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中学生を恐喝して200円を脅し取るという事件が最近あったそうな。 「 千円ちょうだい。大人なめんじゃねぇ 」 容疑者が実際にこの通りに喋ったかどうかはわからないが、この会話文を端的に吟味する限りでは、容疑者は千円を無心する要求を相手に伝える意思と相手に軽視されたことへの怒りをほぼ一呼吸で告げていることになる。 この通りの言葉をいきなり言われたとしたら、仮に私が中学生の立場ならば、その場で噴き出してしまうかもしれない。 これは、あたかも吉本新喜劇やタカアンドトシの芸風にみられるような性急な言葉のつながりから発する諧謔であり、日常生活で交わされるものではないからだ。 実情は容疑者の切迫した心理がこの二つの言葉を続けざまに言わしめたとも言えようが、二つの言葉の間に次のようなダイアログの体裁でインターバルを置かないと言葉がうまく流れない。 大人: 千円ちょうだい。 子供: .............. 大人: 大人なめんじゃねぇ 知らない大人からいきなり千円を無心されても子供はすぐには言葉が出ないであろう。 言葉の出ない子供の様子を自分を侮った態度ととった容疑者が大人をなめるなと言ったとするほうが対話としてすっきりする。 対話する二人が互いの意思や態度を正確に把握していることを前提とすれば、このインターバルの間に、暗黙の拒絶をした・されたという各人の了解があって初めて「大人なめんじゃねぇ」が意味をもつのである。 だから、「千円ちょうだい。大人なめんじゃねぇ」と容疑者が言ったとする記述からは、容疑者が風変りな人物であるか、記事が事実を逸脱して、おかしな書き方をしているかのどちらかであることになろう。 記事は容疑者の言葉を以下のような直接話法で記述している。 男子生徒に「千円ちょうだい。大人なめんじゃねぇ」と声をかけ、現金200円を脅し取ったとしている。 これを間接話法の如く以下のように修正することも出来よう。 男子生徒に千円を無心し、舐められたと思った容疑者は恫喝して、現金200円を脅し取ったとしている。 この記事に限らず、犯罪報道の多くでは容疑者が言った言葉が直接話法で記述されることが多い。 さらにはそのような言葉が定型化される傾向にある。 通り魔の容疑者の犯行の始終を記した記事では容疑者が言ったとされる、このようなセリフがお決まりではないか。 「 誰でもよかった 」 あるいは、暴行事件において、
「 殴ったことは間違いない 」
このように書くことによって、それが真に容疑者の口から発せられたかどうかに関わらず、通り魔容疑者の異常さや悪質さ、あるいは自暴自棄的な心理や重罪を免れようとする心理等が巧みに強調されることになるだろう。
直接話法は間接話法(あるいは自由間接話法)に比べて現前性が高い。 比して間接話法は現前性を低めることを意図して使われる書き方である。 現前性の高低は事実の信憑性・主張意思の強さ、ひいては芸術表現上の事情に関わるものである。 それが公平公正な記述を心がけるが故に使い分けられているのか、それとも、倫理的配慮のない無能な書き手によって恣意的あるいは悪意的に使われているかを我々は吟味する必要があるのである。 以上
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Stylistics
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Le Degré zéro de l'écriture この書物の代表的な邦題は『零度のエクリチュール』であり、三人の翻訳による、以下の四つの日本語翻訳がある。 『零度の文学』 森本和夫訳 現代思潮社 1965年 『零度のエクリチュール』 渡辺淳・沢村昂一訳 みすず書房 1971年 『エクリチュールの零度』 森本和夫・林好雄訳註 ちくま学芸文庫 1999年 『零度のエクリチュール』 石川美子訳 みすず書房 2008年 著者のロラン・バルト自身が執筆時期に十年の隔たりがある二書を併せて出版した際に序文を書いている。 そうした経緯に忠実に翻訳したもの、つまり『記号学の原理』と併せて一冊の本として出版されたのは1971年の渡辺淳・沢村昂一訳だけである。 最新訳の石川美子訳版で『記号学の原理』が収録されることが期待されたが残念ながら Le Degré zéro de l'écriture 単独の翻訳本の出版となっている。 8年前には残っていた旧版の『零度のエクリチュール』に関する情報は、今ではみすず書房のHPから削除されている。 こういうところが、日本社会が伝統を重視しないお国柄だと私は言うのである。 駄本で稼いでいる三流大手出版社ならいざ知らず、みすず書房のような一流中堅出版社ですら、このありさまだ。 以前にも記事で書いたように、『記号学の原理』は私の知る限り、前述の1971年の沢村昂一訳でしか出版されていないようである。 過去記事 https://blogs.yahoo.co.jp/aminonamedoor/28620275.html 『記号学の原理』はソシュールの記号学を踏襲したバルト独自の記号学の教科書的なテキストである。 シニフィエ/シニフィアン、ラング/パロールなどのソシュール的な概念については『一般言語学講義』を読むはるか前、私はこのバルトのテキストで学んでいる。 コノテーションやメトニミーなどの概念を初めて知ったのもこの本からである。 ソシュール言語学は、この初期バルトの考察を経由して、ラカン理論に到達すると考えられる。 バフチンのドストエフスキー詩学研究の本質がポリフォニー性やカーニバル文学ではなく文体論にあるように、ラカンひいてはフロイトの難解な理論を理解する上でソシュール言語学・記号学が前提となるのである。 そういう意味においてもバルトの『記号学の原理』は重要なのである。 是非とも石川美子訳で翻訳が望まれると考えているのは私だけではないはずだ。 |
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無いということが意味を持つ場合、その不在をゼロ記号と呼ぶ。 不在と言っても暗黙に位置関係が規定されていなくてはならない。 そうでないとそれこそ何もわからない。 具体例を挙げるとわかりやすい。 例) The things we do for love The things that we do for love これらの語句はどちらも同じ意味で、違いは that が有るか無いかだ。 上の語句は10CCのヒット曲の題名からとったもので、訳すと「愛の代償」とか「愛のためにしてしまうこと」みたいな意味となる。 the things と we do for love の間に関係代名詞の that を挿入すれば双方の語句の文法的関係が明示的になるのだが、この that は無くてもいい。 むしろ無いほうが常用。 英文メールに綴られたネイティブの書いた乱雑な文章を読む私にとってはよけいな that なんてないほうがありがたい場合もあれば、あって欲しい場合もあるんだけれど、あったらあったで that の乱用に泣けてくることもある....っていうのは余談だ。 that が記されていなくても意味が通じるのは things が we do の目的格となることが暗黙に了解されるからである。 つまり、何も記されていないこと、語の不在が二つの語句の文法的関係を示しているのである。 これは関係代名詞が省略された英文においてゼロ記号が機能していると言えるのだ。 前述のように不在の位置がどこにあるかが不明であるならばゼロ記号は機能し得ない。 あくまでも暗黙に、其処に関係代名詞としての that が省略されていることを前提に成立するのがゼロ記号である。 こうしたゼロ記号はソシュールの実質と形相の種々の対応関係を吟味する際に事例の一つとして出てくるものだ。 前述の The things we do for love では二つの語句の文法関係を意味するための見えざる関係代名詞は実質としては無いものであるけれど、形相としては <存在> しているものだ。 コンピューターの分野でもゼロ記号的なものが使われることがある。 それらは様々なレイヤーで使われており、一概に言えないが、いずれもヌル(null)という名称で運用されるものである。 # dd if=./datafile1 of=./datafile2 これは、datafile1 というファイルに格納されたデータをファイル datafile2 に書き込む命令を実行したものである。 つまりファイルからファイルへデータをコピーしている処理である。 # dd if=/dev/null of=./datafile2 一方、この場合には処理の結果、ファイル datafile2 の中身は空になってしまう。 この /dev/null という名前のファイルは仮想的なデバイスに対応した特殊なファイルであって、現実には存在しないものである。 この場合には現実に存在しないものが /dev/null という名称の様式を借りて、結果的にデータを変更してしまう作用を及ぼしている。 点には位置はあるが長さも面積もない。 幾何学量はゼロなのだから、点は存在しないものだとも言えるが、関係性(二本の非平行の直線の交点として)においては存在する、あるいは意味を持ってしまうものだ。 いずれの事例にせよ、不在のモノが意味作用をする、あるいは何らかの結果を及ぼすことには違いはない。 各々の事例は、実質/形相がそれぞれ何処にどのような表象として見出されるかが異なっているのである。 ロラン・バルトの『零度のエクリチュール』における「零度」なるものは、実質の媒体を身体としてもたないエクリチュールのことではあるが、ねじれの如き関係をソシュールの実質/形相に見出しながら、読まれなければならない。 丸山圭三郎によれば、実質は自然の世界(物理的世界)、形相は文化の世界であると言い換えられているが、バルトの語る「文化」とは、そうした形相と実質のうねりにあるのだ。 以上
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自然界において、あるいは象徴的・観念的世界において、あらゆる事物は二項対立的(binarism)に捉えられる傾向にある。 二項対立の両辺に置かれる二物は常に同等・対等・同質の二物としてではなく、そうではない差異化された関係として捉えられることがむしろ常である。 同等であるならばそもそもそのような式化が成立しえないことはマルクスもソシュールも賛同済みのことである。 同等でないものを等量化させる運動はマルクスによって一応の成功を成されたがフェミニズムにおいてはそのような運動を明瞭にベクトル化させることさえも出来てはいない。 二項対立的な両者が差異化される際に典型的には、一方は有標となり、もう一方は無標となる。 無標はデフォルトと呼んでも差し支えないし、一般的な・暗黙の・総称的な・中立的な意味と意志を持ちうる。 有標は反して、特別の・第二の・派生的な・部分的な・敵対的な意味で固着される傾向にある。 このような無標・有標の二項とは典型的には言うまでもなく、<男> と <女> である。 これらの性別は、自然性として・生物学的に・神話的に・言語的文法的において等、あらゆる世界に繁茂している。 自然言語においては <男/女> を差異化させた一対の言葉は、基底部と接辞の部品において構成される。 man - woman (男 - 女;英語) chat - chatte (雄猫 - 雌猫;フランス語) 多くの場合、<男> は無標、<女> は有標とされる。 音韻体系においても子音が有声音/無声音として二項対立的に把握されるが、それらにおいても有標/無標の区別は発生しうる。 しかしこれらの属性的差異が、どのように一方を有標・もう一方を無標とみなすかはあらゆる資質・価値によって違ってくることもある。 また、有標/無標がいかなる概念領域で見出されるかも我々の想定を超えうるのである。 例えば、「やかんが沸騰している」という意味を述べる際には以下のように進行形を使うほうが無標的(一般的)であると『英語文体論辞典』の著者は述べている。 The kettle's boiling. 現在進行形 The kettle boils. 現在形 補足すると、現在形の場合には「まさに今、やかんが沸騰している」という意味以外に「やかんは沸騰するものだ(やかんの本質)」や、「このやかんはたびたび沸騰する(という事実が認識されている)」という意味ではなくて、前述の意味で述べていることを何らかの手段で話し手が示唆しなければならないか聞き手が理解しなければならないからである。 進行形を使って述べれば「やかんが今沸騰している」という意味を平易に暗黙に表現することが出来るのである。 (もちろん、この例における kettle の使い方は換喩的表現である。) 有標/無標の対立は他の例としては、天使/悪魔においても論じうるがこの事例はキリスト教神学的にやや深刻で繊細な問題にもなりうる。 この場合、悪魔が有標であり、天使は無標となる。 神は全ての天使を善性を有するものとして造形した。 かつては天使だった悪魔は神から授かった善を自らの自由意志によって捨てたのである。 しかし、この二項対立は語弊を伴うものであり、異端になってしまう。 キリスト教神学においては悪魔とは根源的実体でなく派生的なものであるからだ。 新たに Stylistics(文体論) という書庫を設け、言語周り・文学関連の作品造詣論や方法論等について述べてゆく予定である。
今回の記事は小手調べ程度である。
可能であればバフチン理論やラカン理論の本質についても述べていきたい。
これは以前、以下の記事で予告したものであったが遅くなってしまった。
今後も進捗は緩慢になるかもしれないし、最後まで述べ切らずに終わるやもしれない。
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