水の音で私達は涼を感じ、眠りに落ちた。 大伯父家族は畑から採ってきた西瓜をその水槽に入れて冷やしてから切ってくれた。 冷たい山の水によくなじんだ西瓜を私達はよく食べたものだった。 とりわけ西瓜が好きな姉が喜んで食べていたのを思い出す。 ◆ 今年は一度だけ西瓜を食べた。 母が近くの店で買ってきた。 西瓜を出されても子供のときと同じ程に心躍ることはないものの、しゃりしゃりとする果肉を口にするとやはり淡い香りと甘みが広がって心地よい。 以上
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