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いわゆるゲイピープルを構成しうる人々はホモセクシャル・バイセクシャル・トランスジェンダーである。 ホモセクシャルは自然性と性自認に不一致がなく、同性どうしが精神的・身体的に求め合う人々である。 バイセクシャルはヘテロとホモ両方のセクシャリティを併用する人々だが片方が潜在的な欲望にとどまる場合もある。 トランスジェンダーには以下の三種がある。 ・トランスセクシャル 自然性と性自認が一致していない、いわゆる性同一性障害にある人々。 ・狭義のトランスジェンダー 自然性と性自認が一致しているが性他認が一致しない人々。 つまり自分では男(女)だと思っているつもりが周りからは女(男)のように思われる。 小学校の同級生でそういう感じの男の子がいて、しぐさ・しゃべり方が女の子同然なのに、かといって男の子が好きというわけでもなく、むしろ異性である女の子に対象としての興味を持っていたようだ。その子に興味を持たれたのが他ならぬ私である。 ・トランスヴェスタイト(クロスドレッサー) 服装や髪型が自然性と一致しない傾向にある人々。 女性のボーイッシュ・マニッシュな服装、男性の女装趣味が典型的だが、異文化の取り込みをする人々も含まれる。 例えば、スコットランド兵のキルトのような感覚でスカートをはくのを好む男性もいる。 個人が同じカテゴリーを共有するその他の者達と無視しえぬ種差を持っていることもあり得る。 しかし、トランスジェンダーの属性を決める要素は、自然性・性自認・性他認・心身の不一致に対する不快感や悩みの有無・可視性である。 列挙した最後の可視性とは、カミングアウトとクローゼットの選択についてである。 昨今のLGBTが彼らをクローゼットからカミングアウトに導きつつある。 この点については自然性の男と女とでは、かなり違いがあって、女の自然性からのトランスは男の場合に比べると、同性愛(レスビアン)の場合と同様に、閉鎖的・非社会的であり、曖昧ですらある。 ◇ 以上が私の理解するところの、ゲイピープルの外延と内包の概略であるが、留保すべきことが二点ある。 一つ目は構成員についてである。 私が冒頭で、「ゲイピープルを構成する人々」ではなく「構成しうる人々」と述べたのは、性同一性障害を深刻なこととして抱えている人々がいるからである。 彼らにとって自身の性の問題は先天的な絶対的錯誤であって、彼らは自然性の異性の身体をもって生まれたかったのだからゲイピープルを自称したくはないであろう。 『ゲイ・サイエンス』(『逃走論』に収録)というごく短いコラムで浅田彰は、ゲイピープルをニーチェの著作をもじって悦ばしき性としつつも、ヘテロが男と女の役割にしがみついているように彼らも自分達の世界の役割分担に固定されており、彼らの実情は決して悦ばしいものではないと批評している。 浅田は既存のパラノイックなホモセクシャリティでもバイセクシャリティでもない、スキゾフレニックなトランスセクシャリティこそが真の悦ばしき性だとしている。 浅田の論ずるトランスセクシャリティは一定の性やセクシャリティのあり方に固執することのない多種多様な性( * )であり、男・女・子供・動物・鉱物など様々な生成変化の素質が誰にでもあるとしているのだが、これは今日におけるトランスセクシャリティとは全く異なるものである。 * 例として浅田はジョン・ケージのキノコやドゥルーズ=ガタリの n sexes を挙げている。 ケージについては『ヘルメスの音楽』で詳述。 いわゆる性同一性障害を生来に抱えていて性転換手術を強く望む人々はむしろ潜在的なヘテロであって、浅田の言い方ではパラノということになる。 ★ 二つ目はゲイピープル全体は決して単一のコミュニティを構成しないということである。 まずは、自然性の男と自然性の女とでは各々のセクシャリティを発揮する場を共有することはないであろう。 わかりやすくいうと男性のホモセクシャルとレスビアンとでは全く相いれない。 自然性が同じであっても交差する余地もなく一つのコミュニティで共存することもない。 トランスヴェスタイトに至っては現代ではノーマル・ヘテロにまたがっており、トランスジェンダーの一種と認識されないものがむしろ多い。 言い換えればノーマル=ヘテロのセクシャリティがトランスヴェスタイトへと接近していったことこそが近代であるとも言える。 そもそも服装の性とはそうではあるまいか? 男性に典型であったものが女性の領域へと移行し、女性から男性へもまた同様である。 セーラー(海兵)もキュロット(貴族)も元は男性の服装であったものが女子の領分となっている。 最近では男子も化粧や日傘が当たり前になりつつある。 では、同一のゲイピープルコミュニティが全く同じセクシャリティを持つ人々から構成されるかと言えば、それは否である。 ここで言うコミュニティとは欲望を共有する人々の集まりであり、つまりはそのコミュニティ内において需要供給の交換が成立する場である。 ホモセクシャリティとトランスセクシャリティが同じコミュニティを共有することは通常の事態である。 なぜならば現実に交換を実現させねばならない深刻な事情があるからだ。 ノーマル・ヘテロに比してマイノリティの世界に属す人々にとって常に供給は希少である。 トランスセクシャリティの人は本来ならばヘテロの相手を欲望するかもしれないし、ホモセクシャリティの人はトランスセクシャリティのように異性になりたいと願う人を欲望しないかもしれない。 つまり、女になりたい男性はヘテロの男性だけが好きかもしれないし、女になりたいとは思わない同性愛の男性は同性愛どうしでもヘテロの男性でもいいが女になりたいと願う男には興味がわかないかもしれない。 ※ もうここまでくると書いていて混乱してくるのだが(LoL)... しかし、どちらも身体は男性である。 性愛の欲望においては心や精神よりか身体がものを言う。 内面的な事情がどうあれ、欲望している身体の需要と供給が一致しているのだからこれら両者は同じコミュニティ=市場を共有できるわけである。 自然性:女性の場合でもほぼ同じ事情が成立するが細かい部分では自然性:男性のコミュニティと違うところもあるかもしれない。 ビアンのごく狭い世界ではヘテロの女性を引き込みたいという欲望にかられる人もいる。 いわゆるノンケといわれる初心なヘテロ女性を自分のものにしたいという女性もいて、彼女が同性愛者なのかトランスセクシャリティ(男になりたい女)なのか判別つかない場合も多い。 ビアンの役割分担であるタチ(男役)はトランスセクシャリティの人もいる。 ◇ 場違い的なハプバーに潜入してしまったとき、あるいはふつうの深夜酒場でもあるが、色々夜遊びをしていると様々な人達に遭遇する。 ゲイピープル的な男性とカウンターでいっしょに呑んだこともある。 妻子持ちの同性愛者もいるのだ。 同性愛者は結婚しない・独身の男性は同性者だから結婚しないと思っている人はセクシャリティやジェンダーに関する認識が甘い。 同性愛男性には、女と交わって子供をもうけることが可能で、そうしたセクシャリティの嗜好とは別にヘテロ男性と同様の社会的・家庭的志向を有している人もいる。 そういうタイプの同性愛者は女と話をしたり接したりすることに苦痛を感じない。 一方で、女を嫌う同性愛者もいて、そういうタイプの男性同性愛者と酒場などで話し続けることが出来る機会は当然ながら無い。 昔旅行先で出会った女性同性者の知人がいて、今住んでいる家にも遊びに来たことがあったが今は音沙汰もない。 夫と私と彼女の三人で温泉に入ったが夫を異性として意識することもなく私に対しても積極的なので夫と私はすっかり彼女のペースにはまってしまった。
他にも書くべきことはあるが今回はここまでにする。
以上
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