ここから本文です
エイミスピリット
10年間ありがとうございました

書庫全体表示

記事検索
検索

全314ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

 
このブログを書き始めたのは大学を卒業し入社4年目になろうとする春、今からちょうど10年前、2009年3月のことでした。

2ちゃんでトピ主をしていた私は話の続きをブログでしようということになり、ヤフーのサイトでこのブログを開設したのです。

当時既にブログはインターネット上のコミュニケーションツールとして十分普及していましたがブログを書くのは初めてのことでした。

まだツイッターが普及する以前の時代、携帯の通信デバイスもガラケーが主流で、ヤフーではブログの他にBBSも盛んだった頃です。

私はインターネットを使うようになってから10年経っていたので新しいことを始めるのにおっくうではなかったですが、それでも少し緊張しながら記事を書いていたものです。

もう社会人になっていたとは言え、まだ幼い私でした。

一番最初に書いた鎌倉の記事は2ちゃんに投稿したものをそのままブログに再掲載したものでした。

ブログを開設した時点で私はまだ独身でしたから夫は婚約者であったわけですし、結婚を間近に控えた幸福な時期でもありました。

その他には日常の身辺雑記や読んだ小説の感想文などを書いてもいましたが夏を過ぎた頃から政治の記事も書き始めました。

2009年、世の中は政権交代前夜だったのです。

少しづつ相互ファンのブロガーさんとやり取りをするようになりましたが転機となったのは2011年以降です。

今でもやりとりを続けているブロガーさんと相互にファンとなって互いの記事を読みあうような関係ができ始めました。

最初のきっかけは、クリスチャンの方が私のブログに頻繁にコメントを書いていただき、ご自身のブログにも私のブログを紹介してくださったことで、キリスト教系ブロガーの方々とやり取りするようになりました。

その中でもカトリック信者でFXの達人と思しき御仁とは哲学を通じてお話をさせていただくようになり、多くの教えを受けました。

さらにその翌年頃には映画評論を中心に完成度の高い記事を執筆するブロガーさんとも相互ファンになり、明快でかつ玄妙な思惟の痕跡が窺い知れる美しい文章に感銘を受けました。

およそ映画通であること以上の多彩でいずれの類も無い知が感じ取れる、お文は多くのブロガーの模範とすべきところです。

近年、新たに相互ファンとなったブロガーさんもいらっしゃる一方で、数名のブロガーさんとはご無沙汰になりました。

ブログをやめた方、健康を害された方もいらっしゃいますし、お元気かどうかわからない方もいます。

十年ひと昔と言いますが最近は歳月の経過をひしひしと感じます。

震災もありましたし、我が家の生活もこの十年で少なからず変わりました。

良い変化もあれば悪い変化もあります。

世の中の意識もずいぶん変わったと実感せずにおれません。

ヤフーサイトのブログコミュニティも変わりました。

以前はたとえ一期一会であっても気持ちのよいコメントを書いてくださるブロガーさんがけっこういたものですが、ここ数年は相互ファンの方々を除けば、まともな読み手は皆無となりました。

自分のブログに誘導するだけの目的で訪問履歴を残す人達、訪問履歴を残さない設定でブログをサーフィンする冷やかしの人達によって訪問数がカウントされるありさまとなりました。

これは私のブログだけではないようで、相互ファンのブロガーさんのゲスブを拝見すると、毎回自分のブログの宣伝目的だけのメッセージをフラッシュや画像とともに張り付けてゆく人達もいます。

何度も訪問履歴にエントリーしているにも関わらず訪問先のブログ記事の内容に言及したコメントを一度たりとも書かない人達も多くいます。

寛容な精神を保つ我がブロガーさんはそうした人達に紳士的に対応なされていますがこうした昨今の状況は残念なことです。

 ◆

ブログ開設当時はこんなに長く続けようとは思ってはいませんでした。

私がブログを長年書き続けているのはいくつかのテーマについて書こうと思っているからです。

その一つは倫理に関してです。

私の論ずる倫理は高潔な人格や一般社会の良識に関してではありません。

そのような倫理的価値を追認するのではなく、倫理的に負の価値に固執せざるをえない人々の生存の正当可能性を見出すための思考を続けようとしています。

私の倫理論は、異常性癖で死刑になった者を始めとして、ペドフィリア・ロリコン・しょたこんなどの特異な性愛者、児童ポルノ規制法の是非、性犯罪者の量刑など、性や性衝動に関する様々な事例を再吟味するためのものです。

この記事の前回にセクシャリティに関して書いたこともそうしたモチーフと関連づけてのことです。

又、この日本という歪んだ社会主義国家の所得再分配についてなど、経済的正当性・公正性に関しても論じます。

それらは良識ある者達、健全を自認する者達の欺瞞を暴き、既存の倫理のありかたを解体するための試みです。


二つめは哲学思想に関してですが、特に、ラカンとバフチンの本質的価値を探求する過程について書きたいと思っています。

これについてはまだ仄めかし程度でしか書いていないのでこれからの課題です。


三つめは夫についてです。

夫のことは一通り書いたのですがまだ語りきれぬものがありますし、あからさまに書くことを躊躇してしまう事情もあります。

そもそも私は、夫の修行のことを書くためにこのブログを始めたので最初の数か月は霊と霊能に関するスピリチュアルの記事を沢山書きました。

便宜上スピリチュアルと言いますが私の書くものは一般のスピリチュアルとは全く異なるものです。

あまり賛同や興味を持って読まれるものでもないようなので、スピリチュアルについてはこれ以上書く予定はないです。

(現在、グローバルナビ欄に記載したツイッターアカウントのリンクとは別のアカウントで専門的にこれを扱っています。)


ブログの執筆はこれらを主のモチーフとしつつも、長期的には計画がなくもないのですが短期的にはきまぐれな調子で好きなテーマで書くことにします。

 ◆

ブログを書くことを薦めてくださったのは2ちゃんトピ以来の読み手の方で、今でもツイッターで相互フォローさせていただいています。

(時折、このブログのコメント欄でお見受けされる名前の方なのですが非公開でブログとツイッターを開設されていますので一般の人々からは可視的ではありませんけれど...)


明後日以降ヤフーブログの書き込みができなくなり、記事が書ける猶予も余すところ24時間少々となりました。

来月からは移行先FC2でこのブログを運営いたします。

ブログ紹介や自己紹介については移行先のFC2プロフに記してありますし、記事でもあらためて書く予定です。

新しいサイトでのブログの名前は同じく「エイミスピリット」です。

エイミは本名のカタカナ表記、スピリットはレノンのアルバム「ジョンの魂」が頭にあったからでしょうか。

2ちゃんでブログ開設を宣言したときに即席でつけた名前ですが今ではこのタイトルでよかったと思うことにします。

長年親しんだヤフーサイトでブログを続けることが出来なくなったことは残念で寂しい気さえもしてくるのですが、幸いのこと、相互ファンのブロガーさんの方々三名が同じサイトに移行されています。

いつまでこのブログを書いてゆくのか私にはわかりませんが今やめる理由はないので書き続けることにします。

今まで読んでくださった方々、ありがとうございました。

同じ移行先で継続するブロガーさん、今後ともよろしくお願いいたします。


 以上



ゲイピープル

 
いわゆるゲイピープルを構成しうる人々はホモセクシャル・バイセクシャル・トランスジェンダーである。 

ホモセクシャルは自然性と性自認に不一致がなく、同性どうしが精神的・身体的に求め合う人々である。

バイセクシャルはヘテロとホモ両方のセクシャリティを併用する人々だが片方が潜在的な欲望にとどまる場合もある。

トランスジェンダーには以下の三種がある。

 ・トランスセクシャル


 自然性と性自認が一致していない、いわゆる性同一性障害にある人々。


 ・狭義のトランスジェンダー

 自然性と性自認が一致しているが性他認が一致しない人々。

 つまり自分では男(女)だと思っているつもりが周りからは女(男)のように思われる。

 小学校の同級生でそういう感じの男の子がいて、しぐさ・しゃべり方が女の子同然なのに、かといって男の子が好きというわけでもなく、むしろ異性である女の子に対象としての興味を持っていたようだ。その子に興味を持たれたのが他ならぬ私である。

 ・トランスヴェスタイト(クロスドレッサー)

 服装や髪型が自然性と一致しない傾向にある人々。

 女性のボーイッシュ・マニッシュな服装、男性の女装趣味が典型的だが、異文化の取り込みをする人々も含まれる。
 例えば、スコットランド兵のキルトのような感覚でスカートをはくのを好む男性もいる。


これらはあくまでも外観的なカテゴライズに過ぎない。

個人が同じカテゴリーを共有するその他の者達と無視しえぬ種差を持っていることもあり得る。

しかし、トランスジェンダーの属性を決める要素は、自然性・性自認・性他認・心身の不一致に対する不快感や悩みの有無・可視性である。

列挙した最後の可視性とは、カミングアウトとクローゼットの選択についてである。

昨今のLGBTが彼らをクローゼットからカミングアウトに導きつつある。

この点については自然性の男と女とでは、かなり違いがあって、女の自然性からのトランスは男の場合に比べると、同性愛(レスビアン)の場合と同様に、閉鎖的・非社会的であり、曖昧ですらある。

 ◇

以上が私の理解するところの、ゲイピープルの外延と内包の概略であるが、留保すべきことが二点ある。

一つ目は構成員についてである。

私が冒頭で、「ゲイピープルを構成する人々」ではなく「構成しうる人々」と述べたのは、性同一性障害を深刻なこととして抱えている人々がいるからである。

彼らにとって自身の性の問題は先天的な絶対的錯誤であって、彼らは自然性の異性の身体をもって生まれたかったのだからゲイピープルを自称したくはないであろう。

『ゲイ・サイエンス』(『逃走論』に収録)というごく短いコラムで浅田彰は、ゲイピープルをニーチェの著作をもじって悦ばしき性としつつも、ヘテロが男と女の役割にしがみついているように彼らも自分達の世界の役割分担に固定されており、彼らの実情は決して悦ばしいものではないと批評している。

浅田は既存のパラノイックなホモセクシャリティでもバイセクシャリティでもない、スキゾフレニックなトランスセクシャリティこそが真の悦ばしき性だとしている。

浅田の論ずるトランスセクシャリティは一定の性やセクシャリティのあり方に固執することのない多種多様な性( * )であり、男・女・子供・動物・鉱物など様々な生成変化の素質が誰にでもあるとしているのだが、これは今日におけるトランスセクシャリティとは全く異なるものである。

 * 例として浅田はジョン・ケージのキノコやドゥルーズ=ガタリの n sexes を挙げている。
  ケージについては『ヘルメスの音楽』で詳述。

いわゆる性同一性障害を生来に抱えていて性転換手術を強く望む人々はむしろ潜在的なヘテロであって、浅田の言い方ではパラノということになる。

 ★

二つ目はゲイピープル全体は決して単一のコミュニティを構成しないということである。

まずは、自然性の男と自然性の女とでは各々のセクシャリティを発揮する場を共有することはないであろう。

わかりやすくいうと男性のホモセクシャルとレスビアンとでは全く相いれない。

自然性が同じであっても交差する余地もなく一つのコミュニティで共存することもない。

トランスヴェスタイトに至っては現代ではノーマル・ヘテロにまたがっており、トランスジェンダーの一種と認識されないものがむしろ多い。

言い換えればノーマル=ヘテロのセクシャリティがトランスヴェスタイトへと接近していったことこそが近代であるとも言える。

そもそも服装の性とはそうではあるまいか?

男性に典型であったものが女性の領域へと移行し、女性から男性へもまた同様である。

セーラー(海兵)もキュロット(貴族)も元は男性の服装であったものが女子の領分となっている。

最近では男子も化粧や日傘が当たり前になりつつある。

では、同一のゲイピープルコミュニティが全く同じセクシャリティを持つ人々から構成されるかと言えば、それは否である。

ここで言うコミュニティとは欲望を共有する人々の集まりであり、つまりはそのコミュニティ内において需要供給の交換が成立する場である。

ホモセクシャリティとトランスセクシャリティが同じコミュニティを共有することは通常の事態である。

なぜならば現実に交換を実現させねばならない深刻な事情があるからだ。

ノーマル・ヘテロに比してマイノリティの世界に属す人々にとって常に供給は希少である。

トランスセクシャリティの人は本来ならばヘテロの相手を欲望するかもしれないし、ホモセクシャリティの人はトランスセクシャリティのように異性になりたいと願う人を欲望しないかもしれない。

つまり、女になりたい男性はヘテロの男性だけが好きかもしれないし、女になりたいとは思わない同性愛の男性は同性愛どうしでもヘテロの男性でもいいが女になりたいと願う男には興味がわかないかもしれない。

 ※ もうここまでくると書いていて混乱してくるのだが(LoL)...

しかし、どちらも身体は男性である。

性愛の欲望においては心や精神よりか身体がものを言う。

内面的な事情がどうあれ、欲望している身体の需要と供給が一致しているのだからこれら両者は同じコミュニティ=市場を共有できるわけである。

自然性:女性の場合でもほぼ同じ事情が成立するが細かい部分では自然性:男性のコミュニティと違うところもあるかもしれない。

ビアンのごく狭い世界ではヘテロの女性を引き込みたいという欲望にかられる人もいる。

いわゆるノンケといわれる初心なヘテロ女性を自分のものにしたいという女性もいて、彼女が同性愛者なのかトランスセクシャリティ(男になりたい女)なのか判別つかない場合も多い。

ビアンの役割分担であるタチ(男役)はトランスセクシャリティの人もいる。


 ◇

場違い的なハプバーに潜入してしまったとき、あるいはふつうの深夜酒場でもあるが、色々夜遊びをしていると様々な人達に遭遇する。

ゲイピープル的な男性とカウンターでいっしょに呑んだこともある。

妻子持ちの同性愛者もいるのだ。

同性愛者は結婚しない・独身の男性は同性者だから結婚しないと思っている人はセクシャリティやジェンダーに関する認識が甘い。

同性愛男性には、女と交わって子供をもうけることが可能で、そうしたセクシャリティの嗜好とは別にヘテロ男性と同様の社会的・家庭的志向を有している人もいる。

そういうタイプの同性愛者は女と話をしたり接したりすることに苦痛を感じない。

一方で、女を嫌う同性愛者もいて、そういうタイプの男性同性愛者と酒場などで話し続けることが出来る機会は当然ながら無い。

昔旅行先で出会った女性同性者の知人がいて、今住んでいる家にも遊びに来たことがあったが今は音沙汰もない。

夫と私と彼女の三人で温泉に入ったが夫を異性として意識することもなく私に対しても積極的なので夫と私はすっかり彼女のペースにはまってしまった。


他にも書くべきことはあるが今回はここまでにする。

 以上


木綿豆腐

 
豆腐を買うのが日課のようになっている。 

惣菜の食材として使うことも多いが一番多い用途は夫の酒の肴である。

最近は夫のお酒の呑み方ががらりと変わった。

以前は月に一度しか飲まないこともあったが今では二日に一度は呑んでいる。

三日続けて呑むことも珍しくない。

以前は呑むときには一升瓶を空けていたのが最近では一度に呑む量は減って三合になった。

仕事が忙しかった三年前にはふだん全く呑まなかったのが今では週に四日は呑みの日になっている。

酒量が増えては困るので週にお酒は一升瓶を空けたらそれで終いにするようにしている。

けれど父と呑むときにはいっしょにビールを呑むのであり、それは酒量の勘定には入っていないらしい。

二人がいっしょに呑むのは大概はプロ野球観戦のときだ。

巨人ファンとヤクルトファンが同じビールを差し合いながら呑むのである。

夫が一人で呑む日には木綿の冷奴が欠かせない。

いつ呑むかは決まっていない。

今日は呑まないと言っておきながら土壇場でやっぱり呑もうか、である。

なので私はほぼ毎日のように冷奴を用意しなくてはならない。

はなたれ小僧さまに海老のなますをこしらえて供えるように私は夫のために冷奴をつくって出す。

キッチンペーパーで包み冷蔵庫で水切りをした木綿豆腐を皿に移し、刻みネギと鰹節をのせ、お醤油と昆布だしをかける。

絹ごしではなくて木綿でなくてはならない。

それが夫の好みの冷奴だ。

これをいつでも食べれるように用意しておく。

冷奴だけでお酒を呑むときもあれば晩酌で他の惣菜といっしょにやるときもあって、それは長年の夫婦の呼吸でわかるのである。
 
イメージ 1



諸事物の断片(252) 


割安 

同じ品質で内容量が違う商品バリエーションでは内容量の多いほうが単位価格が安いのが通常である。

例えば、ある企業のマヨネーズの場合、350gが300円、450gが350円の参考小売価格となっていて、内容量の多い450gのほうが割安である。

スーパーでは企業の定めた参考小売価格より安く売るが、双方の商品価格を同じ割引率で設定するので内容量の多い商品が通常ではやはり割安となる。

ところが内容量の少ない350gの商品だけ特売価格で売ることがある。

おそらく在庫の事情で350gの商品を処分する必要が生じたのか、あるいは定期的な特売セールで目玉商品を350gのマヨネーズに設定したいなんらかのインセンティブが生じたのであろう。

その場合、通常では割高となっていた350gの商品のほうが割安になることがある。

買い物をするときは注意したほうがいい。

とはいえ、350gと450g、どちらのマヨネーズを買うべきかは価格だけでなく、家庭の消費量や食品鮮度の嗜好も考慮すべき要因となり得るので一概には言えない。




外国のシャンソン

誰もが知っている有名な「オー・シャンゼリゼ」も、フランソワーズ・アルディが歌った「さよならを教えて」もシャンソン固有の作品ではなく、もとはイギリスの曲である。

「さよならを教えて」はイギリスの曲にセルジュ・ゲンスブールが歌詞を別内容のフランス語に書き換えたものである。

https://www.youtube.com/watch?v=hQTr8Y-ynAo




デジカメ

売れ行きが芳しくないらしい。

スマホのカメラ機能が進歩したためだ。

従来のスマホ・携帯はデジカメより画質が悪く機能も素朴なものだったから競争する余地ばなかった。

低価格のデジカメの致命的な欠陥は液晶ディスプレイである。

室内では問題なく見えるが日差しが強い屋外では見えずらくなる。

デジカメなどの商品を品定めする場所は屋内の店舗だから屋外で液晶がどのくらい鮮明に見えるか意識しないことが多い。

店員に尋ねたところ、メーカーを問わず安価のデジカメで日差しの強い場所でも鮮明に文字や画像が見える商品は無いと返事された。
液晶画面はどれもが強い日差しの場所では見づらいと思っている人もいるかもしれないが高額のデジカメやビデオカメラならば屋外の日差しの強い場所でも難なく液晶画面を見ることが出来るのである。

カメラメーカーは低価格帯のカメラにも高価格帯のカメラの液晶と同じスペックを装備すればスマホとの競争に勝てるかもしれない(?)。


 以上

251: 開祖、暑夏、西瓜

諸事物の断片(251) 



開 祖 

宗教上、開祖は伝統宗教の創始者を指す。

一つの宗教から分かれた宗派の創始者は宗祖、新宗教(新興宗教)の創始者を指す場合は教祖と呼んで区別される。

いかなる場合に伝統宗教の開祖となるかについては創始者と言うほか説明は出来ない。

各々の宗教によって事情が異なるからである。

伝統宗教によっては必ずしも開祖が特定できるとは限らない。

最も自明なのはイスラム教であり、ムハンマドが開祖であることは確実である。

イスラム教と同程度に一人の人物が意図的に新しい宗教を興すことを画策し、完成度の高い宗教組織を作り上げた例は世界宗教において他に無い。

文盲の男ムハンマドが天使ジブリールを通じて預かった神の言葉とされるものがコーランとして文書化されたのは彼の死後、後継者による作業だが、教団の基礎はムハンマドの生前に全て築かれた。

仏教
の場合、釈尊には当初は宗教を興す意向はなかったが、多くの弟子をとるようになり、教化活動するようになったので釈尊が開祖と言ってよい。

キリスト教では開祖を特定することが困難である。

あらゆる宗教の歴史の中で磔刑になったイエス程、鮮烈な存在は例をみないが、イエス自身に新しい宗教を興す意図があったと断定することは難しい。

キリスト教を広めることに最も貢献したパウロが事実上の開祖と言えるがパウロ以前にも原始キリスト教の組織は存在した。

ユダヤ教の開祖についてはキリスト教以上に悩ましい問題だ。

アブラハムはヘブライ民族の始祖とされる一方で、キリスト教にもイスラム教にも重要な預言者として位置付けられている。

奴隷の身分であった民を引き連れてエジプトを去ったモーセはイスラエル民族の指導者であり、配下の民をヤハウェ神と結びつけたが、彼もアブラハムと同様、キリスト教・イスラム教の預言者として扱われている。

伝承上はヘブライ民族もイスラエル民族もユダヤ民族とほぼ同一と認識されてはいるが、しかしユダヤ教が興ったとされるのはバビロン捕囚以降であり、アブラハムやモーセをユダヤ教の開祖とすることは出来ない。

民族宗教であるユダヤ教の開祖は不詳あるいは不特定とするしかないのである。





暑夏

この言葉さえも涼しく感じてしまう程に酷く暑い日が続いている。

尋常でない猛暑がここ数年当たり前のように続くと昔の夏の暑さがいか程のものだったのかを思い出すのが難しくなっている。

夜を少しでも快適に過ごすには様々な工夫があろうが意外に看過されるのが空間の明るさではないだろうか。

もし就寝する前の三時間程の時を部屋でゆっくりと過ごすことが出来るのであれば、部屋をできるだけ暗くしてくつろぐのがいい。

部屋全体を灯す照明を消して、小さな灯りをつけて本を読んだり、TVだけつけて番組を視聴するのである。

照明を消しただけでも身体は涼しく感ずるものである。

暗くすると副交感神経が優位になるので寝つきもよくなるのである。




西瓜

小さな子供時分は夏休みになると決まって祖母の実家に行ったものである。

両親が東京育ちである私達には親の実家が自然豊かな土地にない。

親の実家は、ふだんから行き来している所であって、親にしてみても年に一度子供を連れて帰省すべき場所ではなく、子供達に平生では経験できないことをさせてやれる土地柄もない。

それで祖母が私達子供を自分の実家に連れていってくれた。

祖母の実家の台所の隅は、山から流れてくる水を引き込んで石の水槽に貯水するつくりとなっていて、その水で野菜や果物を冷やしていた。

山の水は水槽へと流れ落ち、水槽からあふれ出した分はちょろちょろと四方から漏れて水溝にたどり着き、外にある鯉池へと流れてゆく。

昼夜を問わず聞こえて来る水の音で私達は涼を感じ、眠りに落ちた。

大伯父家族は畑から採ってきた西瓜をその水槽に入れて冷やしてから切ってくれた。

冷たい山の水によくなじんだ西瓜を私達はよく食べたものだった。

とりわけ西瓜が好きな姉が喜んで食べていたのを思い出す。


 ◆

今年は一度だけ西瓜を食べた。

母が近くの店で買ってきた。

西瓜を出されても子供のときと同じ程に心躍ることはないものの、しゃりしゃりとする果肉を口にするとやはり淡い香りと甘みが広がって心地よい。

イメージ 1
 
 以上

全314ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

アバター
エイミ
女性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

CMで話題のふるさと納税サイトさとふる
毎日お礼品ランキング更新中!
2019年のふるさと納税は≪12/31まで≫
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事